61章 まことのぶどうの樹
                    15章1〜17節
■15章
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
                     
                      【注釈】(1)
                      【注釈】(2)
                      【付記】

                                             【講話】
■ぶどうの房
 今回は有名なぶどうの樹のたとえです。イエス様はぶどうの樹で、神様はこれを育てる農夫です。樹は昔から霊性の表象でした。エデンの知恵の樹、モーセが神と出会った柴の木、ヨハネ黙示録の命の樹、クリスマス・ツリー、お釈迦さんが悟りを開いた菩提樹、五重の塔も樹の表象です。樹は「宇宙霊」の表象です。だから、イエス様というぶどうの霊樹は世界樹であり宇宙樹です。この見えない霊樹に見えるぶどうが実ります。ぶどうは房ごとに実りますから、大小様々な房ができます。これら無数の大小の房は、世界に広がる無数の「エクレシア」(キリスト教会)の表象です。コイノニア会もその小さな房の一つです。小さくても大きくても、それが「まことの」ぶどうかどうかが大切です。旧約聖書で「まことのぶどう」というのは、甘くておいしい極上のぶどうのことです。大きいか小さいかではない。甘くておいしいかどうかが大切なのです。  
 ぶどうは房ごとに実りますが、房は一粒ずつのぶどうで成り立っています。だから、一番大事なのは、房ではなく、その粒のほうです。コイノニア会は小さな房にすぎませんが、たとえ小粒でも一つ一つはおいしいです。大事なのは、イエス様というぶどう樹の幹から御霊の霊液が粒の一つ一つに行き渡っているかどうかです。そのぶどうの樹が「まこと」かどうかは粒で決まります。大きさではない。その質です。
 イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われますが、原文は「わたしにある」です。「わたしにとどまる」とも訳せます。だから、枝は何もしない。ただ幹につながり、そのままじっと「とどまって」いるだけです。これだけで、自然と御霊が働いて実が生(な)ります。だから下手に動かないほうがいい。詩編の1篇に「流れのほとりに植えられた樹」とあるのがこれです。樹は流れのほとりから動きません。
 房が集会なら粒は個人です。イエス様のぶどう樹で大事なのは、一粒ずつの個人なのです。その個人が、イエス様と人格的に交わっているかどうかです。「わたしにある」はこの意味です。房が大きくても小さくても、粒が大きくても小さくても、個人が宿す霊性こそ、神様が育てようとしておられる実なのです。今後、AI(人工知能)の世が進めば、人は、その人格性を奪われて記号化されます。だからこそ、イエス様との交わりにある個々の人格が、ますます大事な意味を持つ時代になります。21世紀のエクレシアには、こういう大事な使命が与えられているのです。
■差異と意義
 「実を結ぶ」とはどういうことでしょうか? イエス様は「互いに愛し合う」ことだと言われます。ぶどうの房は、個人個人で成り立っていますが、それらは同じ房にあります。だから、そこに交わりができます。全体が一塊(ひとかたまり)になるのなら粒はないほうがいいです。同じ房でも異なる粒。イエス様という同じぶどうの樹で、房も同じですが、粒は違います。この「同じで違う」ことが、それぞれに「意味を持つ」のです。例えば、英語の"bed"と"bad"、あるいは"but"と"bit"のように、それぞれの単語は互いに一箇所だけスペルが違っています。この一箇所の違いが大事です。なぜなら、これがその言葉の「意味」を変えるからです。全く別の意味を「創り出す」からです。健康な細胞とガン細胞はそっくりだそうです。だから、治療が難しい。うっかりガン細胞を殺そうとすれば健康な細胞も死ぬからです。でもこの二つは全く違う。一方は命を生み出し、他方は死を作り出します。
 互いがそれぞれに「意味を持つ」ためには、「同じで違う」ことがとても大事です。少しの違いでいいのです。小さな違いが大きな意味を持つからです。このように、同じで違うことを「差異」と言います。「差異」が創り出す意味を「意義」と言います。「差異」がそれぞれの個人に「意義」を与えるのです。これが「個性」です。「個人の霊性」です。一人一人の意義こそが、個人個人の「存在価値」(レーゾン・デートル)を作るのです。全体を全く同じにするなら個性は殺されます。差異の喪失は個性を殺し、人格的な死をもたらします。だから、個人の意義を創り出す「交わり」と、個性を失わせる「同一化」、言い換えると、人格を認め合う交わりと、人を非人格化する画一性、このふた種類の集団が生じることになります。
■交わりの御霊
 この間、一月の例会にカトリックの方々が3人、わざわざ九州と山口県から来られました。3人は、この集会に出席できたことをとても喜んで、最後の談話会まで残って交わりを持ってくださいました。後で、初めての出席なのに暖かく迎えてくれて有り難うとお礼のメールをいただきました。カトリックでは、ご存じの通り、ミサ(聖餐)を「御聖体」として重視します。カトリックの教えでは、「イエス様にとどまる」ことは、ミサを受け続けることだと言ってもいいほどです。ところが、これとは反対に、洗礼も聖餐も行なわないキリスト信者もいます。わたしたちコイノニア会は、そのどちらの方々とも交わりを保っています。もしもカトリックの人たちが、洗礼や聖餐を行なわない人たちの信仰を否定して、この人たちを排除するなら、交わりは成り立ちません。逆に、聖餐を守る人たちを軽蔑し拒否しても、交わりは不可能になります。「コイノニア」とは、イエス様の御霊にあって、「互いに愛し合う」交わりを大事にすることです。
 コイノニア会は少人数ですが、数は少なくても種類は豊富で、互いにイエス様の御霊にある交わりを保っています。違っていても、それぞれの個性に意義を認めるからです。どうすれば「御霊にある自由な交わり」が保てるでしょうか? ここでわたしたちは、ほんものの御霊の働きと偽の霊の働きと、という難しい問題に突き当たります。第一ヨハネの手紙から読みます。
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(第一ヨハネ4章1〜3節)
(1)ここに「どんな霊でも信じるわけではない」とありますが、これは、御霊の働きにはいろいろあるけれども、そういう霊の働きの全部が全部、「真理の御霊」とは限らない。中には「虚偽の霊」もあるから注意せよという意味です。御霊の働きは実に様々です。ところが、御霊の「活発な働き」を「熱狂主義」だときめつけて、「このような」熱い霊のことを「虚偽の霊」だと見なす傾向があります。「熱く活発に働くから」その霊は虚偽だというわけです。聖霊は時には激しく、時には静かに働きますから、ここでヨハネが言うのは、強く激しい場合は虚偽で、静かに、ほとんど感じられない?場合はほんものだという意味ではありません〔ブルトマン『ヨハネの手紙』〕。
 もしも聖霊の強く生き生きした働きをそれだけで否定するならば、それは聖霊体験や霊的な働きそれ自体を否定することになります。聖霊に満たされるとエクスタシー状態になることがありますが、これは決して虚偽ではありません。御霊の働きは、強い弱いで判別すべきものではないからです。聖霊の働きそれ自体をこのように否定するなら、イエスの御霊にある交わりは成り立ちません。こうなると、御霊の交わりを殺すほうこそが、虚偽の霊です。
(2)今度は、逆の場合です。異言を語らない、癒しが行なわれない。このような霊能現象が現われないと、そこに御霊が働いて「いない」と判断することです。これでは、いわゆる「聖霊体験」を持たない人たちは救われません。イエス様を信じて洗礼を受けた人には、「すでに」御霊が働いておられます。本人が、そのことをどこまで「自覚」しているかどうかは別です。「受洗の前と後では、たとえあなたの態度が変わらなくても、神様のあなたに対する態度は変わる」と言われるのはこのことです。異言や癒しなどの聖霊体験を持つ人が、そういう体験を持たない人たちの信仰を否定したり、その人たちよりも自分が勝ると思うなら、それは「間違い」であり「誤り」です。そのような思いこみは、霊的傲慢という虚偽の霊の働きですから、こういう場合にも交わりは成り立ちません。
(3)ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたこと」を信じる霊は真理で、そうでない霊は偽りだと言います。ここは、「イエスが<肉体をとってこられた>キリストである」と言い換えるとヨハネの意図がはっきりします。「イエスが肉体をとってこられた」ことを否定するのは、「キリストが歴史のイエスとして」現われたことを否定することです。「歴史のイエスにおいて、ということは、正に<肉体において>来たということにほかならない」〔ブルトマン『ヨハネの手紙』川端純四郎訳〕からです。どうしてイエス様の「肉体」、すなわち、その「おからだ」がそんなに大事なのか? イエス様のおからだもわたしたちのからだと同様に、人間としてこの世に実在していることの証しだからです。わたしたちのからだのある時と所、そこが、わたしたちの「今の時」です。わたしたちの現在という「時の場」です。なぜこれがそんなに大切なのでしょう? わたしたち人間が、神の御霊と交わるのは、現在という「この時場」以外にはないからです。「いつかそのうちに」とか、「いずれ天国で」などと思っていては、イエス様の御霊にある神との交わりは開けません。神の御子であるイエス様の聖霊は、イエス様の「おからだ」に宿りました。このことを信じない人には、聖霊は、その人の「からだ」に宿ることができないのです。人の「からだ」こそ、その人の実在であり、これが確認できるのは、そのからだが実在する「現在」意外に、どこにもありません。そこで、「交わり」がなければ、どこにも交わりは存在しません。だから、イエス様が肉体をとって来られたキリストであると「告白しない人」は、神様と出会うことができませんから、こういう人の霊は「神から出た霊」ではないとヨハネは言うのです。「告白しない」には、「(キリストを)むなしくする」という読み方もあります。なぜ、「むなしくする」のかと言えば、イエス様のおからだに宿る御霊を信じなければ、そもそも御霊が働かないからです。御霊は、イエス様のおからだとこれに宿る霊性としてしか、わたしたちに働きません。だから、これを信じない霊は、キリストを「むなしくする」虚偽の霊です。
(4)カトリックの人たちが、聖餐を「聖体」として大事にするのは以上の理由からです。ところが、ここで困るのは、イエス様のおからだそれ自体が聖霊では「ない」ことです。「おからだ」を現わすパンとぶどう酒は、それだけではただの物です。しかし、このパンとぶどう酒はイエス様の霊性を現わしますから、イエス様を通じてわたしたちと神とが交わりに入るための「しるし」として働きます。「物」は「もの」に通じます。「ものすごい」「もの悲しい」「ものものしい」「もののけ」などの「もの」は「霊」のことです。「物」には「もの」(霊)が宿るのです。「もの」(霊)が「物」に宿ることで初めて、人はその物/ものを通じて、人と出会い、イエス様と出会います。聖餐によって、「わたしたち」と「神様」がイエス様のおからだを通じて交わりに入ることができるのです。だから、「物」は「もの」(霊)を宿して「者」を結ぶのです。「物」が「者」と結びつくとただの「物」ではなくなってそこに「もの」が宿る。ところが、これが行き過ぎると、聖遺物崇拝、聖餐崇拝(ミサをいただけば救われる、いただかなければ滅びるという信仰)に陥りますから注意しなければなりません。霊的な意味を忘れて物にこだわると、逆に聖餐の霊性が見失われて、その「物」が魔術的、呪術的な意味合いを帯びるようになるからです。プロテスタントでも、霊能の伝道者の祈りを受けた「リボン」を売ったり買ったり身につけたりしますが、これもまた行き過ぎると虚偽の礼拝に陥ります。ましてこのような「物」を押しつけるなら、交わりを壊すことになります。(5)だからと言って、逆に霊性だけに重んじて、物を否定してしまうと、今度は、イエス様の霊性が、実在のおからだから離れて、だれのものか分からない「霊」に変容してしまうおそれがあります。こうなると、ナザレのイエス様が、今も生きて、わたしたちと共に御臨在してくださるという御霊の働きが、希薄になったり、別のものにすり替わることにもなりかねません。聖餐の霊性を認めず、これを否定するならば、聖餐を守る人たちと交わりを保つことができなくなります。聖餐を物として崇拝するのも誤りですが、聖餐が現わすイエス様のおからだを否定するのも誤りです。  以上、イエス様の御霊にある交わりが成り立たない場合をあげました。聖餐を否定することもクリスチャンの交わりを妨げます。聖餐にこだわるあまり、聖餐の意味を霊的にとらえる人たちを排除しても、交わりは断たれます。これからの「エクレシア」(教会/集会)には、イエス様の御霊の御臨在と個人の交わり、このふたつがますます大事な意義を持つようになります。
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