【注釈】(その1)
■15~16章の語り方
14章は、イエスの別れの言葉で始まり、イエスこそ父へいたるまことの道であり、父を顕す方であることが示されマス。それから、イエスが、パラクレートスとして弟子たちを教え導くことが約束され、最後に、「この世の支配者」が近づいていると告げられました。この章全体を通じて、イエスが「行く/去る」ことと、再度「来る」こと、この「往来」に伴う危機感と同時に平安が約束されました。章の構成では、トマスとフィリポの二人の弟子とイエスとの対話(ダイアログ)があり(14章1~11節)、この対話にイエスだけが語る独白(モノログ)が続きました(同12~31節)。対話の後に独白が続くこの構成は、ヨハネ福音書の語り方の特徴です。
14章に比べると、15章1節から16章15節までは、イエスの言葉だけが続きますから、ここはヨハネ福音書全体の中で最も長い独白になっています。内容的に見ると、14章(20~21節)で約束されたイエスと弟子たちとの交わりが、15章では、ぶどうの樹のたとえでさらに深められます(15章1~8節)。続いて、その交わりの本質が、13章34節で告知された「愛し合う」ことにあると、はっきり告げられます。イエスは、これから弟子たちと別れて立ち去る方と言うより、すでに受難と復活を成し終えた方に近い語り方です。特に、今回の15章1~17節には、ヨハネ神学の核心が啓示されています。この核心部分に続いて、弟子たちがこの世で受ける「憎しみ」が、あたかも交わりの喜びと明暗を成すように示されます(15章18節~16章4節)。その後で、14章で告げられたパラクレートス(聖霊)の働きが、いっそう深められて語られます(16章5~15節)。
16章16~33節に入ると、再びイエスと弟子との対話が始まりますから、語り方が14章に戻ります。決別に伴う悲しみとイエスのみ名による祈りへの約束が、やがて弟子たちが「散らされる」という危機を伴って語られます。16章では、弟子たちでさえ、一時イエスを見失うと予告されます(16章16節)。イエスは、もはや「たとえで」語りません。
また、16章では、この世に向けられるイエス(と弟子たち)の証しと、これに伴う迫害、その中にあって弟子たちを支える聖霊の助けが約束されて、続いて、恐れが喜びに変わる勝利へつながります。このつながり方は、共観福音書とも共通しています(マタイ10章16~25節/マルコ13章3~13節/ルカ12章4~12節)。
■文献的に見ると
14章と15~16章との間には、頁の入れ間違いが指摘されていると述べました〔57章「愛の戒めとペトロへの否認予告」の【注釈】「13章31節~17章26節の錯簡説」を参照〕。これを「訂正する」ための幾つかの案を紹介しましたが、どの案も14章を15~16章の後に置く点では共通しています。しかし、14章には「父はもう一人の弁護者を遣わす」とあって、ここで初めてパラクレートスが語られます。訂正案では、このパラクレートスが、15章以下のパラクレートスの記述の後に来ることになりますから、内容的にそぐわなくなります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
錯簡説とは別に、15~16章は、ほんらい14章の「もうひとつの版」ではなかったか? という見方があります。14章と15~16章との二つの「別れの説話」があったのが、後に(おそらく始祖ヨハネの弟子によって)両方が重複して用いられたと想定するのです。このような錯簡説や重複説が提起されるのは、一つには、ブルトマンが編集したように〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、15章以下を13章34~35節の「愛の戒め」に続けると、内容的によく合うからです。もしも、15章1節を13章35節に続けて読むのであれば、15章以下の説話全体が最後の晩餐の部屋で語られたことになります。
この問題を出したのは錯簡説を蒸し返すためではありません。わたしは、ヨハネ福音書を現行のままで読むのが最もふさわしいと思っています。ただし、そうなると、14章の終わりに「さあ、ここから出ていこう」(これの解釈にも問題があります)とありますから、15章以下は、最後の晩餐の部屋を出て、キドロンの谷にあるゲツセマネへ向かう途中で語られたことになります。現在伝えられている最後の晩餐の場所は、おそらくビザンティン時代(335年頃)にさかのぼるものでしょう。その部屋は、現在のエルサレムの旧市街を囲む城壁の南西部分の外側にあたります。そこからゲツセマネまで、谷に沿って歩くと相当の距離になりますから、長い説話が語られる時間は十分あったことになります。ただし、最後の晩餐の部屋の位置を神殿の南の壁近くだとする説もあり〔Leen and Kathleen Ritmeyer. Jerusalem in the Year 30 A.D. 2004.〕、そこからだと、城壁の東にあった「水の門」を出れば、すぐキドロンの谷へ出ることができます。しかし、イエスが大祭司の遣わした役人たちに逮捕されたことを考え合わせると、最後の晩餐の部屋が、警護の役人たちがいる神殿のすぐ南にあったとは思えません。伝承されている現在の部屋は、イエスの時代には、城壁の内部に含まれていて、しかもエッセネ門に近く、神殿から最も離れた下町のエッセネの人たちが住んでいた地区になります。伝承の部屋のほうが場所としてふさわしいと言えましょう。
■サクラメントから見ると
13章の最後の晩餐では洗足が行なわれますが、共観福音書では、ここで聖餐が制定されます。15章は「ぶどうの樹」のたとえで始まります。この「ぶどう」が、読者に聖餐のぶどう酒を連想させることはすぐに分かります。ただし、今回の「ぶどうの樹」を直接聖餐に結びつけて読むのは適切でないでしょう。ヨハネ福音書では13章に聖餐が表われませんが、6章53~56節で聖餐の表象が明確に示されます。6章の聖餐の表象は、内容的に見ても、15章1~17節のぶどうの樹と通じます(6章56節と15章4~5節とを比較)。このことから、15章のぶどうの樹が、サクラメント("the Sacrament" 聖礼典/聖餐/聖体)的な性格を帯びているのは確かです。
おそらくヨハネ共同体は、パンとぶどう酒という具象的な聖餐において、物としてのパンとぶどう酒にこだわるあまり、その「霊的な真理」が理解されないままに、聖餐の意義が失われていく傾向を感じ取ったのでしょう。今回のぶどうの樹の比喩でも、パンとぶどう酒という具象性から、イエスと信仰者との内面的な結びつきそれ自体へと霊的な洞察を深めることにで、聖餐の霊的な意義を指し示そうとしています。このように、ヨハネ福音書は、「しるし」が帯びる外見的な具象性と、「しるし」にこめられた霊的な意義を現わす象徴性、外面と内面のこの二重性を兼ね具えた語り方をするのです。
このために、この福音書を読み解く場合に、常に二つの相反する傾向が生じることになります。一つは、言語とその言語が表わす出来事の「象徴性」を強調することによって、しるしとしての聖餐を「非祭儀化」して見ようとする傾向です。こういう解釈は、プロテスタント的と言えるもので、聖餐の「象徴説」と呼ばれています。これに対して、具象性を有するパンとぶどう酒それ自体をそこに含まれる霊性と一致させることで、物と霊性とを一体化してとらえようとする傾向があります。このような聖餐の解釈は、カトリック教会において現在でも行なわれていて、「化体説」と呼ばれています。
これら二つの解釈の傾向は、例えば次のような事例にも見ることができます。異言は聖霊がその人に働いている「しるし」ですから、これを根拠にするならば、異言さえ体験できれば、洗礼も聖餐も必ずしも必要がなくなります。現に、教会のサクラメントとは全く無縁な人が、異言を体験する場合があります。こうなりますと、異言体験は、サクラメント否定の根拠にさえなります。ところが、これとは正反対に、洗礼を受け聖餐を受けることで、これを契機に異言体験が与えられる場合があります。
聖餐に限らず、霊的な体験が物や行為と結びつくところでは、例えば、霊能者の祈りを受けたリボンを身につけることで霊験に与ろうとすることがあります。「しるし」とこれが指し示す「実体」とが、ここで相反する解釈を生じさせるのです。ヨハネ福音書の解釈の場合にも、これら両方の傾向が見られますが、そのどちらに傾いても、この福音書の伝えようとする霊性を正しく悟ることができません。
戻る