【付論】 イエスの霊愛
 ヨハネ15章8~14節には、ヨハネ福音書による「イエスの霊愛」が集約されています。この霊愛を以下の四つにまとめてみました。
(1)ヨハネ福音書のイエスの霊愛は、ヨハネ共同体の体験を背景にしながらも、ナザレのイエスの霊愛を受け継ぐものです。そのイエスの霊愛もまた、旧約聖書の「愛」だけでなく、それまで人類に与えられてきた慈愛の心を受け継いでいます。「友のために命を捨てる愛」も、「敵を愛する愛」さえも、キリスト教以外の世界で見ることができます。仏教では、阿闍梨(あじゃり)になるための菩提心が衆生に及ぼす慈悲があります。法隆寺の聖徳太子の厨子(ずし)には、自分の身を飢えた虎の親子に与える「捨身飼虎(しゃしんしこ)」が描かれています。これは、はるか西域の敦煌の遺跡にその源をたどることができます。「罪業を宿す人間」に及ぼすこのような慈悲の教えは、第二イザヤの「受難の僕」とほぼ同じ頃の紀元前6世紀になって、初めて人類に与えられます。古代インドの仏教王国からオリエントに派遣されていた仏教の僧侶たちによって、慈悲の教えがパレスチナにも伝えられていましたから、福音書のイエスの愛には、仏教の影響があると指摘されています。
(2)しかし、イエスの霊愛は、それまで受け継がれてきた人類の慈愛を人間の能力を超える神の聖性を帯びた霊愛へと高めました。これによって、御子の愛は、人類に新たな「霊の人」を創造する終末的な働きとなります(ローマ8章31~39節)。
(3)新約聖書の愛が、ほかの諸宗教と異なるとすれば、この愛が、「イエスの十字架の受難と復活」という独特の贖罪の祭儀性を帯びているからです。「わたしがあなたがたを愛したのと同じように」とあり、イエスの愛に「とどまる」とあるのも、イエスの受難と復活の栄光から発する愛です。このような「愛」は、パウロ書簡に見るように、人間の宗教性それ自体に潜む罪性さえも覆い尽くすまで、神からの絶対的な恩寵として働きます(第一コリント13章1~13節/第一ヨハネ4章7~12節)。
(4)イエスの霊愛は、このように、神の聖性と絶対性を帯びているだけに、今回のヨハネ福音書にある「友への愛」が、一層注目を惹きます。ここで言う「友」は、続く15章16節に見るように、父と御子イエスによって「選ばれた」者です。だから、神が遣わした御子を通じて「選び分かたれた者」に啓示される愛です。「選び」によって「救い」を世に広めるという神の不思議なご計画がここにあります。ノアの選びに始まり、アブラハムやイスラエルの選び、さらにモーセに始まり、迫害に耐えたマカバイ時代の「選ばれた義人たち」にいたるまで、神は、ある人たちを選び分かち、彼らを通して新たな創造の業を行なうことで、救いの道を広げてきました。パウロが、「罪人を義とする神の愛」を伝える使徒とされたのも、このような事態を証ししています。
 現在の「宗教する人」には、うぬぼれが抜きがたく具わっていますから、自分が信じる宗教の「外の人」を心から信愛することが<宗教そのものの性質上>不可能です。これに対して、イエスの霊愛は、もろもろの諸宗教の人たちをも心から愛することのできる愛ですから、現生人類の力を超えたところから働く「神の霊愛」であり、そのような愛は、御子を通じて「選ばれた」者に初めて可能になります。その選びは、万人に開かれていますが、万人が、その選びに与るわけではありません。このように高度な愛は、御子のパラクレートスを通して働くものですが、逆に言えば、いわゆる「異教徒」呼ばわりするキリスト教徒には不可能であるばかりか、そのような「異教憎し」の既成のキリスト教への厳しい批判ともなります。
                          戻る