【注釈】(その2)
■15章1~8節
わたしはまことのぶどうの木、
わたしの父は農夫である。
わたしにあって実を結ばない枝はみな
父が取り除かれ、
実を結ぶものはみな手入れをなさるから、
もっと豊かに実を結ぶ。
わたしがあなたがたに語った言葉によって、
あなたがたはすでに清い。
わたしにとどまりなさい。
わたしもあなたがたにとどまる。
枝がぶどうの木にとどまらなければ
自分では実を結ぶことができない。
あなたがたも、わたしにとどまらなければ
実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにとどまり、
わたしもその人にとどまれば、
その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、
あなたがたは何もできないからである。
わたしにとどまらない人がいれば、
その枝は外に投げ捨てられて枯れる。
それらは集められ、火に投げ入れられて焼かれる。
あなたがたがわたしにとどまっており、
わたしの言葉があなたがたにいつもあるなら、
望むものは何でも求めなさい。
きっとあなたがたに成就する。
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、
これによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 
[1]【ぶどうの木】イエスは、自分を「ぶどうの樹」に、父なる神をその樹の栽培者(原語は「農夫」)にたとえています。この節をめぐって、以下の幾つかの解釈が可能です。
(1)ブルトマンは、ここのぶどうの樹を聖餐(サクラメント)と関連づけることを否定します〔ブルトマン『ヨハネの福音書』(注)368〕。彼は、このたとえをイエスとその弟子たちとの「愛にある交わり」に限定して解釈し、その上で、ぶどうの樹の表象をマンダ教の文書に表われる「命の樹」と関連づけます。すなわち、生成と消滅を繰り返す現象界に対して、この表象を永遠の「不死の食物とぶどうの樹」というヘレニズム神話の表象と結びつけるのです。だから彼は、ここのぶどうの樹を第一義的にはイエスとその弟子たちとの交わりを現わすと理解し、第二義的にグノーシス神話の命の樹をその背景に考えて、聖餐との関連を否定するのです。   表象や図像は鎖のようにリンクして広がりますから、古代オリエントからヘレニズム世界へ、さらに東洋的な広がりにおいても、「命の樹」の表象が、ぶどうの樹の背後に潜んでいるという見方は、それなりに肯定できます。だから、創世記の知恵の樹、ヨハネ黙示録の命の樹、釈迦がその下に座した菩提樹、クリスマス・ツリー、五重の塔などが、「世界樹/宇宙の樹」として、今回の「ぶどうの木」の背後に想定することができます。
(2)旧約聖書の「ぶどうの樹」(ギリシア語で「アンペロス」)は、「ぶどう園」(アンペローン)のことだと解釈する教父たちがいます。ヘブライ語では「ぶどうの樹」と「ぶどう園」はそれほど厳密に区別されていませんから、相互に流用されたようです。その上で、「まことの」ぶどうの樹とは、「ほんもの」、すなわち極上のぶどうを実らせる樹のことです。エレミヤ2章21節に「(純粋培養の)ほんもののぶどうの樹」(七十人訳)とあるのがこれです。イザヤ27章2節にも「(主が蛇を退治する)その日には、みごとなぶどう畑について喜び歌え」とあります。このように、旧約で「ぶどう園」はイスラエルの表象です。しかし、このイスラエルの表象は、必ずしも善い意味だけではありません。主なる神ヤハウェの期待を裏切って「実を結ばない」ぶどう園に変じることがあるからです(エレミヤ12章10~11節/エゼキエル17章6~10節)。このように旧約では、「まことの」極上のぶどう園と、期待を裏切る不毛なぶどう園とが対照される場合が多いのです(エレミヤ2章21節)。ヨハネ6章では、モーセが与えたマナと対照させてイエスを「まことのパン」と呼んでいますから、15章の「まことのぶどうの樹」も、旧約の伝統的なユダヤ教とイエスとを対照させているのでしょうか(マルコ12章1~11節の「ぶどう園」のたとえを参照)。
 イスラエルではぶどうの栽培は、棚を用いるのではなく、Y字型の支柱を用いたり、垣根にしたり、地に這わせたり、山地では崖の縁に横向きに伸ばしたりします。だから、「ぶどうの樹は他の樹よりも背が低いが、木々の王と呼ばれるように、イスラエルは諸国民よりも低いが、メシアが顕れる時には世界の果てまでも支配する」というのが、イスラエルの人のぶどうの樹に寄せる想いです。なお、民族の誇りを取り戻したマカバイ時代のものと思われる、ぶどうをデザインしたコインや陶器が多数発掘されています。
 ヨハネ福音書の「ぶどうの樹」も、このようなイスラエルの伝統的な表象に沿って理解することができます。特に注意すべきは、ぶどうの樹とメシアとの関係です。詩編80篇9~12節に「エジプトから移し植えられたぶどうの樹」(イスラエルのこと)がでてきます。ただし、そのぶどうの樹は、他国の人々に摘み取られ、これを「野の獣が食い荒らしている」(同14節)有様です。しかし、やがて「人の子」が顕れて、救いをこのイスラエルにもたらすのです(同18~20節)。エゼキエル書17章では、「人の子」が、「ぶどうの樹」についてマーシャール(比喩/謎)を語ります。そのぶどうの樹も主の期待に背いて、このためにバビロン王に捕らわれますが、やがて主によって高く上げられるのです。『シリア語バルク黙示録』(原典はギリシア語?1世紀末~2世紀初頭)の37~39章には、成長するぶどうの蔓から、悪しき力に勝利するメシアの支配が現われるとあります。ただし、旧約のぶどうの樹が「人の子」あるいは「メシア」への待望と結びつく場合には、ダビデの王座の回復、あるいはイスラエルの救済を強く意識させますから、ここヨハネ15章のように、イエスの弟子たち一人一人とイエスとの内住的で人格的な交わりとは、必ずしも一致しないところがあります。
(3)ヨハネ6章のイエスのからだと血の表象が、聖餐を示唆するように、15章のぶどうの樹も聖餐と重ねることができます。ブルトマンは、これを否定していますが、それは第一義的な意味においてであって、彼も二次的に聖餐が示唆されていると見ています。少なくとも、ヨハネ福音書の読者たちが、ぶどうの樹から聖餐を連想したのは間違いありません。『十二使徒の教訓』(9~10)も聖餐について、「あなた(父なる神)の僕ダビデ(イエス)の聖なるぶどうの樹について、あなたに感謝します」と述べて、ぶどうの樹を聖餐と結びつけています。「枝とぶどうの樹との関係は、とりわけ信仰者とキリストとの聖餐における交わりにあたる」〔クルマン〕という見方が、プロテスタントとカトリックの両方の側から支持されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。なおブラウンは、15章1~17節を6章51~58節と関連づけ、その背後に知恵思想があると観ています。
 以上をまとめると、ぶどうの樹は、第一義的に、イエスと信仰者とのつながりを指します。このつながりは、二次的に、聖餐を想わせます。さらにその背景として、旧約聖書を含む古代オリエントからヘレニズム世界の神話に現われる知恵の樹、命の樹、黄金の実のなる永遠の樹、さらに言えば悟りの樹、宇宙の樹などが想定できます。このように幅広い「たとえ」の用い方は、ヘブライの「マーシャール」(比喩/諺/譬え/謎)の伝統に基づくものです。
[2]【実を結ぶ】ここで「実を結ぶ」と「結ばない」が対照されます。「わたしにつながっていながら」とある原文は「わたしにあって」です。1節の文頭に来る「わたしは~ある」(エゴー・エイミ~)は、イエスの臨在を想わせますから、「エゴー・エイミこそまことのぶどうの樹」と読むこともできましょう。これを受ける2節では、この臨在に「とどまる/つながる」ことが「わたしにある」ことです。「わたしは、ある」が「わたしにある」ことを生起させますから、反対は「わたしにいない」ことで、これは、「わたしにある」ことから離れることを指します。「わたしにあって、(それでも)実を結ばない枝」とあるのは、かつて信じていたが今は離れている人たちを指すと考えられますから、例えばヨハネ共同体から離脱した人たちのことになりましょう(8章31~38節/第一ヨハネ2章19節参照)。だから「実を結ばない枝」は背教のクリスチャンたちを指すという見方があります〔バレット〕。  
 『ソロモンの頌歌』(現存するのはギリシア語で、原典はシリア語に近いアラム語か?1世紀末~2世紀前半)は、内容的にヨハネ福音書に近いと言われています。ここには「主のために献げる聖なる命の実」(第8歌2節)、「主の平安の実」(第10歌1節)、「枯れるものがなく実に満ちあふれる楽園」(同23節)、「真理の実」(第12歌2節)などがでてきます。信じる者が「イエスにあって」結ぶこれらの実は、パウロの言う「キリストにあって」結ぶ御霊の実(ガラテヤ5章22~23節)に通じると言えましょう。ヨハネ福音書では、特に「兄弟を愛する実」が最も重要ですから、イエスと共にいることで「実を結ぶ」かどうかが、信者各自の内面で問われています。
【手入れをする】原文では、実を結ばないものを「切り捨てる」(アイロー)ことと、実を結ぶものを「剪定する」(カタイロー)ことが対応します。「手入れする」の原語の意味は、「清潔にする」「余分なものを取り除く」ことで、農事では、小麦の籾殻を除いたり、種まき前に畑の雑草を抜き取ることなどを指します。ここでは枝を「剪定する」ことですが、ぶどうの樹は通常、1月~3月の時期に枯れ枝を切り取り、8月に葉がでる頃に小さな芽を摘み取り、実を結ぶ芽だけが育つようにします。だから、枯れ枝は切り取られ、善い枝も余分な芽を摘み取られます。剪定は「もっと豊かに」実を結ばせるために行なわれます。「イエスにある」こと、「イエスにとどまる」ことは、ただ静止していることではありません。まして無為無策を意味しません。イエスの御霊は「もっと豊かに」実を結ぶように、絶えず働きかけ、結実へ向けて命の業を続けるのです。「とどまる」ことは常に新たに「動かされること」なのです。「離れる」とは、共同体から離脱する以前に、「わたしにある/とどまる」ことから離れること、「イエス・キリストにある」ことから「離れて」自力で何かを始めることです。御霊の導きよりも自己の能力を過信して自己実現を企てることです。
[3]【すでに清い】この言い方は13章10節にもあり、そこでは、弟子たちの足を洗う愛が語られました。今回は、イエスを受難と復活へ導く愛が、弟子たちへのパラクレートスの愛として語られます。「すでに」は、イエスが「わたしの時」と呼んだ受難の時がすでに始まっていて、イエスの死と復活と聖霊降臨の愛が、「すでに」弟子たちを覆っているからです。だとすれば「すでに清い」は、目標ではなく完了した結果であり、神がすでに成就した創造の業がヨハネ共同体(とわたしたち)に働くことです。【語った言葉によって】「わたしが語った言葉(単数)」とある「語る」は完了形です。単数の「言葉」は、イエスの口から出た言葉全体を指すと同時に「ロゴス=み言(ことば)」としてのイエス自身をも指します。ヨハネ福音書では、イエスの言葉はイエスの業と一つですから「語られた言葉」は「完了したイエスの業」にほかなりません。神が言葉を発するとは、神が行為することです。神が行為するとは、神の御霊が働くことです。イエスの言葉が働くのは、イエスにとどまることによってです。3節は、このことを確認させて、1~2節のぶどうの樹のたとえを4~5節へつないでいます。
[4]~[5]4節では、「つながっていなければ」と「実を結ぶことができない」が、それぞれ2回ずつ、否定文として繰り返されます。これに対して5節では、「つながっている」が繰り返され、「実を結ぶ」が肯定的に語られます。二つの節の結びが「わたしを離れて、あなたがたは何もできない」という否定文ですから、否定→肯定→否定と展開します。
【わたしにとどまりなさい】原文は「わたしがあなたがたにとどまるように、あなたがたもわたしにとどまりなさい」と「わたしにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたにとどまる」のふた通りに読むことができます。「とどまりなさい」と命令文に読むほうが自然でしょう〔岩波訳〕〔塚本訳〕。しかし、弟子たちがイエスにとどまるという条件付きでイエスも弟子たちにとどまるのは、論旨としては分かりやすいけれども、ここでの交わりの関係を十分に表わすとは言えません。洗足の場合のように、まずイエスが働きかけて弟子たちがこれに従うというのが、ヨハネの真意でしょう。4節文頭の「とどまりなさい」は命令法のアオリスト形で、「どこまでもとどまり続けなさい」という強い意味を表わします。この後に、「あなたがたも、わたしにとどまらなければ、実を結ぶことができない」とありますが、枝のほうから樹につながろうとするのではなく、樹から枝が出ていて、そのままつながれていなさい、という意味です。そうすれば、自然と実を結ぶようになるからです(詩編1篇3節)。
【離れては何もできない】「なにもできない」は、御霊にある「実を結ぶ」ことができないこと、イエスにある兄弟愛が生まれないことです。「離れては何もできない」は、わたしたちがイエスから「離れる」ことがあるからです。人がイエスに「とどまり続ける」ことを止めるのは、自分の力を発揮したいという想いに駆られて、イエス以外の「ほかのこと」に誘われるからです。だから、アウグスティヌスは次のように述べています〔『アウグスティヌス著作集ヨハネによる福音書説教』第81説教。茂泉昭男訳〕。    
「彼らは不敬虔なことを口にしてこう言うのである、『わたしたちが人間として存在しているそのことは神から得ている。しかし、わたしたちが正しくあるのはわたしたち自らの力によってである』と。・・・・・たしかに、人間は自らの力によって正義を行なうというのは、あなたがたの声である。しかし、それはあなたがたの高慢である。むしろ真理はあなたがたに反して、こう言っている、『ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない』と。さあ、もぎ取られることによって破滅へと去りたまえ。結びつくものを持っていない者よ、空虚なたわごとを語る者として捨てさられるとよい。」
 ここでアウグスティヌスは、イギリス生まれの修道士で異端とされたペラギウスのことを念頭に置いています。ペラギウスは、原罪を否定し、人間の意志の自由を確保しない「神の恩恵」の教義を批判し、人間に自分の自由と責任を求めたからです。カルタゴの教会会議(418年)で彼が異端とされた際に引用されたのがこの15章4節でした。この会議で、神の恩恵にあっては、人間の自由意志は全く認められないと決議されたのです。さらに、宗教改革の時にも、トリエントの公会議の第一会期(1545~49年)でこの4節が取り上げられました。プロテスタント側が、救いは神の恩恵への信仰によってのみ与えられると主張したのに対して、カトリック側は、「信仰は救いの発端であり、すべての義化(神からの義認)の基礎であり根幹である」ことを認める一方で、「人間の意志は義化の全過程を司る神の恩恵に協力することができるから、人間はなんらかの功徳(くどく)を積むことがありえる」という決議に達しました〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。  
 「イエスにとどまる」ことと「実を結ぶ」こととが、このような論争を生むとはヨハネ福音書の作者も予期しなかったでしょう。御霊の働きが、神から来る恵み/恩恵(カリス)とこれに応答する人間の信頼から成り立っていることが、この論争からもうかがわれます。「イエスにとどまる」とは、受動的でありながら人間の能動的な意志の働きをも含むものです。御霊にある「愛」は、どちらか一方だけでは成り立たない「受動的能動」だからです。
[6]【投げ捨てられて】5節の肯定的な約束が、6節では否定的に裏から語られます。先に見たように、ぶどうの樹の表象は、イスラエルが神から退けられることと神の裁きに逢うことをも含んでいます。神は、実を結ばないぶどうの樹を火に投げ入れるのです。「イエスにある」と称する者たちも、例外ではありません(マタイ13章30節)。枝が「枯れる」は、イエスのたとえにある「石の多い土地に蒔かれた種」と共通します(マルコ4章5~6節)。なお、「投げ捨てる」の原語は、「外へ投げ捨てる/外へ追い出す」ことですから、これを「教会から破門する」ことに関連づける解釈があります。しかし、ここでは、そのような制度的な処罰を意味するのではありません。6節は5節と裏表を成していますから、「イエスにとどまる」ことと「実を結ぶ」ことに、「投げ捨てられ」て「枯れる」が対応します。ヨハネ福音書では、このような場合に、どちらの事態も「同時進行的に」とらえられています(3章18~19節/5章24節)。イエスを信じる者にとっては、イエスにとどまることは実を結ぶことであり、とどまらないことは、「すでに」そのことによって、捨てられて枯れること(原語はアオリスト形で、すぐに起こること)を意味するのです。
【焼かれる】新約聖書で「焼かれる」は終末に起こる事態を指しますが、ヨハネ福音書では終末が「現在化」しているという根強い「誤解」があります。事実はその逆で、この福音書では、現在が「終末」としてとらえられているのです。しるし物語を担った最初期のユダヤ人キリスト教徒たちは、イエスの到来によって終末が実現したと信じました。このために終末に起こる出来事が現在に重ねられるのです。このように終末の相の下で現在を観るところに、この福音書独特の「時」のとらえ方があります。
[7]~[8]【わたしの言葉が】6節までは、イエスの内にとどまるように告げられました。7節から「イエスにとどまる」ことの意味かが、さらに語られます。「わたしの言葉」(原語は複数の「レーマタ」)は「わたしが語った事/言葉」"my sayings"ですから、3節の「わたしの言葉」(原語は単数の「ロゴス」)"the word" とは異なります。しかし、どちらも、語るイエスと語られる言葉が一体である点では同じですから、特に区別する必要はないでしょう。強いて言えば、「わたしの語ったこと」には、イエスから明かされた「啓示の内容」の意味合いが強く、イエスからの「語りかけ」を深く知ることが、イエスに願い求める根拠となり、その願いが成就する確信を生むことになります。
【何でも願いなさい】原文は「あなたがたが願うことは(何でも)求めなさい」です。「求めなさい」はアオリスト形でその時の行為を表わし、「(その事が)あなたがたにかなえられる/成就する」の動詞は未来形です。「なんでもほしいものを願いなさい。かならずかなえられる」〔塚本訳〕。この約束は14章13節でも16章23~24節でも繰り返されます。イエスから兄弟姉妹たちへの愛が啓示され、その啓示に基づいて祈る祈りは、イエスの祈りであり、同時に父の祈りです。
【わたしの弟子となる】「あなたがたが実を結び、わたしの弟子となる(アオリスト形)なら、神が栄光を受ける」という読みと、「実を結ぶなら神が栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となる(未来形)」と、ふたとおりの読み方があります。原文は「このことによってわたしの父は栄光を受ける、すなわち、あなたがたが実を結び~」となっていますから、前の読み方に従って、「実を結ぶ」も「弟子となる」も「このこと」に含めるほうが適切でしょう。「弟子となる」(アオリスト形)は、そのことがはっきりと表われることですから、「イエスの弟子となる」は「実を結ぶ」ことと一つで、それが形となって現われることです(13章35節)。
【父は栄光を】ヨハネ福音書の前半では、神がイエスの栄光を顕しますが(1章14節/2章11節)、12章以下ではイエスが神の栄光を顕すことになります(12章28節/13章31節)。さらにここで、イエスの弟子たちも神の栄光を顕すようになります。御子の業も御子を信じる者たちの業も神の業にほかならないからです。ここではイエスの内にとどまることと、祈りが聞かれることは一つです。イエスの霊性が、受難の栄光を経てパラクレートスとして弟子たちに臨在し、弟子たちの祈りを通して父の創造の業が成就する。これによって父が栄光を受けるのです。
■15章9~11節
「父がわたしを愛されたように、
わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい。
あなたがたは、わたしの掟を守るなら
わたしの愛にとどまることになる。
わたしが父の掟を守ったことで
その愛にとどまっているのと同じである。
これらのことを話したのは、
わたしの喜びがあなたがたに宿り、
あなたがたの喜びが満ち溢れるためである。」
 
 9~11節は、先行する1~8節と結びついて、とりわけ「愛」については、この箇所が、ヨハネ福音書全体の中心になります。別れの説話は、内容的に第一ヨハネの手紙と共通するところが多いと言われますが、「愛」について、ここ9~11節に匹敵するのは、ヨハネ系文書では、第一ヨハネ4章7~21節です。9~11節には、農夫とぶどうの樹の表象はでてきませんが、16節に「実を結ぶ」とありますから、ぶどうの樹のイメージが9~17節の背後にあるのが分かります。
[9]15章1節が「イエスの父」で始まったように、9節も「父」で始まります。「父が愛された」も「わたしは愛してきた」も動詞はアオリスト形です。 "As the Father has loved me, so I have loved you."〔REB〕ヨハネ福音書では、父が、世の初めからご自分と共にあるロゴス(言葉)を世に遣わして、彼を通して「語った」のですから、ナザレのイエスは、神が語った言葉(ロゴス)による「出来事」です。神は、ナザレのイエスという「神の言葉の出来事」を通じて、この世に向けて神の愛を啓示しました(3章16節)。だから、ここで、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とあるのは、父が御子を愛したのと同じように、今、イエスが弟子たちに語ることで、「愛の出来事」が生起するのです。だから、「ちょうど同じように」は、比較ではなく、イエスが弟子たちに語ることで愛の出来事が生起するその原因であり、その根拠なのです。
[10]【わたしの掟を守る】「イエスの愛にとどまる」ことの具体的な現われが、「わたしの掟を守る」こと、すなわち兄弟を愛することです(14章15節/同21節)。「掟を守る」は、掟に従い抜いて、これを貫徹することです。このような信従は、弟子たちであれ、わたしたちであれ、自己努力によって達成できることではありません。
 ぶどうの樹のたとえの5節に「わたしにとどまる者」は「豊かな実を結ぶ」とあり、10節では「わたしの掟を守る者」は「わたしの愛にとどまる者」とあります。「わたしの掟」は「互いに愛し合う」ことですから、イエスにある兄弟愛こそ「イエスにとどまる者」が結ぶ「実」になります。だから、5節では「わたしにとどまる」という前提が「実を結ぶ」兄弟愛という結果をもたらすのに、10節では「わたしの掟を守る(兄弟愛の実)」が「わたしの愛にとどまる」結果を生むことになります。このように、ヨハネ福音書の語りは、前提となる根拠と、その根拠から生じる結果が、互いに入れ替わりながら進行します。この語り方では、前提となる「もしも~ならば」は、結果を生じさせる原因「~であるのだから」をも含んでいることになります。したがって、「あなたがたは、わたしの掟/霊法に従っているの<だから>、わたしの愛にとどまる者である」と読むこともできましょう。この場合、「もしあなたがたは、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまることになる」とある「もしも~ならば」は、「イエスの愛にとどまる」ために要求される条件ではありません。「もしも~ならば」は、「昼間歩くならば、つまずかない」(11章9節)とあるのと同じで、条件ではなく、しばしば理由であり根拠なのです。だから、9節後半で「この世の光を見ているからだ」と続くのです。今回の10節でも、「私の掟を守る<ならば>」は、「すでにあなたたちにはわたしの愛が働いているの<だから>」、その愛に「とどまり続けなさい」という意味に理解することができます(14~15節ではこの消息がよく表われています)。こういう事態が生じるのは、イエスが「父の掟を守った(完了形)」(10節後半)からであり、そのイエスが、父のもとにとどまり続けるからです(新共同訳では、10節の前半と後半の順序が、原文とは逆になっています)。まず先に、イエスが、父の愛に生きる霊法を「全うし終えた」こと(動詞は完了形)、このことが根拠になって、わたしたちへの御霊の働きが生じるのです。この御霊の働きによって、弟子たちを含むわたしたちが、イエスの愛にとどまり、とどまり続けることで、イエスの愛が、わたしたちを通じて兄弟姉妹に成就されることが初めて可能になるのです。  7~10節を通じて、イエスにとどまること、祈りが聞かれること、兄弟愛が成就されること、これらが一つになっています。ナザレのイエスの霊性が、受難の栄光を経て、パラクレートスとして弟子たちに臨在し、弟子たちの祈りを通して兄弟愛が全うされること、これによって父が栄光を受け、父の創造の業が成就するのです。イエスの御霊の臨在と、祈りの成就と、これを支える愛、この三つが、イエスを信じる者たちを通して証しされることが、父の創造の業であり、御子の受難の意味であり、臨在する聖霊の働きです。これがヨハネ神学の核心です。
[11]【これらのことを話した】これはヨハネ福音書がよく用いる言い方で、7~10節で語られたことを次の12~17節へとつなぐためです。同時に「話した/語った」とある完了形は、イエスがそれまで弟子たちに語り顕してきた業のすべてを思い起こさせます。
【わたしの喜び】父とイエスの交わりの喜びのことです。これが、イエスと弟子たちとの交わりの喜びと一つになることで、「あなたがた」の喜びが満たされます(第一ヨハネ1章3~4節)。ヨハネ福音書の「喜び」には、洗礼者の喜び(3章29節)、蒔く者と刈る者の喜び(4章36節)、アブラハムの喜び(8章56節)、ラザロの死の際にイエスがいなかったこと(11章15節)、イエスが父のところへ行くことへの弟子たちの喜び(14章28節)などがあります。しかし、これらのどの場合も、一見すると喜びの理由にはならないような状況が背景となっているのに注意してください。イエスが与える喜びは、イエスが与える「平安」と同様に「この世が与えるもの」とは異なるのです(14章27節)。愛と喜びと平安、この三つは、イエスの御霊の三大特長です(ガラテヤ5章22節)。
■15章12~17節
 
わたしの掟はこれである。
互いに愛し合いなさい
わたしがあなたがたを愛したように。
何よりも大きな愛は
友のために自分の命を捨てることである。
あなたがたはわたしの友である
わたしがあなたがたに命じることを行うなら。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
僕はその主人が何をしているか知らないのだから。
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
わたしの父から聞いたことすべてを
あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではなく
わたしがあなたがたを選んだ。
わたしがあなたがたを立てた。
あなたがたが出て行って実を結び
あなたがたの実が残るため
わたしの名によって父に願うことが
何でも与えられるためである。
わたしの命令はこれである。
互いに愛し合いなさい。
 
[12]~[13] 12~13節は、一つにして読むほうがいいでしょう。13章34節では、洗足の模範の後で愛の掟が「新しい契約」として与えられました。14章21節では、愛の戒め/掟が、父なる神と御子イエスの愛と一つになって弟子たちに「愛の啓示」として語られました。15章12~13節では、この愛の掟が、さらに深められて顕されます。
【互いに愛し合う】13章34節と同じように、ここでも「愛し合う」は現在形で、継続する愛の交わりを意味します。これに続く「わたしがあなたがたを愛した」はアオリスト形で、具体的な愛の業を指します。イエスを信じる者たちの兄弟愛は、イエスの「愛の出来事」に始まり、そこから命の樹の霊液を注がれるのです。
【友のために命を捨てる】「友」のギリシア語は「フィロス」で、これは「フィロー」(友愛を抱く)からでた言葉です。ここまで、「愛する」には「アガポー」というギリシア語が遣われてきたので、ここで「フィロー」がでてくるのが注目されます。しかし、ここでは、「フィロー」と「アガポー」を厳密に区別する必要はないと思われます。「友」(フィロス)の意味が、続く14節で説明されていますから。
 それよりも問題なのは、「友のために命を捨てる」ことが「何よりも大きい」愛であると言われていることです。イエスは「あなたの敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)と言い、パウロは、キリストが「罪人のために死ぬことで愛を顕した」(ローマ5章8節)と述べています。たとえ命を捨てるほどの愛であっても、敵対する者を愛すること、神に逆らった罪人を愛すること、これらよりも友を愛することが、なぜ「最も大きい」のでしょうか? ヨハネ福音書は、ここで、友愛の範囲に限定した上で、その中でも命を捨てる愛が最高であると言っているのでしょうか? あるいは、ヨハネ共同体は、イエスの愛を友愛という「狭い意味」でしか知らなかったのでしょうか? 
 ヨハネ福音書には、イエスは「世の罪を取り除く」(1章29節)神の小羊であるとあり、また、父は御子を賜うほどに「世を愛した」(3章16節)とあります。「世」とは、イエスを十字架につけるよう要求したユダヤ教の指導者たちを筆頭とする「この世」のことですが、広い意味で、イエスとイエスの弟子たち(とヨハネ共同体)を「理由なしに憎む」(15章25節)と言われている世間一般をも含んでいます。
 イエスが愛する「敵」は、パレスチナの民衆を苦しめ虐げていたローマ軍やその手先を指していたのかもしれません。パウロが「罪人」と言うのは、かつて神の教会を迫害した自分のことを指しているのかもしれません。ヨハネ福音書が「友」と言うのは、ユダヤ教の指導者たちからの迫害のために、厳しい処罰や殉教を余儀なくされたヨハネ共同体とその周辺の信仰者の体験が背後にあるのかもしれません。ここの「命を捨てる」には、イエスの十字架の受難が重ねられているのは確かですから、いずれにせよ、イエスの受難を通じて啓示された「愛」であることに、パウロもヨハネ福音書も変わりありません。ヨハネ福音書がここで言う「友」とは、敵対する人たちの憎しみと闘い、世の人々の罪と闘いつつイエスを証しした人たち、このために殉教をも辞さなかった人たちのことでしょう。「これほどの愛はどこにもない」とは、こういう人たちの愛を指すのでしょう。こういう愛こそ、ヨハネ福音書が証しする最も大きな愛です。
【わたしの掟】ヨハネ福音書の「愛」についてもう一つ疑問があります。それは、愛が「掟/戒め」として与えられていることです。「掟」のギリシア語は「エントレー」(単数)です。10節の「掟」(複数)が、13節では「これ」と単数になっていることも注目されています。ここでは、「友のために命を捨てる愛」を特に意識して「掟」全体を単数として扱っているのでしょう。ユダヤ教でも愛は大事な徳目ですが、問題は、ユダヤ教では、「自分を犠牲にする愛」を「掟」あるいは「律法」と見なすことが決してないことです。新約聖書の愛とユダヤ教の愛の違いがこの点にあるとユダヤ教の側から指摘されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。ただし、ここでの「愛」をユダヤ教の「掟」と同一視することは、ヨハネ福音書の真意ではないでしょう。なぜなら、イエスが言う「わたしがあなたがたを愛したと同じに」は、イエスの十字架の贖いの根源的な出来事から湧いてくる御霊にある愛の霊法であり、決してユダヤ教的な意味での「命令」でも「律法」でも「掟」でもないからです(第一コリント13章3節参照)。このことも、続く15節で説明されます。
[14]【わたしの友】この「友」は「イエスの愛にとどまる者」すべてを指します。「わたしの友ラザロ」(11章11節)とあるように、彼らは「イエスが愛する者」(11章3節)です。イエスにとどまる者が「友」と呼ばれるのは、イエスの愛によって彼が「すでに」イエスのような者とされており、まさにそのゆえに、イエスの友と「されつつある」からです。だから「イエスの友」は、人間の知力や知識によって到達できた特定の人たちにだけに与えられる特権ではなく、受難のイエスの栄光を素直に受け入れ、そのイエスの愛にとどまり続ける人すべてに与えられる呼び名です。わたしたちは、イエスにある神からの働きかけがなければ、ヨハネ福音書と新約聖書の言う意味で、「兄弟を愛する」ことができません。もしも、わたしたちが兄弟を愛するとすれば、それは「神のほうが先にわたしたちを愛してくださった」からなのです(第一ヨハネ4章19節)。このことをわたしたちが「知る」こと、これがわたしたちへのパラクレートスの働きです。
[15]【僕とは呼ばない】「僕」には「奴隷」の意味もあります。イエスに従う者にとって、イエスは主であり、自分は僕ですから(13章14~16節)、一見すると、ここで言われている「あなたがたを僕とは呼ばない」ことと矛盾するように見えます。けれども、ここでイエスの言う「僕/奴隷」の意味に近いのは8章31~36節です。そこでは、「奴隷」と「自由人」とが対比されています。「奴隷」は「罪に縛られている」から、イエスの言葉を「受け入れることができません」(8章37節)。しかし、「真理を知る」ことで人は「自由」になります。イエスとその語る言葉にとどまる者が「イエスのほんとうの弟子」であり、真理を知る者です。これに対して、「僕/奴隷」は、その主人がすることの真意(真理)を知ることができないのです。「友」と「奴隷」との違いは、相手の想いを己の心として、同じ想いになることができるかどうかにかかっているのです。
 8章の「奴隷」と「自由人」の論争が、アブラハムの問題へ発展するのは偶然でありません(8章52節以下)。なぜなら、主なる神は、アブラハムに「何一つ隠さなかった」(創世記18章17節)からです。だからアブラハムは神に「愛された者」(「神の友」〔新共同訳〕)と呼ばれるのです(イザヤ41章8節)。アブラハムだけでなく、モーセも、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」語ったと言われています(出エジプト33章11節)。ヨハネ福音書で、モーセとアブラハムがイエスと関連づけられるのはこのためです(5章45~47節/8章39節以下)。このように、「僕/奴隷」と「友」との違いは、その主人をほんとうに「知っている」かどうか、同じことですが、主人をほんとうに「愛している」かどうかにかかってくるのです。
【すべてを知らせた】「わたしの父から聞いたことをすべてをあなたがたに知らせた」とあるのは、ここで語るイエスも語られる弟子たちも、すでに救いの業が完了した段階で語りかつ聴いていることを意味します(「知らせた」はアオリスト形)。出来事がまだ進行中の間は、その出来事のほんとうの意義が顕れることはありません。それが終わって初めて、出来事の「真相」が顕れるからです。ドラマを見終わってから、そのドラマの意味することが、観た人に初めて、その全体像をはっきりと現わすのと同じです。ナザレのイエスの出来事に潜み、それを成り立たせている霊性は、イエスが父からの栄光(受難から復活まで)を受けた後で初めて、弟子たちに顕されたのです。マルコ福音書が描くとおり、その霊性の真相は、イエスの存命中は「メシアの秘密」として「隠されて」いました。
 15章1~17節は、ヨハネ福音書の神学全体の簡潔なまとめだとも言えます。ここでは、イエスの弟子たちと同じように、語るヨハネ共同体の作者も、すでにイエスの愛を知り、これにとどまり、真理を知り、知ることによって自由にされているのです。だから、ここでは、ヨハネ共同体の視点から、イエスの弟子たちへの語りかけを聴き、イエスの語りかけを自分たちへの語りかけとして聴いています。
[16]【あなたがたを選んだ】ヘレニズムの世界では、例えばプラトン学派やストア派では、知者、賢者、有徳の者は、「神の友」と呼ばれました。神は賢者や徳の高い者たちの友となる。こう考えられたからです。また古代オリエントの宮廷では、選ばれた官僚たちは、お互いを尊敬し合って「友」と呼び合いました。ヨハネ共同体でも、知恵の御霊に導かれた者たちが、互いを「友」と呼び合い、兄弟愛を実践するように告げられています。では、ヨハネ共同体は、このような霊的な意味でのエリート宗団を志しているのでしょうか? もしもそうでないのなら、ヘレニズムの知的エリート主義とここで語られる「選ばれた」人たちの兄弟愛とは、どこが違うのでしょうか?  ヘレニズムの人たちが「神の友」と言うのは、その人が、神と対等に「友達付き合い」ができる間柄にあることを意味します。ところが、この節では、「あなたがたがわたしを選んだのではない」のです。イエスのほうが「あなたがたを選んだ」のです。しかも、イエスが「あなたがた」を「友と呼ぶ/言う」ことによってです(15章15節)。イエスがそう呼ぶのは、それが父から出ているからです。イエスは「父から聞いたことをすべて」友である弟子たちに語るのです。父がイエスの口を通して「言う」時、その発せられた言(こと)は、事となって成就します。人はイエスの父から「友」と「呼ばれる」ことによって友とされ、友となるように働きかけられ、友と「なる」のです(14章23~24節参照)。だから、この関係は次のように語られます。
【わたしが任命した】「任命した」の原語は、「置く/立てる/与える」などの意味があります。おそらく、ここでは、この動詞はヘブライ語の用法で、役職や使命のためにある人を「任命する」こと、このために「手を置く(按手する)」ことを意味します(民数記27章18節で、モーセが「手を置く」とあるのが七十人訳ではここと同じギリシア語です)。
【わたしの名によって】15章7節がここでいっそう深められて繰り返されます。しかし、ここでは、「父が」弟子たち(とわたしたち)の願いを「与えて」くださるのです。実を結ぶことが父のみ心であり、このことを祈り求めることが、これもまた父のみ心ですから、その祈りは必ず聴かれ、働き、成就するのです。主イエスの御霊にある祈りは、父による創造の御業にほかならないからです。
[17]1~17節の締めくくりとして、兄弟を愛することが、もう一度、最も大事な使命として確認されます。実を結ぶこと、み名によって祈ること、兄弟愛を成就すること、この三つが、イエスに選ばれることによって与えられるわたしたちの使命です。
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