75章 イエスの葬り
19章38〜42節
■19章
38その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
39そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
40彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
41イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
42その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
【注釈】(1)
【注釈】(2)
【講話】■塗油と十字架降下
今回は、イエス様の埋葬の場面です。エルサレムにあるヴィア・ドロローサ(嘆きの道)は、聖墳墓教会の奥にあるイエス様の墓で終わるのですが、そこへ着く手前に、たぶん第13場(スタティオ)だと思いますが、イエス様の遺体が塗油されたとされる「塗油の石」が置かれています。ちょうど畳一畳くらいの大きさで、ひび割れした石の表面には、まだらに黄褐色の跡があり、全体がつややかに塗油されています。十字架から降ろされたイエス様の遺体は、ここで塗油されてから葬られたのでしょうか。
この石の背後に大きな絵が掲げられていて、白い亜麻布のシーツの上に寝かされたイエス様の遺体を6人の女性と3人の男性が、これを囲むようにして悼(いた)んでいます。イエス様の顔に口づけしているのは聖母マリアでしょう。イエス様の左手に口づけしているのは、イエス様の愛弟子でしょう。イエス様の足のほうには、白い髭のアリマタヤのヨセフが身をかがめていて、その側に、ニコデモらしい人が手をあごに当ててじっと立ちすくんでいます。
これはイエス様の遺体を見守る場面ですが、ヨーロッパの絵画では、この場面に劣らず多く描かれている場面にイエス様の十字架降下があります。ベルギーのアントワープの大聖堂にあるルーベンスの「キリストの十字架降下」(1611〜14年)が特に有名です。降架の絵は中世に入ってから多く描かれるようになり、イエス様の体から釘を抜くところまで、ていねいに描かれているそうです〔ルツ『マタイ福音書』(4)〕。
イエス様の遺体を十字架から取り降ろしたのは、いったいだれなのか? 共観福音書では、アリマタヤのヨセフたちですが、ヨハネ福音書では、ユダヤ人が、先にピラトの所へ行って、「イエスの死と遺体の取り降ろし」を願い出ています。実際に「取り降ろした」のは、ローマ兵たちでしょうか? それとも、アリマタヤのヨセフたちでしょうか? どちらにせよ、ヨセフは、ピラトの許しを得て、ローマ兵から遺体を引き取ったのでしょう。ルーベンスの「キリストの十字架降下」では、遺体を十字架からはずして降ろしているのは、ヨセフのほかに5人ほどいて、母マリアが、降ろされるイエス様の足下を支えるようにしています。
イエス様を十字架したのは、実は、わたしであり、あなたである、ということが、年月を経るうちにだんだん分かってきたのです。こういう自責の念にかられて、イエス様の遺体を十字架からはずして、これを取り降ろす、ということがせめてもの償いだと考えるようになったようです。イエス様の体に「釘を打つ」人たちと、その体から「釘を抜く」人たち、ヨハネ福音書では、このふた種類の人たちがはっきり対照して描かれています。わたしたちは、いったい、そのどちら側にいるのでしょう? イエス様の十字架降下の記事は、こうわたしたちに問いかけています。
■アリマタヤのヨセフ
イエス様の遺体の葬りの場面では、その主役は、なんと言ってもアリマタヤのヨセフです。ヨハネ福音書では、これにニコデモが加わります。アリマタヤのヨセフは、この場面で突然姿を現わして、きわめて重要な役目を担います。それまで人目につかず、大事な時に突然現われる。神様はこういう不思議な人物を用意されるのです。ヨセフもニコデモも、ユダヤ人の指導層の人ですから、イエス様を信奉していることを公に告白することをはばかっていたのでしょう。この二人が、十二弟子が逃げ去った最終の時に、突然姿を見せるのです。
おそらく彼らも、後の中世の人たちのように、イエス様を十字架へ追いやったのは自分たちなのだと自責の念を抱いたのかもしれません。だからこそ、危険をも省みず、思い切った行動に出ることができたのでしょう。神様は不思議な方法で人を起こします。マルコ福音書だけから判断すれば、ヨセフは、この時点ではまだ、はっきりと<イエス様の弟子>とまでは言えないのかもしれませんが、マタイ福音書やヨハネ福音書の言う通り、すでにその心は、「イエス様の弟子」だったのです。ユダヤ人の指導者たちの間にも、「密かなイエス様信奉者」が彼らのほかにもいたことをこの二人の登場が示唆しています。現在の日本にも、こういう「隠れキリシタン」が大勢います。ヨセフは後に、立派なキリスト教徒になって、教会堂を建てたという言い伝えがあります。だとすれば、この十字架の降下がきっかけになって信仰を公(おおやけ)にしたことになります。
大事な時に離れ去る人がいるかと思えば、大事な時に思いがけなく来る人がいます。神様のなさることは不思議です。だからと言って、去った弟子たちが救いから離れたわけではありません。イエス様は、祈りによって、そういう弟子たちもちゃんと支えてくださる。しかし、たとえ普段は目立たなくても、大事な時に姿を見せて、「イエス様の遺体の釘を抜く」人もいるのです。事を起こされるのは神御自身です。人が己の裁量で話し合ったり、行なったりしてできることではありません。
■ニコデモ
ニコデモは、ヨハネ福音書だけにでてくる独特の人物です。この人も最高法院のメンバーという高位の人です。彼は、人目をはばかりながらも、夜密かにイエス様のもとを訪ねて、イエス様から直(じか)に教えを聴いています。初めは、イエス様の言われる御言葉の霊的な意味がよく分からなかった。だから、最初の出会いでは(3章)、話がすれ違って、イエス様のお言葉の意味が分からなかった。御霊の世界のことを目に見える自然の出来事と混同したからです。「プニューマ(風/霊)」(3章8節)の風は、自然の風なのか、霊の働きなのか? この辺が彼にはどうしても分からなかったのです。
彼は、身分もあり知識もあったから、4章のサマリアの女のように、単純率直にイエス様をメシアだと信じることができませんでした。サマリアの女は、ユダヤ人とサマリア人との風習や宗教の違いを体験で知っていましたが、神様のことはあまり知らなかった。ところが、ニコデモは、彼なりに「聖書の知識」を持っていたのです。だからこそ、自分の知っている「律法」(トーラー)に照らして、イエス様がほんとうに神からのメシアなのかどうか? この判断がつかなかった。
こういう彼の聖書知識や律法観を揺さぶったのは、癒しや悪霊追放など、イエス様が行なわれていた霊能のみ業だったようです。ニコデモは、それが、イエス様に与えられた「天からのしるし」(3章2節)だと信じたのです。けれどニコデモは、サマリアの女のように、イエス様の霊能に接しただけでは、すぐにイエス様を信じなかった。イエス様は、サマリアの女には、直接彼女の身の上について霊能的な預言をお告げになった。しかし、ニコデモに対してイエス様は、霊能の「しるし」について、霊的な説明は与えたけれども、直接しるしを体験させることはなさいませんでした。<しるし>は、「信じる」人に与えられるもので、信じない人、疑う人には無意味だからです。
ニコデモの偉いところは、自分の律法の知識を誇り、これによって自らにおもねることをしないで、律法に照らして、どこまでも事の真偽を見極めようとする誠実さにあります。こういう人は、霊的な真偽に目覚めるまでに時間がかかり、なかなか信仰に入ろうとしません。しかし、イエス様を通して彼に示される神様からの語りかけにどこまでも忠実に従い、律法の光に照らして事の真偽を見極めることを「止めなかった」のです。「探す者」「尋ね求める者」には、必ず門が開かれます。
イエス様が、秋の仮庵祭でエルサレムに登られて、神殿で人々に公然とお語りになったときに、指導者たちは、このイエス様を逮捕しようと役人たちを遣わします。その時、ニコデモ一人が、「予断を持って人を裁いてはいけない。先ずその人に直接会って、事の真偽を確かめなければならない」と、指導層のイエス様への思いこみと偏見を正そうとします(7章50〜51節)。ニコデモ自身、イエス様がメシアだとどこまで信じていたのかは分かりませんが、彼が、自分に与えられた天からの示しに、どこまでも忠実に従い、イエス様を通じて顕れる御霊のお働きから目を離さなかったことが、これで分かります。彼は、イエス様の<霊能>から、イエス様の<霊性>そのものへと目を移したのです。
最後にニコデモが登場するのが、葬りの場です。彼は、なんと27キロもの没薬と沈香(じんこう)を携えてきたとあります。これは、単なる「せめてもの」葬りではありません。こんなに大量の貴重な香料を葬りに献げるのは、「王の死」に対する時のみです。ここでニコデモがしたことは、驚くべきことです。なぜなら、人々がイエス様の十字架に躓いているその時に、イエス様に最高の栄誉を現わす「しるし」の行為を示したからです。ここには、イエス様の十字架の死それ自体が、神の御栄光の顕れであるというヨハネ福音書の神学がはっきりと表示されています。共観福音書にでてこないこのニコデモ像は、実在の人物をモデルにしたのだと思います。おそらく彼は、ヨハネ共同体が知っていた人物で、共同体は、この人物像を通じて、当時まだユダヤ教の会堂内に留まっていた「隠れたイエス様信奉者」たちに呼びかけているのです。
■ロゴスの葬り
実は、今回のイエス様の葬りの場面で、もう一つとても大事なことがあります。共観福音書、中でもマタイ福音書では、埋葬の記事に、すでに復活を予想させるところがあります(注釈参照)。これに対してヨハネ福音書では、アリマタヤのヨセフやニコデモたちによって、イエス様を葬る完全な手続きがとられます。ニコデモが、ちょうど亡くなった王を弔うように、27キロもの没薬と沈香を携えてきたのはこのためです。だから、そこには、イエス様の復活を予想させるものは何もありません。「すべてが終わった」のです。この点は、ヨハネ福音書の注解者たちからも案外見落とされがちなところです。いったいヨハネ福音書は、このような埋葬の描き方によって、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょう?
ここでわたしたちは、ヨハネ福音書の初めに戻らなければなりません。この福音書は、神から遣わされた「ロゴスの受肉」(1章14節)で始まります。神と共にあるロゴスが、わたしたち人間と全く同じ姿になられた。こうヨハネ福音書は証しするのです。イエス様が、わたしたちと「同じ人間」だということは、わたしたちと同じに「死ぬ」ことを指しています。だからこそ、イエス様は、ここで完全に「葬られた」のです。今回のイエス様の葬りは、「ロゴスが受肉した人間」イエス様につながります。神から遣わされたロゴスが、人の手によって殺され、葬られたのです。
これがどういうことを意味するのか? 皆さんはすでにご存知のとおり、イエス様は、死の中から復活された。それだけでなく、昇天されると、父は、御子の名によって聖霊をお遣わしになって、わたしたちを贖い、闇の力から救い出すよう働きかけてくださいます。父が御子をこのために「この世」へお遣わしになったからです(3章16節)。ヨハネ福音書によれば、イエス様は「神のロゴス」です。だから、神からのロゴスは、この地上で一度葬られてしまった。しかも、その中から復活されたのです。イエス・キリストは、言い換えると「ロゴス・キリスト」です。神のロゴスが葬られ、復活されて、わたしたちを救う「ロゴス・キリスト」になられたのです。
ロゴスが「肉/肉体」となられたとは、人間になられたことですが、わたしが、ここで皆さんに注目してほしいのは、「ロゴス」とは、ギリシア語でほんらい「ことば」を意味するからです。「ことば」とは何か? これは難しい。でも、言葉が、わたしたちの知能の働きと密接に関係していることは、誰でも分かります。ロゴスは、人格的な人間としての全存在を体現していますが、そこには、「ことば」、すなわち人の知能の働きが大きな部分を占めています。わたしが、皆さんに注目してほしいのは、このことです。
イエス様はわたしたちの罪を贖ってくださった。このために、受難において、一度死者として葬られなければなりませんでした。それは、パウロが言うように、わたしたちもまた、「イエス様と共に十字架され、イエス様と共に葬られ、イエス様と共に復活して、新しい命に活かされる」(ガラテヤ2章19〜20節/ローマ6章3〜4節)ためです。このことは、わたしたちの「ことば」もまた、ロゴス・キリストと共に葬られて、ロゴス・キリストと共に復活することで、新しい知能として活かされることを意味します。
人間の知能はすばらしい。科学技術を編み出し、宇宙ロケットを開発し、医学的には人工の生物まで造ることができるようになった。まだまだこれから、どんなことが可能になるか分かりません。しかし、ヨハネ福音書は、わたしたちにそのようには語らないのです。わたしたちの知能は、罪によって汚染されていて、とても恐ろしい危険な性質を持っている。だから、このまま人類の知能を無制限に拡大していくなら、人類は、自分の知能が生みだした仕組みによって死滅する恐れがある。このように告げるのです。だから、人類が、この地上で生存を続けるためには、自分たちの知能を、ロゴス・キリストと共に一度葬って、そこから復活して、「新たにされた知能」として活かされなければならない。このようにヨハネ福音書は告げるのです。
日本は、世界で初めて原爆を体験し、2011年の現在、再び原発による放射能汚染に曝されています。戦争に使うためでなく、平和利用のために原子力を使うのなら安全だ。このように考え、このように信じて、科学技術を信頼して原発を開発してきました。けれども、どうやら、危険は核エネルギーの問題だけではなさそうです。経済面では、水資源や食糧の危機が予測されます。思想・教育面では、人種差別や民族問題がこれから激しくなると予想されています。軍事面では、ますます恐ろしい核兵器が開発されつつあります。人間の知能は、このままでは、人間だけでなく地上の生物をも滅ぼすのではないか?こういう危惧を抱く人たちがいます。
今回の葬りの記事は、人間の理性・知性が、このままでは「平和の王」(イザヤ9章5節)であるイエス様を殺す性質を具えているのではないか、ということを示しています。イエス様が「死んで葬られた」(使徒信条)のは、わたしたちの理性・知性が、たとえ不完全でも、その恐ろしい性質から贖われ、神の赦しに支えられる新たな理性・知性とされるためです。
? 3世紀初頭の教父テルトゥリアヌスはこう言いました。「神の子が死んだ。ばかげたことであるが<ゆえに>信ずるべきである。そして、葬られ。復活した。不可能であるが<ゆえに>確かなことである」〔小高毅訳〕。彼は己の知恵をあえて神のみ手に委ねることで、神からの知恵に与ったのです。どうか思い切って、あなたの「ことば」を、そのロゴス(理性・知性)を、イエス様の御霊に委ねてくださいませんか? そして、自分の知能をもイエス様の御霊の働きによって葬ってしまうくらいの覚悟を決めてくださいませんか? そうすれば、イエス様は、皆さん一人一人に、イエス様の御霊にある、新たな理性、新たな知性をお授けになってくださいます。日本のリバイバルはそこから始まります。
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