【注釈】(2)
■19章
[38]【アリマタヤのヨセフ】アリマタヤは地名で、七十人訳サムエル記上1章1節に「エフライムの山地アリマタイム・シファに一人の男がいた」とあります(ヘブライ語では「ラマタイム・ツォフィーム」)。ここは、現在のエルサレムとテルアヴィヴ・ヤッフォとを結ぶ線のちょうど真ん中にあるモディインにあたります。「モディイン」は現在の地名で、この地は「シェフェラ」"Shephelah" と呼ばれていました〔Collins,
Mark.777.〕。ルカ福音書では「ユダヤ人の町」(23章50節)とありますが、ここはサムエルの出身地で旧エフライム族の地域ですから(サムエル記上1章1節/同19節)、イエスの頃にはサマリア領でした。
マルコ15章43節では、「アリマタヤ<からの>ヨセフ」とあるので、マタイ福音書は、このマルコ福音書の記事を「アリマタヤから(出身)の裕福な人」(マタイ27章57節)の意味に解し、ルカ福音書は、「アリマタヤ<から来た>ヨセフ」(ルカ23章51節)と理解しています("He came from the Jewish town of Arimathea"〔NRSV〕〔REB〕)。また、マルコ福音書では「<立派な>議員」とあり、マタイ福音書では「<裕福な>人」とあり、ルカ福音書では「<高位の>議員」で「善良で正しい人」とあります。マタイ福音書とルカ福音書は、マルコの「立派な」をそれぞれに解釈しているのです。「議員」は地方にもいますから、必ずしもエルサレムの最高法院(サンヒドリン)のメンバーとは限りませんが、マルコ福音書の言う「議員」は、最高法院のメンバーを指すと思われます。ヨハネ福音書も最高法院のニコデモとヨセフを同列に置いています。岩をくりぬいた大きな墓を持つほどなら、彼は「裕福/金持ち」であって、おそらく家族と共に出身地からでてきてエルサレムに住んでいたのでしょう。
十字架刑は、死体が朽ちるまで放置するのが慣わしでしたから、死後直ちに遺体の引き取りをピラトに願い出るのは異例なことで、それだけ「勇気の要る」行為だと考えられます。ヨハネ福音書によれば、先ずユダヤ人が、ピラトに、イエスたちの死期を早めて遺体を取り降ろす許可を求め、「その後で」アリマタヤのヨセフが登場します。「ユダヤ人」と彼との関連は明らかでありません(ここではユダヤ人とヨセフとのふたつの異なる伝承の結びつきが行なわれた形跡があります)。おそらく最高法院のメンバーという身分が、このような申し出を可能にしたのでしょう。
イエスの十二弟子たちができなかったことを彼が願い出たのは、一つには申命記の規定があったからです。したがって、最高法院の意向もこの点では彼と一致していたのでしょう。マルコ福音書では、彼は「神の国を待ち望んでいた」とありますが、当時の敬虔なユダヤ教徒なら「神の国の到来を待ち望む」のは自然なことですから、このこと自体が、イエスの支持者であったことの証拠にはなりません。マタイ福音書には、彼は「イエスの弟子とされていた」とあり、ヨハネ福音書ではさらに、彼は「イエスの弟子でありながら<ユダヤ人たちを恐れて>そのことを隠していた」とあります。ヨハネ福音書の「ユダヤ人を恐れて」は、いわゆる「隠れた信奉者」への批判を含みます(7章13節/20章19節)。ヨセフは、イエスの弟子として公然とイエスと行動を共にすることはしなかったが、言わばイエスの親派だったのです。このような人物が、イエスの埋葬に際して突如姿を表わしたのは、不思議な導きです。ヨセフと言いニコデモと言い、ユダヤの指導者たちの間にも、最高法院のイエス処刑の決定に同意しなかった人たちがいたことをうかがわせます。なお、イエスの遺体を「持ち上げて取りはずす」は三人称単数の動詞ですが(これを複数に読む異読があります)、これは一人では無理で、その上、死体に触れることは汚れを意味します。したがって、実際の降下の仕事はヨセフの僕たちの手で行なわれたと思われます。
[39]【ニコデモ】ニコデモは、ヨハネ福音書だけに3度登場する人物です(3章1節以下/7章50節以下/19章39節)。「ニコデーモス」というギリシア読みの名前は、イエスの頃のユダヤのエリート層では珍しくありません。エルサレムの貴族階級の間では、ギリシア語は日常使われる言語だったからです。後にユダヤの急進分子がローマの一部隊を追い詰めて降伏させた後に、降伏の約束に反してローマ兵を殺戮する事件が起こり、これがユダヤ戦争の直接のきっかけになりました。その交渉に当たった一人に「ニコメデスの子ゴリオン」がいます〔ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻17章9節451〕。彼は富裕層の指導者だと思われます。この「ニコメデス」なる人物がイエスを密かに訪れたニコデモではないかという説もありますが、おそらく別人でしょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
ニコデモは、ファリサイ派の一人で「ユダヤ人の指導者/議員」(3章1節)だとありますから、イエスに敵対する勢力に属しています。しかし彼は、イエスを「ラビ」(師/先生)と呼んで敬っています。続くイエスとの対話から見て、彼は当時のファリサイ派の傾向に反して、イエスの行なう「しるし」に惹かれて、イエスの説く神の国に関心を抱いています。イエスは彼に「霊によって新たに生まれる」ことを説いていますが、これは実際のイエスの教えに即していると言えましょう。ヨハネ福音書は、イエスを信じるユダヤ指導者のモデルとしての「ニコデモ」像を描いているのです。
イエスとの最初の出会いでは、彼はまだイエスを「信じる」までにいたりませんが、次に登場する時には(7章50節)、イエスに対して不信を深めるユダヤの指導者たちの間にあって、ニコデモ一人が、イエスの立場を弁護しています。彼はイエスが、聖書に預言されているメシアであると確信を抱いたのかもしれません。ニコデモは、誤った判断を下す多数派に対抗して、一人真実を語る信仰者のモデルです。ヨハネ福音書は、イエスに対する判断において、ユダヤの指導層が必ずしも一枚岩ではなく、中にはイエスを密かに信じる者たちもいたことを示そうとしているのです。
イエスの埋葬に際して、ニコデモは没薬と沈香の混ぜものを大量に持参してきます。彼は、アリマタヤのヨセフと並んで、それまで隠れていたイエスの信奉者が、突如姿を現わすことで、神からの不思議なはからいで立てられたイエスの証人です。しかもそれは、最後の晩餐の弟子たちが誰一人いない状態の中での出来事です。少なく見積もっても27キロもの大量の貴重な香料は、通常のユダヤの埋葬では考えられないことです。王の埋葬にもふさわしい大量の香料には(歴代誌下16章13~14節参照)、十字架の死を遂げたイエスに授けられる神の栄光を象徴する意図がこめられているのでしょう。ニコデモは、密かにイエスを訪れて、イエスを信じるようになり、最後に、姿を現わして、十字架の栄光を授かったイエスを弔うのです。このニコデモ像は、ヨハネ共同体と対立関係にあったファリサイ派にも呼びかける意図もあったのでしょう。
【没薬と沈香を混ぜた物】原語は「スミュルナ」と「アロエー」の混合物です。「混ぜた物」(原語「ミグマ」)を「包み」(原語「ヘリグマ」)と読む異読もあります。「スミュルナ」は、「ミルラ」とも呼ばれますから、ルカ23章56節にでてくる「香油」(原語「ミュロン」の複数)に近いでしょう。「ミュロン」は「ミルラ」「没薬」などと訳されます。アフリカと南アラビアが原産で、古代エジプトではこれを死者の体に塗っていました。
「没薬/ミルラ」は、イエスの誕生(マタイ2章11節)と埋葬(ルカ23章56節)の両方の場にでて来ます。これはアラビアモツヤクなどモツヤクジュ属の樹脂で、乳香と異なり、香りを出すために燃やすことはしません。そのまま、香料や化粧あるいは医薬に用います。苦みと香りのために鎮痛剤や防腐剤としても用いられました〔廣部『新聖書植物図鑑』〕。ただし、ユダヤの埋葬では、これらは、遺体を保存するためと言うよりは死臭を消すためのものです。遺体は1年ほどそのままにして、それから骨だけを遺骨櫃に納めるのが慣わしでした。なお、マルコ福音書では、安息日が終わるとすぐにこれらを買ったとありますが、ルカ福音書では、葬りの当日(安息日が始まる前に?)買ったことになります(ミシュナーの規定については先に述べました)。
「沈香」(じんこう)は、ほんらいインド東部から東南アジアに成長する大木ジンコウのことです。木材が地中に埋まって長い年月を経ると、樹脂が浸出して良質の香木になります。時には、ジンコウに傷をつけてそこに土を埋め込んで、人工で作ることもあるそうです。沈香は、焚くと香りを出しますが、蒸留して精油にすると高級な香油にもなります。ただし、19章39~40節の「沈香」とは、ほんらいのジンコウのことではなく、これとは異なる「アロエー」のことではないかと言われています。「アロエー」は、古代エジプトから薬用や死体処理に用いられました。南西アラビア産で、60~100センチほどの「アロエ・ウェラ」のことです。黄色から橙色の長細い穂の姿で群生する花を咲かせます。アロエーの肉質の葉を切り取って、そこから採取する液体を蒸留してから固めて、薬用や防腐処理剤に用います。なお「ミルラ」と「アロエー」の組み合わせは、詩編45篇9節/雅歌4章14節にでています〔廣部前掲書〕。
【百リトラ】「リトラ」は<重さ>を表わす単位で、新約聖書では12章3節「ナルドの香油1リトラ」とここだけです。ローマ帝国の時代には、1リトラ=327.5グラム〔新共同訳〕とされていましたが、ユダヤでは、1リトラ=273グラムと算定されていたようです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』14巻7章1節106参照〕。したがって、100リトラは27キロ以上になります。
[40]【ユダヤ人の埋葬の習慣】原文は「ユダヤ人が埋葬の準備をする時の慣習の通りに」です。これはヨハネ福音書だけの句ですが、「埋葬の準備」とあるのは、共観福音書にあるように、とりあえず仮の埋葬で済ませて「安息日の後で本格的な埋葬を行なうための準備」という意味ではないと考えられます。内容から見て、ここでは、 しきたり通りの埋葬が行なわれているからです。
【香料】原語は「アローマ」の複数形「アローマタ」で、これはマルコ16章1節/ルカ23章56節の「香料」と同じ言葉です。その前の「没薬と沈香を混ぜた物」とは別物を指すという説もあります。そうだとすれば、遺体に塗油するのがユダヤの慣習ですから、液体の香料を遺体に塗り、遺体をくるむ亜麻布のひだの間に粉末状の没薬と沈香の混ぜ物を振りかけたことになります。しかし、ここは、同一のものを言い換えたと見ることもできますから、その場合は、没薬と沈香とを混ぜて液状にしたものを、亜麻布に振りかけ、遺体にも塗ったことになります。おそらく後のほうでしょう。
【亜麻布】原語は「オソニオン」の複数で、共観福音書で用いられている「シドン」とは異なる言葉です。マルコ福音書に「シドン」(亜麻布)で遺体を「包む/くるむ」とありますから、比較的大きな布で遺体を包んだことになります。しかし、ヨハネ福音書では幾つもの「オソニオイ」(複数)で「縛った」とありますから、言わば包帯状に亜麻布を遺体に巻き付けたことになります(11章44節参照)。「香料と一緒に亜麻の布切れでそれ(遺体)を縛った」〔岩波訳〕。ただし、「シドン」も「オソニオン」も同じ亜麻布ですから、両者の違いはその形状にあると考えられます。カトリック教会の伝承では、イタリアのトリノに、十字架のイエスを包んだと伝えられる聖骸布が今にいたるまで保存されています。大きな長い長方形の布で、十字架された人の跡が残っているので有名ですが、これは1573年頃のもの?なので、真正ではありません。
[41]【新しい墓】「岩を掘った墓」とあるのはマルコ福音書で、「ヨセフが所有する」とあるのはマタイ福音書で、「誰も葬ったことがない」とあるのはルカ福音書とヨハネ福音書で、「園」とあるのはヨハネ福音書だけです。イエスが処刑された場所とヨセフの墓は近く、どちらも現在の聖墳墓教会の内部になります。現在のエルサレムの郊外には、古くからさまざまな形の墓が残っています。多くは、狭い横穴の個人用のものですが、岩を掘り抜いて作られた大きな墓は、家族用のもので、中は広く、さらにその下にも、埋葬用の部屋があるものがあります。ヨセフの墓も、これに類する大きく立派な「墓室」だったのでしょう。彼は、亜麻布を買い、使用人に命じてイエスの遺体を十字架から降ろし、水洗いをして、亜麻布でくるんでから、遺体を自分の家族用の墓室に安置したのです。
ユダヤの墓には「コヒム型」と呼ばれて、墓の室内の壁に1メートル四方ほどの横穴を奥へ2メートルほど掘って遺体を安置する様式と、「アルコソリゥム型」と言われる様式とがありました。こちらは、墓室の壁にアーチの天蓋をもつ寝台(棚)を掘って遺体を安置する様式です。イエスの時代には、「コヒム型」と「アルコソリウム型」とが混在していました。どちらも古くから行なわれていた様式らしいのですが、イエスの時代には(1世紀初頭から2世紀初頭まで)、遺体を1年ほど放置しておいて、それから遺骨だけを蔵骨櫃に収めるという二段階の埋葬方式があり、これがエルサレムを中心に拡がり始めていたから、ややこしいです。
アリマタヤのヨセフの墓がどちらの様式だったかは確定できませんが、イエスの墓があったとされるところに建つ現在の聖墳墓教会の場合は寝台型です。手元にある図入りの本では、2冊ともイエスの遺体安置の場が寝台型になっていますから、やはり聖墳墓教会の伝承通りでしょう。
イエスの墓の位置は、イエスの弟ヤコブが指導するエルサレム教会によって確認され正確に伝えられたと考えられます。ユダヤでは、墓は必ず城壁の<外に>ありました。ゴルゴタはイエスの頃の第二城壁に近く、そこには「園の門」があったと言われていますから、富裕層の墓地があったのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。現在の聖墳墓教会は、エルサレム城壁の<内部に>なります。これは、41~44年に、アグリッパ1世によって城壁が拡張されたためです〔キーナー『福音書の史的イエス』〕。
[42]【準備の日】これについては19章31節の注釈を参照してください。共観福音書と異なり、ヨハネ福音書の埋葬の場には女性が登場しません。また、墓の入り口を塞ぐ石について何も触れていないのもヨハネ福音書だけです(ただし20章2節)。入り口の石は、復活の奇跡を強調する意味もありますから、ヨハネ福音書の埋葬には、復活を予想させるところがどこにも見られません。
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