【注釈】(1)
■共観福音書のイエスの葬り
〔マルコ福音書〕
 マルコ福音書の埋葬の記事(マルコ15章42~47節)は、「準備の日」で始まります。「安息日の前日」とあって、その日が金曜日であることが、マルコ福音書では、ここで初めて明かされます。申命記21章23節の規定によって、埋葬は、安息日が始まる金曜の午後6時までに終えなければなりません(ただしこの点については後の注釈を参照)。
 ここで、アリマタヤのヨセフが登場します。彼は「立派な議員」だとありますが、「議員」とは、おそらくエルサレムの最高法院のメンバーのことでしょう。「立派な」とあるのは、「高位の」という意味でしょうが、同時に社会的に「富裕な」(マタイ福音書)という意味にも、「正しく善良な」(ルカ福音書)の意味にもなりましょう。彼は「神の国を待ち望んでいた」とありますが、当時の敬虔なユダヤ教徒なら、祈りのうちに「神の国の到来を待ち望む」のが通例ですから、このこと自体、直ちにイエスの支持者であったことの証拠にはなりません(この点でマタイ福音書/ヨハネ福音書と比較)。
 ピラトが番兵を呼んで確かめたことは(マルコ15章44~45節)、他の福音書にはありません。ピラトがヨセフに遺体を「下げ渡した」とあるのは、彼の好意を示すものですが、この行為は、ピラトが内心で、イエスがローマ帝国に反逆する意図を抱いていたと思っていなかったことを示唆しているとも受け取れます。なお、マルコ福音書だけが「遺骸」(プトーマ)とあって、他の福音書の「遺体」(ソーマ)とは用語が違っています。「遺骸」は、あまり使われない用語で、イエスの死が確実であることを表わそうとしているのでしょう。
 埋葬は、通常遺体の洗いで始まり、香油/香料を添えたり、遺体に塗ったりすることがこれに続きます。しかし、マルコ福音書の記事では、事が急を要するために、遺体を水で洗ったのは確かですが、香料は施されず、安息日が終わったその後に、女性たちがこれを買い求めて墓へ向かったことになっています。そこには、ほかにも数々の墓が掘られていたのでしょう。大きな家族用の墓だと、中に幾つもの個人用の横穴あるいは棚がありますから、女性たちは、イエスの遺体が置かれた場所を確認する必要があったのです。
〔マタイ福音書〕
 イエスの葬りについては、マルコ15章42~47節の記事が、マタイ27章57~66節とルカ23章50~56節の基になっています。ただし、マルコ福音書には、イエスの死があまりに早いので、ピラトが不思議に思い、百卒長を呼んで確かめたとありますが(15章44~45節)、これは他の福音書に欠けています。マタイとルカが参照した「原」マルコ福音書には、この部分がなかったのでしょうか〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(2)〕。それとも、ほんらい伝承に含まれていたのに、マタイもルカも、内容的に重要でないと見て、この部分を省いたのでしょうか。あるいは、後からの編集によってマルコ福音書に書き加えられたのでしょうか〔Collins,?Mark. 778.〕。
 マタイ福音書は、マルコ福音書の記事全体を大きく縮めています。マタイ福音書の埋葬の記事は、27章57~66節までですが、全体が、同57~61節と同62~66節のふたつに分かれていて、前半と後半とがそれぞれ次のように、交差的に構成されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)〕。
(1)人物の登場。
(2)ピラトへ許可を求める。
(3)ピラトが許可を与える。
(4)実行される。
 前半はイエスの知人/友人たちによるもので、後半はイエスの敵対者たちによるものです。後半の番兵の部分(62~66節)はマタイ福音書だけの記事です。この後半部分は、前半の埋葬の記事を受けて、これを28章1~7節の復活の記事へつなぐ役目をしています。27章62~66節と28章1~7節とは、イエスの遺体が置かれた墓から空(から)の墓へ、入り口を塞ぐ石から転がされた石へ、見張りの番兵から震え上がる番兵へのように、埋葬と復活の記事とが対応しています。
 マタイ福音書の埋葬から復活の部分には、番兵が3度も登場し(同27章65節/28章4節/同11~15節)、「見張る」「番兵/警護」「封印する」などの言葉がでてきます(「見張る/警護する」はマルコ14章44節にも)。だから27章62~66節の後半部は、マタイ福音書だけの伝承によるのでしょう。
 ただし、『ペトロ福音書』は、イエスの受難と復活を伝えていて、これの8~11章は、マタイ福音書の埋葬と復活の記述と重なります。『ペトロ福音書』は、マタイ福音書よりも早く、40年代に成立したという説と〔Crossan.?Who Killed Jesus??95.〕、2世紀半ば〔『聖書外典偽典』(6)新約外典(1)〕という説があります。もしもマタイ福音書より早ければ、マタイ福音書のこの箇所は、『ペトロ福音書』と伝承を共有することになりましょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)〕。遅ければ、『ペトロ福音書』のほうがマタイ福音書を受け継いでいることになります。
 マタイ27章62~66節には、マタイの教会と、同時代(80年代?)のファリサイ派ユダヤ教の指導者たちとの間で行なわれた「イエス復活」の論争が反映していると思われます。このためでしょうか、墓を警護する番兵がでてくるのは、マタイ福音書だけです。また、マタイ福音書では、「祭司長たちとファリサイ派」という組み合わせは、ここと21章45節だけです(「ファリサイ派」は、マタイによる付加かもしれません)。63節にあるように、イエスの復活を前もって予測しているかのようなユダヤ教の指導者たちの発言も不自然です。
〔ルカ福音書〕
 ルカ福音書の記事もマルコ福音書を大きく縮めていて、しかも、マルコ=マタイ福音書と異なっています。アリマタヤのヨセフが「善良で正しい人」だとあり、「まだ誰も葬られたことのない墓」とあり、特に、女性たちが、<その日のうちに>香料と香油を準備したことはマルコ16章1節と異なります。
 マルコ福音書では、女性たちは、安息日が終わると(土曜の午後6時)すぐに香料を買って、夜が明けてから墓を訪れたとあります。ところが、ルカ福音書では、葬りの当日(金曜日)に、安息日が始まる金曜の午後6時前に香料を買ったのか、それとも安息日に入ってから(午後6時以降)買ったのかがはっきりしません。葬りを済ませてからであれば、おそらく、安息日に入ってから、香料と香油を求めたことになりましょう。一般にマルコ福音書の記事のほうが合理的で、安息日の規定にも則していると考えられます。
 しかし、ミシュナーの「モエード」の巻「シャバット」の項目23章5節に「死者の必要事はすべて(安息日でも)行なってもよい」〔『ミシュナー』Ⅱ「モエード」〕とありますから、イエスの葬りの場合も、安息日でも香料などを買うことが許されていた可能性があります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)〕。だとすれば、ルカ福音書の伝承のほうが、逆に信憑性がでてきます。ただし、ミシュナーの規定が、イエスの時代の安息日規定に適用できるかどうかがはっきりしません。ルカ福音書やヨハネ福音書のほうが、マルコ=マタイ福音書よりも元の伝承に近い場合がありますから、ここでも、ルカ福音書の伝承のほうが事実に近いかもしれません。
 興味深いのは、ルカ福音書の「遺体」(ギリシア語「ソーマ」)が、マルコ福音書の「遺骸」(プトーマ)と異なっていて、しかもマタイ福音書のそれ(ソーマ)と共通することです。また「誰も葬られたことがない墓」はヨハネ19章41節と共通します。受難物語には、その成立の当初から、すでに埋葬の出来事も含まれていたと思われますから、ルカ福音書の受難伝承は、マルコ=マタイ福音書ともヨハネ福音書とも共通する要素を併せ持つと考えられます。
■ヨハネ福音書のイエスの葬り
 ヨハネ福音書では、イエスを十字架する際に、ユダヤ人の指導者たちが罪状書の変更をピラトに要求しますが、ピラトはこれを拒否します(19章21~22節)。安息日が近づくと、ユダヤ人は再度ピラトに、イエスの足を折って遺体を降ろしてほしいと申し入れます。今度は、ピラトは彼らの願いを受け容れます(同31節)。次にアリマタヤのヨセフがピラトの所へ行き、「遺体を取り降ろしたい」(同38節)と願い出て、ピラトはこれを認めます。ここにはピラトが3度でてきて、少しずつ態度が軟化して、最後のヨセフには、やや好意的に遺体を「授け」ています。
 イエスの十字架から埋葬にいたるこの過程で、ヨハネ福音書と共観福音書に共通するのは、最後のアリマタヤのヨセフだけです。共観福音書では、ローマ兵の監視の下でイエスが死ぬことと、その遺体をヨセフが取り降ろすこととの間に、それほど矛盾が感じられません。ところがヨハネ福音書では、ユダヤ人の願いと、ヨセフの願いと、ふたつの願いが重なってイエスの遺体が取り降ろされますから、いったいイエスの遺体は、ローマ兵が取り降ろしたのか〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、安息日を汚すことを恐れたユダヤ人たちが降ろしたのか、ヨセフたちが降ろしたのか、これらが重なるのです。
 誰が遺体を降ろしたにせよ、ヨセフがピラトの認可を得て、その遺体を引き取ったと考えれば、それなりに説明はつきますが、ヨハネ福音書では、十字架からの遺体の降下について、ふたつの異なる資料が結びついていると見ることができます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。二つの伝承とは、共観福音書と共通する伝承(19章31節前半/同38節/同41~42節)と、ヨハネ福音書だけのもの(19章31節後半~37節/同39~40節)です。ただし、時期的には、どちらの伝承もヨハネ福音書以前からの伝承でしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 ヨハネ福音書のもう一つの特徴は、ニコデモの登場です。これは資料ではなく、作者による付加部分だと考えられます。ヨハネ福音書の意図は、彼の登場を通して、イエスの葬りの意義を読者に解釈することであり、同時に、ヨハネ共同体と競合/対立関係にあったユダヤ教の人たち、特にその頃まだユダヤ教の内部にいたであろう「隠れたイエスの信奉者」たちに語りかけるためです。アリマタヤのヨセフが、イエスの弟子であることを「隠していた」とあるのもこのような背景から理解できます。ニコデモは、ユダヤ人の会堂内にいながら、イエスと知り合い、ついにイエスの弟子となるユダヤ人エリートのタイプ(典型)なのです。
■イエスの葬りの出来事
〔遺体の引き取り〕
 ローマ帝国においては、帝国への反逆罪として十字架刑に処せられた者は、通常遺体はそのまま放置されるか、清掃人に処理されるか、犯罪者の共同墓地に投げ込まれるのが常でした。しかし、パレスチナ、特にユダヤでは事情が異なっていました。ユダヤ人は、遺体の埋葬に関する聖書の規定を守っていたからです。ヨセフスは、「ユダヤ人は、ほんらい埋葬には常に特別の配慮を行ない、十字架刑に処せられた悪人でも、その死体は日没前に十字架から降ろして埋葬するのが慣わしだった」〔ヨセフス『ユダヤ戦記』4巻5章2節317〕と証言しています。だから、19章31節が証言する通り、安息日に死体を遺棄したままで汚れが生じるのを恐れたユダヤ人側が、処刑されたイエスたちの死期を早めて、遺体を取り降ろしたいとピラトに願い出たのは確かでしょう。
 ではいったい、だれがイエスの遺体を十字架から降ろしたのでしょう? ローマ兵でしょうか、申し出たユダヤ人たちでしょうか、それともアリマタヤのヨセフたちでしょうか。共観福音書には、ヨセフがピラトにイエスの遺体を「願い求めた」とあるだけですから、その間の事情は全く分かりません。ヨハネ福音書だけが、ユダヤ人の依頼をピラトが承諾したその直後に、ヨセフがイエスの遺体を「持ち上げて取り除く」ことをピラトに願い求めたとあります。もしも遺体がローマ兵に渡されたのなら、清掃人に処理されるか、犯罪者の共同墓地へ投げ込まれたでしょう。もしも、イエスの処刑を求めたユダヤ人側に遺体が渡されたのなら、そのまま土をかぶせる程度の粗末な埋葬で済まされたでしょう。
 アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を引き取ったことは、四福音書が一致して証言していますから、これは事実だと思われます。だとすれば、ピラトが遺体の引き渡しを容認したのを知ったヨセフが、最高法院の議員の立場から、イエスの遺体の引き取りを申し出たと考えることができます。イエスの遺体の埋葬については、ヨセフは最高法院の意向を受けていたとも考えられます。ただし、彼が、密かにイエスを信奉していた人物であったことは、不思議な神の導きだと言わなければならないでしょう。アリマタヤのヨセフがイエスの埋葬に際して果たした役割はそれほど重要です。
〔埋葬〕
 ヨセフとその手の者たちによって、イエスの遺体が、きちんとした形で「サフトー」(葬る/埋葬する)されたことは、第一コリント15章4節でパウロが証言している通りです。これが最初期からの伝承だと思われます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。共観福音書も一貫してアリマタヤのヨセフの名をあげていますから、四福音書が一致してあげているこのヨセフは実在の人物だと考えられます。また葬りの記事が最初期の伝承に基づくことから、ヨセフがイエスの遺体を埋葬したのは確かだと思われます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)〕。「ユダヤ人を恐れて」(7章13節/19章38節/20章19節)密かにイエスを信じていた人が、ここで突然姿を表わすのです。
 受難物語は、イエスの埋葬までを含んでいました。イエスが葬られた場所は、イエスの弟ヤコブが指導するエルサレム教会によって確認され保存されて、その伝承は70年以降の四福音書の時代まで受け継がれていたと考えられます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。だから、ヨハネ共同体もマタイ福音書の教会も、最初期から伝えられていたイエスの墓の所在地を知っていたでしょう〔キーナー前掲書〕。墓は「岩を掘った」(マルコ福音書)もので、ヨセフの家族用の墓で(マタイ福音書)、しかも「まだ誰も葬ったことがない」(ルカ福音書/ヨハネ福音書)墓でした。ヨハネ福音書には、そこは「ケーポス」(園/庭園)だったとあります。王侯の墓ならば、それ自体が一つの「園」であるとも言えますが、ヨハネ福音書がここで言うのは、エルサレムの城外にあって、個人/家族用の比較的大きな墓が集まっている庭園墓地のことでしょう。19世紀に、ゴルゴタとイエスの墓はイエスの頃の第二城壁の北側にあったという説が提示されましたが、現在では、今もエルサレムに残る聖墳墓教会が、ゴルゴタとイエスの墓の正しい場所だと見なされています。ちなみに、聖墳墓教会のイエスの墓が置かれている大きいドーム型の建物の外側には、アリマタヤのヨセフとニコデモの墓とがあります。
〔香料と香油〕
 マルコ福音書によれば、イエスの埋葬はやや略式で、遺体を亜麻布でくるんだままの状態で、ひとまず墓に納め、安息日があけてから、女性たちが香料などを携えて正式の葬りをすることにしていました。しかし、ヨハネ19章40節によれば、イエスの埋葬は、「ユダヤ人の習わしに従って」行なわれ、十字架から降ろされたその日のうちに、ニコデモが持参した没薬と沈香との混ぜ物を遺体に塗り、亜麻布で遺体を包み、墓室内の遺体安置棚におさめたことになります。ヨハネ福音書では、石を転がしたという記述は(自明のこととして?)でてきません。
 マルコ福音書の記述が、イエスの復活を予想して書かれているかどうかは確かでありませんが、マタイ福音書は、マルコ福音書に基づきながら、イエスの復活をはっきりと予想しています。ユダヤ人たちが、墓に番兵を置くようピラトに進言しているからです。これに対し、ヨハネ福音書のほうは、受難物語がここで完結しています。しかも、埋葬の記事にイエスの復活を予想させるところがいっさいありません〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 イエスの死が午後3時頃であったとすれば、死体はその日のうちに埋葬しなければなりませんから(申命記21章23節)、葬りには3時間あまりしかなかったことになります。しかも十字架の当日の午後6時から安息日に入ると、安息日の規定によって埋葬の行為が許されなくなるので、急がなければならなかったのです。遺体は、先ずきれいに洗われて、香料を添えて、亜麻布で包むのが通常のユダヤの埋葬の仕方でした。マルコ福音書には記されていませんが、遺体の洗いが行なわれたのは確かでしょう。ここに記されている埋葬の行為は、もしもこの日が過越祭の初日(ニサンの月の15日)であったとすれば、たとえ安息日でなくても許されない行為ですから、十字架の金曜日は、ヨハネ福音書にある通りで、ニサンの14日だった可能性が高いという見方もあります〔France. Mark. 668〕。
 マルコ福音書とヨハネ福音書と、どちらが史実に近いのか、先ず考えられるのは、遺体を降ろした直後に、夕暮れまで間がないのに、正式の埋葬を行なうだけの時間的な余裕があったのでしょうか。ミシュナーには、死者の葬りに必要なことは、安息日でも許されるとありますが、イエスの頃にどの程度まで許容されていたのかがはっきりしません。だから、マルコ福音書の記事のほうが合理的で納得しやすいのは事実ですが、ヨハネ福音書の記事も、当時の慣習として不可能ではないことになります。イエスの復活を全く予想していないヨハネ福音書の記事のほうが、むしろ真実に近い、という見方も成り立ちます。どちらが真正なのか、現在では確かめることができません。
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