69章 イエスの逮捕
18章1〜11節
■18章
1こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
2イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
3それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
4イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているか」と言われた。
5彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
6イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
7そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
8すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
9それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
■ヨハネ福音書のイエス様逮捕
受難の始めにイエス様が逮捕される出来事が来ます。けれども、ヨハネ福音書には、共観福音書にでてくるようなゲツセマネでの血の汗したたるイエス様の祈りも、弟子たちの居眠りも、ユダの接吻もでてきません。ヨハネ福音書の読者あるいは聴衆は、すでにこれらの出来事をよく知っているからです。その代わり、ヨハネ福音書は、イエス様がどのようなお気持ちで父から授かる受難の杯を受けとったのか、その心の内を伝えています。
もう一つ、ヨハネ福音書には、共観福音書にないことがでてきます。それは、イエス様の逮捕に向かったのが、大祭司が遣わした警護の役人たちだけでなく、ローマの兵隊もこれに加わっていたことです。ローマの兵士たちは、ピラトの命令によらなければ動きませんから、ヨハネ福音書によれば、イエス様の受難は、始めから、大祭司たちユダヤ側とピラトのローマ帝国側の連携作戦であったことになります。
逮捕された後で、イエス様は、まず大祭司カイアファの舅(しゅうと)アンナスのところへ連れて行かれますから、この作戦は、おそらく先に大祭司の側からピラトに申し入れがあって、ピラトがこれに内諾を与えていたのかもしれません。ユダヤ側はイエス様を宗教的な理由で殺そうとしたのに対して、ローマ側はイエス様を帝国への反逆者という政治的な理由で処刑した、というのが現在では通説になっています。逮捕の段階からローマが関与していたことを疑問視する見方もありますから、この問題は、イエス様の受難をめぐって今も論じられています。
■宗教と政治
イエス様が逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せられたのは、宗教的な理由からでしょうか? それとも、ローマの権力に反抗したという政治的な理由からでしょうか? ヨハネ福音書は、この問いに対して、ユダヤ側による宗教的な理由だけでなく、その背後に、ローマ側の見えざる圧力があったこと、したがって、イエス様を逮捕したのは、ユダヤの指導層の宗教的な理由だけでなく、それと同じほど、政治的な影響もあったことを証ししています。この間の事情は、大祭司カイアファの言葉が示すとおりです(11章49〜50節)。だから、イエス様を逮捕したのは、ユダヤ指導層の宗教的な意図からだけでなく、そのような彼らの意図自体もまた、彼らを背後で圧迫するローマの政治的、軍事的な権力と分かちがたく結びついていたこと、この二重性が、イエス様を逮捕に向かわせた「この世」であったとヨハネ福音書は証言しているのです。
現代のわたしたちは、宗教と政治を分けて考えようとする傾向があります。2010年1月、北海道の砂川で、神社の施設が公共の敷地にあるのは「政教分離」を定めた憲法に違反するという判決がありました。宗教と政治をこのように分ける考え方は、世界的に見ても、ごく最近になって定着してきた考え方で、それも、まだごく限られた地域でしか認められていません。近代の「政教分離」の思想は、17世紀のヨーロッパ、特にイギリスとアメリカで始まったものですが、欧米と日本では「政教分離」の解釈が必ずしも同じでありません。イスラムの世界では、現在でも政治と宗教が切り離されていないのは、イスラエルと、パレスチナのアラブ人との敵対、イラクにおけるイスラムの宗派間同士の争い、特に最近(2014年)激しくなっているイスラム過激派とそのテロ行為などにはっきり現れています。
ルターに始まる宗教改革(1517年)の時代から17世紀の終わり頃までは、欧米でも宗教と政治・経済・教育は区別されていませんでした。このために、カトリックとプロテスタントの間に、血みどろの宗教戦争が繰り返されました。キリスト教の信仰とその教会制度は、その国の政治・経済・教育制度と切り離すことができなかったからです。16〜17世紀と言えば、日本では、ちょうど関ヶ原の戦いがあって、徳川政権が確立し、キリシタンへの弾圧が行なわれた時代です。イギリスでも、ピューリタン革命の終わり頃までは(1660年)、政治と宗教は分けられていませんでした。この問題を論じた先駆けの一人がジョン・ロック(1632〜1704年)というイギリスの思想家です。彼は、王権が神から授与されているという思想を否定して、宗教(信仰)と政治を区別しようとしました。
中世のヨーロッパは言うまでもなく、16〜17世紀頃まで宗教と政治が分離していなかったのですから、まして、1世紀のユダヤの人たちは、政治と宗教を分けることなどおよそ考えもしませんでした。大祭司やファリサイ派の人たちは、なぜイエス様を処刑しようとしたのか? ピラトに代表されるローマ帝国は、イエス様の処刑をどのように見ていたのか? このような様々が疑問が、イエス様の受難をめぐって生じますが、これらの疑問は、これから受難を見ていく上で大事な視点です
■祈りと非暴力
ペトロが、隠し持っていた短剣を抜いて、逮捕に来た大祭司の手下の耳を切り落としたとあるのも問題です。自分の師を守ろうと闘うのは弟子として名誉な行為だとされていましたから、ペトロは勇気を出して行動したのでしょう。しかし、イエス様は、そのペトロの行為を禁(いさ)めておられます。受難は「父の御心」だからです。共観福音書には、イエス様が切られた手下の耳を癒やされたとあり(ルカ22章51節)、「剣を取る者は、皆剣で滅びる」(マタイ26章52節)という有名な御言葉が語られます。イエス様がペトロに剣を収めるよう指示されたのは、すでにゲツセマネの祈りにおいて、今起こっている事態が「父のみ心」であることをはっきりと知っておられたからです。だから、イエス様の非暴力は父のみ心から出ています。祈りと父のみ心と非暴力、この三位一体を、ヨハネ福音書はここで証ししているのです。
■ベルリンの壁崩壊
1989年11月に、東西ベルリンを隔てていたベルリンの壁が東ベルリンの市民たちによって壊されて、これが東西ドイツ統合(1990年10月)のきっかけになりました。この出来事は突然のように思われますが、そこには、東ドイツの人たちの長い間の取り組みと祈りがありました。
これについては、ドイツ放送局ZDSが、1999年11月8日の壁崩壊記念日にちなんで、当時起こった事態のあらましを放送しています(NHKのBS1でも放送)。
これによると、まず東ベルリンの市民たちが非暴力の抗議デモを行なっていました。その時、東ドイツの共産党第一書記ホーネッカーは、戦車による弾圧を指令していたので、部隊は出撃の準備を整えて指示を待っていました。これに先立って、中国では天安門事件が起こっていましたから、市民たちのデモを見ていた人たちは、誰しも天安門と同じ事態が生じることを危惧しました。しかし、軍隊の指導層のエゴン・クランツとその部下たちは、ついに戦車も軍隊も出しませんでした。東ドイツの過激左派とソ連の戦車による軍事介入とが、この市民デモを圧殺する二つの要因だと考えられましたが、ソ連の第一書記ゴルバチョフは、最後まで武力介入を控えたのです。政治が介入する範囲を超えていて、コントロールできない事態であると判断したからです。彼は、介入を望むソ連政治局から、ソ連市民が危険にさらされているという誤った情報を受けていましたが、西ドイツのコール首相との電話で、それが誤りであることを知ったのです。
この事態に、ホーネッカーが退いて、クランツが彼の後を継ぎました。彼は旧体制を引き継ぐ人物に過ぎませんでしたが、日数などを制限した(西側への)旅行法案を提示しました。しかし、東ドイツ国民の<自由>への想いは、もっと根本的な改革を望んでいたのです。新旅行法案が用意されたその時に、一人の若い法案作成者が、「個人の旅行の自由を認める」という一項目をその法案の最終段階で草稿に<自己の判断で>追加しました。クランツは、保守的な党幹部会の前でこの法案を慎重に説明しました。事態を理解していない幹部たちはこれを認めたのです。ところが発表者が放送の段階で、<誤って>その施行を<即日実施>と発表しました。これをテレビで知った東ベルリンの多くの市民たちが、東から西へ雪崩のように押し寄せて、ベルリンの壁の入り口へ殺到しました。入り口の警備兵は、何の通報も受けていませんでした。しかも、群衆に向けての発砲命令が有効であったにもかかわらず、彼らはこれを控えたのです。ついに入り口の警備担当長が、何ら指令を受けないままに、自己判断で入り口を開けました。こうして、東西を隔てていた壁が、事実上崩壊したのです。
この経過を見ると、一連の出来事は、様々な歴史的な背景に支えられていただけでなく、多くの偶然が重なって生じた事態であったことが分かります。「誰ひとりこれを予想することができない早さで」(コール首相談)起こった<神の奇跡>だったのです。これは自由と民主主義の力の勝利を象徴する出来事です。
■ライプチヒの奇跡
実は、ベルリンの壁を壊した市民のデモの背景には、もうひとつの大規模な市民のデモ行進が存在していて、これが、東ベルリンのデモの直接のきっかけになりました。ライプチヒは、ゲーテなどの多くの天才を生み出したドイツを代表する文化都市です。ライプチヒで起きた民主化を求める最初のデモは、ほんのわずかの人々が参加しただけの小さなデモにすぎませんでした〔NHKBS3放送(2009年10月17日)〕。警察の取り締まりが及びにくい教会を拠点に集まったアーティストや牧師など、始めは10人にも満たない数であったようです。ベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったのは、ライプチヒで行なわれてきた教会でのこのささやかな礼拝と祈りの集会だったのです。そこでは非暴力が説かれ、バッハのトッカータとフーガニ短調が演奏されていました。この人たちが中心になって、数十人が逮捕覚悟で行なったデモは、毎週月曜日に静かに行なわれ続け、少しずつその参加人数を増やしていきました。
1989年10月9日、ライプチヒで、ニコライ教会を出発したデモ隊が民主化を求めて市内を行進し始めました。デモの当日の午後、教会には2千人ほどが「平和の祈り」の会に出席しました。牧師は聖書から、「あなたの敵を愛せよ」「自分の命を得ようとする者はそれを失い、自分の命を失う者はそれを得る」を引用しました。その覚悟が周りの人々の心に届き、その輪がどんどん広がり、ついにその規模が7万人にも膨れ上がったのです。このデモの参加者たちがスローガンに掲げていたのは、「我々はここに留まる」/「我々こそが民族(国民)だ」/「自由選挙を開催せよ」/「国家治安省は出て行け」などでした。彼らは西ドイツに逃げ出すのではなく、あくまで東に残って改革を実現しようとしていました。度々の警察の弾圧や挑発にもかかわらず、デモは非暴力を守りつつ大勢の市民を巻き込んでいきました。
当時の東ドイツ当局は、予想外の大規模なデモに鎮圧命令を出すことができませんでした。当初はライプチヒでのデモを無視していた警察ですが、その人数が増え続けていくことに危機感を抱き、ついに実力(暴力)でそのデモを解散させようとしました。ところが、この時、西ドイツのテレビ局のメンバー二人が、危険をおかしてこのデモの様子を撮影して、西ドイツで同時放映していたのです〔ドイツ映画(2008年)「ビハインド・ザ・ウォール:ベルリンの壁、最後の脱出」〕。このため、暴力によるデモ隊への攻撃は国外から強い批難を浴びることが予想されました(当時、東ドイツは西ドイツに多額の借金をしていたこともあり、西ドイツの反応を意識せざるを得ない状況になっていました)。こうして、デモ隊は海外からの注目を浴びることで決意を新たにします。そんな彼らを勇気づけるように周りの状況も急激に変わりつつありました。このデモは、ついに、ベルリンやドレスデンなど、他の大都市にも飛び火することになって、1カ月後にベルリンの壁が崩壊したのです。これが「ライプチヒの奇跡」と呼ばれるデモ行進の実際です。
以上の経過を見て分かるのは、東ドイツで起こったベルリンの壁崩壊までの経過が、いかに多くの「偶然」や「突発的な出来事」や「ミス」などの人為を超えた結果が重なり合っていたか、ということです。壁の崩壊にいたる前段階に、ライプチヒのデモ行進があったこと、この行進それ自体も何時弾圧によって第二の天安門事件へ発展してもおかしくない状況にあったこと、それにもかかわらず、7万人という想像もできない人たちのデモ行進が、最後の最後まで平和の内に行なわれて、その結果がドイツの各地に影響を与えるという「成功」を見たこと、これはまさに「ライプチヒの奇跡」と呼ばれるのにふさわしい出来事です。
この一連の出来事を、その結果から判断して、民主主義の勝利だとか、共産主義に対する資本主義の優位性だとか、人間の自由と富への欲望の力だとか、後からの理論や分析によって「説明」したり「解釈」することもできるでしょう。あるいは、ソ連の権力と東ドイツの指導層の権力の二重構造を指摘して説明することもできるでしょう。しかし、わたしには、そのような理論や分析を超える不思議な出来事の連鎖が生じているのが見えてくるのです。
■祈りの働き
東ドイツのこの「不思議な出来事」は、わずか10人そこそこの人たちの祈りと礼拝から始まりました。この発端に目を留めると、出来事の不可解さがいっそう深まります。いったい、10人ほどの祈りと礼拝が、ベルリンの壁崩壊と、どこでどうつながるのか? 彼らはさぞかし反体制的で、改革を意図しながら、祈りを隠れ蓑にして、その実巧みにデモ行進や反政府活動を組織していたのに「違いない」。こう判断し、こう割り切ろうとする人たちが今後もきっと現われてくると思います。ちょうど、イエス様は革命家であったに「違いない」と、もっともらしい論を唱える人たちがいるように。
彼らの祈りそれ自体が、すでに反体制的で革命的なイデオロギーを内蔵していた。だから、それは社会を変える革命へと発展したに「違いない」。それは「奇跡」でもなければ「祈り」の働きでもなく、人間の思想的な行動の結果である。「神も祈りの力も働かないことを前提にした」このような理論や学説を唱える人たちは、いくらでもいます。しかし、そういう論を展開する人たちは、もしも、東ドイツの市民運動が弾圧されて、壁がそのまま現在まで残っていて、中国や北朝鮮でのようにデモ行進が挫折したら、今度はそれについて、もっともらしい論を展開して「解釈」してみせるに違いないのです。事態を予想さえできなかったこれらの人たちが、出来事の<後になって>解釈してみせる論をわたしは信用しないのです。
トッカータとフーガニ短調とわずかな人たちの祈り、これが、祈っていた人たち自身さえも想像しなかった驚くべき結果をもたらしました。これだけは確かです。デモ行進の「成功物語」と、これに続く一連の不思議な「偶然」や「突発的な出来事」、これと祈りを結びつける学問的な論理はまだ存在しません。だから、この事態を学問的な理論で「解釈する」ことは不可能です。現在のわたしたちの社会学も哲学も、聖書神学でさえも、そのような理論を持ち合わせては<いない>のです。こういう問題をあつかう唯一の学問的な分野として、社会学にカリスマ共同体論がありますが、これはまだ揺籃期の状態です。
だから、わたしたちは、イエス様の受難物語を「神も祈りの働きも信じない」ことを前提にする理論で解釈する人たちよりも、むしろ、一連の出来事が、イエス様自身の祈りも含めて、神への祈りによってもたらされた働きであること、そこには人間の力を超えた神の不思議な導きがあったこと、こういう出来事として受難物語を伝えている福音書のほうが、よほど説得力があります。イエス様の受難物語を読み解くのは易しくありません。これは、出来事の本質において、神が起こされた神の御言葉の出来事だからです。この出来事は、イスラエルの民の長い間の祈りに応える「神の出来事」だということ、これが、四福音書が伝えようとしているナザレのイエス様の受難です。
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