66章 イエスの祈り
17章1〜8節
■17章
1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」
【注釈】(1)
【注釈】(2)
【講話】
■執り成しの祈り
別れの説話に続いて、17章はイエス様の祈りになります。イエス様の祈りでは「主の祈り」が最も親しまれていますが(マタイ6章9〜13節)、ここ17章の祈りもよく知られています。この祈りは、弟子たちに「教えた」祈りではありません。イエス様ご自身の祈りです。
「主の祈り」に対して、この祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれてきました。「大祭司」というのは、油注がれたイスラエルの最高位の祭司のことで、その起源はモーセの兄とされているアロンにさかのぼります(レビ記16章2節)。彼だけが、神の幕屋の至聖所に入って、自分の罪のために、自分の家族のために、そしてイスラエルの民のために贖罪の献げ物を捧げることが許されたからです(レビ記16章6〜16節/同32〜34節)。このように、民全体を代表して、主なる神に民の罪の赦しを願い求めることは、イスラエルの大祭司に年に1度だけ許された勤めでした。犠牲を捧げて神に民の罪の赦しを願い求めることを「執り成し」と言います。これは、神と人との間に立って、神に祈り求めることです。
「執り成しの祈り」では、モーセによるイスラエルの民のための祈りが最もよく知られています。イスラエルの人々が、荒れ野でモーセとアロンに反抗した時に、モーセは、ひれ伏して主に執り成しの祈りを捧げました(民数記14章13〜19節)。ほかには、ダビデ王が、イスラエルの民を代表して捧げた祈りがあり(サムエル記下7章22〜29節)、また、ソロモン王が神の神殿を建てた時に、イスラエルの民を代表して捧げた祈りも有名です(列王記上8章22〜30節)。17章のイエス様の祈りの背後には、旧約時代のこのような祈りがあります。
ヘブライ語の「執り成す」には、「パーガァ」という動詞があって、これは「打つ/罰する」という意味です。興味深いのは、この「パーガァ」が、「(イスラエルの人たちの罪のために)神がその僕を(身代わりとして)打つ/罰する」という意味にも用いられることです。イザヤ書53章6節の後半に「ヤハウェは、わたしたちのすべての罪を彼(主の僕)に<負わせた>」とあるのがこれです。同12節後半に「彼は多くの人たちの咎を背負い、彼らの(誤った)歩みのゆえに<執り成しをした>」とあるのも同じ動詞です。ここでは「執り成す」ことが、人々の罪科を背負って自分が神から罰を受けることを意味するのです。17章の「大祭司の祈り」は、この意味での「執り成し」をも指します。
■イエス様の祈り
ヘブライ7章21節には、イエス様が、旧約時代のイスラエルの大祭司に優る「永遠の祭司」であると記されていますが、ここで「優る」というのは、イエス様が「永遠に生きておられて」、「ご自分を通して神に近づこうとする人たちを完全に救うことができる」大祭司だからです(同7章24〜28節)。大切なのは、イエス様の執り成しが、「父なる神への」祈りだということです。わたしたちは、これまでのところで、唯一のまことの神はイエス様の父であって、「イエス様を通して」初めて父との交わりに入ることができると教えられてきました(14章6節)。
ところが、16章の終わりから17章にかけて弟子たちに求められているのは、イエス様に目を向けるよりも、むしろ父との深い交わりに入ることなのです。しかも、このことを祈り求めておられるのが、ほかならぬイエス様です。17章を「イエスの祈り」と題したほんとうの理由がここにあります。「イエス様の祈り」は、何よりも、弟子たちを直接父へ導くことです。「(父の)御名」という聞き慣れない言葉が繰り返されるのもこのためです(17章6節/同11節/同26節/なお12章28節参照)。イエス様が神に「従順であられた」とあるのも、「父の御名の御栄光」を顕すためにご自身を捧げられることであったことが、ここへ来て分かります。イエス様は、永遠の大祭司として、わたしたち「すべての人が神にいたるために」執り成してくださるのです(ヘブライ5章9節)。
■祈りとパラクレートス
この17章には、14〜16章にしばしばでてきたパラクレートスが表われません。この祈りそれ自体がパラクレートスだからです。生前のイエス様の祈りが、今、パラクレートスの祈りとなってわたしたちに語りかけるのです。パラクレートスがわたしたちに与えようとしているのは永遠の命です。「永遠の命」とは、何よりもイエス様の父こそ「唯一のまことの神」であることをわたしたちが「知る」ことです。父なる神に信頼して、空の鳥、野の花のように生きること、この世の悪から守られること(17章15節)、これが永遠の命にいたる道です。神が、イエス様をこの世へお遣わしになったのは、わたしたちのうちに、この命が形成されるためなのです。
神は、イエス様を地上にお遣わしになり、続いてパラクレートスを地上のわたしたちのために遣わしてくださいました。だから、パラクレートスとして、イエス様が今も御臨在になり、わたしたちと共にいてくださること、これを知ることが「永遠の命」なのです。イエス様の御霊が、わたしたちを「父のみもとへ」導いてくださることを通じて、わたしたちは、宇宙の万物が父なる神によって創造されたこと、神が万物を今もなお創造しておられることを初めて悟るのです。こうして、わたしたちは、「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身にまとう」(エフェソ4章24節)よう導かれるのです。
このようなことは、わたしたち自身の努力や知力から出ることではありません。ただ神によって成し遂げられることです(1章13節)。イエス様の祈りは、御霊の祈りであり、御霊の祈りは、わたしたちに働きかけ創造する祈りです。わたしたちの内で、時にはうめきとなり、時には心に葛藤を引き起こし、悪に克(か)たせる力となります(ローマ8章26〜27節)。御霊は、この世で悩み多いわたしたちのために、現実に働いてくださるからです。「わたし(イエス様)はすでに世に勝っている」(16章33節)のです。だから、わたしたちは、「どのような時にも御霊に助けられて祈る」(エフェソ6章18節)ことができるのです。
■父の御栄光
わたしたちクリスチャンは、便りの結びにしばしば「栄光在主」と書きます。自分の欠陥や失敗にもかかわらず、出来事が不思議な導きによってよい結果をもたらした時など、「恥はわがもの。栄光は主のもの」とも言います。失敗と成功(=結果)とが、このように裏表なのは、御霊がわたしたちにあって行なう業が、本質において創造の業だからです。創造には、必ず失敗が伴います。ところが、祈りが働くならば、失敗のまっただ中にあって創造が行なわれるのです。失敗の中に生まれるこのような創造は、祈りによってしか達成されません。愛は決して「失敗しない」と言われるのは、イエス様の祈りによる御霊の愛が、たとえ失敗の中にあっても、常に創造する力となって働いてくださるからです。祈りが聴かれるとは、たとえわたしたちが無力でも、イエス様の愛が働いて、そこに父の御栄光が顕れることです。御栄光とは、父なる神が、わたしたちを通して、新たな創造の御業を行なわれることなのです。
イエス様は、地上において、神がお与えになった御業を最後まで「成し遂げ」られました。その結果、十字架の死が復活の栄光となり、キリストとして御栄光のうちに神の右に座し、今もなお「わたしたちのために」執り成しの祈りを捧げておられます。それは、神が今も働かれて、地上にいるわたしたちを通じて創造の御業を成してくださるためです。こうして、わたしたちひとりひとりにイエス様の御霊が働いて、ひとりひとりに神の御栄光が顕れ、これによって、御国が形成されていくのです。
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