【注釈】(1)
■17章の意義
 おそらく15~16章は、それだけで独立して存在していたもので、17章も、ほんらい独立した祈りであったと思われます。現行の構成に沿って見ると、14~16章の別れの説話は、13章までに語られてきたイエスの出来事とその言葉を踏まえていて、これらの出来事と言葉の意義をいっそう霊的に(神学的に)掘り下げているのが分かります。13章にいたる出来事と14章以下のイエスの説話を通して繰り返されるのが、イエスとその父との「交わり」であり、この交わりを通じて、イエスにある者たちが同じ「交わり」に導き入れられることです。ヨハネ福音書は、この交わりを「愛」と「栄光」というふたつの言葉で言い表わします。
 このことに留意するなら、この福音書の作者が、15~16章を現行の位置に置いたその意図が見えてきます。これらの章は、単なる神学的な考察ではなく、イエスが父との交わりの内に「今現にいる」こと、この父子の交わりを通じて、弟子たちもまた、イエスと共に父との交わりに導き入れられること、しかも<そのこと>が、別れの説話を読む者、聴く者に「今実現する」こと、これが、15~16章がここに置かれている理由です。イエスとその父からの弟子たちへの愛が、パラクレートスによる交わりとなって聴く者、読む人に語りかけるのです。
 このように見ると、17章にイエスの祈りが来る意図も見えてきます。14章末の「元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝った」というイエスの勝利宣言は、17章の祈りを導き出すのにふさわしい言葉です。人の力によってではなく、父なる神の御力によって、イエスがこの世に働くもろもろの悪の力に完全に打ち勝ったこと、これが、これから始まる祈りの源であり、祈りが「現実に働く」ための根拠です。別れの説話は、読む者、聴く者をイエスとの交わりに導き入れます。同様に、今回のイエスの祈りも、イエスと弟子たちとがひとつに結ばれることを伝えて、この祈りを聴く者に、同じ父との交わりを実現させてくれるのです。
■17章の背景
 旧約聖書の祈りの様式に、決別に際して子孫や民に与える祝福の祈りがあり、ここでのイエスの祈りも、この様式を受け継いでいます。特にモーセが、自分の死の近いことを知って、イスラエルの民に聞かせた祈りと(申命記32章1~43節)、彼がイスラエルに与えた祝福の言葉は(申命記33章2~29節)、決別の祈りの規範とされていました。17章の背景にもこの伝統があります。モーセの祈りは「民に聞かせる」ための祈りです。ヨハネ福音書でも、イエスの祈りは、周囲の人たちに聞かせる祈りです(11章41~42節/12章27~30節)。17章の祈りは、モーセの祈りのように歌われるための韻文ではありませんが、別れの説話も、この祈りも、散文を交えながら、韻文に近い文体になっているのはこの様式から出ているからです。この祈りは、ヨハネ共同体の中で実際に歌われていたのかもしれません。
■17章と聖礼典
 17章の祈りと聖礼典(サクラメント)の関わりについて見ると、この祈りと13章との共通性が注目されます。どちらにも、まず「時の到来」が告げられます(13章1節=17章1節)、父が御子に栄光を与えます(13章31~32節=17章4~5節)、「最後まで/成し遂げる」ことが語られます(13章1節=17章4節)、この世に残る弟子たちのことが語られます(13章1節=17章11節/同15節)、ユダの裏切りが語られます(13章27節=17章12節)、父がすべてをイエスに委ねたことが語られます(13章3節=17章2節)、聖書が成就したことが語られます(13章18節=17章12節)。このように見ると、17章の祈りが、13章の洗足の場面とつながるのが分かります。洗足が、はたして聖餐と同じサクラメントなのか、また洗足の霊的な意義はなにか、これについては、55章「最後の晩餐と洗足」の講話を参照してください。
 さらに、ここの祈りと聖餐との関係については、聖餐の後で歌われる「賛美の歌/祈り」があります(マルコ14章26節)。聖餐の後の祈りの代わりに、ヨハネ福音書では17章の祈りが置かれているのではないかとも考えられます。聖餐の際に歌われる賛美の祈りについては、以下のように『十二使徒の遺訓』(『ディダケー』)にその例がでています。
〔聖餐の前の祈り〕
「わたしたちの父よ。あなたがあなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた命と知識とについて、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。このパンが、山々の上にまき散らされていたのが集められて一つとなるように、あなたの教会が地の果てからあなたの御国へと集められますように。栄光と力とはイエス・キリストによって永遠にあなたのものだからです。」
〔聖餐の後の祈り〕
「聖なる父よ。あなたがわたしたちの心の中にお住まわせになったあなたの聖なる名と、あなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた知識と信仰と不死とについて、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。全能の神よ。あなたはあなたの名のゆえに万物をお創りになりました。また、人々があなたに感謝を献げるように、彼らに飲食のために食物と飲物とをお与えになりました。他方、わたしたちには、霊的な食物と永遠の命とを、あなたの僕イエスを通して賜わりました。あらゆることに先立って、わたしたちは、あなたが力強い方であることに感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。主よ。あなたの教会を覚え、それをすべての悪から解放し、あなたの愛によって完全なものにしてください。・・・・・」〔『十二使徒の教訓』9~10章から:小高毅訳〕。
 このように、『十二使徒の教訓』の祈りは、17章の祈りとその内容において重なるところが多いのが分かります。ただし、『十二使徒の教訓』にでてくる聖餐のパンは、17章にも13章にもでてきません。また、『十二使徒の教訓』では、世界中の人たちから「集められて一つにされる」教会が語られていますが、17章の祈りに比べると、父とイエスと弟子たちの「交わり」による一体感が希薄です。
■大祭司の祈り
 ルターの弟子であり、ドイツのルーテル派の神学者であったダヴィド・キトレ-ウス(1531~1600年)は、17章を「大祭司の祈り」と名づけました(これは5世紀の教父時代から言われていたことです)。ここで言う「大祭司」とは、イスラエルの民を代表して神に献げ物をするユダヤ教の大祭司のことではなく、父のもとにあって、わたしたちのために執り成しの祈りを捧げてくださる「大祭司」キリストのことです(ローマ8章34節/ヘブライ9章11~12節/同10章10~14節)。
 しかし、17章のイエスは、「まだ」父のもとへ昇っていません。それでも、ここで唱えられる祈りは、「すでに」神の右に座している大祭司の祈りを響かせています。イエスは「わたしはもはや(すでに)世にいません」(17章11節)と語ります。ところが、同13節では、「(わたしは)去っていく前に、(まだこの)世にあってこれらのことを語る」とも言うのです。このように、「まだ」と「すでに」のどちらでもあり、どちらだけでもない、という不思議な「時」の中での語り方は、今までも度々でてきました。ここ17章の祈りが、別れの説話とこれから始まる受難との狭間に置かれているのも、イエスから見て、これから始まる「まだ」の視点と、「すでに」イエスが栄光を受けているというヨハネ共同体からの視点と、この二つが重なり合うからです。
 共観福音書では、受難の直前にイエスによるゲツセマネの祈りが来ます。ゲツセマネの祈りには、これから受難へ向かおうとするイエスの言わば「苦渋の選択」が表わされています(マルコ14章36節)。しかし、今回の17章の祈りは、子であるイエスの父への「死にいたる従順」によって貫かれています。父へのこの従順と信頼こそが、子がこの世に来る前に、父と一つで「あった」こと、地上においてもひとつで「ある」こと、そしてこれからも永遠にひとつに「なる」ことの証しなのです。しかも、この祈りには、別れの説話で繰り返された聖霊(パラクレートス)への言及がありません。このことは、パラクレートスがまだ降って<いない>ことを伝えようとするのではなく、むしろ、ここでのイエスの祈りが、パラクレートスの先駆けとなるイエスの霊性の働きそれ自体であることを弟子たちに証しするものです。
 このように、イエスの従順と信頼の祈りは、弟子たちもまた、同じ従順と信頼によって父と子の交わりに導き入れられるための執り成しなのです。だから、17章はイエスの祈り「について」ではなく、イエスが祈った「内容」をわたしたちに告げているのでもなく、イエスが「わたしたちの大祭司」として、地上から父のもとへ昇る道それ自体が、弟子たちへの執り成しになって「働いている」ことを語っています。この祈りは、同時に、イエスの跡を歩もうとするわたしたちにも同じ道行きを再現させてくれるものです。だから「この祈りは、ある意味で、御子が御父のもとへ昇る過程そのものです」〔ドッド『第四福音書の解釈』より〕。
■17章の区分
 17章の構成と区切り方について、改訂英訳〔REB〕による細分は以下の通りです。1~3節/4~5節||6~8節||9~10節/11~12節/13~19節||20~23節/24~26節。ここでは八つに細分されていて、さらに全体が二重の縦線で四つに区切られています。四つの区切りはギリシア語新約原典によります。ただし、6~19節をひとまとめにし、さらに、20~26節を20~24節/25~26節のように区切りを変えて、17章全体を1~5節/6~19節/20~24節/25~26節の四つに区切ることもできます〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔NRSV〕。これをさらに1~5節/6~19節/20~26節のように三つにまとめる訳もあります〔新共同訳〕。一般的には、三つに区切るか、ギリシア語新約原典のように四つに区切る場合が多いようです。
 上にあげた区分は、どれもそれなりの理由がありますが、問題は、6~8節の弟子たちに関わる部分を独立させるのか、前に続けるのか、あるいはその後につなぐのか〔新約原典〕です。6~8節をその前に続けて1~8節にまとめるとすれば、全体が大きく三つに区分され、それぞれの区分は、イエスの祈りで始まることになります〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。筆者は、6~8節が、5節から9節へ移行する橋渡しの役目をしていると見ていますが、ひとまず6~8節を独立させて、新約原典に準じて四つの区分に従うことにします(ただし、長さの都合がありますので、今回は1~5節と6~8節とを併せてとりあげます)。
 このように四つに分けますと、それぞれに次のような特徴を見ることができます。
(1)イエスは、子に栄光を与えるよう父に願い求めます。それは、子がその御業を成し遂げて、永遠の命を人々に与えるためであり、これによって、父と子が栄光を顕すためです(1~5節)。
(2)世から選び出された弟子たちに御名と御言葉が啓示されます。彼らは、御子を通じて父を知ることにより、その啓示を人々に伝える使命を与えられます(6~8節)。
(3)イエスは、この世に残される弟子たちが、父によって悪から守られるよう父に願い求めます。それは彼らが、悪しき世にあって、真理の御言葉によって聖別され、真理を世に証しするためです(9~19節)。
(4)イエスは、弟子たちだけでなく、彼らの語る御言葉を聴いて信じるさらに多くの人たちのためにも父に願い求めます。それは、父と御子と弟子たちが、父から賜わる栄光によって完全に一つになり、父の愛が世に証しされるためです(20~26節)。
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