【注釈】(2)
■17章1~5節
イエスはこれらのことを語られてから、目を天に向けて言われた。
「父よ。この時が来ました。
あなたの子に栄光をお与えください。
子があなたに栄光を与えるために。
肉なる者すべてへの権能を子にお与えになったのは、
あなたが、子にお与えになったすべての者たちに、
永遠の命を与えるためです。
永遠の命とは、彼らが
唯一のまことの神であるあなたを知り、
お遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
わたしは、地上であなたの栄光を顕しました、
わたしに行なうようお与えになった業を成し遂げたからです。
父よ、今あなたが、わたしに栄光をお与えください。
あなたの御前にある栄光によって、
世界が存在する前にわたしが御前で共にした栄光によって。」
 
[1]【天を仰いで】11章41節では、ラザロの復活を祈り求めるときに、イエスは「目を上に向けて」います。ここ17章では「目を上げて天に見入った」のです。空間的に「天」を見上げているのではなく、地上から、もろもろの霊的な妨げを突き破って、霊的に最も高い父のもとへ祈りが届くためです。11章41節でも「目を上げて天に見入って」と読む異本がありますが、これはおそらく、17章1節にならう読み方をしたのでしょう。どちらの場合もイエスは弟子たちに聞こえるように祈ります。これは、弟子たちもイエスと共に祈るためで、その祈りによって、彼らもイエスの祈りに与り、父とイエスの交わりに入るためです。
【父よ】原語は呼びかけの「パテル」(呼格)で、ギリシア語の「パテール」(主格)からきています。このギリシア語は、イエスが用いたアラム語「アブ」の訳です。「アブ」のヘブライ語は「アーブ」で「父/父祖」を意味しますが、ここは呼びかけですから、イエスが実際に用いたアラム語の呼びかけの形は「アッバ!」です(マルコ14章36節)。旧約では、神を「父」と呼ぶのは異例なことで、これはイエス独特の呼び方だと言っていいでしょう(マタイ6章9節の「主の祈り」を参照)。このような父への呼びかけが発せられるのは、ここ以外では、父がイエスを遣わしたことを証しする大事な場と(11章41節)、イエス自身が受難を覚悟する場だけです(12章27~28節)。17章6節には、「イエスが弟子たちに(父の)御名を現わした」とありますが、これは、イエスの「父への」呼びかけが、弟子たちへ受け継がれていくことを指すのでしょう(ガラテヤ4章6節/ローマ8章15節)。
【時が来た】イエスは「栄光を受ける時」(12章23節)を「ご自分の時」(13章1節)としてすでに予告してきました。17章では、13章1節の「イエスの時」を受けて、父と子の関係において決定的な「時が来た」ことが告げられます。父の栄光は、御子によって弟子たちや人々にすでに幾度か顕されてきましたが、そのイエスの栄光が、「今の時に」初めて、本格的に成就するのです。ヨハネ福音書は、「今の時」という言い方で、かつての地上のイエスの「今」を父と子が栄光を成就する終末の「今」と重ねるのです。だからその「今」は、イエス以後の弟子たちの「今」ともなり、ヨハネ共同体の「今」ともなり、現在のわたしたちの「今」ともなるのです。
【栄光を現す】「栄光」のギリシア語は「ドクサ」(名詞)で、これは動詞「ドケオー」(見える/思われる/尊敬される)から来ています。新約聖書で「ドクサ」は、「よい評判/ほまれ/栄誉」などを意味し(ルカ14章10節の直訳は「みんなの前で名誉となる/面目を保つ」の意味)、また「壮麗/栄光」をも意味します(マタイ4章8節「悪魔はこの世の輝かしい栄光をイエスに見せた」)。「ドクサ」は、七十人訳のギリシア語では、ヘブライ語「ケヴォッド」の訳語として用いられていますが、このヘブライ語は「重々しい/人前で威厳を見せる」ことから来ています。ギリシア語の「ドクサ」とヘブライ語の「ケヴォッド」に含まれる「人に見せる/人から認められる」というこの原義は、ここヨハネ福音書でも、弟子たちのために「栄光を顕す」ことにつながっています。
 イエスの父が顕す「栄光」は、旧約聖書では、特に神の御臨在に伴う「栄光/輝き/威光」を意味します(詩編96篇5~9節/同97篇2~6節/エゼキエル1章26~28節/ダニエル7章13~14節)。新約の「ドクサ」もこの意味を受け継いでいますが(ルカ2章9節/ヨハネ黙示録15章8節)、特にこの言葉がイエスについて用いられる場合は(使徒22章11節)、「ドクサ」は、神とイエスとの関係を表わす言葉として、今までの用法にはない新しい意味を帯びてきます。イエスが父の「栄光によって」復活したからです(ローマ6章4節)。このことを最もよく表わしているのが第一テモテ3章16節でしょう。しかも、その栄光は、「わたしたちもまた新しい命に与(あずか)るための栄光」なのです(ローマ6章4節)。重要なのは、イエス・キリストのこの「栄光」が、イエスが神の民を導く大牧者となり、民のために執り成す永遠の大祭司となるための栄光でもあることです(ヘブライ13章21節)。
 通常は、イエスが神に従順に従うことによって、イエスによって神の栄光が顕され、これによって、神もまたイエスに栄光を与える、というのが順序でしょう。ところがここでは、逆に、イエスが、先ず「子に栄光を与えること」を父に願い、その結果、あるいはその目的として、子が父の栄光を顕すように祈り求めているのです〔私訳参照〕。17章1節のこの「栄光」は、11章4節と13章31~32節の「栄光」が、その意味を教えてくれます。11章4節はラザロの復活の場です。ここでイエスは、ラザロの病は死にいたらないと言って、ラザロの復活を示唆します。しかし、「死にいたらない」のはラザロのことだけではなく、イエス自身の復活の予告にもなっているのです。「肉体の」命に左右されない命がイエスを通して働いているのです。だからイエスは、ラザロの生き返りを祈る際に、「それによって神の子が<栄光を受ける/栄光化される>ためである」と言うのです。ラザロの復活の「栄光」は、神の子イエスが父によって<復活する>ことのしるしですから、この「栄光」は、御子の復活によって、「御子が栄光を受け、同時に、そのことが父の栄光を顕す」ことになります(11章4節)。
 さらに、13章31~32節では、ユダの裏切りが暴露されて彼が出て行った直後に「栄光」が語られます。これは、人の子イエスの「受難の栄光」です。しかもイエスの受難によって父なる神自身も「栄光を受ける」のです。イエスの受難が父なる神の栄光になること、このことと、先のラザロの場合の栄光とを併わせると、わたしたちは、ここに、ヨハネ福音書特有の「受難と復活が一体となった栄光」を見ることができます。それは人の子であり御子であるイエスが、受難を通して復活すること、<これによって>、人々に永遠の命を与える権能が御子に授与される栄光です(17章2節)。イエスにあって「父もまた栄光を受ける」というのは、この意味です。イエスの受難が「世の罪を取り除く」ために父から与えられた栄光であり、それゆえに、御子イエスに復活の栄光が与えられ、そのことが、神の栄光になることで、受難と復活と栄光がひとつにされて、ここ17章の冒頭で、独特の「栄光」が語られるのです。まさに「その時」が来たことをイエスの祈りが告げています。
[2]【すべての人を支配する権能を】直訳すれば「あなた(父)が、すべての肉への権能を御子に与えたことに基づいて」です。これがイエスの執り成しの祈りの根拠です。「すべての肉」は、ヘブライ的な言い方で「すべての人間」を指します(イザヤ40章6節を参照)。「権能/権威/権力」は、ほんらい権力者が自分の支配する民に対して行使する権力のことですが、ここでは政治的な意味ではなく、宇宙に働くもろもろの「力」を含むこの世界における一切の権能を表わしています。人と自然と宇宙を含む全体が、神と御子の権能の下に置かれるのです。だから、イエスと共にある者もまたこのような権威の下にあるのです(1章12節/5章27節)。
【あなたからゆだねられた人すべてに】原文は「あなたが彼に与えた〔完了形〕すべての人に」です。これは「この世」から見れば比較的少数の「ひとつにされた」人たちを指すのでしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。子が父の栄光を表わし、これによって、父が栄光を受けるその目的は、「父が子に与えたすべての人」にも「永遠の命」を与えることです。
[3]イエスの祈りの中に「イエス・キリスト」とあるのはやや不自然で(この言い方は、ヨハネ福音書では、ここ3節と1章17節だけです)、原文の「永遠の命」の語順 "the eternal life" もここだけほかとは異なっていますから(2節では"life eternal")、3節は後からの挿入でしょう。ここで福音書記者は、2節の「永遠の命」を補足しています。3節はヨハネ共同体の間で礼拝の際に唱えられていたのかもしれません。なお、この節は次のように訳すこともできます。「永遠の命とは、あなたが唯一のまことの神であることと、あなたのお遣わしになった方イエス・キリストを知ることです。」"And  this is eternal life, that they may know you, the only true God, and Jesus Christ whom you have sent."〔NRSV〕/"to know you the  only true God "〔REB〕。
【永遠の命】ヨハネ福音書では、「とこしえの命にいたる」 "into life everlasting" のように前置詞を伴う目的格で、無冠詞で形容詞が後に続く形がほとんどですが、この17章3節だけは"the everlasting life" のように冠詞つきの主格で、形容詞が前に来ています。旧約でも新約でも「永遠の」とは、時空から隔絶した形而上的な「永遠」(英語の"eternal")のことよりも、むしろ宇宙の時空と共に「いつまでもなくならない」ことで、日本語の「とこしえの/とこしなえの」(英語の"everlasting")に近いようです。とりわけ、この17章3節の「とこしえの命」は、「唯一のまことの神」と「知る」というふたつの語句で定義されているのが注目されます。この福音書の冒頭に「初めにみ言がおられて、そのみ言は神と共に存在した」〔私訳〕とあり、次いで「み言(ロゴス)の内に命(いのち)があった、その命は人間を照らす光であった」(1章4節)とあります。これで分かるように、世の初めから神と共に創造に与ったみ言「ロゴス」が、イエス・キリストとしてこの世に到来することでもたらされたのが「永遠の命」であり、世を照らす「命の光」です。だから、地上のナザレのイエスに宿った「命」は、それ以前から「先在のロゴス」に宿る「いのち」として存在していたことになります。この命こそ、<ナザレのイエスの霊性>に宿った「命」です。
【知る】ここ17章では、「永遠の命」が「知る」ことと結びついているのが注目されます。これに対して、3章15~16節では、御子を「信じる」者が、永遠の命を得るとあります。ヨハネ福音書が「知る」と言うのは、知的に認識することや理性的に識別することではありません。「兄弟を愛さない者は神を知らない」(第一ヨハネ4章8節)とあるように、「知る」ことは「愛する」こと、すなわち人格的に「交わる」ことと深くかかわっています。だから、イエスを愛する者は、父に愛され、その人にイエスが「顕される」のです(14章21節)。永遠の命の有り様が、神と人、人と人の「愛にある交わり」と深く関わっているのが分かります。「知る」ことが「命」につながることは、ヘブライの世界でもヘレニズムの世界でも共通していますが、特に旧新約中間期(旧約聖書と新約聖書の間にあたる前4世紀~前1世紀の時代。英語で"the intertestamental period")では、「律法を知る」ことが「命/救い」と結びつけられていて、「命の律法を知る」ことが永遠の命につながるとされました(シラ書17章11節)。契約と律法を「知る」ことは、エレミヤ書に「わたし(神)の律法を彼ら(イスラエル)の胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31章33節)とあるように、律法を霊的に心に宿すことです。また、神の栄光を「知る」ことについては、「水が海を覆うように大地は主の栄光の知識で満たされる」(ハバクク2章14節)とあります。
 旧新約中間期のユダヤ教は、ギリシア思想の影響を受けていますから、「神を知る」ことが人間の「知性」の働きと結びついて、「知性」(ギリシア語「ヌース」)こそが、人を救いに導く光であるという思想がこの時期のユダヤ教にも見られます。これがいわゆるグノーシス思想のもととなる考え方です。ヨハネ福音書は、このグノーシス思想に近いという見方もありますが、グノーシスとヨハネ福音書との最大の違いは、グノーシスでは、救いは、人間がこの世を離れることによって初めて達成されるのに対して、ヨハネ福音書では、共観福音書と同様に、救いが「この地上において」すでに始まることです。これは、「知る」ことが、歴史的に実在したナザレのイエスを信じることによって与えられるからです。このように、救いが具体的な歴史に顕れたナザレのイエスという「出来事」に基づくことが、福音書と知的追求を重視するグノーシスとの異なるところです。「あの」ナザレのイエスに宿った霊性こそが、新約聖書がわたしたちに伝える「永遠の命」なのです。
【唯一のまことの神】旧約聖書を始め新約聖書でも、「唯一のまことの神」というのは、通常、聖書の神以外の異教の神々と比較対照する場合の言い方です。しかし、ヨハネ福音書では、イエスが「あなた(を知る)」と呼びかけているように、御子イエス・キリストを通じて初めて「知る」ことできる父なる神のことです。この意味で、御子を信じない者は「唯一のまことの神」を知っているとは言えないのです。
【イエス・キリスト】イエス・キリストを「知る」というのは、「人格的に知り合う」こと、すなわち「交わる」ことで、彼を「信じる」ことと同じです。しかも、イエス・キリストは、父から「この世のために」遣わされた方ですから(3章16節)、イエス・キリストを「知る」ことは、この世にあって「救われる」ことと同じであり、しかも、その救いが、「永遠の命」であることを「この世において」知るのです。歴史を超絶したところで、肉体から分離した状態で初めて救いを「知る」ことができるグノーシス思想とは、この点で異なっています。
[4]【地上であなたの栄光を】4節冒頭の「わたしはあなたの栄光を」は強い表現になっていて、5節の「父よ、あなたがわたしの栄光を」と対応しています。父からこの世へ遣わされた御子イエスは、「地上で」とあるとおり、父が与えた業をこの世で最後まで成し遂げることによって、今までだれも知ることのできなかった「神の愛」を「この世の人たち」に啓示しました。これが、「父の栄光を顕した」とイエスがここで言う意味です。
【成し遂げる】父がイエスに与えた業を「成し遂げる」ことが、イエスが遣わされた使命であり、これを「成し遂げる」ために、イエスはガリラヤで語り、サマリアで語り(4章34節)、弟子たちに語り(13章1節「最後まで」が意味すること)、今エルサレムで、父の御心を最後まで「成し遂げ」ようとしています(19章28節)。この「成し遂げる」には、イスラエルの大祭司が、彼以外にだれも入ることが許されない神殿の至聖所で、民の罪を贖うために犠牲を献げる勤めを「最後まで成し遂げる」という祭儀的、礼典/典礼的な意味もこめられています。ヨハネ福音書は、地上におけるイエスの使命をユダヤ教の大祭司が執り行なう贖いの祭儀にたとえることで、そこに含まれる霊的な意義を言い表わしているのでしょう。ただし、イスラエルの大祭司は、人々の目に見える形で、動物を犠牲として捧げたのに対して、イエスは、霊的な意味で、すなわち人の目には見えない形で、自分自身を贖いの犠牲として神の祭壇に捧げたのです(ヘブライ9章1~12節)。
[5]【今】原文は「そして今や!」で、接続詞と感嘆詞とが一つになった言い方です。この言い方は、旧約聖書で、神への祭儀を最後まで全うした後で、契約の神に向かって呼びかける時の言い方です(出エジプト19章5節/ヨシュア24章14節の直訳は「だから/さあ、今は!」)。
【御前でわたしに栄光を】イエスがこれまで、父によって「地上で」顕してきた栄光に基づいて、今度は父のほうが、「天において」イエスに栄光を与える/栄光化することを願い求めているのです。だから、5節のこの「栄光」は、「地上」ではなく「天において」顕される栄光のことです。ヨハネ福音書は、受難と復活を通じて与えられたイエスの昇天と、イエスに授与された天での栄光をこのイエスの祈りにこめているのでしょう。原文では、「あなたの御前にある栄光」が、「わたしが御前で共にした栄光」と対応しています(私訳を参照)。ここでのイエスの祈りを「時の視点」から見ると、イエスの「今の時」の祈りが、ロゴス・キリストが「(御前で共にした)かつての」栄光と、イエスがこれから受けることになる「(あなたの御前にある)これからの」栄光とを結んでいることになります。ここでも、過去・現在・未来にわたるヨハネ福音書独特の時間構成を見ることができます。
 また、ヨハネ福音書の世界を時間的に見ると、この福音書では、原初と未来あるいは終末がつながっているように見えるので、ある種の永劫回帰の思想に近いという見方もあります。こういう見方からか、ヨハネ福音書には輪廻転生思想が含まれているという解釈さえあるようです。しかし、すでに見てきたとおり、ヨハネ福音書は、天地創造の初めから存在していたロゴス・キリストが、受肉を通して地上に降り、この御子にあって「新たな創造」の業が開始されたことを証ししています。繰り返し指摘したように、「すでに」起こったイエスの出来事によって新たな創造が開始され、そこに啓示された創造の業が、「いまだ」完成していない終末へ向かって進みつつあるというのが、この福音書の時間構造です。「すでに」と「いまだ」を結ぶこのような時間構成は、永劫回帰の思想とは区別されなければなりません。イエス・キリストの御霊が「創造する御霊」であると言うのは、この意味です。
【世界が造られる前に】イエスに宿った霊性が、イエス自身に始まるのではなく、それ以前から父によって備えられていたことは、イエスがだれよりもよく知っていました。彼が「(旧約)聖書に書かれてあることが実現するために」と言うのはこの意味です(13章18節/17章12節)。特にここでは、イエスの霊性が、世界の創造以前にさかのぼることが示されています。これは、すでに1章1~3節で語られていることですが、「世界が造られる前に」は17章24節でも繰り返されています。旧約聖書には、天地創造の初めから神と共にあった「知恵」(ソフィア)の栄光について次のように語られています。「永遠の昔、わたしは祝別されていた/悦びのうちにあった。太初(たいしょ)、大地に先立って」(箴言8章23節)。また、「知恵は神の力の息吹/霊、全能者の栄光から発する純粋な/透明な輝き」(知恵の書7章25節)ともあります。ヨハネ福音書の作者は、イエスの霊性と旧約時代の「知恵」が同じ源から出ていると見ているのかもしれません〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 
■17章6~8節
わたしは、世から選ばれ、わたしに与えられた人々に、
御名を顕しました。
彼らはあなたのものでしたが、
わたしに彼らを与えてくださり
彼らは御言葉を守り抜きました。
今、彼らは知るようになりました、
わたしに与えてくださったものは、ことごとく、
あなたから出ていることを。
なぜなら、わたしにお与えくださった言葉を
わたしは彼らに与え、
彼らはこれを受け入れ、
ほんとうに知ったからです
わたしがあなたから出たと。
また信じたからです
あなたがわたしをお遣わしになったと。
 
[6]【御名を顕す】すでに別れの説話の終わり近くで、イエスは、父について語り、父御自身が、直接に弟子たちに愛の啓示を与える時が来ると告げました(16章25~27節)。17章の祈りは、イエスのこの言葉を受けて、イエスの執り成しの祈りが、父なる神中心の信仰であることを表わします。6節の「神の御名を顕す/啓示する」という独特の言い方は、旧約聖書が伝える神の御名を継承しています。ここでは、父なる神の「御名」が、イエスを信じる者たちに啓示されますが、御名は、神の臨在そのものであり、その臨在は、地上の神殿に代わる働きをするものです。このような臨在が、イエスという人格(ペルソナ)を通じて啓示されること、そのように啓示された人格の神が、「ヤハウェ」の御名にほんらい含まれている「創造する」働きを有すること、このことが、ここでの「御名を啓示する」に含まれています。この御名が、イスラエルの神特有の「栄光」と結びついていることもヨハネ福音書の特長です。
 それにしても、このような父なる神中心の信仰が、受難の直前の最も危機的な状況の中で弟子たちに啓示されるのは不思議です(16章31~32節)。最も高度な信仰が、最も危機的な状況において啓示されるところに、イエスの執り成しの祈りの本質が顕れているのでしょう。「まさに受難を前にして信仰告白は完成する。普通なら人と人とのきずなを引き裂くはずの死を前にして、彼らは初めて彼(イエス)との正しい関係を獲得する」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【あなたのもの】「彼らはあなたのもの」とある「彼ら」とは「世から選ばれわたしに与えられた人々」のことです。原文に「選ばれ」はなく、「この世から(わたしに与えられた)」とあるだけです。「から」は「~の中から外へ」の意味で、この世に「属している」状態からイエスに属する状態へ移行することです(5章24節)。人はほんらい「神に属する」者ですが、その人が「わたしに与えられた」とあるのは、父からイエスに所属が移ったことではなく、イエスを通して初めて、真の意味で「父なる神のもの」にされることを指します。
【御言葉を守った】人が「神の御言葉を守る」とあるのは、ヨハネ福音書ではここだけで、通常は「イエスが(父の)御言葉を守る」と言います(8章55節)。したがって、ここでも、イエスを通して初めて、真の意味で「神の御言葉を守る」ことが人間に成就することを言いたいのです。人が天地の創造主である神を知り、神の御言葉を知ることができるようになるのは、父が遣わされたイエス・キリストを通して初めて実現するからです。「あなたのもの」であった弟子たちを「わたしにお与えになった」とイエスが言うのは、「わたし」こそが、人と父とを結ぶほんとうの道であることを表わすためです(14章6節)。ヨハネ福音書の神学は、キリスト論的というより、父の神中心であることを読み取ってください。なお「守った」〔完了形〕とあるのは、最後の晩餐の時から見れば不自然ですが、ここでも、ヨハネ共同体の視点から、イエスの受難以後の弟子たち(使徒たち)の信仰とその働きを回顧しているのです。
[7]【今、彼らは知った】この「今」は、16章30~31節の「今」を受けて、弟子たちが、イエスの言葉の人格的霊性に触れて「今、はっきり分かりました」と言い、「イエスが見えなくなるほどに」父の神を直接知るようになったことを指しています。だが、その「今」は、31節で「今ようやく信じるのか」とイエスから警告される時でもあったのです。それは、弟子たちが「散らされる」直前の「今」です。それは、信仰と不信仰とが表裏を成す不思議で不可解な時です。この「今」が、さらに17章5節では、受難のイエスの栄光の「今」となり、弟子たちの霊的な危機を支えました。そして、ここ17章7節で、「今」は、再び弟子たちに戻り、高挙の栄光を受けたイエスが、パラクレートスを遣わして弟子たちを支える「今」となるのです。
 このように、17章のイエスの祈りは、イエスの在世当時における弟子たちへの執り成しの祈りだけでなく、受難と復活と聖霊降臨以後の使徒たちへの執り成しであり、さらに、ヨハネ共同体を支える執り成しでもあることが証しされるのです。だから、「今、彼らは知った/分かった」〔3人称複数完了形〕とあるのは、かつて弟子たちが、危機の直前に「知った/分かった」(16章30節)と告白したこと、その彼らが、イエスの栄光によって支えられたこと(17章4節)、イエスから「父の御名を」啓示され、それによって「父の御言葉を守り抜いた」(17章6節)こと、そのことが、イエス以後のヨハネ共同体の「今」にいたるまで継続していて、以後も神によって継続していくことです。なお、ここの「知った/分かった」を1人称単数完了形あるいは3人称複数アオリスト形に読む異読がありますが、これらは誤記、あるいは8節の「知った」〔3人称複数アオリスト形〕と一致させるための後からの書き換えです〔新約テキスト批評〕。
【あなたからのもの】イエスが「わたしに与えてくださった」と言い、「ことごとく」と言うのは、弟子たちに働きかけたイエスの言葉と業全体が、イエス自身から出たものではなく、完全に父に依存していて、すべてが父から出ていることです。
[8]8節の前半では、父がイエスに御言葉を与え、イエスが弟子たちにその御言葉を与え、弟子たちはその御言葉を受け入れたとあります。後半では、弟子たちはイエスが父から出たことを知り、父がイエスを遣わしたことを信じるのです。前半で語られることは、後半が実現するためです。すべての出来事が父から出て、父の業に帰せられることがイエスの祈りの本質です。
【あなたから受けた言葉】6節の「御言葉」は「ロゴス」(単数)ですが、ここ8節の「御言葉」は「レーマタ」(複数)です。単数の「ロゴス(言)」が複数の「レーマタ(言葉)」に分かれたという見方もありますが、両者にそれほど違いはないでしょう。それよりも、「ロゴス」と「レーマタ」が、「あなたから受けた」とアオリスト(過去)形になっているのは、「ロゴスが受肉した」姿(1章14節)のイエスを指すからです。語られる御言葉は語るイエスと一つであり、そのイエスは父と一つです。なお、イエスと神の御言葉のこの関係は、モーセと神の御言葉との関係をも思わせます(申命記18章18節)。
【ほんとうに知った】「知った」が省かれている異読があります。この読み方だと「わたしがあなたから出たことをほんとうに受け入れ、あなたがわたしをお遣わしになったと信じた」となります。しかし、「知る」と「信じる」は、6章69節でも「信じた、そして知った」とありますから、8節の「ほんとうに知った」も、ほんらいの読み方でしょう。ここでは「知った」と「信じた」がアオリスト形になっているので、福音書記者の視点から見て回顧的に語られています。
【お遣わしになった】父がイエスを遣わしたことが、この祈りでは5度も繰り返されます(8節/18節/21節/23節/25節)。これは、父がその御子を「地上における」イエスとして遣わしたことを強調するためで、これがヨハネ福音書の「遣わす」の意味です。逆に言えば、地上におけるイエスこそ、父を人々に証しする方なのです。
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