59章 もう一人のイエス
14章15〜24節
■14章
15「わたしを愛しているならば、あなたがたは、わたしの掟を守る。
16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところへ戻ってくる。
19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
【注釈】(1)
【注釈】(2)
【講話】わたしを愛しているならば、
あなたがたは、わたしの掟を守る。
わたしは父にお願いしよう。
父はもう一人の弁護者をあなたがたに与えて、
永遠にあなたがたと共にいるようにしてくださる。
この方は真理の霊である。
世は、この方を受け入れることができない。
この方を見ようとも知ろうともしないからである。
あなたがたはこの方を知っている。
あなたがたと共に留まり、
あなたがたの内に居続けるからである。
(14章15〜17節)
■時の中を歩むイエス様
ここは、イエス様が弟子たちと別れて、十字架へ向かう直前の「別れの説話」の御言葉です。イエス様は、今は弟子たちと別れて行くけれども、その代わりに「もう一人の弁護者」をあなたたちにお遣わしになるよう父にお願いしよう。こう言っておられます。「弁護者」とあるのは、ギリシア語で「パラクレートス」です。「パラクレートス」とは、法廷で訴えられた人を弁護する人のことですが、もっと広い意味で、「助ける人」「慰め励ます人」の意味も含まれます。新共同訳では「別の弁護者」とあって、これでもいいのですが、「別の」は「別に」のことではありませんから注意してください。「別に」であれば、今おられるイエス様の「ほかに」、別にいることになります。そうではない。ここは「別の」弁護者です。これは、イエス様以外の弁護者のことではなく、イエス様の「代わり」です。だから、イエス様は「弁護者」です。
イエス様は、弟子たちと共に地上におられた間、弟子たちに向けられる様々な非難やそしりをご自分のものとしてかばってくださった。それだけでなく、人びとから非難された人たち、権力者から蔑まれた人たちをかばい、彼らを助け、慰め励ましてくださった。なによりも、イエス様は、悪霊や悪魔の苦しみや攻撃から人びとを護ってくださった。だから、イエス様は、「パラクレートス」の働きをしてくださったのです。イエス様が、このようにされたのは、イエス様の父なる神がこのようにされる方だからです。イエス様の父なる神は、「高い者を低くし、低い者を高くする」(ルカ1章51〜53節)のです。
このイエス様が、今弟子たちから離れ去ろうとしています。でも、大丈夫。わたしは父にお願いして「もう一人の弁護者」を遣わしていただくから。こう言われるのです。これがパラクレートス、「もう一人のイエス様」です。ですから、「パラクレートス」は、第一に、かつて地上を歩まれたナザレのイエス様のことです。このイエス様が、復活されて、パラクレートスの御霊として神から遣わされて、わたしたちといつまでも共にいてくださるのです。そのお姿は、今のわたしたちに、はっきりとは顕れていませんが、世の終わりには、はっきりと、人びとの前に顕現します。
(1)地上のイエス様。(2)復活されたイエス様。(3)聖霊となって降られ、わたしたちと共におられるイエス様。(4)世の終わりの時に再臨するイエス様。これらの過去・現在・未来のイエス様がひとつになって、パラクレートスのイエス様として、わたしたちと共に御臨在くださる。これが新約聖書の伝える「御霊のイエス様」です。キリストの教会は、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、ギリシア・ロシアの東方教会であろうと、この同じイエス様をキリストとして礼拝し、信じつつ歩んできたし、今も歩んでいて、これからも歩んでいきます。「イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることがない」からです(ヘブライ13章8節)。
■三位一体の宿り
今回の箇所で、もうひとつ大切なことがあります。それは、パラクレートスの降臨が、イエス様から「父にお願いして」とあることです。だから、パラクレートスは、イエス様の一存で遣わされたのではありません。父がイエス様のみ名を通してわたしたちにお遣わしになった「真理の霊」です(15章26節)。これがパラクレートスです。パラクレートスとイエス様はひとつですから、聖霊とは、主ご自身のことです。
聖霊は、いわゆる「霊能」のことではありません。だから、自分も霊能を身につけて、人びとに誇示しよう。こう思う人は注意したほうがいいです。霊能に溺れたり、霊能を私(わたくし)しようとしたり、うっかり霊能を自分の能力だと思い違いをすると大変なことになります。霊能がイエス様から切り離されると、いわゆる新興宗教の教祖様が言う念力の霊能と同じレベルになってしまいます。お金儲けの道具になる恐れもあります。霊能ビジネスになっては大変です。
聖霊と御子は一つ、御子と父はひとつ、御父と御子と聖霊様は三位一体、ひとつになって働いておられます。三位一体は、宇宙の創り主の神の「交わりの」有り様です。創造する神は、宇宙を造り、宇宙に宿り、宇宙に居る人間に宿ってくださる。これが、宇宙を創造する神の御業です。だから、イエス様の御霊を宿す人には、宇宙万物を造られた神ご自身が宿り、働いておられる。これが、新約聖書が伝える神のお姿です。
■イエス様が見えない世
皆さんが、このコイノニア会にお出でになるのは、この私市を喜ばすためではない。そうではなく、主様を信じておいでになるからです。それ以外に、お出でになる理由がありません。私市のことはどうでもいいのです。あなたが、主を信じて、あるいは信じようとしてお出でになったこと、このことが<イエス様とあなたとの間で>とても大事なのです。イエス様の御霊とは、交わりの中に顕れるお方です。同時に、イエス様の御霊は、一人一人に顕れて、その人と共に宿り、その人と共に歩んでくださる。これが、「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる。わたしが父のみもとへ行くからである」と言われた意味です。こんなすばらしい出来事がありますか。こんな有り難い賜(たまもの)がありますか。
イエス様は、「世は、この方を受け容れることができない」(14章17節)と言われます。「この方」とは御霊のイエス様のこと、パラクレートスのことです。いわゆる「この世」の人びとには、このイエス様の御臨在が見えません。なぜでしょうか?この方を「見ようともせず、知ろうともしない」からです。「信じられない」と言いますが、「信じられない」のではなく、「信じようとしない」のです。イエス様を「観る」と言い「信じる」と言い「知る」と言いますが、実はこれらは同じことです。「見えない方を観て」とヘブライ11章27節にありますが、これは「見えない方を信じて」と同じことです。復活のイエス様を「観た」人、この人は復活のイエス様を「知った」人です。「観る」と「知る」と「信じる」はひとつです。御霊のイエス様の御臨在を「観て」いるのに「信じない」などということはありえません。
どうして見える人と見えない人とがいるのでしょうか?イエス様のお姿が見えない場合がふたとおりあります。ひとつは、見ようとも、知ろうともしない人たちです。ほとんどの場合がこれです。「しない」とは、無視することです。「この世」の人とは、神様もイエス様も無視する人のことです。マザー・テレサは言いました。「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無視なのです」。その通り、この世はイエス様を「愛さない」のです(14章24節)。
もうひとつ「見えない」タイプがあります。今度は、自分の力でいろいろと努力するタイプです。実は、クリスチャンにこのタイプが多いです。わたし自身もかつてそうでしたから、これはよく分かります。一生懸命自分で考える。ああだ、こうだとひねくりまわす。お終いには、なんだか分からなくなります。「見ようとする」のはいいのです。でも、「自分でやろうとしない」ことです。聖霊はわたしたちに近いです。でも、聖霊は神ご自身の顕れですから、見てやろう、信じてやろう、などと思い上がって自力で「努力する」のは逆です。イエス様を信じるのは、そういうプライドを捨てるところから始まる。イエス様を「見ようとする」のではない。イエス様が「見える」のです。「見える」のは「見させていただく」からです。わたしたちのほうが、自分勝手に動き回っていては、見えるものも目に入りません。
「先ず」祈る。イエス様、み姿を見させてください、顕してくださいと祈る。これだけです。だから、無視「しない」と、自力で「しない」のふたとおり「しない」があります。一方は神様のお言葉を拒むことを「しない」。もう一方は自力で「しない」です。イエス様の御霊は不思議です。人の思いや考えとは逆に働いて、「信じさせてくださる」御霊と、「自力でさせない」御霊です。自分には見えているのに、どうしてあの人には見えないのだろう?時にはこう思うかもしれません。でも、「あなたがたが互いに愛し合っていれば」、世の人には、イエス様の御臨在がちゃんと分かる。イエス様はこう言われています(13章35節)。
■イエス様からの霊能
今話したことは、霊能にも通じます。霊能にもいろいろありますから、異言を例に取ってみます。わたしは、ずいぶん長らく異言を体験していますから、ごく当然なこととして受け容れています。ところが、世の人びとだけではなく、クリスチャンの中でさえ、異言を否定し信じようとしない人たちがいます。最近は、さすがにそういうクリスチャンは少なくなったけれども、それでも異言を批判する人、あるいは軽蔑して無視する人たちがいます。聖書学の先生方や牧師さんの中にもそういう方がおられます。癒しも同じです。こういう霊能現象を無視するか、あるいは避けておいでになる。霊能を批判する人たちは、その霊能現象は、はたしてほんとうなのか? これの真実を確かめるために、正面から向き合おうとはしないのです。ハーヴァード大学のハーヴェイ・コックスという教授は、この人自身は異言を語ったことがないのですが、アメリカだけでなく、南米や韓国を訪問して、様々な場所で語られる異言を実際に見て、フィールド・ワークとして研究しています。彼は、その成果を『天からの炎』と題して出版しました。
ところが、これとは逆に、今度は霊能を自力で追い求める人たちがいます。異言を語ろうと一生懸命努力する。そういう人の気持ちは、わたしにはよく分かります。でも、異言は、語ろうとして出てくるものではないし、語ろうとしなくても、イエス様との交わりの中で、ひとりでにでてくる。大事なのは異言を語るかどうかではないのです。大事なのは、イエス様を心から求めるか、同じことですがイエス様を愛するかです。これが「父に愛される」秘訣で、一番大事です。言うまでもなく、霊能現象は異言だけではなく、実にいろいろあります。わたしがびっくりするようなことがあるようです。でも、そういう集会に出ても、わたしは何も変わりません。自分に与えられたイエス様の御霊にあって感謝して賛美します。カトリックの大聖堂であろうと、どこの国のプロテスタントの聖堂であろうと、どんなペンテコステの集会であろうと、無教会の集会であろうと、倒されてひっくり返っている集会であろうと、冷静な学問的な集会であろうと、わたしは何も変わりません。お寺の中だって変わりません。いつでもどこでも、イエス様ただおひとりです。自分とイエス様の御霊にある三位一体の交わり、このコイノニアのなかにいるだけです。宇宙万物の造り主である神様の御霊のお働きですから、いろいろあります。あって当然。そうでなければ、人間が自分勝手な思いこみで限定している「宗教」や「神学」に過ぎません。神様のお働きではないのです。
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