【注釈】(1)
■パラクレートスの約束
今回のところから、初めて「パラクレートス」と呼ばれる聖霊の約束が、イエス自身の口から弟子たちに語られます。しかし、ここで語るイエスは、かつて弟子たちに語ったイエスであると同時に、ヨハネ共同体が信じている復活したイエス・キリストですから、ここで語る作者は、すでに約束の聖霊を体験しています。だから作者は、聖霊授与の約束を回顧的に見ていることになります。言い換えると、約束が成就したその後から約束が語られているのです。このように、ある出来事が起こった後になって、その出来事があたかも先に預言(約束)されていたかのように語ることを「事後預言」と言います。もしも「事後預言」なら、イエスは、生前に聖霊の約束をしていなかった。それなのに作者は、あたかも生前にイエスが約束した「かのように」ここでイエスの口を通して語らせている。こういうことにもなります。では、ここでのイエスの約束は、はたしてそういう「事後預言」でしょうか?
ヨハネ共同体が、イエス・キリストの聖霊をすでにパラクレートスとして体験していて、その体験に基づいて、ここでイエスに約束の言葉を語らせているのは確かです。けれども、「そのこと」と、イエスがその生前に聖霊の約束を「語らなかった」かどうかは、別の問題です。この点を確認しておきます。いったい、ナザレのイエスは、弟子たちに聖霊の約束あるいは降臨について語ったのでしょうか? それとも語らなかったのでしょうか? この問いは、バレットの言い方を借りるなら、イエスが聖霊について語ることが、そもそも「ありえたかどうか?」ということになります。ただし「ありえた」からと言って、実際に約束を「語った」ことにはなりません。しかし、「ありえなかった」のなら、イエスが約束を口にすることはなかったはずです。以下で、この点を四つの視点から見ていくことにします。
(1)マタイ12章28節で、イエスの悪霊追放の業をファリサイ派の人たちが「彼はベルゼブルによって悪霊を追い出している」と批判しています。すると、イエスが答えて「もしもわたしが悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのなら、いったいあなたたちはなんによって追い出すのか?」と反論してから、「もしもわたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国は、あなたたちのところへすでに来ている」と告げています。この言葉が、ほんとうにイエスの口から出たものかどうかについて、「マタイ12章28節の信憑性は、現代の学問的な批評の結果確認されている部分の一つである」〔デイヴィスとアリスン著『マタイ福音書注解:8~18章』〕と言われています。ここでイエスが語っていることで、注意しなければならない点がふたつあります。
ひとつは「神の霊」とあることです。イエスは、自分を通して「神の霊/聖霊」が働いていることをはっきり自覚していたことをこの28節は伝えています。イエスの受洗以来「神の霊」が働いて、その霊能が発揮されていたことは、イエス自身だけでなく、弟子たちも周囲の人びとも認識していたと四福音書は伝えています。「思うに、イエスの名声は、ほんらい癒しの、特に悪霊追放の結果生じたのは確かだと言えよう。このことは、イエスは、ほんらい教師であるとする一般的な見解に訂正を迫るものである。彼はまた奇跡の業を行なう人でもあったし、ある人たちにとってはそのほうが第一だったのである」〔サンダーズ『イエスの歴史像』より〕。 もうひとつは、「神の国はすでに来ている」とあることです。ここでの「神の国」は、人類の歴史の未来において初めて顕現するキリストの王国としての神の国のことではありません。そうではなくて、ここでは、イエスの在世の時に、人びとの目の前で、ほんらい終末において成就する「神の国」が、すでに現臨していることをイエス自身がはっきりと告げているのです。イエスの「もしも・・・・・」は、この意味です。だからマタイ福音書は、通常用いる「天国」という言い方をここでは避けて、マタイ福音書としては珍しく「神の国」という用語をそのまま保持しています。わたしたちは、聖霊がイエスを通して働いていたこと、そのことをイエス自身が自覚していたこと、そして、聖霊の働きによる「神の国」が現臨することによって、歴史上に「すでに終末が到来していた」こと、このことをはっきりと確認することができます。ルカ10章18節に、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とあるのも同様の意味で、ヨハネ12章31節でも、イエスは、「今こそこの世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」と言い表わしています。言うまでもなく、ここの「今」は、ヨハネ共同体の「今」のことではなく、イエスの在世当時の「今」を指しています。
大切なのは、ここでの「神の霊」が、だれか「ほかの人にも」働く霊のことではなく、「イエスに働いていた」霊であることです。「イエスの御霊」と「神の国」は、ここで分かちがたく結びついています。イエスが歴史上に実在した時と同じ意味で、神の国は歴史上に実在したのです。では、その「霊」とは、どのような「霊」でしょうか?
(2)洗礼者は、自分が水でバプテスマを授けるために遣わされたことを証しした後で、さらに続けて、自分を遣わされたその方が、「ある人に霊が降るのを見たら、その人こそ聖霊でバプテスマする人だ」と告げられたと述べています(1章33節)。「聖霊でバプテスマする方」とはイエスを指します。マルコ福音書にも同じく「聖霊でバプテスマする人」とありますが、マルコ福音書では、鳩が降りるのを観るのはイエス自身です。これに対して、ヨハネ福音書では、洗礼者のほうがこれを観るのです。ヨハネ福音書の作者は、聖霊のしるしである鳩が、イエスのためではなく、証人となる洗礼者(とこれを見た人たち)のためでもあると証ししているのです(12章30節を参照)。マタイ福音書とルカ福音書では、ここは「聖霊と火によって」になっています。「聖霊」という言い方は、キリスト教会の成立以後に用いられるようになったと考えられますから、洗礼者が実際に語ったのは「霊と火でバプテスマする人」ではなかったかと思われます。洗礼者の言う「霊」とは、自分を遣わした方の「霊」のことでもあり、これは、イザヤ預言に基づく「霊」です(マルコ1章1~3節)。このイザヤ預言の「霊」は、イエスにも注がれていますから、イエスは、ナザレの会堂で、その「霊」の証しとして、イザヤ書61章1節を引用しています(ルカ4章18節)。だから洗礼者は、「自分の後から来る者」には、旧約聖書で証しされている「霊と火」が臨むと証言していたのです。
(3)次に、イエス自身が証ししている箇所を採りあげます。イエスは次のように言います。「詩編には「主(ヤハウェ)はわたしの主(アドナイ)にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』」とある。このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか?」(マルコ12章36~37節)
ここでイエスが引用した詩編(110篇1節)は、イスラエルの王が即位する戴冠式で、王に捧げられる詩のことです。即位する王は、イスラエルの王権を司る者として、神の右に座す者、すなわち主ヤハウェの地上での「代理」にあたりますから「主」と呼ばれます。主なる神ヤハウェは、その王に向かい「あなたの敵」を屈服させるまで主なる神と共にいるように告げて、即位するイスラエルの王(主)への保護を約束するのです。「わたしの(主)」とあるのは、王にこの詩を捧げる臣下(の詩人)のことです。ここで言う王は、ダビデ王朝の王ですから、この詩編は「ダビデの作」とされたのでしょう。
しかし、捕囚以後のイスラエルでは、かつてのダビデ王朝時代の王権はもはや失われていました。これに代わって、イスラエルの救いは、神の右に座す「メシア」の到来に期待されるようになります。このために、「主なる神とイスラエルの王」の関係が、「神とメシア」の関係へ移行することになります。こういうわけで、イエスの時代には、この詩編には、「主なる神」と「主」と呼ばれるメシアと、そして詩の作者としての「ダビデ」の三者がでていると解釈されました。この解釈に従うなら、この詩の作者ダビデが、主なる神が遣わすメシア(主)にこの詩を捧げるという関係になります。イエスがここで引用している詩編は、当時のこのような解釈に基づいています。この解釈によって、イエスは、ダビデがメシアを「主」と呼ぶのなら、どうしてメシアが「ダビデの子」なのか?と問いかけたのです。詩編110篇は、イエスの復活以後のキリスト教の諸教会でもしばしば引用されて、新約聖書に32回も言及されています。この詩編は、イエスのメシア性を預言するもので、イエスはメシア(キリスト)として、「ダビデの子」以上の存在、すなわち「神の御子」であることを証ししていると解釈されたからです。このために、イエスによる詩編110篇の引用の記事は、後の教会による創作だと言われるようになりました。
では、マルコ福音書が伝えるこの伝承は、実際のナザレのイエスには結びつかないのでしょうか?イエスの復活以後の教会が、詩編の言葉をイエス・キリストの復活後の栄光と重ねたから、マルコの記事は事実に基づく記事ではない。こう判断する根拠があるのでしょうか? 復活以後の教会は、イエスがダビデの子であることを確信していました(ローマ1章3節)。ところが、ここでのイエスの答えは、「メシアがダビデの子ではない」とも解釈できるような問いかけなのです。だとすれば、マルコ福音書のこの記事が、キリスト教会によって「創出された」と想定することはできません。最近では、この伝承は実際のイエスの出来事にさかのぼると受け取られています〔フランス『マルコ福音書注解』/エドワーズ『マルコによる福音書注解』/エヴァンズ『マルコ福音書注解』/デイヴィスとアリスン『マタイ福音書注解:19-28章』〕。
では、この伝承のもとの形はどのようなものだったのでしょうか? これがよく分かりません。一つ考えられるのは、イエスがメシアであるという評判が広まるにつれて、イエスが「ダビデの子」であることをイエスの口から言わせようとして仕掛けられた罠だったのではないか、という見方があります。「ダビデの子」を称することは、イエスの当時の政治的、宗教的な状況から見て危険を伴うからです。だとすれば、イエスの引用に先立って、例えば「あなたはメシアで、ダビデの子なのか?」というような質問が先にイエスに向けられていたことになります。イエスは、この罠を見破って、逆に相手に問い返したことになります。
以上のことを念頭においてここを読みますと、まず、ダビデ自身が「聖霊を受けて」言ったとあるように、イエスは、聖書が聖霊(洗礼者の言う「霊」)による書であるという信仰に立って語っていることが分かります。このことは、イエスの霊性が、旧約聖書の霊性と深く関わっていたことを証ししています。「メシア」にはいろいろな意味が含まれますから、イエスは、何らかの意味で自分を「メシア」と見なしていた形跡があります。その上で、イエスは、ここでメシアを直接ダビデの子と結びつけるのを避けていることになります。王としてのダビデの子は、ほとんど「神の子」に近い意味を帯びていますから、「人の子」としてのイエスは、この称号を受け容れなかったのかもしれません。
したがって、イエスは、神の霊に霊感された言葉として聖書を受け容れ、さらに自分が、何らかの意味でメシア的霊性を受けているという自覚を持っていたと考えられます。ここの引用は、イエスの復活以後の教会において、聖霊降臨に際して、「ダビデにまさるメシア」として、ペトロの口からも語られます(使徒2章34~35節)。ペンテコステの聖霊が、旧約聖書の預言に基づくという信仰は、使徒言行録(2章17節以下)でも証しされており、イエスの復活以後に弟子たちに降臨した聖霊が、ヨエル書3章の預言に基づいていると証しされています。
以上のほかに、もうひとつ、イエスの霊性と旧約のつながりについて触れておきたいのは知恵の書です。この書に表わされている「人を慈しむ知恵の霊」(知恵の書1章6節)、知恵の受難(同2章12節以下)、神の「独り子」としての知恵(同7章22節に「単一なる霊」〔新共同訳〕とある「単一」は「独り子」のこと)、知恵の霊の擬人化/人格化(8章2節以下)、知恵と救済史(10章以下)など、知恵の書が、イエスの霊性に深く関わっていることが洞察できます。
このように見ると、イエスに働いていた「霊」が、旧約聖書が証しする「神の霊」と不可分に結びついていることが分かります。「聖霊がつねにイスラエルの歴史に臨在したということは、すでに、聖霊が、神との関係において、『父の約束』とされていることに暗示されている」のです〔イェルヴェル『使徒言行録の神学』〕。この信仰はパウロにも受け継がれて、彼もまた聖霊を「約束の賜」と見ています(ガラテヤ3章14節)。
(4)イエスに働いていた聖霊は、共にいた弟子たちにも働かなかったのでしょうか? 共観福音書は、イエスが弟子たちを町々村々へ「遣わした」と証ししています。特にマルコ9章14節以下では、弟子たちが、イエスにならって、てんかんの子供を癒そうとして失敗した例がでています。これなどは、イエスに働く御霊の霊能を自分たちも受けようとしていた弟子たちの姿を彷彿(ほうふつ)させます。同じ章に、だれかほかの者たちが「イエスの名前を使って」悪霊追放を試みていたとありますが、これをイエス復活以後の教会とその周辺で行なわれたことが歴史のイエスに「転移されている」と見るのは、学問的に見ても誤りです(もちろんそのような者たちが当時の教会の周辺にもいたことを否定するのではありませんが)。「イエスが活動していた時にもすでにそのような者たちがいたことを否定する理由はない」と見るのが、学問的により適切です〔川島貞雄「マルコによる福音書」『新共同訳:新約聖書注解』〕。これで分かるとおり、イエスは、やがては弟子たちも、神の国を伝えるために「遣わされる」ことをはっきりと意識していたと考えられます。ここで「遣わす」というのは、イエスに働いていた聖霊の働きが弟子たちを通しても同じ働きを発揮することを意味します。
このように、イエスが何らかのかたちで、やがて弟子たちにも聖霊体験が訪れることを示唆していたと考えることができます。「エルサレムを離れないで、<わたしから聞いていたように>父の約束された聖霊を待ち望みなさい」(使徒1章4~5節)という弟子たちへの命令は、復活したイエスが弟子たちに与えた言葉ですが、「わたしから聞いていたように」とは、イエスの在世当時に、弟子たちにそのような予告があったことを示唆するものです。したがって、イエスが生前に弟子たちに聖霊降臨の予告をすることは「ありえなかった」という推論は、学問的に見て誤りです。どのようなかたちかは分かりませんが、なんらか予告があったと見るほうが正しいと考えられます。
戻る