【注釈】(2)
■14章15~17節
わたしを愛しているならば、
あなたがたは、わたしの掟を守る。
わたしは父にお願いしよう。
父はもう一人の弁護者をあなたがたに与えて、
永遠にあなたがたと共にいるようにしてくださる。
この方は真理の霊である。
世は、この方を受け入れることができない。
この方を見ようとも知ろうともしないからである。
あなたがたはこの方を知っている。
あなたがたと共に留まり、
あなたがたの内に居続けるからである。
 
[15]15~17節で聖霊の約束が与えられ、18~19節ではイエスの再臨が約束され、20~21節では父からの約束が語られますから、御霊と御子と御父の三重の約束が語られています。
【わたしを愛しているならば】「愛する」の原語は「アガポー」です。原初教会では、「イエスを信じる」ことが信仰の告白として重視されました。しかし、今回のように、「イエスを愛する」ことが重視されるのは比較的後で、エフェソ6章24節(60年代)や第一ペトロ1章8節(70年代)やヨハネ8章42節(85~95年か)の頃からです。復活したメシア(キリスト)であるイエスへの信仰が、その「見えないみ姿を愛する」(第一ペトロ1章8節)人格的で個人的な交わりへ深められていく過程をここに読み取ることができます。ただし、「イエスを愛する」ことを人間の自然な情愛の発露だと見なすならば、その「愛は」誤解を招きます。なぜなら、この愛は、生前のイエスが、「わたしよりも父母を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ10章37節。ここの「愛する」の原語は「フィロー」で、人間的な情愛の意味が含まれます)と語ったように、イエスの言う「愛」は、イエスに「従う」ことと結びついているからです。ヨハネ福音書では、イエスへの信従が、ペルソナ(人格)的な信愛の交わりへと深められているのです。こういう「イエスにある愛の交わり」は、これ以後、キリスト教神学が形成されていく大事な基礎になります。
【わたしの掟を守る】ここを「守りなさい」と命令形で読む異読があります。しかし、イエスを愛するならば「守るようになるだろう」という未来形、あるいは、きっと「私の命令を守ることになるはずである」〔岩波訳〕という接続法にとるほうがいいでしょう。ただし、「わたしの掟を守り愛しなさい。そうすればわたしも父上に願って」〔塚本訳〕のように、「守る」をも命令に含めるほうが16節とつながりやすいとも言えます。「わたしの掟」とは「互いに愛し合う」ことです(13章34節)。命令/掟と愛のこの結びつきは、神とイスラエルの民との契約関係にさかのぼります(申命記6章4~5節)。先に引用したマタイ10章37節のイエスの言葉も申命記のこの言葉に基づいています(マルコ12章29~31節をも参照)。  
 愛がイスラエルの律法の要であることは、申命記以来のユダヤ教神学の中心的な課題でした。これがイエスによって確認されることで、原初教会へ受け継がれます。キリストの御霊にある愛がシナイ契約に基づくモーセ律法を成就することは、すでにパウロ書簡にはっきりと語られています(ガラテヤ5章13~14節/第一コリント13章1~7節/ローマ13章8~10節)。ヨハネ福音書の「(掟を)守る」にも「成就する/全うする」ことが含まれます。しかし、ヨハネ福音書では、契約に基づく律法から生じる愛の「命令」ではなく、むしろ、イエスとの交わりにおける愛が、互いに愛し合う「兄弟愛」の源になります。このように、聖餐(ヨハネ福音書では洗足)と愛の戒めを結び、これをイエス・キリストによる「新しい契約」として確認し、聖霊の授与をこの愛の契約の成就と見る神学は、ヨハネ福音書において成立しました。
[16]【別の弁護者】「弁護者」はギリシア語の「パラクレートス」です。 このギリシア語は、ヨハネ福音書に4回(14章16節/同26節/15章26節/16章7節)と第一ヨハネの手紙に1回(2章1節)用いられています(これ以外にも「彼は/その方は」としてでてきます)。「パラクレートス」は、「(裁判の席で)弁護する者」「執り成す者」「助ける者」などの意味を含みます。「弁護する者」「執り成す者」について言えば、
(1)旧約時代では、神の前で罪を犯した人のために「執り成す者」として、アブラハム(創世記18章23~33節)、モーセ(出エジプト32章11~14節)、サムエル(サムエル上7章7~12節)、エレミヤ(エレミヤ14章7~9節)などがいました。彼らは、個人のためよりは、罪を犯したイスラエルの民全体のために、神に向かって赦しを願う者となりました。このために彼らはヘブライ語で「メーリーツ」(仲保者/執り成す者/弁護者/〔神と人との間の〕通訳者)とされたのです。この弁護の役目は、人間の祈りを神に仲立ちするだけでなく、後になると、神による「裁きの法廷」の場において、民あるいは個人を弁護し擁護することを指すようになります(『第一エノク書』/エチオピア語エノク書99章3節)。
(2)捕囚以後の初期ユダヤ教の時代では、ヘブライ語/アラム語の「プレークリート(プレークレート)/プレークリーター(プレークレーター)」が、同じくヘブライ語/アラム語の「スネーゴール」(弁護者/擁護者)と同じ意味で用いられるようになりました。「スネーゴール」は、ヘレニズム時代のギリシア語「スネーゴロス」(弁護者)からの借用語です。「プレークリート(プレークレート)/プレークリーター(プレークレーター)」もおそらくギリシア語「パラクレートス」(法廷に呼び出されて助言する者)からでていると思われます。これの反対語はヘブライ語の「カテーゴール」(ギリシア語の「カテーゴロス/カテーゴール」)で、「告訴する者」のことです〔Theological Dictionary of NT.(5)802〕。このギリシア語は、七十人訳では「パラクレートレス」とあって、ヨブ記(16章2節)に「慰め慰撫する者たち」があるだけです。ただし、ユダヤ教では、ヘレニズムの用語にはない「神の裁きの前での弁護者」「神の裁きへの盾」の意味が含まれてきます。特にモーセと天使ミカエルが、人を神の裁きから救う「大いなる弁護者」と見なされました。注意すべきは、天使たちと同様に人格化された「真理の霊」もまた執り成しの働きをすることです(『ユダの遺訓』20章1節)〔Theological Dictionary of NT.(5)810〕。おそらく、執り成しの天使から、執り成しの「霊」へと役割が転移されたのでしょう。ここから罪人の赦しを求める「霊」の働きまでは、それほど離れていません。ちなみに、フィロンでは、「パラクレートス」は、常に神の法廷での弁護者の意味です。なおユダヤ教では、「神の好意/恵み」「善行」「敬虔な行ない」「施しの慈善」「罪祭」などが、神の怒りを宥める弁護の働きをすると考えられました。
(3)新約聖書の「パラクレートス」は、ユダヤ教の意味を受け継いで、ほんらい、裁きの法廷での弁護者あるいは執り成す者を意味します。だから第一ヨハネ2章1節の「パラクレートス」は、罪を犯したクリスチャンのために神の御前で「執り成す者/弁護する者」です。
 イエスは、裁判の場でどのように言うべきかを「その時その場で<聖霊が>教えてくださる」(マルコ13章11節)と弟子たちに告げていますから、身分の低かった弟子たちが、議会や高官たちの前に引き出されることを予測していたのです。ここでは、聖霊が彼らと共に立ってくれることがはっきりと約束されています。パウロは、祈りにおいて「呻きをもって執り成す霊」(ローマ8章26節)のことを語り、ルカ福音書でも同じ予告と聖霊の働きが約束されています(ルカ12章11~12節)。なお、このような「霊」の働きが「知恵」と結びつけられているのに注意してください(ルカ21章12~15節)。
 14章16節に「別の弁護者」とあるように、ヨハネ福音書の「パラクレートス」は、はっきりと人格的な存在として、なによりも「地上のイエス」に代わる者です。「別の」は、「別に」ほかの弁護者を遣わす、と読むこともできますが、そうではなく、「別の弁護者」、すなわち弁護者であるイエスに代わる「もう一人のイエス」を指すと解釈されています〔ブルトマン/ブラウン/バレット〕。このことは、まずナザレのイエスこそが、「弁護者」であり「助ける者」であり、パラクレートスであったことを思い起こさせます。イエス自身が、地上の働きにおいて、天の神に向かって民のために、弟子たちのために弁護する者でした(ルカ22章31~33節)。だから、イエスは、自分が弟子たちから離れた後でも、「もう一人の自分」を父が遣わしてくださると約束するのです。ただし14章16節の「パラクレートス」は、神の裁きの場での弁護者よりもさらに広い内容を含むもので、動詞の「パラカロー」が意味する「助けを求める/慰める/勧める」ことをも含むのでしょう。「パラクレートス」は、地上のイエスの働きを「維持し」「拡大し」「成就する」のです。「もしもイエスが、旧約聖書とユダヤ教の世界観を採ることで、この用語〔パラクレートス〕を自己が自覚するある側面を表わすのに適切であると思ったとすれば、ヨハネ福音書(14章16節)においてイエスの口から語られる『パラクレートス』は、イエス自身への密かな言及であると理解してもいいであろう。このギリシア語は、イエス自身が用いたイエスの母語の『プラクリーター』をまさしく思い起こさせるものである」〔Theological Dictionary of NT.(5)813~14〕。
【永遠に】ギリシア語「アイオーン」(単数)が用いられています。「この世(アイオーン)の終わりまで」の意味に理解することもできますが、ヨハネ福音書を含め、ヘブライ語で言う「永遠」は、時間と空間を完全に超越した絶対的な「永遠性」を意味するギリシア哲学の抽象的な概念とは異なって、不特定の過去から不特定の未来へつながる「いつまでも」「世々限りなく」の意味です。視点はどこまでも現在にあります。復活したナザレのイエスは、かつてあったように今もおられ、これからいつまでもおられるのです(ヘブライ13章8節)。この方は、わたしたちのこの世界の歴史の中を「わたしたちと共に」歩みつつ、しかも今のこのアイオーン(時代/世)を克服しつつ、「来るべきアイオーン」へつなぐのです。ここでは、人間の目から見た客観的な宇宙と、これを観察する主観的な人間との区別はありません。この宇宙もわたしたち人間も共にひとつのアイオーンの内にあって、「新しい天と地」を創造される神の御業に参与するのです。このように、今のアイオーンが滅びても滅びることのない新しいアイオーンの創造と、これに参与することができる人間こそ、ナザレのイエスにあって啓示された「霊の人」であり、「もう一人のイエス」であるパラクレートスが、そのような業をわたしたちを通して成就してくださるのです。【共にいる】「いる」は「宿る/留まる」と読む異読もあります。「留まる」のほうが、ヨハネ福音書の「いる」の意味をよく伝えてくれます。
[17]【真理の霊】この言い方は別れの説話に三度でてきます(14章17節/15章26節/16章13節)。「霊」の原語「プニューマ」は中性ですが、ヨハネ福音書は、「この方」「彼」のように男性の代名詞で受けています。「真理」とはイエス自身を指しますから(14章6節)、「真理の霊」とは、パラクレートスが、かつて啓示されたナザレのイエスをわたしたちに「想起させ」、そうすることでわたしたちを「あらゆる真理へ」導き入れることです(16章13節)。これが、その霊が真理か偽りかを見分ける基準です(第一ヨハネ4章1~6節)。
【見ようとも知ろうとも】「世」とは、見えない人のことではなく「見ようとしない」人たちのことです。人は、イエスの御霊の臨在を「見て」「知って」から、これを「受け容れる」かどうかを決めるのではありません。そうではなく、御霊の臨在を「見た」人は、これを「知った」のです。「知った」人はこれを受け容れるのです。「受け容れない」のは、見ようとしないからであり、臨在を「知ろうとはせず」それゆえに「知らない」のです。なお、ここで「世」というのは、異邦の諸民族を含む「世の人びと」という広い視野を背景にしながら、より直接には、イエスを十字架にかけたユダヤの指導者たちに焦点を当てています。ただし、ヨハネ福音書が書かれた当時、ヨハネ共同体と厳しい対立関係にあったユダヤ教の指導者たちも、かつてのユダヤの指導層に重ねられていると見るべきです。ナザレのイエスこそ、父なる神が、ご自分を啓示するために遣わした御子であるというヨハネ共同体の信仰が、「キリスト教」として、その母胎であるユダヤ教から決別する段階に来ていることが分かります。
【あなたがたと共におり】「おり/いる」は現在形で、続く「内にいる」は未来形です。「いる」はナザレのイエスが「信じるあなたがた」と共に霊的に臨在することで、「内にいるであろう」は、現在の御霊の臨在が、新しいアイオーンへと続くことを指します。「共にいる/留まる」は、イエスに父が宿り、父がイエスに宿ることを表わしますが(14章11節)、ここでは、パラクレートスによって、信じる「あなたがた」にイエスが宿り、イエスの内にあなたがたが宿ることと重ねられます。「共に」と「内に」とあるのは、イエスの御霊が集会の「交わり」の中で働くだけでなく「個人」の内にも働くことを指すという解釈もあります。
■14章18~21節
わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかず
あなたがたのところへ来る。
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる。
だが、あなたがたはわたしを見る。
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
かの日には、あなたがたに分かる。
わたしが父の内におり、 
あなたがたがわたしの内におり、 
わたしもあなたがたの内にいることが。
たしの掟を保ち、これを守り抜く人こそ、 
わたしを愛する者である。
わたしを愛する人は、わたしの父に愛されよう。 
わたしもその人を愛し、彼にわたし自身を顕す。
 
[18]【みなしご】ここで再び14章1節の「心を騒がせるな」に戻ります。しかし、今度は、「もう一人のイエス」が共におられるという約束の中で語られます。だから弟子たちは「みなしご」にはならないのです。「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださる」(詩編27篇10節)からです。師と死別する弟子のことを「みなしご」と呼ぶのは、ヘレニズム時代の言い方で、プラトンの『パイドロス』(116a)にもソクラテースと死別する弟子たちが「みなしご」だとあります。【戻ってくる】原文は「来る」です。これは14章3節の「再び来る」(原文)と対応します。先の注釈のように「再び来る」は主イエスの「再臨」を指しますから、ここの「来る」も終末でのイエスの「パルーシア(再臨/来臨)」を意味すると考えられます(マタイ24章3節「あなたが来られて〔パルーシア〕世が終わる」を参照)。なお、18節の「来る」には14章3節の「再び」がないから、再臨を含まないという解釈は字句に拘泥しすぎでしょう。むしろ、パラクレートスの来臨に続いてここの「来る」が語られているのは、この「来る」が、パラクレートスのことではなく、イエスの再臨を指すととるべきです。その上で、この「来る」が、パラクレートスとして「もう一人のイエス」が「来る」約束と結びついて語られていることが重要なのです。続く19節に見るように、「来る」は、イエスの復活顕現をも表わします(20章19節/同26節参照)。だからヨハネ福音書では、イエスの復活顕現と聖霊降臨と再臨が二重あるいは三重になって語られることになります。言うまでもなく、これを語るヨハネ共同体は、イエスの復活顕現と聖霊降臨を体験しています。しかも、ここでヨハネ福音書は、<現在の>共同体の状態だけでなく、<かつての>イエスの弟子たちの状態、それもイエスの受難に先立つ弟子たちの「今の時」にも視点を置いています。ヨハネ福音書のこの描き方は、例えばルカ福音書のように、まずイエスの受難があり、続いて復活があり、昇天があり、これに続く聖霊降臨があり、最後に世の終わりの再臨が訪れる、という時間的な順序を追う描き方とはずいぶん異なっています。  
 ヨハネ福音書では、聖霊体験と復活体験がひとつになり、これに支えられたイエスの再臨の約束が、受難<以前の>弟子たちに与えられるのです。ここでは、ナザレのイエスの来臨とその復活とイエスの御霊の降臨とイエスの再臨が、パラクレートスのイエス、すなわち、「もう一人のイエス」に凝縮されています。かつてのイエスと将来来るであろうイエスが、パラクレートスのイエスとなって、かつての弟子たちとヨハネの共同体の「今」を結んで臨在するのです。これが、「世の終わり」に顕現する主イエスの再臨を望みつつ、「今の時に」この世の歴史を歩む共同体の霊性の実相です。これが「エゴー・エイミ」の現臨の意味です。ヨハネ共同体にとっては、ナザレのイエスの到来は、終末の到来であり、その復活は終末の証しであり、聖霊降臨は終末の現臨であり、再臨は終末の成就なのです。これらが一つに凝縮して、今の時をヨハネ共同体と共に歩む「もう一人のイエス」となるのです。これこそ、ヨハネ福音書以後のキリストの教会が、歴史の中を歩んできた「終末」の有り様です。「もう一人のイエス」が、この歩みを続ける限り、キリストの教会も「確信を持って」この歩みを続けるでしょう。キリストの教会は、ヨハネ共同体から常にこのように語りかけられているのです。「だから、子たちよ。今こそ御子の内にとどまり続けなさい。そうすれば、御子が顕現する時、確信を持つことができ、御子の到来(パルーシア)の時、御前で恥じ入ることがありません」(第一ヨハネ2章28節) 。
[19]【世はわたしを見なくなる】「しばらくすると」世がイエスを見なくなるのは、イエスが受難によって世から取り去られるからです。しかし、続いて「あなたがたはわたしを見る」とあるのは、弟子たちが復活のイエスに出会う(原文は「観る」)からです。
【わたしが生きるので】原文の接続詞を前半から切り離して「わたしが生きるから、あなたがたも生きるようになる」のように読むこともできます"Because I live, you also will live.”〔NRSV〕〔REB〕。また、接続詞を節の前半につないで、「わたしが生き、そしてあなたがたも生きるから~」”...because I live and you will live.”という読みもできます。「もう少しするとこの世の人はもうわたしを見ることができなくなるが、あなた達は間もなくわたしを見ることができる。わたしは死んでもまた生き、それによってあなた達も生きるからである」〔塚本訳〕。あるいは「あなたがたはわたしが生きているのを観る。だからあなたがたも生きるようになる」とも読めます。
[20]【かの日には】「かの日」という言い方は、ほんらい終末の日を指す言葉です(マルコ13章32節)。しかし、ここでは、続く内容から見て、明らかにイエスの復活以後の弟子たちの霊性と関連して語られています(16章23節/同26節)。だから、「かの日」は14章18節を指していて、イエスの復活とこれに続くもう一人のイエスの臨在を指します。しかし、その臨在が、同時に終末的な霊性につながることが節の後半と21節で明らかにされるのです(11章24~25節参照)。なお、世の終末の日を指す場合には、ヨハネ福音書は「終わりの日」という言い方をします(6章39節/同40節/同44節/同54節)。
【わたしが父の内に】20節の後半「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」は、14章11節から来ています。14章11節では、弟子たちは、イエスの内に父を観るように言われました。しかしここでは、イエスと弟子たちとの関係が、「父との関係において」もう一度採りあげられます。イエスと弟子たちとの交わりは、まず父とイエスとの交わりにその起源を持つからです。御父から御子へ、御子から神の子たちへです。「かの日にはあなたがた自身ではっきりと覚る」(原文)とあるこの認識は、だれでも無条件で与えられるものです。しかしながら、だれでもがこのような御父と御子との認識に達するわけではありません。御父と御子との交わりを認識するのは、「もう一人のイエス」がわたしたちに現に働いておられること、このことを覚るところに初めて生じるからです。だから復活のイエスを知るとは、自分の内にイエスの御霊が働いていることを知ることと一つです。これを覚ることが、その人にとっての「かの日」です。
[21]【わたしの掟】ここで14章15節へ、さらには13章34~35節へ戻ります。しかし、ここ21節では、御父と御子の二人に「愛される人」が聖霊にあって一つ交わりにいることが、今までなかったほどにはっきりと確認されています。父と子と聖霊にあるクリスチャンの交わり、これが13章34節の「新しい契約」、すなわち旧約に対する新約の内容です。【父に愛される】「(掟を)受け容れる」とある動詞の原語は「持つ/しっかりと保つ」です。同様に「守る」は「守り抜く/成就する」ことです。ここを「掟を守るならば、父に愛される」と、あたかも「父に愛される」ためには、まずもって「掟を守らなければならない」と読んでは誤解を招きます。愛の掟がその人に成就していることは、すなわちその人が父に愛されている具体的な証しなのです。「愛」は父の愛、父の愛は創造する愛です。わたしたちは造られた被造物です。だから、父が、人となられた御子を通じて、新たに造られたわたしたちに「愛」を創造し成就させるのです。14章1~20節までは、弟子たちに「あなたがた」と二人称で語ってきました。ところが21節では、「その人」と三人称に変わります。戒め/教えを伝える知恵文学の様式が用いられているのです。
【わたし自身を現す】「明白に現わす/顕す」ことで、この語は新約聖書でここだけです。この「顕す」は、復活のイエスが個人に啓示されることを表わす大事な用語です。旧約でこの用語は、特に神の顕現を表わすものです(出エジプト33章13節/同18節/知恵の書1章2節)。
■14章22~24節
イスカリオテでないユダが言う。
「主よ、いったいどういうわけで、
わたしたちに御自分を顕そうとするのに、
世にはそうしないのですか。」
イエスは答えて彼に言われた。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛し、
わたしたちはその人のところに行き、
彼のところを宿りの場とする。
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
あなたがたが聞いているのはわたしの言葉ではなく、
わたしをお遣わしになった父の言葉である。」  
 
[22]【イスカリオテでないユダ】ここの「ユダ」は、「イスカリオテのユダ」とは別人です(英語では、裏切り者のユダは"Judas"で、この節のユダは"Jude"として区別されますが、ギリシア語では同じです)。新約聖書には全部で5人の「ユダ」が登場します。ひとりはイエスを裏切るユダです。ほかの4人は、
(1)イエスの弟のユダです。イエスは「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ/ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟/兄」とあるからです(マルコ6章3節/マタイ13章55節)。新約聖書のユダの手紙は「ヤコブの兄弟ユダ」によって書かれたとありますが(ユダ1節)、おそらく、イエスとその兄弟ヤコブの弟であったユダの名を借りた後代の偽作だろうと考えられます。
(2)十二使徒のひとり「ヤコブの子ユダ」です(ルカ6章16節/使徒1章13節)。この「ユダ」はルカ系の文書だけにでてきますが、ヨハネ福音書がここで言うユダも12人のひとりなので、ルカ福音書の言う「ヤコブの子ユダ」と同一人物だと考えられます。これから判断するならば、マタイ=マルコ系のリストとルカ(とヨハネ?)系とのふたとおりの十二使徒のリストがあったのでしょうか。
(3)エルサレムの教会に「バルサバと呼ばれるユダ」がいたことが使徒言行録にでています(使徒15章22節/同27節/同32節)。
(4)パウロが回心直後にダマスコで身を寄せたのが「ユダの家」です(使徒9章11節)。  
 「ヤコブの子ユダ」については、使徒としてルカ福音書に名前が出てくるだけで、確かなことは分かりません。ヨハネ福音書の言う「イスカリオテでないユダ」もここ以外にでてきません。マタイ福音書とマルコ福音書の十二使徒のリストに「タダイ」がでていますが、「ヤコブの子ユダ」はなく、逆にルカ福音書のリストには「タダイ」がありません。このため「タダイ」と「ヤコブの子ユダ」を同一視する説もあります。二種類のリストを調和させるためでしょう。カトリック教会の伝承では、イエスの弟のヤコブを使徒のアルファイの子ヤコブと同一視しているようです。イエスの兄弟ヤコブは、後に「義人ヤコブ」と呼ばれるエルサレム教会の指導者になりました。この人がヤコブの手紙の作者だと見る説もあります。カトリックではさらに、ルカ福音書の使徒のリストにある「ヤコブの子ユダ」を同じリストにあるアルファイの子ヤコブの弟と見ているようです。兄が著名な人の場合、弟が「その子」を名乗る場合があるからです。だとすれば、イエスの兄弟ユダと使徒ユダは同一人物であり、この人物が、新約聖書のユダの手紙の作者になります。しかし、プロテスタントでは、このような同一を疑問視する説があります。  
 さらに、ヨハネ福音書のここの「ユダ」には、「カナニテースのユダ」あるいは「ユダ・トマス」と読む異読があります。「カナニテース」は「熱心党」のことですから、ここの「ユダ」をマタイ=マルコ福音書のリストにある「熱心党のシモン」と同一視しているのでしょうか。「ユダ・トマス」については、トマス福音書が「ディドモ・ユダ・トマス」の作であるとその冒頭にあります。トマスはシリアのエデッサで使徒として宣教していましたから、ヨハネ福音書のユダをこのトマスと同一視しているのでしょう。しかし、これらの同一視は、どれも確かでありません。
【どういうわけで】ここで問われているのは、イエスの真の霊性が、その弟子たちには顕されるのに、世の人びとにはいっこうに見えないことです。いったいどうしてこのようなことが「起きる」(原語)のですか? とユダは尋ねているのです。ヨハネ福音書は、イエスから離別しようとしている弟子たちの視点から、「なぜご自分をわたしたちに顕<そうとしている>のに、世の人にはそうしようとしないのか」とユダに言わせています。ここで「しようとしない/する」は、単なる未来ではなく、イエスの意志を含んでいます。ここで言う「顕す」を復活の顕現だけに限定する解釈もありますが、続くイエスの答えから、聖霊の臨在を「顕す」ことも含むと見るほうが適切でしょう。神はなぜ、わたしたちにイエスの神性を観させてくださるのに、世の人びとは観ることができないのか?貧しく名もないガリラヤの漁師たちやいかがわしい女たちではなく、大祭司とか著名な学者とか権力者とかに己を顕すほうが、世の人びとにとってはるかに説得的ではないのか? こういう至極もっともな疑問が、ここで提示されているのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』14章22節(注)809〕。
[23]【わたしの言葉を守る】「言葉」は、ここでは単数で、次の節では複数です。どちらもイエスのメッセージ全体を「イエスの言葉」としています(5章24節)。しかし、ここはその内容から、明らかにイエスの愛の戒め(これも単数と複数両方です)を指しています。「戒め」と「言葉」がひとつであることは、モーセの十「戒」が、十の「言葉」と言われていることでも分かります。これは単なる「命令」ではありません。イエスの父が与える「言葉」ですから、これを成就するのも父の働きによるのです。イエスの復活とこれに続く聖霊の働きが、いったいだれに見えて、だれには見えないのか? 答えは、その人が真実にイエスを愛するかどうか? イエスの言葉/戒めをその身に成就する(「守る」の意味)かどうか? これにかかっています。
【わたしの父は】15節では「わたしを愛している者は戒めを守る」ですが、ここでは戒めを守る者は「父に愛される」です。イエスの戒めを守る人は、父に愛されるのです。父に愛されるとは、イエスとその父が、その人を「宿りの場」とすることです。復活したイエスの聖霊の宿りの場です。「わたしたち」とあるように、御父と御子とが、御子の名によって父が遣わす聖霊となって「宿る」こと、これが、イエスの父の愛がその人に成就されることです。神ご自身の宿りとその顕現、これは、イスラエルの幕屋と神殿を通して伝えられてきたイスラエルの信仰の真髄です(出エジプト25章8節/列王記上8章27節以下)。御子イエスが旧約聖書の成就であるとはこの意味です。神は、歴史のナザレのイエスにおいてご自身を顕現されました。同じことが、歴史の中を歩む神の民にも起こるのです。なぜなら、この御業は、そもそもの初めから、神のよって起こされた創造の御業だからです。父が御子にあって世界を創造し(1章3節)、父がその御子を人間としてお遣わしになり(1章14節)、父がその御子を復活させ、父が、その御子に働く愛をその弟子たちに働かせるのです。ここでは、御子の内住と同時に、神ご自身の内住と顕現が人間に顕れること、このことをヨハネ福音書はわたしたちに伝えているのです。愛とは、戒めであり言葉であるだけでなく、愛とは創造する働きのことであり、神の力それ自体のことなのです(ガラテヤ5章6節/第一コリント13章13節)。
[24]【わたしを愛さない者】24節は23節を裏返しにしています。この節を最もよく説明するのが12章47~50節でしょう。イエスを愛することが、世からイエスの弟子を分かつのです。神の創造の御業が人びとに向けて顕される時、ある人びとには、「光よりも闇のほうを好む」(3章19節)ということが起こります。「世の人びと」が知らないのは知ろうとしないからであり、見えないのは観ようとしないからです。神の創造の御業は、「もう一人のイエス」にある御霊の働きによって、人びとの目に見えるように示され、耳で聞こえるように語られます。しかし、たとえイエスの言葉が聞こえても、彼らはイエスを「選ばない」のです。この場合、「愛する」とは「選ぶ」ことです。イエスを選ぶ者は、イエスの父を選ぶ者であり、その父を選ぶ者は、父に愛される者になります。たとえイエスの言葉を聞き知っていても、その聞いた言葉、見た出来事を自分で選ばなければ、その人は父と御子を拒むことになります。「愛さない」「守らない」とあるように、「しない」者は、無視することによって拒むのです。ヨハネ福音書は、このようにして、再び15節へと戻ることで、最初のパラクレートスの段落を締めくくるのです。
                     戻る