58章 わたしは道である
                14章1〜14節
■14章
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
             
              【注釈】(1)
              【注釈】(2)
                           【講話】
 ■イエス様の道
 ヨハネ福音書は共観福音書と異なる資料と別個の歩みの中から著わされたと言われています。けれども、この福音書は、共観福音書と共通の伝承から生まれたものです。その共通する伝承の一つが「道の思想」です。今回、イエス様が語られた「わたしは道であり真理であり命である」は、「わたしは命へいたる真理の道である」とも読むことができます。「真理の道」とは、その真理を歩むうちに、不完全な真理からより完全な真理へ知識が増大することだと思う方がいるかもしれません。しかし、ヨハネ福音書が言う「真理の道」は、増大する知識を得ることではなく、どこまでも<イエス様を知る>こと、それも、イエス様が<父から遣わされた方>であると悟ることです。イエス様にどこまでも忠実につき従うかどうか?その人の「真実」が問われることです。
 ここで言う「道」とは、「イエス様に従う」ことだと言いました。しかし、これがどうしていいのか分からない。「お祈りしなさい」「聖書を読みなさい」などと言われても、なかなか祈れない。聖書も読めない。どうすれば祈れるのか、聖書が読めるのかの「どうすれば」には、聖書を読む方法と、聖書を読んでからどうするのかという目的、手段と目的の二つが含まれています。
 そこで多くの人は、先ず教会へ行くところから始めます。教えられた通りに祈る。そこで語られる聖書の言葉を唱えたり、読んだりする。これは、イエス様を知るための方法です。この方法で、わたしたちは、イエス様を知る「知識」を得ることができます。イエス様が目的なら、祈りや聖書の知識は、そこへ至るための手段です。ところが、多くの人は、どうも「知識」をイエス様という目的と取り違える傾向があるようです。
 イエス様は、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われた。するとトマスは、「わたしには分かりません。どうすればその道を知ることができますか?」と尋ねます。フィリポも、「わたしたちに父を見せてください。そうすれば納得します」と言います。二人とも、「どうしていいのか分からない」からです。この「わたしには分からない」と悟ること、実はこれが大事なのです。二人の求めは愚問だという人もいますが、愚問どころか、この二人の質問こそ、「わたしは道であり、真理であり、命である」と「わたしを観た者は父を観た」という大事な御言葉をイエス様から引き出すのです。途方に暮れたトマスとフィリポの問いかけは、そのまま「わたしたち」の問いかけです。
 どうすればいいのか分からない。その分からないところへ、イエス様から「わたしが道だよ」という語りかけがくる。なんにも知らないわたしたちに、イエス様の御言葉が響くのです。「わたしが道だ」と言われたら、その道のほうに「向く」ことです。そして、その道から「離れない」ことが大事です。今回の「道」は、イエス様にいたる単なる手段ではありません。まして目的地へ向かうために、あらかじめ与えられる地図のような予備「知識」ではありません。
 ここでのイエス様の御言葉は、<目的地から>あなたを迎えに来られた方の御言葉です。フィリポは、イエス様に「わたしたちに父(目的地)を示してください。そうすれば納得します」と尋ねました。でも、尋ねる本人が行ったことのないところへ行くのです。しかもイエス様は、<そこから>迎えに来られた。だからイエス様は、「任せなさい。わたしについてきなさい。あなたの行ったことのないところ、あなたの知らないところなのだから」と言われるのです。「わたしは父のもとへ行くよ。でも、そこからあなたがたを迎えにまた戻って来るよ」と言われるのです。
■イエス様を歩む
 だから、ヨハネ福音書がわたしたちに語るイエス様は、「道」ではあっても「途中の道」のことではありません。目的地からわたしたちを迎えに来られた方ですから、<イエス様御自身>こそ、わたしたちの行き着く目的地です。それ以上どこにも行く必要がない。ないどころか、そこから離れてはいけないのです。ただイエス様を信頼して共に歩む。それだけです。イエス様は目的地から迎えに来られた方ですから、わたしたちが知らなくても大丈夫です。イエス様を観た人は、父である神を観た人なのです。
 わたしたちの旅は、イエス様と共に一日一日を歩む旅です。目的地を目指す旅であると同時に、その日その時の旅枕の旅です。四国を旅するお遍路さんのたちの言葉を借りれば「同行二人」(どうぎょうににん)です。越後の良寛さんの言葉で言えば、「日日日日是好日」(じつじつじつじつこれこうじつ)です。ただし、信仰の歩みは「好日」ばかりではありません。時には曇り、時には寒く、嵐の日も来ます。だから、かつて荒れ野を歩んだイスラエルの民の歩みにも通じます。今回の弟子たちは、間もなくイエス様を見失うという恐ろしく厳しい試練に出遭うことになります。だから、「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じなさい。このわたしを信じなさい」(14章1節)と言われるのです。
■時を歩む
 このように、ヨハネ福音書の旅は、「時の中」を歩む、あるいは「時の場」を歩む旅です。この「時の場」は、イエス様の御霊の御臨在によって支えられます。御霊にある「時の場」は常に「今」です。今の「時場(じば)」を基点にして、「はるか昔」へさかのぼり、逆に「はるか未来」を待ち望む。これがヘブライの最も基本的な「時の視点」です。
ヨハネ福音書は、はるか創世記の初めにさかのぼって、「そこから」イエス様の受肉の誕生を観ています。地上を歩まれたイエス様のお姿を天地創造の初めから観るのです。イエス様が地上におられた間、弟子たちには<そういうイエス様>が見えませんでした。神が、イエス様の御名によって遣わされる御霊によって初めて、復活のイエス様が弟子たちに啓示されて、弟子たちは地上を歩まれたイエス様のほんとうのお姿を知ったのです。このイエス様を観て、これに従うことが「真理」であり、同時に命へいたる道であり、これからはずれること、これを拒むことが「偽り」だと分かったのです。わたしたちは、このようにして、この地上に居ながらだんだんと、かつてこの地上を歩まれたイエス様を「再演する」“enact”ように導かれます。これがイエス様の御霊のお働きです。
■回想の道
 天地を創造された神が、イエス様をこの世のわたしたちにお遣わしになった。実はこの認識が、御復活以前のイエス様について、わたしたちが悟るべき正しい認識であったこと、このことが、イエス様の<御復活以後に>初めて、わたしたちに与えられることになりました。ヨハネ福音書は、この出来事を証しするために書かれましたから、これが、ヨハネ福音書が意図する「目的」です。
 ヨハネ福音書の神学は、「回想の神学」と言われています。受肉した方が復活した方であること、このことを、後から聖霊の働きを受けて回想して初めて確認するという「時の移行」が生じているからです。「回想」は、この福音書の語りの特長です。回想によるこの「時の移行」によって、ヨハネ福音書は、イエス様と旧約聖書とを結んでいることも見逃すことができません。ヨハネ福音書は、この方法によって、イエス様の受肉と復活が、イスラエルの民が待望してきたメシアであることをはっきりと証ししています。「救いはユダヤ人から出る」のです(4章22節)。だから、イエス様のメシア性と霊性は、旧約聖書に根ざしています。しかも、旧約聖書には、それ以前からの人類の長い霊的な歩みが流れ込んでいますから、聖書には、過去の人類の霊的な歩みのすべてが受け継がれていることが分かります。
 聖書が、過去の人類の全ての霊性を受け継いでいること、聖書が伝える霊性は、復活して今も働いておられるイエス・キリストの霊性であること、この霊性は、未来の全ての人に開かれていること、これら三つは切り離すことができません。知恵の御霊は、神智の御霊です。「神智」とは、神「を」知ることと同時に、神「が」与える知恵と不可分です。神の聖霊が与える「霊知」“spiritual wisdom”と、神の御霊に照らされることで悟る人の「英知」“illuminated wisdom”は切り離すことができません。「真理の道」とはこのことです。
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