【注釈】(2) 14章では、まずイエスが道であることが解き明かされます(1~4節)。そこから弟子たちが「神を見ている」ことが示されます(5~11節)。イエスは、弟子たちによってその業を継続し続けると告げます(12~14節)。イエス・キリストの御霊の宿りが約束されます(15~17節)。そして弟子たちは、父と子との霊的な交わりの愛を知るにいたるのです(18~24節)。
■14章1~4節
あなたがたは心を騒がせるな。
神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。
わたしの父の家には住む所が多くある。
もしなければ、そう言ったであろう。
あなたがたのために場所を用意しに行くのだから。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、
戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎え入れよう。
わたしのいる所に、あなたがたもいるためである。
わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。
[1]この節を「そこでイエスは弟子たちに言われた」で始める異読があります。おそらくこれから始まる説話を導入するための後からの加筆でしょう。
【心を騒がせるな】「騒がせる」は、11章33節でイエスが「自分の内で激しく突き動かされる」とあり、また13章21節で「霊的に激しく動揺する」とあるのと同じ動詞です。別れの説話が、このような言葉で始まるのは注意を要します。説話の最初の出だしは、イエスを失う弟子たちの喪失感と彼らを励ますイエスの言葉で始まります。イエスの励ましと慰めの言葉は、それだけ彼らの落胆が大きかったことを逆に表わしています。ここでのイエスの励ましと、弟子たちの状態を知る手がかりとして、ヨハネ福音書とほぼ同じ頃に書かれたユダヤ教の第四エズラ(旧約続編にあるラテン語エズラ記の中の3~14章の部分を指す)があります。
エルサレムの滅亡と自国民の苦難と恥辱を目の当たりにして悲嘆にくれているエズラに向かって、天使ウリエルが、「恐れてはならない。心を騒がせてはならない」(同10章55節)と語りかけます。ヨハネ福音書と第四エズラのこの対応は、イエスの十字架の死が、弟子たちにいかに大きな喪失感をもたらしたのか、それが、ユダヤ教徒にとって、エルサレム神殿の崩壊に匹敵するほどの「激しい衝撃」であったことを示唆しています。先にペトロの躓きのところで見たように、ここでの「心を騒がせる」も、個人的な弱さや感情的な悲しみを超える深い内容を含んでいます。
【神を信じなさい】「神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」の動詞は、このように命令文にとることもできますが、また「あなたたちは神を信じている。だからわたしをも信じている」と平叙文にとることもできます。平叙文と命令を交ぜて、「あなたがたは神を信じている。だからわたしをも信じなさい」〔ブラウン〕のようにも、あるいは、「あなたは神を信じているか。そうであれば、私をも信じている」〔ブルトマン〕と、神に対する信仰がイエスに対する信仰の根拠であることをはっきりさせる読みもあります。一般的には、「心を騒がせるな」が命令文になっていますから、これに続く動詞も「信じなさい」と命令に受け取るほうが自然だと考えられます。しかし、神への信仰を先に出して、そこからイエスに対する信仰を根拠づけるブルトマンの解釈は、深い洞察を含んでいます。なぜなら、ヨハネ福音書は、全体として、イエスが「わたしの父」と呼ぶ神の存在と神への信仰を特に重視しているからです。ヨハネ福音書はこの意味で「神中心の」福音書です。このことを前提にした上で、あえて「神を深く信頼しなさい。<すなわち>このわたしを深く信頼しなさい」と読むこともできましょう。
[2]【わたしの父の家】「わたしの父の住まう所/家」とは、具体的には神殿を指します(2章16節/ルカ2章49節をも参照)。しかし、エルサレム神殿とは、「父なる神と共に住み神と交わる場」のことです(詩編65篇5節/同84篇11節。新約では、ヘブライ9章6~10節/黙示録21章22~23節を参照)。イエスは、このような場を、エルサレムでも、そのほかの特定の場でもなく、「神の御霊と真理によって礼拝する場」と呼んで、「救いの場」としています(4章24節)。
ユダヤ黙示文学の『第一エノク書』でも、第四エズラでも、救いは、「聖なる霊魂の主」に選ばれた者たちの「霊魂の救い」です。紀元前2世紀の終わりから前1世紀初頭にかけて、ユダヤ黙示文学には、このように天界から降下して、地上の選民の「霊魂を」引き上げ、天界へ戻るヴィジョンが現われます。ちなみに、ヨハネ福音書のここ2節の「住まう所」という語のもとの意味は「留まる」ことですから、この原義を活かして、魂が天界にいたるまでに、幾つかの段階(停留所)があるというグノーシス的な解釈もあります。
共観福音書もヨハネ福音書も、時代的にはユダヤ黙示文学の影響を受けています。このために福音書の世界とユダヤ黙示文学との両方に共通する象徴や表象が用いられていますから、それだけに両者の違いを区別する必要があります。『第一エノク書』でも第四エズラでも、神の国を成就させる「メシア」はまだ到来していません。だから、これら黙示文学の場合には、「メシア」の到来が、そのまま「終末の到来と御国の成就」を意味しています。
これに対して、共観福音書では、イエスが地上におられた間に、メシアは、イエス・キリストとしてすでに到来し、御国はすでに「開始されて」いるのです。しかし、御国はまだ「成就して」いません。だから、イエスの弟子たちは、「すでに到来した」イエス・キリストの来臨と終わりの日の再臨、この「二つの時」の狭間に置かれることなります。弟子たちは、到来したメシアであるイエス・キリストに励まされ、再臨するキリストに出会う終わりの日を目指して歩み続けるのです。この「すでに来られて再び来られる」イエス・キリストこそ、共観福音書と使徒言行録で語られる「信仰と希望」です。
ヨハネ福音書でも、今回の3節で、イエスは「場所を用意したらまた戻って来る」と告げていますから、共観福音書や使徒言行録と同じで、「すでに来られて再び来られる」イエス・キリストに根拠づけられています。ところが、黙示文学の場合とは違って、ヨハネ福音書でも共観福音書でも、メシアとして到来したナザレのイエスは、正しい者たちの霊魂を救うためではなく、逆に罪人や疎外されていた人たちを癒し、人びとの霊魂だけでなく、彼らの身体とその心を「全体として」救う業を行なうのです(英語で“Thy faith has made thee whole.”あなたの信仰があなたを救った、という時の“whole”「全体/健康/よい状態」がこれです)。したがって、福音書が伝えるイエスの救いは、人間の霊魂と肉体の区別なく、その全体において人間を救うことを意味しています。このことは「ナザレのイエスの霊性」を正しく理解する上でとても大事です。ここで言う「霊性」とは、「肉体」から分離したりこれと対照されたりする「精神」あるいは「霊魂」のことではありませんから注意してください。ここで言う「霊性」は、人間の「霊魂/精神」と「身体/肉体」の<両方に>働く神の聖霊の創造の働きのことです。イエスの霊性は、なぜ義人であると罪人であるとに「関わりなく」働くのでしょうか? それは、この聖霊が、イエスによる贖いの死と復活を通じて、すなわち、神の「恩寵による新しい創造の業」として働くからです。だから、先の『第一エノク書』や第四エズラの「霊魂救済」とは本質的に異なるのです。
【もしなければ・・・・・】句読点(あるいはピリオド)の打ち方によって、以下の三通りの読み方ができます。
(1)わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしもなかったとすれば、あなたがたのために場所を用意しに行くなどと言ったであろうか?〔新共同訳〕〔岩波訳〕〔NRSV〕
(2)わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなかったとすれば、あなたがたにそう言ったであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだから〔ブラウン〕〔REB〕〔NRSV欄外〕。
(3)わたしの父の家には住む所がたくさんある(もしなかったとすれば、あなたがたにそう言ったであろう)、だからあなたがたのために場所を用意しに行くのである〔バレット〕。
(1)の読み方で問題なのは、これまでイエスは「あなたがたのために場所を用意しに行く」とは言っていないことです(ただし錯簡説をとれば、14章は後になりますから、この問題が解消します)。(2)は意味のつながりがやや問題ですが、不自然ではないでしょう。内容的には、(3)の読み方が最も分かりやすいかもしれません。どの読みを取るにせよ、内容的にそれほど変わらないと思います。
[3]【場所を用意したら】原文の「用意したならば」は、「用意した時に」と読むこともできます。意味はそれでも通じますが、ここでの「・・・・・したならば」は、イエスが受難を経て父のもとへ「往く」ことが、「その前に」起こらなければならないことを伝えたいのです。ここで言う「住まい」は、イエスが「戻って来る」、すなわち再び来臨する時に、イエスを信じる者たちに備えられた場所という意味に理解すべきでしょう。黙示の世界は、どちらかと言えば、天界と地上の世界という空間的な世界観に基づいていますが、ヨハネ福音書では、ここ14章3節の「往く」と「来る」のように、「時の違い」がはっきりと表わされています。
【戻って来て】「戻る」は現在形、「迎える」は未来形、「わたしのいる(所)」は現在形です。ここでイエスが語る「戻る」は、現在形でも内容的には共観福音書やパウロと同じに、終末のイエスの再臨を指すと考えられます。ただし、ヨハネ福音書では、イエスが復活してから聖霊降臨へいたる過程も、イエスが地上を「去っていく」ところから始まるのです。
【わたしのもとに迎える】「迎える」という動詞は、「(弟子たちを)連れていく」〔ブルトマン〕とも読むことができます。パウロは、自分の存命中にイエスが再臨して、自分たちは「主と共にいる」ことができるかもしれないと言っています(第一テサロニケ4章17節)。ヨハネ福音書のここでも、イエスの言葉は、パウロのように、再臨に際して主が弟子たちを「連れていく/携挙する」に近いと言えましょう。3節の「迎える」は、直訳すると「自分のところへ連れて行く」で、この言い方は「自分の家に連れて帰る」(ルカ24章12節の「家に帰る」も同じ)に通じます(ヨハネ17章24節を参照)。ちなみに、ヨハネ福音書の個人尊重の人間観から、この「迎える/連れて行く」は、弟子たち個人の死に際して、イエスが彼を迎え入れることだという解釈があります。
【わたしのいる所】「わたしのいる」は、原文で「エゴー・エイミ」です。ヨハネ福音書では、イエスの復活と昇天の直後に聖霊が授与されます(20章22節)。これは、ヨハネ共同体が、イエスの受難の直後に、復活と聖霊の降臨をほとんど同時に体験したことを示唆しています。だから、ここの「戻って来る」は、イエスの再臨を言い表わすだけでなく、イエスと弟子たちとの交わりが現実のものとなることによって、再臨と聖霊の降臨とが二重映しになって語られていることになります。
[4]【その道を知っている】この原文を「わたしがどこへ行くのかあなたがたは知っており、またその道をも知っている」と二つに分ける異読があります。意味を分かりやすくするために補った後の書き換えでしょう。しかし、この読み方は、目的地とそこへの途上を分けますから、原文の真意を損なう恐れがあります。なぜなら、「わたしがどこへ行くのかあなたがたはその道を知っている」は「わたしの行く先は、あなたがたに分かっているはずだ(だから、その道を告げる必要はない)」という意味に解釈できるからです〔C・H・ドッド『第四福音書の解釈』〕。イエスのこの言葉が、次のトマスの質問「どこへ行くのか、わたしにはわかりません」を引き出します。ここでは、意図的に「行く先」の真意が隠されています。
■14章5~7節
トマスが言う。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。
どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスが言う。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
あなたがたはわたしを知っているなら、
わたしの父をも知ることになる。
今や、あなたがたは父を知る。父を見ている。」
[5]【どうして、その道を】トマスについては11章16節の注釈を見てください。以下、トマスとイエスの「言う」(5~6節)とフィリポとイエスの「言う」(8~9節)が現在形で続きます。なお、トマスの質問の後半に「だから」を入れて、ある標準的な注解書には、ここでのトマスの質問も、次に来るフィリポの求めも「悟りの鈍い」弟子たちからでた「愚問」だとあります。トマスは、己を隠さない率直な人ですから(11章16節/20章24~29節)、イエスから大事な発言を引き出します。しかし、決して察しの悪い弟子ではありません。
14章1節は、イエスが弟子たちに別れを告げる「かつての地上の時」から始まりました。そのすぐ後で、イエスは「再び戻る」と告げます(同3節)。「戻る」が再臨だとすれば、かつての弟子たちから見た「未来」だけでなく、ヨハネ共同体の時から見ても「未未」のことです。だから、ここでは、過去の弟子たちと現在の聴衆/読者の両方の「時の視点」が重なります。続く「わたしのいるところ」は、終末の再臨の時にイエスが弟子たちを「迎え入れる」時です。このように、ヨハネ福音書の語りの「視点」は、過去から未来へと大きく振れます。しかし、その際の中心となる基点は「今の時」に据えられています。語りの基点は、ヨハネ福音書が語っている「現在」に置かれていて、「今」を基点として、過去へ、あるいは未来へ、視点が振幅するのです。だから、「現在」から、「過去」と「未来」を「同時に」語るのです。「回顧」と「預言」の両方を含むこの「時の視点」は、ヨハネ福音書においても重要な意味を帯びています。ヨハネ福音書は、この視点から、受肉以前のはるかな原初へさかのぼり、同時に終末の時をも見通すことができるからです。これが、ヨハネ福音書が証しする「聖霊の視点」です。聖霊は<この視点>に立って、過去を解釈し(回顧の神学)未来を読み解くのです(預言/黙示の神学)。
[6]【わたしは道】伝統的に言えば、ここの「道」は、「真理と命へいたる道」あるいは「命へいたる真理の道」のように解釈されています。中世のカトリック神学を代表するトマス・アクィナスは、「道」はイエスの人間性を意味し、「真理と命」はイエスの神性を意味すると解釈しました〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。先の4節で「その道」とあり、ここの答えの後半で「(わたしを)通って」とありますから、イエスの答えの中心に「わたしは道である」があります。原文は「わたしはある」(エゴー・エイミ)で始まりますから、「<エゴー・エイミ>が道である」あるいは「道は<エゴー・エイミ>にある」と読むこともできます。英語で言えば“I AM is the way, and the truth, and the life.”です。
ヨハネ福音書は共観福音書と共通の伝承からでていると先に述べましたが、その「共通の伝承」に流れるのが「道」で、これは、ヘブライの伝統的な「道」思想です。アブラハムは「行く先を知らずに」旅立ちました(ヘブライ11章8節)。イスラエルの民は「主が彼らに先立って進む」その道に従いました(出エジプト13章21節)。信仰にとって一番大事なのは、ただ「まっすぐに主の道を歩む」ことです(申命記5章33節)。自分で目的地点を定め、これに向かって自己努力によって到達する道ではありません。だから「主の道を示してください」と祈るのです(詩編27編11節)。注意したいのは、箴言の「道」(デレク)です。「(誘惑する者の)道」(箴言1章15節)に始まり、「裁き/慈しみの道」と「慈愛の人の道」(同2章8節)、「闇の道」(同13節)、「知恵の道」(同3章17節)、「命の道」(同6章23節)など、およそ人の行ないに関するありとあらゆる「道」が箴言に表われます。イスラエルの人にとって「歩む」(ハーラク)ことは「生きる」ことであり、律法解釈は「ハラカー」(人の歩む道)と呼ばれました。
【真理】「道」と結びつけて「真理の道」と理解してもいいでしょう。「真理の道」という言い方は、旧約で「神の真(まこと)」に歩むため「あなたの道」を求める祈りにさかのぼります(詩編86篇11節)。この「まことの道」を踏み外すことが「道を誤る」ことであり「罪/あやまち」です(知恵の書5章6節)。神の真(まこと)を信じる道こそ「主の道を知る」ことです(同7節)。イエスを罠にかけようとして皇帝への税金問題を持ち出す前に、ファリサイ派の人が「あなたは真実な方で、だれをもはばからない」と言います(ルカ20章21節)。イエスに敵対する者の口から出ただけに逆にイエスの「真実な」人柄を表わすものです。イエスに具わるこの「まこと/真実」から、パウロが言う十字架の「福音の真理」(ガラテヤ2章5節)まではそれほど離れていません。
ヨハネ福音書が言う「真理」には、受肉したロゴスが父の独り子として「恵みと真理に満ちていた」(1章14節)ことが含まれます。ナザレのイエスが父の独り子であることが、ヨハネ福音書の言う「真理」です。だから、この「真理」は、客観的な歴史上のイエスだけを見ることでもなく、逆に人間の主観的なキリスト論でもありません。ナザレのイエスをキリストと信じることは(20章31節)、主観と客観の両方を含む御霊の世界において初めて成り立つからです。
【命】「命」については1章4節/3章15節/5章24節/11章25節にあります。神のみ言(ことば)である「ロゴス」には命があって、全てのものはこれによって生起するのですから(1章3~4節)、「命」とは創造する神の働きのことです。神の働きはとこしえに続きますから、この命は永遠です(3章15節)。しかもこの命は、イエスを信じる者を「死から命へ移す」(5章24節)働きをします。これは死の領域から命の領域へ移行することだけでなく、「死から」とは、死ぬことを通して命にいたることをも含みますから、この命は「一粒の麦」にたとえられるのです(12章24~25節)。
【だれも父のもとへ】ポリフュリオス(232/34年~303/09年)という新プラトン主義の哲学者が、14章6節を引用して次のように述べています。「自分は道であり、恵みであり、真理であり、また、自分以外に神へいたる道はないとキリストが言うならば、彼よりも何世紀も前に生存した者はどうなったのか。(中略)無数の魂の信仰の対象となるべき彼はいまだこの世に出現していないのに、自らには過ちのないこの人びとはどうすればよいのか」〔ロバート・L・ウィルケン「宗教的多元論と初期キリスト教神学」『日本版インタープリテイション:聖書と神学と思想の雑誌』1994年9月号No.29.〕。彼の主張はキリスト教会に強い衝撃を与えたようで、ポリフュリオスから100年ほど後のアウグスティヌスも、彼の主張を採り上げて論駁しています〔アウグスティヌス『神の国』特に10巻の26~29章〕。アウグスティヌスは、ポリフュリオスが、神の天使たちと、霊媒者の天使たちとの区別を知りながら、なぜ唯一の父の御心を伝える天使たちと訳の分からぬ霊媒師たちの天使たちとを同等に扱うのか? と批判し、ポリフュリオスは悪霊どもに荷担していると非難しています。
ポリフュリオスが提起した問題は、現代のわたしたちに、ますます重い課題となって、「キリストのほかに救いなし」「教会の外に救いなし」と主張してきたキリスト教に向けられています。この課題に答えるために、わたしたちは、イエスがここで、「父のみもとへ」と告げていることに注目しなければならないでしょう。先に、ヨハネ福音書の神学は、神中心であると言いましたが、大事なのは、ポリフュリオスが「キリストの」唯一性を攻撃しているのに対して、イエスはここで「父にいたる道」を語っていることです。この父は、イエスのほかに、まだだれも観たことのない父であり(1章18節)、天から降ったイエスだけが知っている「父」です(3章13節)。わたしたちはこの「いまだだれも知らない父」に向かって、イエスと共に信仰の歩みを続けています。
14章6節の前半で、わたしたちは、イエスが道であること、しかもこの道は、御霊によって常に新たに啓示されると同時に、わたしたちが「今まで知らなかったことを知る」道でもあると述べました。ナザレのイエスを通じて啓示された父なる神は、歴史上のイエスにおいて、その霊性を顕しました。しかし、別れの説話に臨む弟子たちは、イエスを見失って「どこへ行くのか」が分からなくなりました。同じように、わたしたちもまた、イエスが「どこへ行くのか分からない」状態になることがあります。しかし、そういう時こそ、イエス・キリストは、「エゴー・エイミ」の臨在を通して「わたしが道である」ことを啓示してくださるのです。わたしたちは、このイエスと共に歩むことによって、常に新たな展望が与えられます。これが、誰も観たことのない父へ向かうわたしたちの信仰の道のりであり、それだからこそ、15節以下にあるように、父はわたしたちに「別に助け主」を遣わしてくださるのです。このようにして、ナザレのイエスに啓示された霊性は、常に回顧されつつ、回顧されることによって新しく啓示され、ついには「一人の羊飼いに導かれた一つの群れ」になるのです(10章16節)。
[7]【知っているなら】「知っているなら」は仮定の完了形。「知ることになる」は未来形。「(父を)知る」は現在形で、「(父を)見ている」は完了形です。7節の前半は、以下のふたとおりの読み方があります。
(1)あなたがはたわたしを知っているのだから、わたしの父をもきっと知るようになる。
(2)あなたがたがわたしを知ってさえいれば、わたしの父をも知ることができるのだが。
(1)の場合は弟子たちへの約束となり、(2)の場合は、叱責の意味を含むことになります。節の後半から判断すると、(1)の読み方のほうが適切です。「あなた達はわたしがわかったのだから、わたしの父上をもわかるにちがいない」〔塚本訳〕。(2)は後半の否定になります。おそらく(2)の読み方は、8章19節でイエスがユダヤ人に語った言葉「あなたたちは、わたしもわたしの父をも知らない。<もしわたしを知っていれば>、わたしの父をも知るはずだ」に影響されたと考えられます。また、(2)の読みは、続くフィリポの質問から判断して、弟子たちはイエスも父も知らないと判断したからでしょうか。そうだとすれば、(2)の読み方は、弟子たちが、すでにイエスとその父とを「知っているのにそのことに気づいていない」というここでの大事な視点を見落としています。7節の後半は、9節の「わたしを見た者は、父をも見た」につながります。
【今から】この訳だと弟子たちは、これから父を「知ることが始まる」ことになります。「今や父を知り始めている」〔岩波訳〕。しかし、ヨハネ福音書の「今から」は、事態の継続よりも「今や」「もうすでに」の意味で用いられることが多いのです。「いや、いますでに父上がわかっており、また父上を見たのである」〔塚本訳〕。ただし、新共同訳の「すでに父を見た」の「すでに」は原文にはありません。
【父を見た】ヨハネは、「見る/幻を見る」(ホロー)と「観る/じっと見つめる」(テアオマイ)の二つの動詞を用いていますが、ここでは前者の「見る」ほうです。ただし、二つの間に明確な区別があるわけではありません。なお、ヨハネ福音書では、「見る」は「知る」と結びついています。「今、あなたたちは父を知っている。実に父を見ているのだ。」
■14章8~11節
フィリポが言う。
「主よ、わたしたちに御父を示してください。
そうすれば納得できます。」
イエスが言う。
「フィリポ、こんなに長らく一緒にいるのに、
まだわたしが分かっていないのか。
わたしを見た者は、父を見たのだ。
なぜ、あなたは言うのか。
『わたしたちに御父を示しください』と。
あなたは信じないのか。
わたしが父の内におり、
父がわたしの内におられることを。
わたしがあなたがたに言うことは、
自分から話しているのではない。
わたしの内におられる父が、
その業を行っておられるのである。
わたしを信じて聴きなさい。
わたしは父の内におり、父はわたしの内におられる。
それができないのなら、業そのものによって信じなさい。」
[8]【フィリポ】フィリポについては1章43節の注釈を参照。
【満足です】原語は「納得する」。英語の“be satisfied”です。これを「示してください」という動詞と同じ命令形で読んで、「父を示して、納得させてください」という読みもあり、このほうが、フィリポの気持ちがより強く伝わります。フィリポは、イエスの外に、イエスを離れて、自分で勝手な「父」を思い描いているのが分かります。ここでのフィリポの求めは、わたしたちが抱きがちな願いと共通しています。ヨハネ共同体の頃にも、「神を見た」と言って、その神秘体験を誇る人たちがいたのでしょう。
[9]【こんなに長らく】「この長い間<を>あなたとすごす」と読むこともできます。イエスは、おそらく28/29年の1月にヨルダン川で受洗してから、30/31年の3月末から4月に受難したと考えられます。だから、弟子たちはイエスと2年以上共にいたことになります。しかし、時間的な経過よりも、その「長い間の」イエスとの交わりのほうが問われています。回想の視点から観れば、出来事は、その渦中にいる間は全体像を現わしません。それが終わった時に初めて、出来事の意味が「全体として」見えてくるのです。
【わたしを見た者は】弟子たちは、父なる神の働きをすでに「見ていて」、しかも、イエスから父のことを「聞いていた」のに、イエスの父のことに気がつかなかったのです。ヨハネ福音書の作者には<このこと>が見えているのです。「このこと」とは、分たちが「知っているはずなのに知らなかった」ことであり、<そのこと>に気づかされることで一層深く御霊の事態を悟ることです。わたしたち信じる者に繰り返し起こる事ですから、福音書の作者は、ここで自分を弟子たちに重ねています。「ほんとうは、彼らはそれをすでにもっている。だが彼(イエス)との出会いによって与えられた可能性は実現され、明確にとらえられねばならない。・・・・・すでに与えられていた可能性は、その都度未来として信仰者の前にある。それゆえ『知るようになる(未来)』と『見ている(完了)』は、ほとんど同じ意味をもちうる。落胆し、まだ自分自身の可能性に気づいていない信仰者に、すでに持っているものに気づきさえすればよいことを示し、だがまさにそれゆえに、信じる存在とは静止した状態ではなくて、与えられた可能性をとらえ現実化することである」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』杉原助訳〕。
[10]【語る言葉】原語の「レーマタ」は、言葉そのものよりも、語られた「こと」の意味に近いでしょう。続く「業を行なう」から判断してもそのほうが適切です。父とイエスの行なう業を、イエスの「言葉」の働きに限定しようとする解釈がありますが、聖霊の視点から観るならば、「言葉」か「事」か、という詮索は意味がないでしょう。
【自分から語るのではない】ヨハネ福音書は、地上のイエスを肉眼で見ただけでは、イエスを「知る」ことも「観る」こともできないことを「知っています」。イエスは、わたしたちの目に映り、わたしたちの心で判断することで納得できる仕方で「自分から語ることをしない」からです(12章49節)。そこに見えてくるのは、「自分からは何もしない」イエスです(5章19節)。「イエスの霊性」のこの本質は、ヨハネ福音書以前のキリスト教が、それまで必ずしも明らかにしてこなかったことです。イエスに宿るこの「無の霊性」は、イスラエルの伝統的な契約と律法からでしょうか? コヘレトの言葉に見るイスラエルの知恵思想からでしょうか?地上を超越した天界から見る黙示思想からでしょうか? このような詮索は控えますが、わたしたちは、ヨハネ福音書が指摘するように、「それまで知らなかったことに気づかされる(覚らされる)」歩みをここでも繰り返すことになります。この「無心」はナザレのイエスの父から降る聖霊の働きかけによって生じる、あるいは与えられる「無の心に宿る信」だからです。復活して今もわたしたちと共に歩んでくださるイエスの御臨在に支配され包まれるという、極めて人格的な「無心の信頼」です。ここで初めて、わたしたちは、「神」をイエスの父である「神」として知るのです。わたしたちはここで、己の全存在を投入することを知り、これによって己が無くなり、無くなることで己の全存在が全面的に肯定される、という事態を知るのです。このような「無」の霊性は、例えば親鸞の世界にも通じるのかもしれません。イスラエルの「知恵」は、古来、あらゆる民、あらゆる時代に語ってきたとシラ書にありますから。ヨハネ福音書が、「イエスをとおして父を見る」とはこのような歩みのことです。
[11]【わたしが言うのを】10節は、フィリポの「わたしたちに父を見せてください」という求めに対する返答です。「イエスのうちに父を見る」とは、どういうことなのか? 11節はこれを語っています。「わたしの言うのを信じなさい」の原文は「わたしを信じなさい」です。これは、「イエスを信じる」ことだけでなく、「次のことを信じなさい」という意味ですから、イエスの口を通じて、ここで大事なことが語られます。それは「父とイエスが一つである」という、キリスト教信仰にとって最も基本的な神学を含んでいます。このことはすでに10章30節で告げられていました。しかし、10章では、イエスの言うことを「信じない」人たちに向けて語られていますから、14章の状況とは正反対です。14章と10章とが、フィルムのポジとネガのようになっています。
【わたしが父の内に】「わたしが父のうちに、父がわたしのうちに」をある意味で最も鋭く読み取ったのは、イエスを殺そうとしているユダヤ教の指導者たちでしょう。「あなたは自分を神としている」(10章33節)という彼らの批判は、ヨハネ福音書の伝えるイエスの本質に迫る「人間的な誤解」です。ここでイエスが言っていることが、「自分を神とする」こととちょうど正反対なのは、素直に読めばすぐ分かります。イエスは「自分から語る」のではなく、「父の語る業」を行なっているからです。後代の神学的で哲学的な三位一体論をここに読み込むのは不適切でしょう。それよりも大事なのは、ヨハネ福音書の神学が父中心の神学であることです。「父」とはイエスの父であり、旧約聖書に証しされている神のことですから、わたしたちは、ここで、旧約聖書にさかのぼる必要があります。14章10節~12節のイエスの言葉には、出エジプト記のモーセが背景にあると指摘されています。特に出エジプト記33章18~23節と同34章10節に注目してください。出エジプト記のモーセの場合、「主の顔を見ることができない」(33章20節)ことと、モーセに「しるしと不思議」が伴うこととが語られます。同時に、モーセは主と「顔と顔を合わせて語った」とも語られています(出エジプト記33章11節/同34章29~35節)。だから、モーセは、「神を観る」ことについて、肯定と否定の二重性を帯びているのです。
主に「遣わされる」者は、言うまでもなく遣わす者とは別人です。しかし、遣わされた者は、遣わした者の言葉/命令に束縛されます。キッテルの『新約聖書辞典』によれば、ヘブライ語の「遣わす」(サーラー)は、神なり王なりが、その権威あるいは権力を「延長する」ことです。だから、神ご自身がその「御手を遣わして」(詩編144篇7節)救いを行なうのです。したがって、「遣わされた者」は、「遣わした者」とひとつです。七十人訳は、この「サーラー」をギリシア語の「アポステロー」と訳しています。これの名詞が、新約で「使徒」を意味する「アポストロス」になりました。ギリシア語で「遣わす」は、別に「ペンポー」がありますが、これはヨハネ福音書に多くでてきます(30回ほど)。ふたつは、ほぼ同じ意味です。ヨハネ福音書では、「遣わす」が50回以上でてきますが〔新共同訳〕、「ペンポー」と「アポステロー」の両方が用いられています。ただし、ヨハネ福音書には、「わたしを遣わした方」という言い方がしばしば表われます(3章34節/4章34節/5章24節/13章20節/16章5節など)。特にこの言い方を神だけに限定して、イエスの言動の根拠として用いています。ヨハネ福音書では、派遣者と遣わされた者の一体化が、ヘブライの伝統的な父子の関係によって一層深められていて、それが、モーセや預言者たちにも見られなかった「霊と言葉」にある一体化として完徹されます(1章14節/5章19~23節)。大事なのは、「遣わした方」と「遣わされた者」のこの一体化が深まるほどに、派遣によって委託された使命の内容から、遣わす者と遣わされる者の関係それ自体へと、すなわちその「交わり」へと視点が集中することです。ここからイエスを通じて顕現する「エゴー・エイミ」という神自身の臨在を表わす言い方が生まれることになります。
【業そのもの】イエスは、「父がわたしを遣わしていてわたしと父が一つであることが信じられないのなら、そのもろもろの業を通して信じなさい」と告げています。ここの「業」をイエスの語った「言葉」の意味に限定しようとする解釈があります。確かに父なる「神の言葉」とは、父の行なわれる「出来事」ですから、「事」と「言(こと)」は同じです。しかし、わざわざイエスの語ったことでは「なくて」、「業そのもの」と言う以上は、これはイエスが「行なった業」を全体として指していると見るべきです。ヨハネ福音書では、これらの「業」は、イエスが父から遣わされたことの大事な「しるし」です。これに、ヨハネ共同体の「今の時の視点」をも読み込むなら、イエスの復活もその最大の「業」になりましょう。人びとはこれらの業を見て、イエスがメシアであると信じたからです(使徒2章22節/同36節)。
しかし、イエスのこれらの業を「見て」、人びとは、はたして、ほんとうに「信じた」のでしょうか? むしろ現代では、聖書学者たちをも含む多くの人たちは、ここでイエスの証しする「わたしの業」の意味する内容を知って、逆にイエスとその業をなおいっそう疑わしいと考えるのではないでしょうか? ほとんどの注釈者たちが、ここの「業」に奇跡も含まれることを認めた上で、「しかしながら」で始めて、なにかほかのことに重点を移して解釈しようとしています。11節と12節の解釈では、「しるし」としての奇跡だけは除いて、いろいろな解釈が「業」に与えられています。だからここで語られている「業」は、「信じる」と同時に「つまづき」のための「しるし」ともなるのです。
「わたしを見た者は父を見た。」フィリポに対するイエスのこの答えに、ヨハネ福音書が、神の栄光と卑賤の矛盾を見据えていることが大事です。まさにこのことが、ユダヤ教とヨハネ共同体の間に、厳しい対立を生んでいたと考えられるからです。エルサレム陥落以後のファリサイ派ユダヤ教が、超越的な「メシア」としてのキリストに対して激しい憎悪を抱いたとは考えられません。どこまでもナザレのイエスという人間存在に神の栄光を観るというイエス・キリスト観をヨハネ共同体が守り抜いたために、両者が鋭く対立することになったのです。この事情は、イエスの在世当時も、ヨハネ共同体の時も、そして現在も、全く変わりません。しるしとしてのイエスの業、これに接して、躓く者にならないで信じる者になること、これがここでイエスの言う「業そのものによって信じる」ことの意味です。
■14章12~14節
アーメン、アーメン。
わたしを信じる者は、
わたしが行なう業を行ない、
また、もっと大きな業を行なうようになる。
わたしが父のもとへ行くからである。
わたしの名によって願うことは何でも
それをかなえてあげよう。
父が子によって栄光を受けるからである。
わたしの名によってわたしに願うなら、
わたしがかなえてあげよう。
[12]【もっと大きな業】ここでヨハネ福音書は、イエスの口を通して、イエスが地上で行なった業よりも「もっと大きな」業をイエスの弟子たちが行なうようになると告げています。イエスの復活以後に、イエスが地上にいた間よりも「もっと大きな」業を行なうことは、共観福音書にもあり(マタイ21章21節/同28章18節/マルコ16章17~18節)、また、パウロの聖霊観でも、地上でのイエスの働きを上回る多様な聖霊の働きが語られています(第一コリント12章4~10節)。ヨハネ福音書もこの信仰を受け継いでいますが(1章50節)、ここで言う「もっと大きな業」は、通常次のように解釈されています。
(1)この業に、しるしや不思議が含まれているのは間違いありませんが、ここでは、福音書で語られているよりも「もっと大きな」しるしや不思議が行なわれるという意味ではありません。
(2)ナザレのイエスの業は、パレスチナに限られていました。しかし復活以後は、このイエスの業が、「エルサレムだけでなく、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにいたるまで」(使徒1章8節)広がっていくという意味です。このように、イエスの始めた宣教の業が、地理的に拡大していくこと、その結果、民族性を超えてイエスの福音が広がること、これがここで言う「もっと大きな」の意味であろうと考えられます。
(3)しかし、「もっと大きな」は、宣教の地理的な拡大のことだけでなく、特にここヨハネ福音書では、「時の視点」をも含んでいます。ヨハネの「時の視点」は、ナザレのイエスの在世の時を基点にしています。「わたしを信じる者は、<わたしが行う業>を行う」と告げるのは、このことを確認させるためです。その上で、イエスの復活以後に、そのイエスの業が、今度は歴史上の時間の制約を超えて、弟子たちに引き継がれ、ヨハネ共同体へ及び、それ以後も継続していくこと、しかも、このことが、「わたしが父のもとへ行く」ことによって成就すること、これが「もっと大きな業」の意味です。
この「大きな業」は、地上のナザレのイエスの時、弟子たちの時、ヨハネ共同体の時、わたしたちの時、これらの<時の継続>に貫かれています。ここでイエスが言う「わたしが行う業」とは、今までしばしば指摘してきたように、ナザレのイエスの言葉と行為を含む「イエスの出来事」です。この出来事は、C・H・ドッドの言葉を借りるなら、「受肉から復活までのイエスの全生涯」のことです。このことがいかに大事な視点であるのかをイエスは「アーメン」を二度繰り返して確認させているのです。
[13]【わたしの名によって】ここで語られている「わたし」とは、ヨハネ共同体が現実に体験しているイエス・キリストを反映しています。「奇跡」や「しるし」が、共同体の中でも行なわれていたのかもしれません(15章16節/16章23~24節)。それでは、ヨハネ共同体では、彼らがイエスに願ったことはなんでもかなえられていたのでしょうか?この点を慮ってでしょうか、注解者たちは、ここでのイエスの言葉に制限や条件をつけて、13節の意味を限定しようする傾向があるようです。例えば「愛の戒めを守る限りにおいて」、あるいは「この世の<つまらぬ>ことではなく、<もっと大きなこと>を願うのならば」のようにです。現代の注釈者たちだけでなく、すでにヨハネ共同体の中でも、ここでのイエスの言葉を条件づける解釈が行なわれたのかもしれません。少なくとも第一ヨハネの手紙には、その形跡があります(第一ヨハネ3章21~22節/5章14~15節)。言うまでもなくこれらの条件や解釈は、「ヨハネ共同体の時」に立って行なわれていますが、同時に現在の「わたしたちの時」においても、事情はそれほど違いません。
[14]この14節全体を削除している複数の異読があります。内容的に13節とだぶると考えたからでしょうか? それとも16章23節に「わたしの名によって父に願うならば」とあることから、内容的に矛盾するとでも思ったのでしょうか? なお、この節の前半の原文は「わたしの名によって<わたしに>何かを祈り求めるならば」ですが、後の「わたしに」を省いてある異読、あるいは「わたしに」を「父に」としている異読があります。これも16章23節との関係でしょう。しかし、14節の後半は「わたしがかなえる/行なう/成就する」とあって、主語の「わたし」が強調されていますから、現行の読み方が正しいと思われます。
【わたしがかなえて】13節で「わたしの名によって」とあるのをここでもう一度確認するために繰り返したのです。祈り求める相手はイエス・キリストであり、祈りは「イエスのみ名による」からです。「地上で行なわれたこの神的な活動は、彼(イエス)が死んで父のもとへ行く時でも止むことがありません。それは彼を信じる人たちによって継続し、しかも、より大きな規模において続くのです。なぜなら彼は、彼らの祈りに応えて行動し、彼を通じて御霊が彼らと共におり彼らの内にいるからです」〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。
以上で分かるように、かつて地上にあってイエスに働き、イエスをキリストとして復活させたその同じ神の御霊が、今地上にいるヨハネ共同体にも与えられて、彼らを通じて語っているというのがヨハネ福音書の語りが生起する霊的状況です。このような語りかけを通して、この福音書を読む人たちにも同じ臨在が生起すること、このことをヨハネ福音書はわたしたちに伝えようとしているのです。ここでは、語られる内容と語り方が一つになっています。この福音書が一人の人物によって書かれたのか、それとも師とその弟子(たち)の手を経ているのかを断定するのは困難です。しかし、この福音書のこの語り方は、そのような詮索を無意味にするほどまでに、イエスの御霊の臨在に貫かれ、その御霊のスタイルで統一されているのです。
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