【注釈】(1)
■別れの説話について
今回からの「別れの説話」に相当する箇所は共観福音書にはありません。共観福音書で言えば、最後の晩餐を間近にして、マルコ13章(あるいはマタイ24章/ルカ21章7~28節)で語られる神殿の崩壊と終末のしるし、これに伴う大きな苦難と人の子の到来が、ヨハネ福音書のこの部分にあたるでしょうか。共観福音書のこれらの部分には、紀元1世紀のユダヤの黙示的な終末思想の影響を見ることができます。しかし、ヨハネ福音書の説話には、マルコ福音書に表われる終末に関する黙示的な用語もなく、世界の裁き主として「雲に乗って到来する」人の子も語られません。その代わりに、十字架の後で「間もなく」イエスが弟子たちと「再び会う」こと、弟子たちを父のもとへ迎え入れること、さらに、弟子たち一人ひとりに聖霊が授与される約束が語られます。終末とメシアの到来を待ち望む黙示的な終末思想は見られませんが、注意して読むならば、ヨハネ福音書独特の終末観が語られているのが分かります。
わたしたちが、この別れの説話で最も注意しなければならないのは、この説話の持つ独特の「神学的な霊性」です。この霊性は、すでに物語の部分にも見られましたが、14章以下では、これが「たとえなしで」正面から語られます。14~17章は、ヨハネ福音書と共観福音書とを区別する最大の特徴だと言えます。
『四福音書対観表』によれば、受難記事の前の出来事として四つの福音書がそろって語るのは、最後の晩餐と聖餐(ヨハネ福音書では洗足)であり、ユダの裏切りとペトロへの否認予告です。これが、ゲツセマネでのイエスの逮捕へつながり、受難が幕を開けます。これらの出来事の間に、ヨハネ福音書の別れの説話を置いてみると、最後の晩餐と、受難の始まりであるゲツセマネとの接点に、この説話が組み込まれてくることになります。だから、四福音書を全体として見ると、別れの説話は、イエスの受難が始まる直前にあって、いわば四福音書全体の神学を凝縮してわたしたちに開示するのです。ここには、パウロも共観福音書も含めた初期キリスト教の神学的霊性が結晶していると言うことができます。キリスト教は、ここで一つの到達点に達し、ここから、以後の三位一体論を含むキリスト教の神学が形成されていくことになります。以下においては、この説話の霊性を主として次の三つの視点から考察していくことにします。
(1)「往く」と「来る」:12章までは、イエスが語る地上と天との間の動きは、主として「昇る」「降る」で表わされていました。ところが、別れの説話全体を通して繰り返されるのは、イエスの「往く」と「来る」です(14章3節/同18~19節/同28節/16章5~7節/同16~19節/同28節)。ここで、空間的な移動だけでなく時間的な移動が入り込んできますから、これに伴って、
(2)「時への視点の移動」:説話が語る「時」が、動詞の現在形と過去形(アオリスト)と未来形によって、複雑に移動します。この「時への視点の移動」によって、イエスと父の交わり(14章6~12節/15章10節/16章15節)、弟子たちへの父の啓示(14章9節/16章25~27節/17章26節)、イエスのみ名による祈り(14章13~14節/15章7節/16章23~24節)、愛の戒め(14章21節/15章9~10節)などが語られます。しかし、これら以上に重要なのは、
(3)「パラクレートス」です。パラクレートス(助け主/弁護者/慰め励ます者)は、別れの説話をつないでいるだけでありません。その語り方もパラクレートスの働きとしてのまとまりを作り出しています。パラクレートスとしての「聖霊」(14章16節/15章26節/16章7節)は、弟子たちに平安を与え、同時に世に対する裁きとなり(14章29~30節/15章22節/16章8~11節)、弟子たちを「真理へ導き」、同時に、この世が真理を「知ろうともしない」ことをも露わにします。
繰り返しによる螺旋状の語りかけが多く、同じモチーフが変奏されて聞こえてきますから、「イエスのここの講話のいかなる言葉も自明の言葉として扱われてはならない。もしも吟味されなければ、世界の遺産となったすべての偉大な言葉は、なめらかに摩滅した小石のようなものである。探求なしには、それらの偉大な言葉は、いかなる鋭利さも辛辣さも持たない」のです〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。
戻る