【注釈】
■マルコ15章
[42]【夕方になると】「夕方」の時間帯はかなり広く、マルコ6章47節では、「夕方」は「明け方」へつながりますから(同48節)、夜も更けた頃になります(R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. 665.)。しかし、今回の「夕方」は、「安息日の前日」(原語「プロサバトン」は木曜の日没から金曜の日没まで)とありますから、「夕方」は、土曜の安息日が始まる前で、金曜の日没に近い「夕暮れ時」になります。ユダヤ教の定めでは、処刑された遺体は、「必ずその日のうちに葬らなければならない」(申命記21章23節)ので、イエスの遺体も、そのまま夜通し置くことは許されませんでした。
[43]【アリマタヤ出身のヨセフ】「アリマタヤ」は、エルサレムから北西の方向の離れた所で、当時のユダヤとサマリアとの境界にあたる場所です〔日本聖書協会『バイブルアトラス』(1999年)47頁地図〕。七十人訳サムエル記上1章1節に「エフライムの山地アリマタイム・シファに一人の男がいた」とあります。ここは、現在のエルサレムとテルアヴィヴ・ヤッフォとを結ぶ線のちょうど真ん中にあるモディインにあたります。「モディイン」は現在の地名で、この地は、イエスの頃は、「シェフェラ」"Shephelah" と呼ばれていました。ルカ23章50節では「ユダヤ人の町」とありますが、ここはサムエルの出身地で、旧エフライム族の地域ですから(サムエル記上1章1節/同19節)、イエスの頃にはサマリア領でした〔A. Y. Collins. Mark. Hermeneia. 777.〕。
マルコ15章43節では、「アリマタヤ<からの>ヨセフ」とあるので、マタイ福音書は、このマルコ福音書の記事を「アリマタヤ出身の裕福な人」(マタイ27章57節)の意味に理解し、ルカ福音書のほうも、「アリマタヤ<から来た>ヨセフ」(ルカ23章51節)と理解しています。「~から来た」とあるのは、"He came from the Jewish town of Arimathea"〔NRSV〕〔REB〕、わざわざ「十字架のイエスのもとへアリマタヤから出て来た」ことではなく、「アリマタヤ出身」の意味です〔聖書協会共同訳〕〔フランシスコ会聖書研究所訳〕。
このヨセフは、マルコ福音書では「名望ある立派な家柄の議員」とあり、マタイ福音書では「裕福な人」とあり、ルカ福音書では「高位の議員」で「善良で正しい人」とあります。マタイ福音書とルカ福音書は、マルコの「立派な」をそれぞれに解釈しています。「議員」は地方にもいますから、必ずしもエルサレムの最高法院(サンヒドリン)を指すとは限りませんが、マルコの念頭にあるのは、エルサレムの最高法院のことです(ヨハネ福音書も最高法院のニコデモとヨセフとを同列に置いています)。岩をくりぬいた大きな墓を持つほどなら、彼は「裕福/金持ち」であって、おそらく、家族と共に出身地のアリマタヤからでてきてエルサレムに住んでいたのでしょう。
総督の命令で十字架刑に処せられた者は、通常、その状態のままで放置されましたから、ユダヤ人のヨセフが遺体の引き取りをピラトに願い出るのは異例なことです。それだけに、勇気の要る「思い切った」行為になります。おそらく最高法院のメンバーというヨセフの身分が、このような申し出を可能にしたのでしょう〔Collins. Mark. 778.〕。ヨハネ19章31節によれば、先ずユダヤ人たちが、ピラトに、イエスたちの死期を早めて遺体を取り降ろす許可を求め、「その後で」アリマタヤのヨセフが登場します。「ユダヤ人」と彼との関連は明らかでありません(ここではユダヤ人とヨセフとのふたつの異なる伝承の結びつきが行なわれた形跡があります)。マタイ福音書では、ヨセフは「イエスの弟子であった」とあり、ヨハネ19章38節には、彼は「イエスの弟子でありながら<ユダヤ人たちを恐れて>そのことを隠していた」とあります。「ユダヤ人を恐れて」は、いわゆる「隠れた信奉者」への批判を含みます(ヨハネ7章13節/同20章19節)。ヨセフは、イエスの弟子として、イエスと行動を公然と共にすることはしなかったが、言わばイエスの親派だったのです。このような人物が、イエスの埋葬に際して突如姿を表わしたのは、不思議な導きです。ヨセフと言いニコデモと言い、ユダヤの指導者たちの間にも、最高法院のイエス処刑の決定に同意しなかった人たちがいたことをうかがわせます。なお、46節に、イエスの遺体を「(十字架から)取り降した」とありますが、この動詞は三人称単数アオリスト形です。しかし、これは一人では無理で、その上、死体に触れることは汚れを意味します。したがって、実際の降下の仕事はヨセフの僕たちの手で行なわれたのでしょう。
[44]~[45]
【もう死んでしまった】十字上の死は、時間数よりも日数で言うのが通例でしたから、ピラトは、イエスの死が、あまりに早いので驚いて「もう死んでしまったのか」と完了形で問い返しています。マルコは、十字架刑のイエスの苦悶が比較的軽かったと言いたいのです。
【遺体を下げ渡した】イエスが死んでいることを確認させるために「遺体」と言い、これをピラトから「賜(たまわ)った/授与された」(原語「ドーレォマイ」)とあるのは、特別の計らいで「認可」されたことを意味します。なお、この後で、四福音書には「(イエスの)遺体を洗った」とはありませんが、葬りの前に遺体を洗うのは、ユダヤでの重要な決まりでしたから、ヨハネ19章40節に「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」とあるとおり、イエスの遺体も洗われた後に埋葬されたと思われます〔France. The Gospel of Mark. 667.〕。ただし、「夕暮れ時で」時間がないから、急ぎのあまり「洗いを省いた」という説もあります〔Collins. Mark. 779.〕。
[46]~[47]【岩を掘って造った墓】「岩を掘った墓」とあるのはマルコ福音書です。「ヨセフが所有する」とあるのはマタイ福音書で、「誰も葬ったことがない」とあるのはルカ福音書とヨハネ福音書です。イエスが処刑された場所とヨセフの墓は近く、どちらも現在の聖墳墓教会の内部になります。現在のエルサレムの郊外には、古くからさまざまな形の墓が残っています。多くは、狭い横穴の個人用のものですが、岩を掘り抜いて作られた大きな墓は、家族用のもので、中は広く、さらにその下にも、埋葬用の部屋があるものがあります。ヨセフの墓も、これに類する大きく立派な「墓室」だったのでしょう。彼は、亜麻布を買い、使用人に命じてイエスの遺体を十字架から降ろし、その遺体を水洗いして、亜麻布でくるんでから、遺体を自分の家族用の墓室に安置したのです。
ユダヤの墓室には、「コヒム型」と呼ばれて、墓の室内の壁に1メートル四方ほどの横穴を奥へ2メートルほど掘って遺体を安置する様式と、「アルコソリゥム型」と言われる様式とがありました。「アルコソリゥム型」は、広い墓室の壁に掘り込まれたアーチの天蓋をもつ寝台(棚)の上に遺体を安置する様式です。イエスの時代には、「コヒム型」と「アルコソリウム型」とが混在していました。どちらも古くから行なわれていた様式ですが、イエスの時代には(1世紀初頭から2世紀初頭まで)、遺体を1年ほど放置しておいて、それから遺骨だけを蔵骨櫃に収めるという二段階の埋葬方式があり、これがエルサレムを中心に拡がり始めていたから、ややこしいです。イエスの墓があったとされるところに建つ現在の聖墳墓教会の場合は寝台型です。おそらく、アリマタヤのヨセフの墓も、この様式だったのでしょう(手元にある図入りの本では、2冊ともイエスの遺体安置の場が寝台型になっています)。マルコ15章47節に、マグダラのマリアとヨセの母マリアが、「イエスの遺体が納められた場所を見届けた」とあるのは、おそらく、大きな墓のどの棚に安置されたかを「見届けた」のです。
イエスの墓の位置は、イエスの弟ヤコブが指導するエルサレム教会によって確認され正確に伝えられたと考えられます。ユダヤでは、墓は必ず城壁の<外に>ありました。ゴルゴタはいわゆる第二城壁に近く、そこには「園の門」があったと言われていますから、富裕層の墓地があったのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。現在の聖墳墓教会は、エルサレム城壁の<内部に>なります。これは、41~44年に、アグリッパ1世によって城壁が拡張されたためです〔キーナー『福音書の史的イエス』〕。
なお、ヨセフたちが、イエスの遺体を「岩を掘って造った墓に納めた」ことと、「墓の入り口に石を転がしておいた」ことは、ルカ23章の「まだだれも葬られたことのない」(53節)と併せると、イエスは、遺体となって確実に死んだこと、そして、埋葬されたこと、さらに、その墓からの「復活」は、イエス一人にだけ生じたことが明白になります。イエスの復活伝承以後に、キリストであるイエスは、実は、「キリスト」を宿す「仮の姿」に過ぎず、ほんとうのキリストは「死んでいなかった」という「(キリスト)仮現説」(いわゆる「ドケティズム」)説が現れます。この仮現説が誤りであることが、共観福音書のこの埋葬の記事から明白であることが、正統派によって唱えられます(F. Bovon. Luke 3. Hermeneia. 334--335を参照)。
■マタイ27章
マタイは、根本的な内容では、マルコを参照していると思われますが、 マタイの記事の前半(57~61節)では、マルコ15章44~45節のピラトの驚きの記事が抜けていて、その上、マルコにはないアリマタヤ出身のヨセフに関する記事がでてきます。後半(62~66節)は、これもマルコには出ていない「祭司長たちとファリサイ派」とピラトとのやりとりの記事です。マタイとルカは、それぞれに、マルコとは異なる別個に伝承された資料に基づいているのでしょう(ヨハネの資料とも共通するところがある)〔ウルリヒ・ルツ『EKK新約聖書註解』(Iの4)459頁〕。どの資料も、史実を保存していると思われます〔John Nolland. The Gospel of Mark. NIGTC. 1227.〕〔ウルリヒ・ルツ『EKK新約聖書註解』(Iの4)464頁〕〕。とりわけ、マタイでは、27章62~66節と28章2~4節と同11~15節とに、番兵の記事がでてきます。これらは、一貫して、番兵に関する一つの伝承から出ていると考えられますから、マタイだけが有していた資料からです〔Davies and Allison. Matthew 19--28. Hermeneia. 645. 〕。マタイの今回の記事では、十字架から埋葬への移行処置によって、受難物語が終わり、復活物語へつながります〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 644--645. 〕。
[57]ユダヤでは、遺体は、うち捨てられるか、逆に、敬意を持って葬られるか、二通りに大別されます。十字架刑に処せられたイエスの場合、そのまま「うち捨てられる」場合が通常です。この状態を変更させたのがアリマタヤ出身のヨセフです〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 647. 〕。マタイは、ヨセフのことを「富める人」としていますが、マタイの念頭には、イザヤ53章9節のメシア預言「彼は富める人とともに葬られた」があったのでしょうか〔前掲書〕。
[58]マタイはマルコの記事ある「思い切って」ピラトに願い出たことも、ピラトが、イエスの早々の死に驚いた経緯も一切省いています。マタイは、「イエスの死」に関して、マルコと異なり、そのような詳細を不必要だと判断したようです〔前掲書〕。大事なことは、「イエスの弟子」のヨセフが、ピラトから遺体を「引き取った」出来事だけです。マタイの念頭には、マタイ28章11節~15節にあるような、様々な偽りの噂があるからでしょう。
[59]~[60]マルコ15章46節では、イエスの遺体を「亜麻布で包んだ」とあり、ヨハネ19章40節では「香料を添えて亜麻布で包んだ」です。マタイでは、「(まだ使われたことがない)きれいな亜麻布で包んだ」です。イエスの遺体を納めるのは、「(岩をくりぬいて掘った)自分(ヨセフ)の新しい墓」です。外典のペテロ福音書6章には「ヨセフの園と呼ばれる自分の墓」とあります。マタイは、亜麻布も墓も、まだ使用されていない「新しい」ものであったと言いたいのです。なお、イエスの遺体の埋葬のこの様式が、後の教会で、殉教者を葬る際の模範にされたと伝えられています。マルコ15章46節では「墓の入り口に石を転がす」で、マタイでは「墓の入り口に大きな石を転がしてから立ち去った」です。
[61]「もう一人のマリア」は、「ヤコブとヨハネの母マリア」です(27章56節参照)〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 652. 〕。マタイ27章55節では「大勢の女たちがイエスを見守っていた」とあるのに、今回は、二人の女性だけです。「最後まで残った」のが、この二人だったのでしょうか。
[62]マルコ15章42節の日付が下敷きになっていますから、「準備の日の翌日」とは安息日の土曜のことです〔Davies and Allison. Matthew 19--28. 653. 〕。
【ファリサイ派の人たち】共観福音書の受難物語で「ファリサイ派」が出てくるのは、ここだけです。ファリサイ派は、「民衆のイエスへの支持」を気にして、イエスの処刑に関しては、終始消極的であったからです(マタイ21章45節を参照)〔前掲書〕。
[63]~[64]祭司長たちとファリサイ派の人たちは、ピラトに向かって、「主よ」(原語「キュリエ」)と呼びかけています。これらのユダヤ人たちにとっては、イエスが「主」ではなく、ピラトが「主」である。マタイの念頭には、こういう想いがあったでのしょう(ヨハネ19章12節を参照)。
[65]~[66]「三日目まで、遺体を納めた墓を確保するよう命じてください。」ヨセフのこの要請がピラトに受け容れられて、命令を受けたのは、外典のペテロ福音書8章によれば、「百人隊長のペテロニオスとその部下」のローマ軍の兵士たちです。ピラトは、このユダヤ人たちに言います。「見張りの部隊をつけてやるから、お前たちの思うとおりに(墓を)しっかり固めろ。」
ヨシュア記10章16節~18節では、ヨシュアの率いるイスラエル軍が、カナンに侵入してエリコ周辺を支配すると、エルサレムの王と、ヘブロンの王と、ヤルムトの王と、ラキシュの王と、エグロンの五王が、結集してイスラエルと戦いますが、敗北してマケダの洞穴に隠れます。ヨシュアは、これを知って、「洞穴の入り口に大きな石を転がして、入り口を塞ぎ、見張りの兵を配置せよ」と命じたとあります。
ピラトから部隊をつけられたユダヤ人たちは、おそらく聖書のこの故事を想起したでしょう。マタイの念頭にも、聖書のこの記事があったでしょう。ペテロ福音書8章には「長老たち、律法学者たちは、兵士たちと一緒になって、大きな石を転がして、墓の入り口を塞ぎ、そこに七つの封印をつけて、天幕を設けて警戒に当たった」とあります。
■ルカ23章
ルカの記述は、マルコのそれを参照しながらも、イエス復活の時(復活の日曜)と場所(エルサレム)を中心に、全体を簡潔にまとめています。ただし、使徒言行録1章にあるように、ルカは、復活現象がかなり長期間にわたることも知っています。ルカは、主として自己の資料によっていますが、埋葬と空の墓の部分はマルコの記述に準拠し、またヨハネ福音書とも共通するところがあり、両者に共通する伝承が存在していたことをうかがわせます(Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 877--878)。
[50]~[51]ルカの記述には、マルコの「夕方」が出てきません。アリマタヤ出身のヨセフの登場とピラトへの要請と遺体の葬りでは、ヨセフの「勇気」もピラトの「驚き」も出てきません。ヨセフが「善良で正しい」とあるのは、51節にあるとおり、「自らも神の国を待ち望んでいた人であった」からでしょう(前掲書)。ルカは、マルコの「高名な議員で裕福であった」を無視していますから、マルコとは異なる視点、すなわち、ヨセフが、最高法院でのイエスの処刑に賛成していなかったことを示唆するのです(前掲書)。ただし、[同僚の決議や行動には同意しなかった](51節)は、挿入句になっていますから、ここの文体が不自然だとして、ヨセフも他の議員たちと「同類だ」と見る説もあります(F. Bovon. Luke 3. Hermeneia. 330--331.)。また、埋葬の後と54節とのつながりがやや不自然だという指摘もあります(Marshall. The Gospel of Luke. 879)。
[52]~[53]「岩を掘った/くりぬいた」とあるのは、七十人訳ギリシア語の申命記4章49節に「ヨルダン川の対岸の東側の<岩をくりぬいた>全域」とあるのを反映しているのでしょうか(Marshall. The Gospel of Luke. 880)。
[54]~[56]【準備の日】「安息日」(土曜)への「準備の日」ですから、金曜(木曜の夕暮れから始まり金曜の日没まで)になります。
【安息日が始まる】原文は「安息日の光が差し染める」です。日没から日没までを1日とするなら、「光が差し染める」(原語「エピフォースコー」)とは、安息日が始まる「夕暮れ時の日没の光」のことでしょう。これは「宵の明星」(the evening star)と呼ばれる金星にちなむ言い方だという見方もあります(Marshall. The Gospel of Luke. 881)。ルカは「夕暮れ時」を指しますが、マタイ28章1節では、「安息日が過ぎ、週の最初の日の「エピフォースクーセー」とあります。これだと、「エピフォースクーセー」は、「週の最初の日」の「光が差し染める夜明け」のことですから、日曜の「昼間が始まる」頃です。“About daybreak on the first day of the week, when the sabbath was over "[REB].
【婦人たち】ガリラヤからイエスの一向に付き添ってきた「婦人たち」は、イエスの遺体が、どのような形で埋葬されるかをその目で「見届けた」のです。ルカは、彼女たちの名前をあげていません。彼の資料にそれらの名前が抜けていたのでしょうか。ルが、意図的に省いたとすれば、マルコの女性の名前の記述の仕方に不明を覚えたのでしょうか。どちらなのか「議論の余地ある」ところです(Marshall. The Gospel of Luke. 881)。
【香料と香油を準備】ヨハネ19章39~40節には、ヨセフたちは、イエスの遺体に「香料を添えて」遺体を「亜麻布で包んだ」とあり、ニコデモも「没薬(もつやく)とアロエを混ぜたもの100リトラ」を持ってきたとあります。なお、マルコ16章1節には、「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とあります。ルカの今回の記事と併せると、女性たちが香料を準備したのが何時のことなのか?これがはっきりしません。共観福音書では、これらの「香料」は、日曜日に、女性たちが、イエスの遺体に施すために墓を訪れる目的と結びついています。安息日に香料を買い求めることはできませんから、察するに、女性たちは、夕暮れ時にイエスの遺体の置き場所を見届けた上で、短時間のうちに大急ぎで、香料や香油を買い求めて「準備した」のでしょう。今回の部分で、とりわけ女性に関する部分は、ルカの独自資料(L)によっていると見られています〔Joseph Fitzmyer. The Gospel According to Luke. (X--XXIV). The Anchor Bible. Doubleday. 1983. 1530.〕。
【補遺】ペテロ福音書の「イエスの遺体授与」
『ペテロ福音書』は、福音書の外典です。1886年から、翌年の1887年の冬期にかけて、ナイル川の上流の南エジプトで、修道士の墓から発見されました。発見されたのは、受難物語と空の墓に関する部分のみで、8~9世紀に、羊皮紙に、ギリシア語で書かれたものです。この福音書は、150年~180年頃に、パレスティナ北部のシリアで書かれたと想定されています。この福音書については、アンティオキアの司教セラピオン(在位190~211年)と、オリゲネス(253/4年に没)と、エウセビオス(339年没)が言及しています〔『聖書外典偽典』(6)新約外典(I)教文館。141~144頁〕〔
https://ja.wikipedia.org. ペテロによる福音書:2025年8月28日を参照)。
ペテロ福音書は、共観福音書とは別個の伝承によるもので、四福音書よりも半世紀以上も後の著作です。しかし、その受難物語は、共観福音書に伝わる伝承とは異なる別個の伝承によるものであり、そこには、共観福音書よりも古い伝承が含まれていると見る説があります(Davies and Allison. Matthew 19--28. 645. Note4.)。内容は、ピラトの裁判の終わりから始まり(1章)、二人の犯罪人のこと(4章)、十字架のイエスの死に際して、全地が暗闇に覆われ、苦みを混ぜた酢をイエスに飲ませると、イエスは「我が力よ、我が力よ」と叫んで息を引き取ると、エルサレム神殿の幕が裂けたったこと(5章)、イエスの遺体を降ろす時に「大地が震えた」とあり、ユダヤ人、長老たち、祭司たちが、自分たちの罪を悟って「我々の上に呪いあれ」と言ったこと(7章)、マグダラのマリアが空の墓で、天使からイエスの復活を告げ知らされたこと(12~13章)、ペテロと兄弟アンデレが、ガリラヤで漁師に戻ったこと(14章)で終わります。
ペテロ福音書の2章には、ピラトの友であり、主イエスの友でもあったヨセフが、イエスが十字架につけられることを知ると、さっそく、ピラトに対して、葬りのために遺体を引き取りたいと願った。ピラトがヘロデに遺体き渡すよう求めると、ヘロデは、「殺害された者の上に太陽が沈んではならない」と言い、除酵祭の前日に遺体をユダヤの民衆に引き渡したとあります。ここでは、ヘロデの権限が誇大に評価されています。 また、8章には、律法学者とファリサイ派と長老たちが集まり、ピラトに、「イエスの墓を三日間警戒するために、我々に兵士たちをお任せください。ユダヤの民衆が、イエスは墓から復活したと思って、われわれに悪いことをしないためです」と願い出た。ピラトは、百人隊長ペテロニオスとその部下を彼らに任せた」とあります〔前掲書151~152頁〕。
208章イエスの葬りと見張りへ