【注釈】
■マルコ15章
イエスのエルサレム入城に際して、歓呼してイエスを迎えた民衆の支持は(マルコ11章1~11節)、今は失われて、逆に侮辱の声が十字架上のイエスに向けられます。
[27]【二人の強盗】原語は「レーステース」(盗賊/強盗)の複数形。後のヨセフスは、この「レーステース」を政治的な反逆者の意味で用いましたが、マルコのここの用法には、そのような意味はありません(R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. 646. )。この用語は、旧約では「盗賊たちの」(「レーステース」の複数属格:七十人訳エレミヤ7章11節)として出てきます。しかも、そこは、エルサレム神殿を「己(おのれ)の食い物」にする偽りの指導者たちを指す「強盗の」(「レーステース」の複数属格)とも重なります(マルコ11章17節)。ゲツセマネで逮捕される時に、イエスは、相手がイエスを「強盗」に見せかけようとしたと批判していますから(マルコ14章48節)、「政治的な反逆」を意図しないイエスをあたかも「政治的な反逆者」であるかのごとくに扱おうとする「偽り」をマルコはここに読み取っています。
なお、七十人訳イザヤ書53章12節には、「なぜなら、(主の僕である)彼の霊魂(命)は死に引き渡され、そして(彼は)無法者たちの一人に数えられた」とあります。「引き渡す」がマルコ好みの用語であることも考慮して、「二人の盗賊の間のイエス」像は、イエスの十字架刑に、イザヤ書のこの預言を読み取ったマルコによる加筆だという説があります。マルコは、ユダヤ戦争における帝国への「反乱の暴徒たち」と「非暴力のメシア・イエス」とを対比させます(A.Y. Collins. Mark. Hermeneia. 748)。
【一人は右、もう一人は左】ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネは、「イエスがイスラエルの王に即位した際に」(マルコ10章37節)、自分たちを(王の)右と左(の大臣)にしてほしいと頼みます。マルコが、今回の箇所で、「ユダヤ人の王」イエスを真ん中に、こともあろうに盗賊をその「右と左に」置いたと記しているのは、イエスの受難に際して「不在の(ヤコブとヨハネ)二人」への皮肉もこめられているという見方があります(マルコ10章39~40節を参照)( France. The Gospel of Mark. 646. )。
[28]こうして「その人は無法者たち(の仲間)に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
この28節は、イエス自身の受難予告として、ルカ22章37節にあります。「成就した」とされる「聖書の言葉」とは、イザヤ書53章12節を指すのでしょう。この28節は、シナイ写本、アレクサンドリア学派の写本の一部、ヴァティカン写本、エフライミ写本、アトス山のローラ修道院所蔵の写本(9~10世紀)など比較的有力な写本では抜けています。英訳でも、NRSV(欄外に28節を補遺として載せる)とREBの本文で抜けています。しかし、Codex Cypius写本(9世紀)、レギウス写本(8世紀)、Codex Sangallensis写本(9世紀)、Codex Koridethi(9世紀)、その他の非常に多数のパピルス断片で採用されています。28節は、マルコへ伝承された資料には(おそらく、それの初期の文書にも)なかったもので、「左右の無法者の間に居るイエス」の姿に、イザヤ書53章12節の「成就」を読み取った編集/筆写による加筆です(A.Y. Collins. Mark. Hermeneia. 748--749.)。
[29]~[30]【通りかかる】この言い方だと、イエスたちの十字架は、道端に近いところに建てられていたことになります。しかし、ここの「通りかかる」は、十字架の「場所」を指し示すためというより、かつて、南王国ユダが滅ぼされた「捕囚」の時期に、荒れ果てたエルサレムを「通りがかりに見た」人たちの嘲笑が、ここに反映されていると考えられます(エレミヤ哀歌2章15節)( France. The Gospel of Mark. 646. )。
【ののしる】原語は「ののしる」「神を冒涜する」の意味を含みますが、ここには、「神への冒涜」の意味はなく、「嘲笑する/ののしる」ことを意味します( France. The Gospel of Mark. 647. )。
【頭を振る】イエスの受難を預言するとされる詩編22篇8節からでています。
【おやおや】原語「ウーア」は、「おや!」「なんとまあ」のように「驚き」と「当惑」を表す用語で、聖書では、ここだけです。言葉そのものよりも、これの発声の仕方で、驚きや当惑を表現しますが、ここでは、十字架上のイエスの「無力」とも見える姿への皮肉をこめた嘲笑です。
【神殿を打ち壊し】「神殿を破壊して三日のうちに建てる(ほどの力のある)者」。これは、イエスの言動を偽証した者たちの言葉を反映しています(マルコ14章58節)。神殿を倒して三日で建てる業は神の超自然のみ力を示唆しますから、十字架上のイエスの「無力」への痛烈な皮肉です。なお、この「神殿破壊」への皮肉は、イエスが十字架刑を受けたのは、イエスが神殿を壊そうとしたからだといううわさが一般に広がっていたことを裏書きします( France. The Gospel of Mark. 647. )。
【自分を救ってみろ】「救う」は、メシア・イエスを意識した皮肉です。マルコ以前の資料が、ここで、詩編22篇8~9節を反映していたのかは、確かでありませんが(詩編109篇25~26節も参照)、そこには、すでに、イエスへの「メシア解釈」が織り込まれていたと思われます。聖書の預言に基づくこの「メシア解釈」をマルコも受け継いで、神からの助けを借りて「十字架から降りる」(詩編22篇8~9節を参照)というメシア・イエス像を想定することでイエスに向けられる「皮肉」をマルコはここに読み取っています。マルコは、言わば、それまでの「拒絶されて哀しむイエスのメシア」像に、さらに「メシア」への「無理解」と、これに伴う「皮肉」を加えています。だから、ここの「無理解」と「皮肉る者の愚かさ」は、マルコ1章~8章までの、メシア・イエスによる「悪霊追放と病気癒やし」の業と「神の御心に従う」その姿とに比較対照されていて、「目があっても見えず」「耳があっても聞こえない」人々の愚鈍がいっそう際立ちます(A.Y. Collins. Mark. Hermeneia. 749--751.)。
[31]ここで、「祭司長たちと律法学者たち」が登場します。彼らは、最高法院の構成者たちで、(通りがかりの)一般の民衆から、はっきり区別された存在です(マルコ11章18節)。彼らも、先のローマ兵たち同様に(マルコ15章20節)、イエスを「侮辱」しますが、ローマ兵の「侮辱的な行為」ではなく、彼らの場合は、イエスの現状への「解釈と価値観」を含む「侮辱言説」です( France. The Gospel of Mark. 647. )。だから、その「侮辱言説」は、イエスの十字架刑に向けられる単なる皮肉や嘲り以上に、起こった出来事への霊的な洞察を表します。
マルコ福音書では、「通りがかった」人たちは、直接イエスに向かって、「お前自身を救ってみろ」"save yourself"と嘲ります(マルコ15章30節)。しかし、祭司長たちは、律法学者たちと「互いの間で言い合う」嘲りですから、「彼は他人を救ったが、自分自身は救えない」"He saved others, he cannot save himself." と、イエスを三人称で呼んでいます(マルコ15章31節)。
この部分の<ほんらいの>伝承は、「彼は他人を救ったが、自分は救えなかった」と三人称であったと想定されます。しかし、実際の十字架の場でイエスに向かって語られたとすれば、これは、「お前は他人を救ったのに、自分を救えない」と二人称での呼びかけでなければなりませんから、ほんらいの三人称の(古い)伝承が、「二人称へ」と(新しい伝承に)変更されたと推定されます。そうであれば、「三人称でイエスを呼ぶ」マルコ15章31節の祭司長たちと律法学者たちは、いったい、十字架のその場に実際に居合わせたのか?という疑問が湧いてきます(A.Y. Collins. Mark. 750--751.)。
【他人を救ったのに】「救う」とは、人の命が守られること、その人の命が「助かる」ことです(マルコ5章23節)。とりわけ、イエスが行なった癒やしの事例から分かるように、そこに「神の超自然の力が働く」ことを含みます。だから、祭司長たちの言説は、マルコ14章62節でイエスが明言したとおり、神から遣わされ、神の力を得ることができる「救い主」(メシア)と称されるイエスに向かって、意図的に発せられた最高の「皮肉」であり「侮辱」になります。とりわけ、彼ら最高法院のメンバーたちは、イエスを訴えたのが「偽証する」者たちであること知っていたはずです(マルコ14章57節)。その上で、あえて十字架刑のイエスに向かってこのような「侮辱の言説」を吐くのは「異常な行為」であるから、「祭司長たちと律法学者たち」のここでの登場は、受難物語にマルコが加えた「導入」ではないかという説もあります(マルコ8章31節/同10章33節/同11章18節/同14章1節などを参照)(A.Y. Collins. Mark. Hermeneia. 751.Note.186.187.)。
[32]【メシア・イスラエルの王】「ユダヤ人たちの王」はローマの代官ピラトの言い方ですが(マルコ15章2節)、「イスラエルの王」は、ユダヤ人たちの言い方です。イエスが、自分たちのメシアであることをはっきりと否定することで、「ユダヤの指導者である」祭司長たちと律法学者たちは、十字架刑を行なった張本人たちの「勝利と誇り」を宣言するのです。
【見て信じる】彼らは、以前、イエスに向かって、神からの権威を授かっている「しるし」(証拠)を見せろと迫りました(マルコ8章11節)。イエスはこれを断りましたが、ここで再び、イエスに具わる神の権威を「誇らしげに否定する」ことで嘲るのです。ただし、マルコの読者/聴衆たちは、ここで、イエスが「十字架から降りなかった」まさにそのことが、イエスの復活と神の右に座る権威とが成就される結果につながったことを想起するのです。マタイは、ここで、知恵の書2章17~18節を反映させていますが、マルコにはそのような意図が見られません。しかし、マルコには、おそらく、「イエスと福音のために自分の命を失う者は、それを救う」(マルコ8章35節)とイエスが語ったことが、その念頭にあると思われます( France. The Gospel of Mark. 649. )。
【一緒にいた者たち】この二人の存在は、イザヤ書53章12節の預言の成就をいっそう明らかにしますが、マルコは、この二人の言葉を記すことをせず、十字架の周囲の人たちと同様な侮辱の言葉を読者に想定させています。
■マタイ27章
マタイの記述は、43節を除いて、マルコの記述を踏襲していますが、その細部において、旧約に基づく神学的な考察を加味しています(John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. 1196.)。
[38]【同時に】原語は「その時」「折から」。マタイは、「三人同時」の印象を避けて、イエスの十字架刑と「二人の強盗」のそれとを区別しています。マタイは、「(彼らは)イエスを十字架につけた」(マルコ15章24節)とあるマルコの用いた能動態過去形から、「(二人の強盗は)十字架につけられている」(マタイ27章38節)と受動態現在形に変えて、その場の状況を描き出しています。おそらく、マタイは、ここで、ゼベダイの二人の息子たちの願いの件を念頭においているのでしょう(マタイ20章20~23節)。そこでは、イエスは「王位に就く」ことが想定されていますが、ここでは、「強盗」と同類の扱いを受けています。マタイは、ここで、イザヤ書53章12節の預言を反映させています(Nolland. The Gospel of Matthew. 1194--1195.を参照)。
[39]マタイは、「そこで」を加えることで、「通りかかった者たち」もユダヤの指導層に操られていることを思い、これに続く動詞「(イエスを)ののしった」に、大祭司がイエスを断罪した際に用いた「冒涜する」(マタイ26章65節)の意味をもこの動詞に読み取っています〔ウルリヒ・ルツ『EKK新約聖書註解 I(4):マタイによる福音書』397頁〕。旧約聖書では、「首を振る」は、「神の民に向かって」神の敵対者が示す行為です。だから、この民衆は、「神から遣わされたイエス」に向かって、こともあろうに、「神を冒涜した」という理由で「ののしる」という(神への)敵対行為を犯していることになります。ただし、マタイの読者/聴衆たちは、実際は、「(神に敵対して)首を振る民衆のほうが、神の子であるイエスを冒涜している」という事態を見抜いています。しかし、起こっている実態のほうは、「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」の三者と、「彼らに見倣う」 民衆とが、「イエスこそ神を冒涜した」と断罪しています(エレミヤ哀歌2章15節を参照)。イエスを(神から遣わされた方と)信じたアリマタヤ出身のヨセフが、この後でイエスの遺体を引き取ったのも、おそらく、十字架の出来事に潜む真偽真逆のこういう事態を察知したからでしょう(Nolland. The Gospel of Matthew. 1196--97.)(Davies and Allison. Matthew 19--28. Hermeneia. 617--18.)。
[40]マタイは、マルコの「おやおや」を省いて、その代わり「もしも神の(子)なら」を加えています。マタイは、先の最高法院で、大祭司が用いた「神の子」(マタイ26章63節)をここでも繰り返していますが、嘲りをこめたここの「神の子」は、この後で、十字架を見張っていたローマの兵士たちの告白の言葉、「この人はほんものの神の子だった」(マタイ27章54節)へと移行する、と言うより「対照」されています。なお、マタイは、ここで、マルコの「十字架から降りて」(分詞形)を「十字架から降りてこい」(命令形)に変えて、嘲りをいっそう強めています(Nolland. The Gospel of Matthew. 1197.)。
【もし神の子なら】この句は、シナイ写本(4世紀)の一部と、ヴァティカン写本(4世紀)、Codex Cipius(9世紀)、レギウス写本(8世紀)、Codex W (4~5世紀)や、多くのパピルス断片で抜けていますが、シナイ写本、アレクサンドリア学派の写本(3~4世紀)、べザ写本(5世紀)、シリア語訳(7世紀初頭)など(Novum Testamentum Graece. Apparatus.97.)、また、英訳のNRSVとREB、日本語訳では保持されています。
「もし神の子なら」は、悪魔の試みの言葉を思い起こさせます(マタイ4章3節)。なお、十字架刑に処せられると、苦痛のあまり「十字から降りる」妄想を抱く場合があると言われますから、これは、神から与えられた杯を飲む「霊能者」イエスへの悪魔的な誘惑にもなります(Nolland. The Gospel of Matthew. 1197.)〔ルツ『EKK新約聖書註解 I(4):マタイによる福音書』398頁〕。
[41]マルコ福音書では、「通りがかった」人たちは、直接イエスに向かって、「お前自身を救ってみろ」"save yourself"と嘲ります(マルコ15章30節)。しかし、祭司長たちは、律法学者たちと「互いの間で言い合って」嘲るのですから、「彼は他人を救ったが、自分自身は救えない」"He saved others, he cannot save himself." [NRSV][REB]と、イエスを三人称で呼んでいます(マルコ15章31節)。ところが、マタイは、ここで、マルコの「(祭司長たちと律法学者たちが)互い言い合った」を省いています。それでも、彼らは、直接イエスに向かうのではなく、「彼は、他人を救ったが、彼自身を救えない」と三人称で語ります。マタイは、祭司長たち・律法学者たち、それに長老たちが加わって、彼らが、必ずしも、その場に居合わせていなかったことをも念頭に、「イエス<について>嘲けり合った」と言おうとしているのでしょう(Nolland. The Gospel of Matthew. 1198.)。
[42]マルコでは、「十字架から降りる」嘲りに、「イスラエルの王よ。・・・・・それを見たら、信じてやろう」(マルコ15章32節)とあります。マタイでは、これを変えて、「見る」を省き、「彼(イエスを)信じてやろう」だけです。マタイは、その直前に、「(彼は)イスラエルの王なのだ」を導入していますから、「十字架から降りるなら、イエスをイスラエルの王だと信じる」というのが、ここの嘲りの主旨です。「見る」を省いたのは、祭司長たち・律法学者たちが、必ずしもその場に居合わせなかったことを想定するからです。また、「イスラエルの王」は、旧約に多く、新約では希で、ヨハネ1章49節と同12章13節に出てくるだけで、いずれも、「ユダヤ人同士の」言い方です。「イスラエルの王」には、直前の「神殿を壊し、三日で建てる神の子」(マタイ27章40節)が、その意味に含まれているのでしょう。読者は、イエスが、「もし望むなら」、十字から降りるほどの力を有することも、イエスが降りないのは、「贖いによって世を救う」ためであることも知っています。しかし、嘲る者たちには、今は、それが「見えません」。彼らは、「神が今行って<いない>こと」は、「神が行うことが<できない>」と思い込むのです(Davies and Allison. Matthew 19--28. 619--620.)。なお、マタイが言う「イエスをイスラエルの王と信じる」は、「クリスチャンになる」ことだという説がありますが、この説は、「イエスが十字架から降りる」ことが、クリスチャンになる根拠ではなく、「イエスが十字架から降りなかった」ことこそ、クリスチャンを産み出す根拠になったことを読者に想起させます(Nolland. The Gospel of Matthew. 1198.)。
[43]ここは、詩編22篇9節からです。七十人訳詩編21篇8節は「(彼は)主に望みを置いた。(主に)彼を助けさせよ。彼を救わせよ。(主は)彼を喜ぶから」です。マタイは、「主に望みを置く」を「神に信頼する」に変え、「主に彼を助けさせよ」を「神の御心なら、今すぐ(神に)救出させよ」に変え、「主は彼を喜ぶ」を「(神が)彼を望むなら」“if he(God) wants him”[REB]. に変えています。その上で、「『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」を加えています。
マタイは、「主」(ヤハウェ)を、より一般的な「神」に変えて、「望みを置く」というヘブライ的な言い方を「信頼する」に変えています。「神の子」発言は、マタイ26章63節に始まり、同27章40節の「神の子」を受けています。なお、この43節は、その内容が、知恵の書2章16~18節で、「不敬虔な者たち」が吐く言葉、「正しい人たちは、われわれを偽りだと見なし・・・・・神を自分たちの父だと豪語する。正しい人が神の子なら、神は彼を助けて、敵の手から救い出すはずだ」と共通すると指摘されています(Davies and Allison. Matthew 19--28. 620.)。
[44]マタイは、マルコには見当たらない「強盗たち」を加え、また「同じように」を加えています。「通りがかった者たち」と、「祭司長たち・律法学者たち」と、「強盗たち」との三者が、「同じように」(41節と44節)イエスをののしる様子がはっきりします。マタイは、ここの「ののしる」(原語「オネイディゾー」=ののしる/咎める/叱責する)に、七十人訳詩編21篇6節(=詩編22篇7節)の「人々の、ののしり(の的)」、さらに、七十人訳詩編68篇9節(=詩編69篇10節)「あなたをののしる者たちの(数々の)ののしりが私に降りかかった」(「ののしる」はどれも同じ原語)を想起していると指摘されています(Davies and Allison. Matthew 19--28. 621.)。
■ルカ23章
ルカは、今回の箇所でも、マルコの記述に基づきながら、ルカ自身の神学的な解釈を加えています。ルカは、なぜか、マルコ15章33~34節の「時間」と(ルカ23章44節と比較)罪状書の記述を省いています。36節の「酢を飲ませる兵士」と39~43節の「二人の犯罪人」への記述は、ルカ独自で、「犯罪人」の記述には、ルカの神学的な意図を読み取ることができます。これをルカの創出だと見る説もありますが、そうではなく、ルカ以前の資料において、すでに組み込まれていたと見る説もあり、内容の史的な信憑性をも含めて、資料とルカの編集との関係はよく分かりません(Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 868--869.)。
[35]ルカでは、「立って十字架刑を観ている民衆」は、マルコの描く「通りがかりの人たち」とは異なり、イエスへの嘲りの咎から免除されています。代わりに、「支配者」である議員たちの嘲弄ぶりが強調されます。議員たちからの嘲りの言葉は、マルコ15章31~32節と共通し、「他人を救う」は、イエスの病気癒やしの業を指しますが、「(その人が)神のメシアなら」は、三人称扱いです。「選ばれた」は、「神から選ばれた」のか、「メシアとして選ばれた」のか、その両方の意味に解釈することができます。「神からのメシアとして選ばれた者」は、ルカ以前の資料から出ていると思われますが、ここには、「神のみ手にあって苦難に遭う者」というルカの神学を読み取ることができます(Marshall. The Gospel of Luke. 869.)。
[36]【酸いぶどう酒】原語の「オクソス」(中性名詞)は、酸化した酸っぱいぶどう酒のことで、これが、農夫や兵士たちによって、飲み物として用いられていました。「酢を彼に差し出し」(岩波訳)。マルコ15章23節では、「没薬を混ぜたぶどう酒」を「イエスに与えた」、すなわち、(飲んではどうかと)「(イエスに)提供した」(動詞の不定過去形)とありますが、誰が提供したのかを記していません。ルカは、「酸いぶどう酒」を飲ませたのが「兵士たち」であることを明記しています。ルカは、わざとらしくイエスの十字架に近づいて、この酸いぶどう酒を十字架上で渇いているイエスに「飲ませようとする」行為(動詞のアオリスト形)が「悪意」から出ていると理解して、「侮辱した」を加えています。「ユダヤ人(たち)の王」ともあろう者が、こんな酸っぱい庶民階級の飲み物を口にするとは思えない。わざわざ差し出す兵士には、こういう想いもあった。ルカは、このように理解したのでしょうか。
[37]~[38]マルコ15章31~32節では、ユダヤ人同士の間で言う「イスラエルの王」とあり、その嘲りの言葉が、「彼らの間で言われた」とあることから、直接イエスに向かって浴びせられる状況とは限りません。ルカは、ローマの兵士が「異邦人」であることを考慮して、「この者はユダヤ人(たち)の王」に変えています。「この者」は卑下した言い方です。また、「もしもお前が」と二人称で呼びかける主語を入れて、兵士たちの言葉が、直接イエスに向けられていることをはっきりさせています。なお、38節では、「彼の頭の上に、ギリシア語とラテン語とヘブライ語で書かれた札」とある異読があります(シナイ写本の一部/アレクサンドリア学派の写本/エフライミ写本の一部/べザ写本など多数)。ルカは、この掲示そのものが言葉通りの真理であると受け止めています(F.Bovon. Luke 3. Hermeneia. 309. Note Under:136.)。
[39]~[41]【ののしった】マルコでは、「ののしる」の原語は「オネイディゾー」(叱責する/咎める/ののしる)ですが、ルカでは、原語が「ブラスフェーモー」(ののしる/罵倒する)です。この語は、とりわけ、神や聖なる物事に向けられる時には、「冒涜する」「(神と聖なる物事を)汚す」の意味になります。英語の“blaspheme"。「もしも」イエスが、ほんとうの「メシア」であるとすれば、「ののしり」は「神への冒涜」に転じます。
【お前はメシアではないか】この問い方は、ほんらい「そのとおり、メシアである」の答えを期待する言い方ですが、ここでの犯罪人の発言は、「もしもお前がメシアなら」の意味です。左右の二人は、政治的な理由で処刑される「熱心党」(ゼロータイ)だった可能性がありますから、黙って十字架刑を甘受するかに見えるイエスの態度に怒りと侮蔑を覚えて、「自分と我々を救え」と「ののしる」のです(Marshall. The Gospel of Luke. 874.)。
【神をも恐れないのか】二人目の犯罪人は、もう一人の発言をイエスを嘲る周囲の人たちの「侮辱の言葉」と同等に観て、自分たちを「彼ら」と比較しています。その上で、犯した罪の行為に対して、「それに相当する罰を(神から)受ける」ことで、「神からの正当な裁きを受ける」ことが、「我々には正当だ」(「当然だ」の原語の意味)と言うのです。なぜなら、「(神からの)正当な裁き」こそが、神からの「和解と贖い」をもたらすからです。これが、「悔い改める」のほんらいの意味です。だから、彼は、イエスをののしった仲間の発言に対して、「その行為に相当する叱責/警告」(「たしなめる」の原語の意味)を繰り返し(動詞の不定過去形から)告げたのです。39~41節には、ルカ18章6~8節が反映しているという説があります。また、この部分をルカによる書き加えだと見る説もありますが、以上に見るような「ユダヤ的な」発想に基づくことから、ルカによるとは考えられません(Marshall. The Gospel of Luke. 872.を参照)。
【あなたの御国においでになる】ここを「主よ、あなたが御座にある(座る/いたる)時」と読む異読があります(シナイ写本の一部/アレクサンドリア学派の写本/エフライミ写本の一部/べザ写本/Codex Cipius/Codex Koridethi/Codex Sangallensisなど多数)。異読は筆写の際の変更です。 “Jesus, remember me when you come to your throne."[REB].
[42]【思い出す】これは、神が特別の配慮を与えることを意味します。日本語で「(殿様などからの)覚(おぼ)えめでたい」の「覚える」の意味に近い。
[43]【今日わたしと一緒に楽園に】イエスは、嘲る者たちに応答することはしませんが、イエスを「メシア」だと信じながらも、その「王権の威力」が、「今日の自分の死とつながるように」訴えるこの犯罪人に向かって、「まことに」(アーメン)と厳かに答えて、イエスに具わるメシアの王権が、今のこの日に、その威力を発揮すると約束するのです。
【「楽園」について】
「楽園」の新約聖書のギリシア語は「パラデイソス」で、これは、ペルシア語「パリダイザ/~デザ」 からです。ペルシアでは、この語は、王や王侯たちのための「園」のことです。ペルシア語から出たヘブライ語は「パルデーム」で、そのアラム語は「パルデーマー」です。どちらも、ほんらい一般的な「園」を意味しますが、七十人訳(ギリシア語)のこの語の用法から、「パラデイソン」が宗教的な意味を帯びるようになります。
ユダヤでは、一般的な「園」から区別されて、次の事例に見るように「神/主の園」を表す用語として用いられました。
1.七十人訳創世記2章8節「エデン(エデム)に園(パラディソス)を設ける」。
2.七十人訳イザヤ51章3節「荒れ野をエデン(パラディソス)のように、荒れ地を主の園(パラディソス)のように」。
七十人訳の影響を受けて、新約聖書の「楽園」は、
1.「贖われた者が死後に入る場所」(ルカ23章43節)。
2.「死後に、アブラハムとともに居る場所」(ルカ16章23節)。
3.「死ぬべきものが命に飲み込まれた霊の体を有するクリスチャンが入る天の国」(第二コリント5章4~5節)。
4.「主イエスに救い出されて入る天の御国」(第二テモテ4章18節。
5.「まことのキリスト者が入る天のエルサレム」(ヘブライ12章22~23節)。
6.「イエスがその父とともに住まう場所」(ヨハネ14章2節)。
7.「終末の苦難の後で、天から再臨するイエスによって呼び出され選ばれた者が終末に入る場所」(マルコ13章26~27節)などがあります。
なお、「今の世に潜むパラディソス」については、(1世紀頃?の)エチオピア語エノク書70章4節に、「二つの風の間、西と北との間に住まわせられるエノクの居場所があり、それは、選民と義人のための場所であり、義人である先祖(アダム)の最初の楽園の場」だとあります。
新約聖書で、この「パラディソス」が出てくるのは三カ所だけです。ルカ23章43節で十字架の死と復活の中間に入る「パラディソス」と、第二コリント書12章4節で、今のこの時に、霊と体が離れたのか一緒かが分からない状態で、人が登る「パラディソス」と、ヨハネ黙示禄2章7節のように、勝利を得る者だけが死後に入る神の「パラディソス」があります。このために、現在と将来の中間期に潜む園(パラディソス)と、終末に待望される園(パラディソス)との、両方の意味にまたがる用い方がされています。それは、今回の場合のように、「今の世」と「未来に到来が期待される世」との間に「隠れて存在するパラディソス」ともなります〔TDNT(5)765~773頁〕。
今回の「パラディソス」では、イエスは、十字架の死の直後に、その当日に入ると約束しています。ただし、これは、使徒信条で、イエスが一度ハデス(黄泉)に下った後で、そこでの死から復活したとあること、あるいは、イエスは、「(三日後に)復活した後で」初めて天国に入ったという見解と矛盾するという想定があります。こういう想定は、人間を「霊」と「身体」とに分離して、人間の身体とキリストの身体とに留意して、両方を一つに見ようとするところから生じると思われます。しかし、これは、いささか不必要なうがち過ぎで、実際は、殉教者たちの例のように、死後、直ちに天の国に入るとされる場合が多数あります。今回は、それまで、全くの無力だと思われていたイエスが、ここに来て、その「メシアの王権」を発揮して、イエスと「共に交わりを持つ」者のために、直ちに「パラディソス」の扉を開くと約束するのです。頼むほうは、終末に入る希望を抱いていたのですが、イエスは、その人と「共になって」その死の直後に入ると返答するのです(H. Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 873.)。
十字架のイエスと二人