205章 十字架上のイエスと二人
(マルコ15章27〜32節/マタイ27章38〜44節/ルカ23章35〜43節)
【聖句】
■マルコ15章
27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
30十字架から降りて自分を救ってみろ。」
31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
■マタイ27章
38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。」
44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
■ルカ23章
35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
【講話】
歴代のキリスト教会の指導者たちは、今回のイエス様の十字架の受難について、それぞれが発言しています。テルトリアヌス(2〜3世紀)は、「イエスの衣を分け合うくじ」を採りあげて、「キリストの衣こそ、詩編全体(の預言)を象徴する」と見て、詩編22篇19節の預言がイエス様の十字架で成就したことを強調します。オリゲネス(2〜3世紀)は、楽園の命の木にいたる道が、アダムの堕罪以後に、「閉じられた」(創世記3章22〜24節)ことを受けて、道を閉ざす「燃える剣」を取り除くことができるのは、キリストだけであると述べています。アタナシウス(3〜4世紀)は、キリストの死が「死を死なせて、命を人にもたらした」と告げます。殉教者マルティノス(4世紀)は、ルカだけが、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」(ルカ23章46節)を引用していると指摘します。ヒエロニムス(4〜5世紀)は、今回の「善良な泥棒」が、「見ないで信じる」ことで、楽園に入る最初の人になったと告げています。アウグスティヌス(4〜5世紀)は、「自分を十字架する者のために赦しを祈る(ルカ23章34節)キリストこそ大祭司」であると述べています。ローマ教皇レオ1世(通称「大レオ」)(5世紀)は、キリストの十字架こそ、二人の犯罪人の善悪を見分ける鍵であると指摘します。宗教改革者ルター(16世紀)は、シモンこそキリストの十字架を担いだ本物の弟子で、イエスだけが、世の罪を贖う犠牲であると告げ、「善良な犯罪人」は、聖霊に導かれてイエスに救いを求め、「父から罪の赦しを授与された」最初の人だと言います(F. Bovon. Luke 3. Hermeneia. 313--317.)。
福音書の記者であるマルコは、拒絶の悲しみと無知蒙昧(むちもうまい)が産む嘲笑の裏に、これらに堪えて、どこまでも「神の御心に従う」イエス様の霊知と、「人の心」に潜む恐ろしい無知の罪性とを読み取っています。こういう無知と蒙昧こそ、「神の民」と称する心のおごりを抱く人たちを「滅亡に誘い込んだ」かつての「ユダヤの指導者」たちを駆り立てていた正体です。マルコは、この事をここに描き出そうとしています。
祭司長たち、律法学者たち、彼らにそそのかされた(通りがかりの)民衆、左右の盗賊たち、全員がそろって、十字架上のイエス様に侮辱と嘲りの言葉を浴びせます。「神の子」「神殿を建て直す」「十字架から降りる(復活する)」など、サタンに乗せられて口にするこれらの人々の「嘲り」の言葉は、まさに、神のみ手によって「実現」しますから、彼らは、「知らずして」、「意図に反して」、ほんとうに成就する出来事を預言させられています〔ICC『マタイによる福音書19〜28章』619頁〕。
イエス様は「イスラエルの王」であり「神の子」です。ユダヤの指導者たちは、この称号を巡って、イエス様を嘲笑します。同時に、「もしも」イエス様が、この称号をほんとうに具えるのなら、「神からの助けがある」はずだというのが嘲りの理由です。ところが、これを読む、あるいは聞く、読者/聴衆のほうから見れば、イエス様こそ、まさには「イスラエルの王」であり「神の子」です。嘲る見物人たちや侮辱する者たちは、皮肉にも逆にイエス様を力づけ、イエス様は、そのメシアの称号にふさわしく、十字架から解き放たれる力を発揮するのです。だから、「人々の無理解」と「皮肉る者の愚かさ」は、マルコ1章〜8章までの、メシア・イエスによる「悪霊追放と病気癒やし」の出来事と比較対照されてきます。「目があっても見えず」「耳があっても聞こえない」人々の愚鈍がいっそう際立ちます。
現代の読者・聴衆が考えるのは、神は、「この」イエス様をお助けくださるだろうか? お助けになるのなら、「何時?」「どのようにか?」です。これが気になるのは、「今その時」が来るか来ないかは、いったい、「神は存在するのか?」という最も根本的な疑問と関連するからです。こういう疑念や懸念に対する現代の神学者たちの答えは、「イエス様の忍耐」と、嘲るユダヤの指導者たちが「信心深い振りをする」だけの偽善者だという解釈です〔ルツ『EKK新約聖書註解 I(4):マタイによる福音書』402頁〕。
さらに現代では、ここで提示されている問題が、より拡大され一般化されて、「お前自身を救え」は、様々な苦しみに悩む人類一般に向けられる「皮肉」「批判」にもなります。だから、現代では、人類全体が「十字架にかけれらているイエス様」ではないか?という見方が漂(ただよ)います。「人を救う」と主張しながら、「自分さえ救うことができない」のが現代の人類の実情です。だから、「イエス様を助ける神が、はたして居るのか?」という「無神論」は、イエス様の時代も現代も変わらないまま、「不信心/不敬虔な」人たちからの皮肉と嘲りになります。
イエス様の十字架刑が、どんなに残酷で、見るも恐ろしい出来事であるかが、今回の記事を読めば読むほど思い知らされ、私たちクリスチャンは、その十字架に秘められた受難の出来事への霊的な洞察と、神学的な解釈へ導かれます。ところが、メシアと称される人が十字架刑に処せられるこの事態は、予想を超える多くの人たちに伝わり、人の噂の種になります。だから、受難には、この「噂受難」までも加わることになります。実は、十字架に関しては、その意義とその神学的な解釈が先行して、この出来事の「噂(うわさ)の広がりそれ自体」から生じる様々な現象が見落とされる傾向があります。実は、出来事それ自体よりも、これについての噂と言い伝えこそが、とりわけ日本では、よりいっそう顕著な役割を果たすことを知ってほしいのです。
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