【注釈】
■愛弟子とペトロ
21章18~19節でのペトロへの殉教予告に続いて、20~23節では、イエスの愛弟子が「生きながらえる」ことが予告されます。21章の編集者は、ペトロの死と愛弟子の長命を対比させる意図で18~23節を追加したという説があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。しかし、ペトロ殉教の伝承と、ヨハネ共同体の愛弟子に関する伝承とは、ほんらい別個のもので、両方が編集者の手で結びつけられてここに置かれたと見ることもできます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
問題は22~23節の解釈です。イエスが愛弟子に、イエスの再臨まで彼が死ぬことがないとも受け取れる発言をしたのは、愛弟子が老いてなお生存していたからだと見ることもできます。ただし、イエスが、その弟子たちの生存中にも再臨するという信仰は、共観福音書にもでています(マタイ10章23節/マルコ14章62節)。
これに対して、老いた愛弟子は、自分に語られた「わたしが来るまで生きながらえることを望んだとしても」という言葉が、「イエスの再臨まで生きながらえる」ことだと誤解されないよう配慮して、23節を通じて編集者に忠告している。こう解釈することもできます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。そうだとすれば、21章が加えられた時には、愛弟子はすでにこの世を去っていたことにもなりましょう。だから、編集者はここで、ペトロも愛弟子も逝った後で、両者の死に方を比べてこの記事を書いていると解釈する場合が多いようです。
愛弟子がまだ生存中であれ、すでに天に召された後であれ、ヨハネ共同体とこれを囲むキリスト教会の間で、ペトロの殉教と愛弟子の長命が比較対照されたのは確かでしょう。だから編集者は、19節で語られるペトロの殉教が、神の栄光を顕すのに対して、22節で語られる愛弟子の長命もまた、ペトロの殉教に劣らず大事な意味を持つと告げるのです。小アジアを中心とする当時のキリスト教会では、ペトロの殉教に賛美と賞賛が向けられていたと思われます。これに対して、生きながらえた愛弟子の権威もまた、ペトロのそれに劣らず大事な意味を持つと訴えているのです。ただし、ペトロに与えられた司牧の権威に対抗しようと意図して、ここで愛弟子の権威を主張していると見るのは適切でありません。ヨハネ福音書には、愛弟子に「教会全体を指導する権威」が授与されたという主張を見出すことができません。殉教にせよ、生きながらえるにせよ、「主に従う」ことが何よりも大切であるとクリスチャン一般に宛てて語ったものです。
ところで、1章39節で「イエスについていった」弟子たちは(「そのうちの一人」を「愛弟子」と見るなら)、ここ21章20節で、イエスに「ついていく」ことで終わることになります。だから、1章と21章は、ヨハネ福音書全体の枠を構成していることになります。
■ヨハネ21章
[20]【振り向く】1章38節の「振り向く」(ストレポー)より意味がやや強い「エピストレポー」が用いられています。ただし、ヨハネ福音書では、このような場合、それほど意味が違いません。
【ついて来る】この語が抜けている異読があります。愛弟子は、ペトロがイエスの招きに応じて「ついていった」ので、自分もイエスの後についていったのでしょう。しかし、ペトロは「ついていき」、愛弟子は「留まり続ける」ことが、イエスの意志であることが明らかにされます。後半の「この弟子は」以下は、13章23~26節を指していて、このような説明はヨハネ福音書でしばしば見ることができます(7章50節/12章21節/18章26節)。しかし、ペトロと愛弟子とを比較対照させるこの箇所で「主の胸に寄りかかった弟子」だと言及するのは、それなりの意味があると見なければなりません。この言い方は、エイレナイオスなど、後の教会で、ヨハネ福音書の著者を指す言い方としてしばしばでてきます。最後の晩餐で「主の胸に寄りかかる」ことは、「父の懐(ふところ)にいる」(1章18節)と同じ意味で、食事の席などで、そのお方の「最も間近な所にいる」ことを指します(ルカ16章23節)。
[21]【この人はどうなる】ペトロの言葉を直訳すれば「主よ、では、この人(男)は何?」で、通常何らかの動詞を補って訳されるようです。「主よ、あの人はどうなるのでしょうか」〔塚本訳〕。"Lord, what about him? " [NRSV] なお「見て~言った」とある動詞は現在形です。
[22]前半を直訳すれば「イエスは彼(ペトロ)に言う。『もしわたしが来るまで生きながらえる(今のままでいる)ことを彼に望んだとしても』、それがあなたにとってなんなのか?」
【もし】「もし~」は、この場合、実際に起こりえることを予測していますが、ここでは後で作者によってこのことが否定されます。
【わたしが来るまで】イエスが復活してから再臨するまでのことを指すと解釈できますから、イエスが復活する時まで(14章18節)のことではありません。ヨハネ共同体の間で、愛弟子がまだ生存中にイエスの再臨が起こると言われていたのでしょうか(第一ヨハネ2章28節参照)。
【生きている】原語は「メノ-」(留まる/泊まる/つながる/今のまま生存する)でヨハネ福音書にしばしばでてきます。通常「生きながらえる」の意味に解釈されますが、同時に「復活のイエスと共に地上に留まり続ける」の意味も含まれます。
【あなたに何の関係】これは2章4節と同じ言い方です。
【あなたは、わたしに】「あなた」が強調されていて、ペトロと愛弟子との対比がはっきりしています。
[23]【うわさが】直訳すれば、「次のような言葉が兄弟たちの中へ出ていった」です。「言葉」は冠詞付きで、イエスの御言葉(単数)のことであり、「兄弟たち」とは、20章17節によれば、イエスの復活を知った弟子たちのことです。しかし、ここでは、さらに広くヨハネ共同体の人たちを指すのでしょう。この福音書が書かれ始めていた80年代では、愛弟子はまだ存命中で、彼の長命とペトロの殉教とが、ヨハネ共同体の中でも問題にされていたようです。
21章20~22節は、愛弟子がイエスの再臨まで生き延びる可能性をも示唆していますが、23節は、愛弟子がすでに亡くなっていることを前提にしていると思われます。20~22節を書いた人とは別人が、愛弟子の死後に、後から23節が付加されたと考える人もいますが、23節のテキストには語句の入れ替わりがあるものの、文献的に見て挿入の形跡は全くありませんから、この想定は受け入れることができません。
ブルトマンは、20~22節も23~25節も、同一の編集者/刊行者によって書かれたと見ています。ブルトマンによれば、「一人の主の弟子」が高齢に達したために、この弟子はイエスの再臨まで生き続けるという見解がヨハネ共同体内に生じ、この時点から、22節の「イエスが来るまで生きながらえることをイエスが望む」という言わば「事後預言」が生まれたことになります。だとすれば、21章の編集者は、この愛弟子が亡くなった後になって、かつてその弟子について言われていた預言を「イエスの言葉」として愛弟子の口から語らせ、かつ23節を加えることによって、愛弟子の死を知らせていることになりましょう。この最後の刊行者は、ペトロの殉教の死と、主と共に地上に留まり続けた愛弟子が長寿を全うしたことを同等に価値のある神の栄光だと見なして、そのことを告げ知らせるために23節以下を付加して、ヨハネ福音書を刊行したことになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
これに対して、21章全体は、愛弟子の弟子が、愛弟子の証言に加えて編集したという見方もあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ただしブラウンは、23節が、必ずしも愛弟子の死を意味するものではないとして、愛弟子はまだ存命中だったと考えています。
筆者(私市)も、21章全部が、愛弟子の伝承を受け継いだ彼の弟子による編集であると見ていますが、その愛弟子が存命中なのか、すでに亡くなっているのか、23節からは判断できないと考えます。おそらく、すでに亡くなっていたのでしょう。しかし、どちらの場合にせよ、そのことによって、21章20節以下の内容にそれほど大きな変化がないと思います。殉教か長命か、人の生き方は神が決めることであって、大事なことはただ一つ「イエスに従う」ことだからです〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。
【あなたに何の関係があるか】この部分が抜けている異読があります。抜けている短いほうが元の形だと見ることもできますが、筆写する者が、「わたし(イエス)が来るときまで彼が生きていることをわたしが望んだとしても」とある「望んだとしても」の部分を強調するために、それ以下を意図的に省いたとも考えられます。殉教か長命かを決めるのは主の意思ですから、「あなた(ペトロ)になんの関係もない」ことになります。ほんらいの形がどちらとも決めかねるので、通常この部分は〔 〕に入れてあります(NRSVでは欄外に異読の指示)。
[24]【これらについて証しをする】21章を加えた編集者は、ここでこの福音書を書き著わしたのが、「この弟子」すなわちイエスの愛弟子であると明言しています。「これらのこと」とは、21章のことではなく、ヨハネ福音書の全体を指します。「これらのことを証しし、かつこれらのことを書いた者」とあるのは、必ずしも、愛弟子一人だけに限定された言い方ではなく、「これらのことを証しした者」の証言を受け継いで、これを編集した者もまた、愛弟子の証言と一体であることを含んでいるのでしょう。
【書いた者】「証しする者」は現在分詞で、「書いた者」はアオリスト形分詞です。「書いたこと」がすでに過去のことであって、愛弟子は、この時すでに亡くなっているのでしょうか。「書いた」は、古代では辞義通りに作者自身が「書く」ことだけでなく、ある人物が口頭で伝えたことや書くように指示したことをも含みます(19章19節/ローマ15章15節と同16章22節を比較)〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。
【わたしたちは知っている】「わたしたち」とは、ヨハネ福音書を生みだしたヨハネ共同体全体を指すという解釈もありますが、それはむしろ自明のことだと前提されていて、ここで言う「わたしたち」は、ヨハネ共同体をも含む当時のキリスト教会全体が、この福音書が愛弟子によって証しされた真実を伝えていることを知っていると言おうとしているのです。25節では「わたしは思う」ですが、24節の「わたしたち」と25節の「わたし」は矛盾しません(第三ヨハネ9節では「わたし」とあるのに同12節では「わたしたち」となっているのに注意)。
[25]ここで21章の作者は、20章30節の言い方を繰り返しています。「全世界も収めきれない」という言い方は、ユダヤ教だけでなく、ヘレニズム世界で聖なる書物について、その締めくくりに語られる伝統的な言い方です(シラ書43章27節/第一マカバイ記9章22節参照)。なお、この25節全体が抜けている写本があります。また、最後に「アーメン」を加えている異読があります。
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