82章 愛弟子への言葉と結び
21章20〜25節
■21章
20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
【注釈】
【講話】
■結びの言葉の背景
使徒ヤコブは早くに殉教し、パウロも殉教し、使徒ペトロも殉教し、義人ヤコブと呼ばれたイエス様の弟も殉教する中で、一人だけ、驚くほど長命を保ったイエス様の弟子(使徒ヨハネ?)がいました。彼を始祖として敬う共同体の人たちの間で、この弟子はイエス様が再臨するまで生きながらえると言われるようになりました。とりわけ、ヨハネ共同体とその周辺のキリスト教徒の間で、ペトロの殉教と愛弟子の長命とが比較対照されたために、愛弟子の共同体の人たちは、愛弟子の長寿を弁明するために21章22節のイエス様の言葉を創作した。こういう見方があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。これに対して、この始祖がヨハネ共同体の人たちの「予想に反して」亡くなった。この始祖の死が、共同体の人たちに混乱と動揺を与えたので、この疑問に応えるために、21章の編集者(あるいは彼とは別人?)が、21章23〜25節を書き加えたという見方もあります〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)参照〕。
原初のキリスト教会が、使徒たちこそイエス様の御言葉とその御業の「目撃者」であり「証人」であると強調することは比較的少なく、使徒たちに続く第2世代になってから、ルカ1章1〜4節やヨハネ19章35節や使徒言行録2章32節や第二ペトロ3章1〜2節において、使徒の「目撃証人」の重要性が強調されるようになります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。だからと言って、わたしたちは、このような目撃証言を、後の教会による創作だとか、教義的な弁護のための創出だと見なす必要はありません。使徒たちが存命中の原初教会においては、彼らがナザレのイエス様の実際の目撃者であることは言わば自明のことでしたから、ことさらにそのことを言い立てる必要がなかったのです。第二世代になって初めて、伝えられた出来事が「事実である」ことを確認するために、伝承の源である使徒たちや目撃者の証言が重視されるようになったからです。だから、証言の信憑性に懐疑的な見方に対して、21章22節のイエス様からペトロへの御言葉は、イエス様にさかのぼるとする見方があり〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕、あるいは、22節のイエス様の御言葉は、口伝と、書かれた文書との境界に位置する頃の確かな使徒的伝承に基づくという見解があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
わたしの見るところ、歴史的な信憑性に対して懐疑的な立場も、その信憑性を擁護する立場も、どちらも決定的な確実性に欠けています。むしろ、主の愛弟子が、己の長命とペトロの殉教とを比べて、それぞれ異なる主の導きを覚える中で、イエス様から愛弟子の始祖に「主の言葉」(22節)が与えられた。このように推定するのが適切でないでしょうか。与えられた御言葉は、彼が主の再臨まで生き永らえることを必ずしも保証するものではないと「兄弟たちに」告げたのでしょう。23節は、このことを示唆すると思われます。
イエス様を直接知っていて、その復活を通じてイエス様の御霊を受けた使徒たちも、その使徒たちの霊性を受け継いだ福音書の記者たちや編集者たちも、イエス様の御霊を通して、同じ主のお言葉を聴くことができたのです。同じことが、キリスト教会の長い歴史を通じて現在に受け継がれています。イエス・キリストの御霊のお働きは、このようにして使徒時代から継承されてきました。イエス様は世の終わりまで常わたしたちと共に居て、わたしたちに語ってくださるからです。
■真理の証人
わたしたちが、イエス・キリストの福音を<ほんとうの意味で>知ろうとするならば、いったいどういう人、どういうことが必要なのだろう? 21章24〜25節は、このことを真剣に考えた末の編集者の言葉だと思われます。御言葉を伝える人は、「真理を生きる人」、言い換えると、ほんとうに「イエス様に従った」人でなければならない(22節)。編集者はこう考えています。この一事こそ、人が「イエス様の弟子」と呼ばれるに値する者になり、福音の真理を証しする者になるための唯一無二の条件だからです。この編集者は、「福音」とはイエス様御自身の霊性にほかならないこと熟知しています。イエス様が伝えようとした真理は、自分自身もその真理を生きることによって「証しする」人によらなければ、決して伝わらないことを知っています。イエス様が伝えようとした「真理」は、そのような人を求めています。
真理とは、外から把握できるほど客観的でもなく、したがって、現代人の疑り深い理性を納得させるほど、もっともらしく合理的でもありません。ヨハネ共同体の始祖である愛弟子は、イエス様を直に「目撃した」だけでなく、目撃したイエスを深く愛することによって、イエス様その人と霊的に深く交わり、彼が知りえたイエス様が伝えようとした真理を、自らもこれによって生きることで「証し」したのです。
愛弟子は、共観福音書の使徒たちのように、イエス様を「宣べ伝えよう」とはしませんでした。それよりも、イエス様を深く知り、知りえた真理を自らも生きることで、イエス様その人を「証し」ししたのです。その結果が、「イエス様を愛すること」であり、イエス様が愛した弟子たちをイエス様が愛したとおりに愛することであり、そうすることで、イエス様についての彼の証しが「偽り」ではなく「真理」であることを人々に分からせることです。曖昧(あいまい)で、不確かで、混沌としたキリスト教の世界で、このような証しだけが確かな真理であることを愛弟子もこれの編集者も知っているのです。
■言葉に尽くせないこと
愛弟子が伝えようとしたのは、イエス様とは、そもそも「だれのこと」であり、そのイエス様が地上で起こした出来事のほんとうの意味を伝えることでした。イエス様の霊性がもたらした真理を「言葉を用いて書き著わそうとするなら」、世界中の書物もこれを容れることができないほどだからです。
今回の部分について、ユダヤ教の伝統にせよ、ヘレニズム世界の習わしにせよ、人の伝記を書き終える際にしばしば見られる「誇張した褒め言葉」だと見る向きもありますが、そうではなく、作者は、受肉したロゴスである神の子イエス様が、「わたしたちの間に」もたらしたものがどんなに大きいかを言い表わそうとしているのです。だとすれば、25節は、「知恵と知識の宝は、すべてキリストのうちに隠されている」(コロサイ2章3節)と書いたコロサイ人への手紙の著者と同じことを言おうとしているのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
ヨハネ福音書講話(下)へ