【注釈】
■20章
[24]【トマス】「ディディモと呼ばれるトマス」については11章16節(この節の注釈を参照)と14章5節にでてきました(さらに21章2節にも)。「ディディモ」(双子)は、ヘブライ語「ターアム」(二重になる/ペアになる)から出たヘブライ語「トーマー」とアラム語「ト/テーマー」(双子)のギリシア語訳です。共観福音書では、それぞれ1回ずつ彼の名前が使徒としてでてくるのに、ヨハネ福音書には8回も繰り返されていて〔新共同訳による〕、率直でいささか単純な人柄を表わしています。共観福音書では、弟子たちの中に、イエスの復活がにわかに信じられなかった人たちがいたと記されています(マタイ28章17節/マルコ16章14節/ルカ24章11節)。これに対して、ヨハネ福音書では、ここで初めて、弟子たちの中で不信仰が語られますから、ヨハネ福音書では、共観福音書の弟子たちの不信仰を言わばトマスが「代弁している」と見ることができます。
[25]【あの方の手】これは複数形です。
【釘の跡】「釘」は複数ですが、「跡」は単数です(これを複数にする異読があります)。「脇腹」も単数です。
【わたしの指と手】「指」も「手」も単数ですが、「手」を複数に読む異読があります。トマスがここで主張しているのは、イエスが単に「生き返った」ことを知るだけでなく、たとえ十字架で殺された人の姿であっても、それが<ほんとうにイエス自身である>かどうかは、イエスだけが受けていた傷跡を自分の目と手で確認しない限り、その復活の出来事を納得することができないという意味です。したがって、ここには、単なる心霊的な復活でも幻覚的な顕現でも<ない>ことを、トマスは「最も生々しく体感できる証拠」として求めているのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
 ここでのトマスの主張が、あまりに「生々しい」ことから、ヨハネ福音書の象徴的な描き方から見て、この描き方はヨハネ福音書に「合致しない」という理由で、ここは、ルカ24章39節の「わたしの手や足(どちらも複数)を見なさい」から出た言い方から出ているという説もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。しかし、ルカ福音書とヨハネ福音書とでは、「手」「足」「釘跡」「脇腹」などにおいて、その用語も単数/複数も全く異なっていますから、この見解は、ヨハネ福音書本文のテキスト批評と合致しません。ヨハネ福音書が「象徴的な描き方をしている」という前提を重視しすぎるために生じた不適切な解釈です。
 ヨハネ福音書の作者は、トマスのこの要求を「非難する」意図をこめているという見方があります(4章48節参照)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。トマスの求める確証が「馬鹿げている」と言おうとしていると見るのです。「見て信じるよりも、見ないで信じる方がまさっている」(29節)とあるイエスの言葉から判断して、トマスのように「しるし」を求めることに批判的なヨハネ福音書の傾向をここに読み取ろうとするのです。しかし、筆者(私市)は、トマスへの顕現物語が、トマスを批判する意図から書かれているとは考えません。イエスがトマスに示す「見て触れることのできる証拠」が、「しるし」を否定する意図で描かれているとも思えません。ここでのトマスの要求は、ヨハネ共同体によるイエス復活の証言に対して、ヨハネ共同体の頃のファリサイ派ユダヤ教が、これを否定する立場から共同体の信仰告白に向けて出した「確証要求」の可能性があります。そうだとすれば、ヨハネ福音書の作者は、イエスの復活が非現実的な幻想に過ぎないという批判に答えて、それが、弟子たちの確かな目撃証言に基づくことを言おうとしているのです。自己流の確証を求めながらも、イエス様の復活権限に接したその時、あえて「指を入れる」ことをしなくても、その信仰を告白したと、ここでトマスに語らせていると見るほうが適切です。
 だから、ここで作者は、イエスが与える復活の「しるし」をイエスの言葉だけを信じる信仰と<対立させよう>と意図しているのではありません〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。11章16節でも14章5節でも、トマスの発言は率直ですが、その発言内容が「馬鹿げている」と思われるような描き方はされていません。今回も、25節のトマスの発言が、29節のイエスの言葉を引き出す伏線になっているのです。
[26]【八日の後】19節の「週の初めの日」が日曜ですから、「八日の後」は、この日曜を入れて数えると次の日曜になります。ヨハネ福音書の作者は、通常「その後」という言い方をしますから、「八日の後」は期間の長さを指します。マルコ=マタイ福音書では、復活したイエスが、弟子たちに「ガリラヤへ行く」ように命じています。しかし、ヨハネ福音書では、少なくとも今回の顕現まで、彼らは、エルサレムに留まっていたことになります。
【また家の中に】原語は「中に/屋内に」です。「また」とあるから、先の顕現から1週間の間は顕現がなかったことになります。
【イエスが来て】「来る」は現在形です。弟子たちは、日曜なのでイエスが「来る」ことを予期していたのでしょうか。
[27]【トマスに】ここの原語は24節の「トマス」と異なり「トーマ」です。イエスが親しみをこめて「トーマよ」と呼びかけたのが反映しているのでしょう。
【指を】「指」は単数で「手」は複数です。「見なさい」とあるのは、日本語の「手を出して<みなさい>」の意味に近い言い方です。イエスはおそらく両手を差し出してトマスに語りかけたのです。
【わき腹】原文は「わき腹の中へ手を差し入れる」と読むことができます。このことから復活のイエスは裸体で顕われたという説もありますが、薄い衣をまとっていても手を入れることができます。ヨハネ福音書は、イエスの復活の体を「紳士用の衣服専門店並みにきちんと測って描こう」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕とはしません。
【信じない者に】ここからは、「信じる者」と「信じない者」とが対照されていて、しかも「なりなさい」という命令が来ます。この意味をめぐって、ふたとおりの解釈があります。
(1)イエスは、先にトマスが語った要求を認めて、要請した通りにしてみなさいとトマスに言います。ただし、トマスは言われた通りにはしません。だから、トマスは、イエスの体を見るだけで、<それが手で触れることができるほど現実的なからだである>ことを信じたのです。ここでのトマスは、「信じない者でも信じる者でも」、そのどちらにも「なる」可能性を秘めています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。だから、この場合の「信じない者」は、必ずしも「不信心な者/不信仰者」(第二コリント6章15節と比較)のことではありません。「イエスは、トマスに向かって、トマスが求めたとおり、イエスの復活の現実性を納得しなさいと勧めている」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕のです。だから、ブルトマンは、「(信じない者に)<ならない>」というイエスの言葉は、「まだ信じることが<できない>ままの」中途半端な状態のことだと解釈しています〔ブルトマン前掲書〕。「信じないままで<いる>のでなく、信じるものになりなさい」〔岩波訳〕。"Do not doubt but believe."[NRSV]
(2)「信じない者に<なる>」とあるのを重視して、トマスが「復活信仰を拒否する不信仰者であろうとする」ことだと解釈します。だとすれば、イエスは、トマスに、「不信仰を改めなさい。そして、<信じる者へ転向しなさい>」と命令していることになりましょう。これは、「なる」を「不信心を明らかに示す/表わす」ことだと見る解釈です〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。「不信仰をやめて、信じる者らしくしなさい」〔塚本訳〕。この場合、トマスは「不信仰な者」の部類に入っていたことになります。 "Be unbelieving no longer, but believe."〔REB〕
 本文はどちらの解釈をも可能にします。この点について、「信じない者に<なったままでいる>のをやめて」と「なる」の前にさらに「いる」を挿入する異読があります。後からのこの挿入は、おそらくここのイエスの言葉を(2)の意味に解釈しようとすることから生じたのでしょう。
 ヨハネ福音書の作者は、トマスが、その頑(かたく)なな「不信仰」をイエスから咎められていると言うのでしょうか? それとも、イエスは、トマスの要求を無下に退けることをせず、その要求に応えることで、イエスの復活のからだが現実性を帯びていることを分からせようとしているのでしょうか? この部分は29節の解釈とも関連しますが、もしも29節が、「生前のイエスを見たことのない世代のための言葉」だとすれば〔岩波訳(注)〕、29節は必ずしもトマスへの咎めでないことになりましょう。
[28]【わたしの主、わたしの神】この呼びかけは、ヘブライ語の「ヤハウェ(主)」と「エロハイ(わたしの神)」を組み合わせたギリシア語訳として、七十人訳旧約聖書でしばしば用いられます。「主こそわたしの神」(ゼカリヤ書13章9節)/「わたしの神、主よ」(詩編30篇3節。七十人訳では29篇)"O Lord my God!"/「わたしの神、わたしの主よ」(詩編35篇23節。七十人訳では34篇)などがあります。なお、新約聖書では「主よ、わたしたちの神よ」(ヨハネ黙示録4章11節)があります。
 ただし、ラテン語の「我らの主と神」は、ちょうどヨハネ福音書が書かれた頃に、クリスチャンを迫害したローマ皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)が、自分を指して言わせた称号です(ヨハネ黙示録4章11節は、この事への反対表明でしょうか?)〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
イエスへの称号は、すでに1章35~51節に幾つもでてきましたが、イエスを<イスラエルの神ヤハウェ>としてはっきり告白しているのは、ここでのトマスが初めてです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。この意味で、この28節は、創世記の創造主とイエスとを同一視する1章1~2節を証ししていると言えましょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[29]ユダヤ教の「ミドラシュ」は、イエスの頃にすでに行なわれていた聖書釈義が、さらに後代になって(3世紀頃)編纂された書です。これによれば、シメオン・ラキシュというラビが、「離散のイスラエルの民は、シナイで啓示を受けたイスラエルの民に優る。シナイでは、火と雷鳴によらなければ、民は信じなかったであろう。しかし、これらを何一つ見なかった離散のユダヤの民は、神を信じてその教えを受け容れている」と述べています。このラビの言葉は、シナイで結ばれた<ヤハウェとイスラエルの民との契約>のことを語っています。このことから判断すると、今回のトマスの告白とこれに対するイエスの言葉は、これまでのユダヤ教とは異なる意味で、「新たな信仰に基づく契約」がここで結ばれたことを表わそうとしていることになりましょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 29節のイエスの言葉は、「しるし無しでイエスの言葉だけに頼るのが信仰の唯一のあるべき姿だ」という意味ではない。またヨハネ福音書では、しるしが不承不承ながら語られているわけでもない。ただし、この福音書の記者には、しるしそのものが信仰に取って代わることへの懸念がある」〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。
 筆者(私市)もこの解釈に賛同します。トマスに答えるイエスの言葉は、かつて顕現に接した<イエスの直弟子>たちから、その弟子たちの伝承を受け継いだ信仰者たち、すなわち「見ないで信じる」福音書の読者たちへ向けられているとも言えます。トマスの告白は、おそらく1世紀末頃のヨハネ共同体の礼拝式文を反映しているのでしょう。主の日、平安の祝祷、出席者への聖霊の降臨、イエス・キリストの臨在、イエスからの語りかけ、これらは、ヨハネ共同体が行なっていた礼拝と重なるのでしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
■結びの言葉
 ヨハネ福音書は、ほんらいこの30~31節で終わっていたと考えられていて、21章は、誰か別人が後から付け加えたと考えられてきました。しかし、事はそれほど単純ではありません。ヘレニズム世界では、伝記や物語をひとまずまとめて語り終えたその後でも、さらに同じ作者が、新たに語りはじめたり、先の物語に自ら付け加えたりする場合が珍しくないからです。ヨハネ福音書の作者は、ここでひとまず全体を振り返ってまとめています。だからと言って、これ以上のことが語られる<必要がない>という意味ではありません〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
[30]【多くのしるし】ヨハネ福音書の作者が、イエスの「しるし物語」を用いていることは(とりわけ2章~12章で)、ヨハネ福音書の成立の章で述べました。終わりに作者は、改めてそのことを振り返って、この福音書の成り立ちを再確認します。しかし、「ほかにも多くの/いろいろな」とあることから、作者は、手もとの資料以外にも、例えば共観福音書で語られている様々な出来事を知っていたのでしょう。ヨハネ福音書が、イエスによる単なる「知恵の言葉集」ではなく、共観福音書と同じような福音書の形を採ったのは、イエスの出来事全体が、神から与えられた「しるし」であることを語り伝えようとしたからです。
【弟子たちの前で】直訳すれば「弟子たちの(顔の)前で」です。イエスが、「弟子たちの見ている前で」の意味ですが、ヘブライ語の「見ている前」は、「主の(み顔の)御前で」にも通じます。だから、地上の弟子たちが、イエスの行なった出来事の証人であるだけでなく、同時に、主なる神もその出来事を証ししていると言いたいのです。ここの「弟子たちの見ている前で」は、ヨハネ福音書の伝えるイエス・キリストが、復活したキリストであるだけでなく、紛れもなく「ナザレのイエス」の生前の出来事をも含むことを明確にするためです。しかも「弟子たちの前で」は、ヨハネ福音書のしるしとイエスの言葉とが、イエスを信じる者たちだけのためでなく、イエスに敵対する人たちの前でも、「しるし」が行なわれ、「言葉」が語られています。だから、この福音書が、イエスを信じている人たちだけを対象に書かれたと考えるのは誤りです。ヨハネ福音書が、「信じる者」と「信じない者」、このふた種類の人たちの両方に向けられていることを忘れてはならないでしょう(12章37節)。
【この書物に】ヨハネ福音書は、イエスが行なった「しるし」の中から、イエスの物語を構成するのにふさわしい出来事を選んで物語を構成しています。この句はそのようなヨハネ福音書の成り立ちを読者に思い起こさせます。さらに、作者が「しるし」と呼ぶのは、イエスが行なった奇跡的な「しるし」のことだけでなく、しるしに伴うイエスの言葉も「しるし」に含まれること、逆に言えば、イエスの奇跡は、イエスの語った言葉と分かちがたく結びついていることを言おうとするのです。だから、イエスの言葉こそ、何にも優る奇跡的な<しるし>であることをも指しているのです。
[31]ここが、ヨハネ福音書の作者による<ほんらいの>結びだと考えられます。「これらのことが書かれたのは」ともう一度前節を繰り返していますが、「これらのこと」とは、「これらのしるし」とも「これらの出来事」とも解釈することができます。だから作者は、今まで語ってきたヨハネ福音書全体のことを指しているのでしょう。
【信じるため】「信じる」は接続法現在形と接続法アオリスト形のふたとおりの読みがあります。どちらの場合も「信じる<ために>」とその目的をはっきりさせています。現在形であれば、「これからも信じ続けるため/確信を抱き続けるため」の意味になります。アオリスト形であれば、「今ここで信じる者となり、以後クリスチャンになる」ことを意味します。だから、ヨハネ福音書の読者が、すでにイエスを信じる者なのか、それともまだそこまで行っていない者なのかは、ここでは問題でありません。
【神の子メシア】イエスは「キリスト/救い主」であり「神の子」であることを指します。「イエス・キリスト神の子救い主」という最初期のクリスチャンが唱えた称号のすべてがここに要約されています。
【イエスの名】「イエスの名」とはイエスを<通じて>の意味です。ここで、改めて、読者自身も、イエス・キリストを通じて「神の子」にされることが、この福音書の目的であることを伝えています。だからこの節は1章12節へ戻ることになります。
【命を受ける】「<永遠の>命を<持つ>」と読むこともできます。今の時からイエス・キリストにある命に与って、その命をどこまでも保ち続けることで、この地上を去った後も、なお続くイエスの復活の命に至ることを指し示そうとしています(5章24節)。
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