79章 トマスへの顕現と結び
20章24〜31節
■20章
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
【注釈】
【講話】■見ないで信じるとは?
今回のイエス様の最後の御言葉、「見ないで信じる者は幸いだ」は、イエス様の顕現に接している弟子たちと、その顕現を見ていない後世の信仰者たちとの違いを言い表わしていると言われています。ヨハネ福音書は、ここでの復活顕現を「批判的に受けとめている」という解釈があります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「批判的」とは、自分の目と手でイエス様の御復活を確かめなければ納得しないというトマスの要求と疑問が不当であり、そのような態度をヨハネ福音書の作者が批判していると言うのです。では、自分の体験にいっさい頼ってはならない。こう、ヨハネ福音書はわたしたちに警告しているのでしょうか? 弟子たちへの顕現体験は、キリスト教の始めとして必要ではあったけれども、現在では、もはやその必要がないどころか、そのような体験は、むしろ批判され否定されなければならない、ということでしょうか? もしもそうだとすれば、イエス様の御復活は、現代のわたしたちには、「現実の出来事」として知ることではなく、2千年前の人たちが言い伝えた「伝聞だけ」になってしまいます。
ヨハネ福音書のここの顕現と、続く30〜31節をこのように読むことはできません。そうではなく、イエス様は現在もなお、かつて弟子たちと共におられた時と同じように、パラクレートスとして、わたしたちと共にいてくださる。神のみ言(ことば)としてのイエス様は、今もなお、御霊となって、わたしたちと共に御臨在くださる。このことこそ、ここでヨハネ福音書が、わたしたちに証ししていることです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
■問いかける信仰
わたしたちが聖書を信じるときの最大の難関は、聖書が提示する出来事が、人間の能力を超える高さを有していることです。このために、聖書に接する者は、自分と聖書が示す出来事との狭間に立たされることになります。この場合、自分の疑問や疑いを率直に神とイエス様に<問いかける>ことがとても大切です。ちょうどトマスが、ここでしたようにです。わたしたちが聖書の信仰に躓く最大の原因は、自己の疑問や問題をあえてイエス様に問いかけることを<しない>ことです。人に聞き回るのではない。本を読み漁るのでもない。自問自答するのでもない。聖書の証言を聴き取って、イエス様に向かって正直に問いかけること、これを<しない>ことです。これをやらない人は、早晩必ず信仰生活に躓きます。
なぜなら、キェルケゴールが指摘したように、答えは常に「イエス様ご自身」だからです。だから、わたしたちは、「答えと共に」歩みながら、答えに向かって問いかけるのです。信仰とは疑いを持たないことではありません。信仰とは、疑いをイエス様に向けることです。信仰とは問いかけることです。なぜなら、問いは、それまで存在しなかった答えを産み出し創り出すからです。だから信仰は祈りと一つです。
「トマスの問いかけは、言わば、イエス様に問いかける権利が、わたしたちにも授与されていることを証ししてくれます。わたしたちはしばしば、イエス様が理解できません。だから、勇気をふるって言いましょう。『主よ、わたしにはあなたが分かりません。わたしの問いをお聞きくださって、分からせてください』と」〔ローマ教皇ベネディクト16世著『使徒たち』12章「トマス」より〕。
「わたしの主、わたしの神」というトマスの信仰告白は、イエス様の受難とその復活とその昇天の結果、イエス様に与えられた神の御栄光をトマスが霊視したことを表わします。これは、イエス様に対する呼びかけであり、同時にトマスの信仰告白です。トマスは、イエス様の顕現の中に「世の初めから居られた方の御栄光」を観たのです(17章24節)。
彼は、自己体験をイエス様に切望しました。その結果与えられたのが、イエス様の御復活を直に観る体験でした。ところが、彼は、それまで言っていたように、「自分の手で復活のイエスに触れる」ことをしません。彼は、イエス様こそが、「自分に語りかけてくださる」神のロゴス(ことば)そのものであると悟ったからです。彼は、自己体験を求めながら、復活のイエス様に接する体験を通じて、パラクレートス<体験>とは、突き詰めると、<自分の思い通りの>確認に頼らなくてもできることを悟ったのです。だから、イエス様はトマスに「今ようやくあなたは、ほんとうの意味で信じる者とされた」と言われたのです。トマスは、イエス様に向かって「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか?」(14章5節)と質問しました。今その答えが与えられたのです。イエス様こそが「道であり、真理であり、命である」と悟ったのです。
ヨハネ福音書の読者たちは、復活顕現に接した弟子たちの目撃証言を通じて、イエス様の復活を信じるよう求められています。弟子たちの目撃証言が伝えるイエス様とは、イエス様の御霊にある御臨在にほかなりません。ただし、ここでは、「しるし」体験を求めることが、一切否定されているのではありません。すでに幾度か指摘したことですが、ヨハネ福音書では、「しるし」が否定されてもいないし、拒否されてもいません。ただし、「しるし」そのものは、信仰を保証するものではありません。だから、これを脱却することが求められているのです。「しるし」を求めるトマスの率直な問いかけと、それに答える形で与えられた彼の信仰は、この意味で言えば、わたしたち自身の信仰の真の有り様を指し示すものです〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
■人間の復活
復活信仰は、長い人類の歴史の中で徐々に形成されて来ました。それは、とりわけ、長いイスラエルの歴史を通して到達した信仰です。その最終段階において、神から遣わされたイエス様というお方を通して、わたしたち人間に、イエス様の復活に与る希望が与えられたのです。
主様の御霊のお働きを知らない人たちは、復活の話を聞くと「そんなことは、非科学的で無知な人間のたわごとにすぎない」とか、「馬鹿げた空想だ」とか、自己流の科学の知識をひけらかしてこれを否定したり、嘲笑したりします。しかし、そういう人たちに申し上げたい。聖書が伝えるこの復活信仰を奪われて、人類がこれを見失うならば、必ずこれに取って代わろうとする「人工による身体復元」という「悪魔の復活信仰」が人類を脅かすようになると。
人類は今、AI(artificial intelligence)と略称される「人工知能」を駆使して、生物科学の技術や医学技術によって、遺伝子を操作したり人工の身体を複製することで、従来の人間とは異なる人体を具えた新たな人間(ホモ)を造り出そうとしています。「不死」と「快楽」と「超能力」、この三つへの飽くことのない欲望が現在の人類を突き動かしているのです。「神のような人間」(ホモ・デウス)になろう、この欲望に駆り立てられて、人の臓器を売り買いして、己の身体を延命させたり、自分の体を「人工的に」もう一度「生き返らせえらせよう」とする試みがすでに始まっています。その結果、「飢えと銃と疫病」の三大害悪に苦しむ人たちと、「快楽と超能力と不死」の三大特権に与る一部の人間との間に、人類が今まで経験したことのない格差が生じると予想されています〔Yuval Harari:Homo Deus.A Brief History of Tomorrow.〕。神がお与えくださった御復活の信仰を、神無しに自力で開発して、「人を殺して己を生かす」試みがすでに行なわれているとすれば、これがもたらす結果が、どのような恐ろしい結末を迎えるか予測できます。
楽園で狡猾な蛇がエヴァにこう言いました。「からだの復活は、神から与えられた賜物などではない。それは、お前が自分で創り出すことができるものなのだ。だから、そのような信仰は、お前が自力で実現すればいいのであって、神が与えてくれる神の賜物ではないのだ。」蛇は、このように誘いかけて、神の知恵の樹の実を<我が物>にするよう働きかけたのです。人間は、このようなずる賢い蛇の悪巧みに乗せられないように警戒しなければなりません。そうでないと、人類は、恐ろしい技術を手に入れることになるかもしれないのです。神への畏敬と人間の尊厳を証しする復活信仰が、人間の傲慢と欲望に裏打ちされて、肉体の命を取引する「闇の復活技術」に取って代わられる恐れがあるからです。
新約聖書が証しするイエス様の「からだ」の復活こそ、人類の英知を導いて、人間の技術を神の知恵による正しい方向へ導いてくれるものです。これだけが、人間の肉体を再現をさせようとする狡知と、これがもたらす弊害を防ぎ、人類に真の救いをもたらすことができる唯一の道です。
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