【注釈】
■弟子たちへの顕現
イエスの復活と顕現の出来事は、四福音書を総合すると、ほぼ次のようになります。
(1)空の墓と女性たちへの顕現(マタイ28章1~10節/マルコ16章1~11節/ルカ24章1~10節/ヨハネ20章1~18節)。
(2)番兵たちの祭司長への報告(マタイ28章11~15節)。
(3)エマオ途上でのイエスの顕現(ルカ24章13~35節/マルコ16章12~13節)。
(4)弟子たちへの顕現(ルカ24章36~49節/ヨハネ20章19~23節)。
(5)トマスへの顕現(ヨハネ20章24~29節)。
(6)ティベリアス湖での顕現(ヨハネ21章1~14節)。
(7)派遣命令(マタイ28章16~20節/マルコ16章14~18節ヨハネ21章15~23節)。
イエスの復活伝承は、時間的な順序に従ったものではなく、様々な地域での、いろいろな人たちへの顕現が伝承されています。だから、顕現の出来事を時間的に正確に順序立てることはできません。四福音書を総合するとほぼ上記のようになるという意味です。以上をまとめるにあたって『四福音書対観表』と新共同訳『新約聖書注解』(Ⅱ)とを参照していますが、必ずしもこれらに従っていません。
『四福音書対観表』では、弟子たちへの顕現が、マルコ福音書とマタイ福音書とでは、別の項目として扱われています。マルコ16章14~18節は、マタイ福音書とルカ福音書とヨハネ福音書から抽出してまとめてあると言われています。したがって、マルコ16章14~18節は、弟子たちへの顕現と、派遣命令と、このどちらとも共通するところがあります。このために『四福音書対観表』では、( )付きで、顕現と派遣との中間に置かれているのでしょう〔前掲書〕。『四福音書対観表』では、マルコ福音書のこの部分をひとまずマタイ福音書(28章16~20節)と同じガリラヤでの出来事と見て、マルコ16章14~18節を派遣命令のほうに加えてあります。なお「昇天」のほうは、『四福音書対観表』では、「結び」の部分として福音書ごとに扱われています。
復活顕現は、マタイ福音書ではガリラヤで、ルカ福音書ではエルサレムを中心にユダヤで起こります。ヨハネ福音書では、エルサレム(20章)とガリラヤ(21章)の両方です。ヨハネ福音書の今回の部分はルカ福音書と共通していますが(ルカ24章36節/39節/41節/47節/49節参照)、おそらく相互に独立して伝えられた伝承でしょう。主な共通点は、イエスが弟子たちの「真ん中に立って『あなたがたに平和があるように』」と告げることと、イエスが「その手と足を見せる」ことで、これらの部分は、用語も一致しています。その他、「罪の赦し」と「聖霊授与(授与への父の約束)」も共通します。ただし、授与の時期が、ヨハネ福音書とルカ文書では異なりますが、この点は後述します。
■顕現物語の編集
ヨハネ福音書の弟子たちへの顕現部分は、トマスへの顕現と一つながりになっています。ただし、ヨハネ福音書の顕現物語は、多数から個人へという構成をとっているので、今回も弟子たちとトマス個人の二つに分けて見ていくことにします。
今回の部分にも、原作に編集が加えられていると見ることができます。ただし、原作も一人の人物による伝承ではなく、それ以前からの四福音書に共通する顕現伝承が存在していたと考えられます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。復活と顕現伝承は、かなり早い時期に成立していたと思われますが、その時期を確定することはできません。顕現伝承は、弟子たち全体にかかわるものと、個人にかかわるものとがあります。全体にかかわるものは、一般的に言えば、伝道への派遣命令と結びついていて、個人にかかわるものは、イエスが復活したことを証しするものです。
ヨハネ福音書でも、20章19~23節の弟子たちへの顕現は、これだけでまとまった内容になっています。弟子たちの数は語られていませんが、ここでは、トマスを除く10名のことでしょう(マルコ16章14節/ルカ24章33節参照)。21~22節は、資料に基づく編集によって加えられたと考えられますが、23節は「(罪を)赦す」「(罪が)残る」など、ヨハネ福音書では用いられない語がでてくるので、この節は資料そのままだと考えられます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。以下は、フォートナによる原資料と編集箇所(【 】の部分)です。これによれば、フォートナは、23節も後からの挿入と見ています。
その日、【すなわち週の初めの日】の夕方、弟子たちは【ユダヤ人を恐れて】、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。【そう言って、】手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。【イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、】彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。【だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。】」
Fortna.
The Fourth Gospel and its Predecessor. 190-91.〕
編集者が、21~22節の「イエスは重ねて言われた」以下を挿入したのは、これによって、14章17節や同27~28節での弟子たちへの約束が成就したことを示すためでしょう(ちなみにブルトマンは22節全体を編集と見ています)。ここに顕現するのは、すでに復活し昇天したイエス・キリストです。23節は、編集者が、彼以前の顕現伝承を受け継いで、ここに挿入したと考えられます〔フォートナ前掲書〕。だとすれば、「イエス・キリストの聖霊にある罪の赦し」はパウロにさかのぼる教えですから、ヨハネ福音書は、この段階で、共観福音書よりもいっそうパウロに近くなります。
ただし、ヨハネ福音書の編集問題を考察する場合に、共観福音書とは異なる困難があります。それは、原文書への編集かどうかを判断する場合に、次の二つを基準にして判定されているからです。
(1)ヨハネ福音書全体の用語や文体に一致するものは、編集者による挿入や加筆である。
(2)ヨハネ福音書の用語や文体に一致しないものは、口頭からか、あるいはヨハネ福音書以前の資料からのものである。
しかし、ヨハネ福音書の場合は、共観福音書と異なって、その上さらに、もう二つの問題が加わります。
(3)編集者が勘案したり創出したりしたものではないものでも、編集者が師と仰ぐ始祖ヨハネからその伝承を受け継いだものがある。編者は、思想的にも文体的にも、この師の影響を受け継いでいる。
(4)編集者の文体や用語に一致しなくても、その部分の用語や文体が共観福音書の用法と共通する場合は、共観福音書と共通する伝承からか、あるいはそれ以前のイエス自身にさかのぼるものかもしれない〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
したがって、ヨハネ福音書の本文批評は、共観福音書の場合とは異なる困難が伴います。このために、ブルトマンやフォートナなどの本文批評がどこまで正しいかが疑問視されることになります。
■聖霊授与とペンテコステ
〔ルカ文書のペンテコステまで〕
まずルカ福音書と使徒言行録の聖霊降臨へいたる過程を確認したいと思います。ルカ福音書では、空の墓と復活の告知があり(ルカ24章1節以下)、二人の弟子への顕現(同13節以下)、弟子たちへの顕現(同36節以下)、聖霊への約束(同49節)、その後で昇天が来ます(同50~51節)。使徒言行録では、ルカ福音書の最後の部分が再び繰り返されますが、そこでは特に聖霊授与の約束が告げられ(使徒1章4~5節)、続いてこの約束成就のための昇天が語られます(同8節以下)。それから、ペンテコステの日に聖霊降臨が起こり(同2章1節以下)、この聖霊降臨が予め預言者によって預言されていたことが告げられ(同16節以下)、そして、イエスの復活がペトロの口から証しされます(同22節以下)。
ルカ文書が語るイエスの復活から聖霊降臨までの経過は、このように時期的に順序立てられていて、しかも、聖霊降臨が、エルサレムで突然に起こったこととして語られています。このため、聖霊降臨のこのような一連の過程は、それ以後、聖霊授与のモデルにされてきました。しかし、すでに見てきたように、イエスの復活顕現は、地域においてもエルサレムやエマオの途上やガリラヤなどがあり、集団的な顕現と個人への顕現があり、場所、顕現を観た人たち、その顕れ方も多様です。だから、実際には、福音書や使徒言行録に記録されていない復活顕現の出来事がほかにもあったでしょう(第一コリント15章5~8節)。
このことは聖霊授与においても言えることで、聖霊授与あるいは聖霊降臨の出来事は、その場所、これを受けた人たち、その時期において様々ではなかったかと考えられます。ヨハネ福音書の今回の出来事も、その中の重要なひとつであって、これ以外にも、ペンテコステ以前において、集団あるいは個人に、聖霊授与の体験が与えられた可能性が想定されます。ルカ文書のペンテコステを聖霊授与の最終的な形と見るならば、ヨハネ福音書が伝える聖霊授与は、これにいたる一連の授与体験の<最初に>属する重要な証言だと言えましょう。
〔ヨハネ福音書の聖霊授与〕
上に述べたルカ文書の聖霊降臨へいたる一連のモデルに比べると、ヨハネ福音書の聖霊授与は、ルカ文書にはない特徴を帯びています。ところが、ヨハネ福音書のこの出来事は、ルカ文書のモデルに合わせて解釈される傾向がありました。このため、ヨハネ福音書の記述に対して、次のような解釈が与えられてきました。
(1)ヨハネ福音書の聖霊授与は、まだ昇天<以前の>出来事であるから、復活顕現に重点が置かれていて、ペンテコステでの聖霊授与を<象徴的に>述べているに過ぎない。
(2)これは昇天以前の段階だから、ペンテコステへいたるための<予兆>にすぎない。
(3)ヨハネ福音書の聖霊授与は、ペンテコステ以前の<部分的な>授与であって、ペンテコステで初めて、聖霊授与が完成する。
上記のルカ文書モデル説に対して、ヨハネ福音書の聖霊授与は、イエス昇天の目的から見て(20章17節)、すでに昇天した「高挙のイエス・キリスト」が「戻って」きていると見ることができます(14章18節/同28節)〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。キーナーは、ヨハネ福音書の聖霊授与を<昇天以前>だとしながらも、その<神学レベルではペンテコステと同類>であると判断していますが〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕、このような判断は適切でないでしょう。
ヨハネ福音書の聖霊授与伝承は、ルカ文書が伝える<エルサレムでの>聖霊降臨と共通する伝承から出ていると考えられますが、ヨハネ福音書のそれは、ルカ文書とは別個に伝えられたものです。使徒言行録のペンテコステ伝承をヨハネ共同体が知っていたかどうかは確認できません。伝承的に見れば、ルカ福音書と使徒言行録の聖霊降臨よりも、ヨハネ福音書の聖霊授与伝承のほうが古いと思われます。したがって、ルカ文書のモデルに合わせて、ヨハネ福音書の聖霊授与を判定するのは適切でありません。今回の聖霊授与が昇天以後であると判断する主な理由は以下の通りです。
(1)「父がわたしを遣わす」ことと「わたしがあなたがたを遣わす」こととが並行していて、この時点で弟子たちに完全な権限の委託が行なわれています。
(2)ここでの聖霊を「受ける」は、使徒言行録8章18節/第一コリント2章12節/ローマ8章15節での聖霊を「受ける」と同じ意味です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
(3)「罪の赦しとこれの留め置き」の権限は、マタイ28章19節のバプテスマ命令に対応すると思われます。ただし、マタイ福音書では、将来の昇天以後に起こることとして語られていますが、ヨハネ福音書では、すでにこの時にその権限が授与されています。
したがって、ヨハネ福音書の聖霊授与を内容的に見れば、使徒言行録のペンテコステでの聖霊降臨と同等の意義を帯びていると言えます。
〔栄光化の聖霊授与〕
では、ヨハネ福音書の聖霊授与は、共観福音書には見られないどのような特徴を帯びているでしょう。
(1)聖霊授与が復活顕現と同時に行なわれていることです。このような授与の描き方はなぜでしょうか?
(2)それはヨハネ福音書では、イエスの受難と復活と昇天と聖霊派遣が、イエスが「栄光を受ける」出来事として(7章39節)一括して扱われているからです。ヨハネ福音書は、この過程を御子イエスが「あげられる」という言い方で表わしています(3章13~15節/8章28節)。ルカ福音書から使徒言行録にいたる時間的な過程が、ヨハネ福音書では「凝縮されて」いると言えましょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
(3)ヨハネ福音書の聖霊授与の目的は、共観福音書や使徒言行録に見るような「力の授与」(使徒1章8節)、すなわち伝道派遣に伴う霊能授与ではありません(マルコ16章20節/使徒3章6節と比較)。すでに昇天しているイエス自身が地上の弟子たちに<イエス自身を顕す>ための聖霊です(14章21節)。したがって、ヨハネ福音書の聖霊は、パラクレートスとして人格的霊性を帯びるのです〔Keener.?3 Crucial Questions about the Holy Spirit.?Baker Book House (1996).144-45.〕。
(4)「ユダヤ人を恐れて」とあるように、ここでは、弟子たち(と以後のキリスト教徒)が地上で受けるさまざまな迫害が想定されています。これに立ち向かってくれるのが、弟子たちに宿り弟子たちと共にいる、パラクレートスとしてのイエス自身の臨在です。御霊のイエスの臨在が、直接迫害を受ける弟子たちと一緒にいて、パラクレートスが彼らと共に闘うことです(15章23~27節/16章33節/17章15節)。
(5)このように理解して初めて、わたしたちは聖霊授与の意義を正しく洞察することができます。それは、伝道の目的だけでなく、世の人々の「罪を赦す」ことが第一の目的であり、同時に、聖霊の働きは、これに不可避的に伴う「罪を留め置く」ことをも生じさせます。イエスが「あなたたちの罪は残る」(9章41節)と言うのは、イエスの御霊が顕す赦しを見ようともせず、したがって受け容れようともしない人たちに不可避的に生じる「事実」を述べているのです。エクレシアの人たちは、その聖霊授与によって、「世の罪を赦す」(1章29節)働きを行なうことになります。しかし、この「赦し」は、これを受け容れようとしない者には「裁き」となります(3章17~19節)。この場合「裁き」は、その人自身の選択に委ねられているところに起きる事実です〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。これが、聖霊によるイエスの臨在が「世の罪」と出合う時に不可避的に生じる事態です(15章22節/16章8節)。
(6)しかも、ここのような聖霊授与は、使徒たち、あるいは宣教者たちに限られるのではなく、聖霊は、イエスの弟子たちすべてに、イエス自身の人格的霊性を顕す働きをします。後代の三位一体論の形成において、聖霊を第三の位格(persona)と見なされる理由がここから発しています。
(7)聖霊授与が「息を吹きかける」ことで発生しているのは、ここで聖霊による「新たな創造」の開始が告げられていることを表します。それは創世記2章7節に対応する「新しい人間」の誕生を意味します。だから、ここでの聖霊授与が、<新たな人間の創造>を啓示していることになります(3章5~6節/5章24節/第二コリント5章17節)。
■20章
[19]【週の初めの日】この句は編集者による挿入でしょう。この日は20章1節の朝の復活の日のことです。「夕方」とあるのは、弟子たちが食事をしている時でしょうか(マルコ16章14節参照)。エマオの途上で二人の弟子に顕現したのも「夕方に近い頃」です(ルカ24章29節)。もしもこの二人が、直ちにエルサレムへ引き返して弟子たちに顕現を告げたのなら(ルカ同33~35節)、二人の弟子に顕現したその後で、食事の時に弟子たちに顕れたマルコ福音書の記事と一致します(マルコ16章12~13節)。なお「その日」"that day" とあるこの言い方は、旧約では「主ヤハウェによる裁きの日」を指していますから終末的な意味を帯びています。ここの「その日」をこの終末的な意味に直接結びつけることはできませんが、聖霊授与が終末性を持つことを示唆しているのかもしれません(使徒言行録2章16~18節)。
【弟子たち】ユダとトマスを除いた10名のことでしょうか? 24節に「12人の一人であるトマス」とあるのも10名以下であると思わせます〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ヨハネ福音書は、「弟子」と十二使徒とをはっきりとは区別していませんから確認できません。ルカ福音書では「11人とその仲間たち」(ルカ24章33節)ですから、使徒たちだけではありません。
【ユダヤ人を恐れて】共観福音書では、「恐れる」のは番兵たちや顕現に接した女性たちです(マタイ28章4節/マルコ16章8節)。ところがヨハネ福音書では、弟子たちがユダヤ人を恐れるのです。
(1)彼らは、イエスの共犯者として逮捕され処刑されることを恐れたのでしょうか?
(2)鍵をかけたとあるから、自分たちの存在が人目につくことを恐れたのでしょうか?
(3)以後のヨハネ共同体が、ユダヤ人の会堂から迫害されたことをここに反映させているのでしょうか?
これらのどれも十分な説明にはならないようです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。この19節を「その日・・・・・弟子たちはユダヤ人を恐れて・・・・・戸(複数)に鍵が<かけられているのに>(原語の動詞は完了受動分詞複数)」と読む説があります。この解釈だと、戸に鍵がかかっている<にもかかわらず>、復活のイエスが部屋の中へ入ってきたことですから、イエスの復活の「からだ」が不思議な霊体であることを言い表わそうとしていることになります。新共同訳やフランシスコ会訳だと「弟子たちがユダヤ人を恐れているところへ」イエスが顕現したという印象を強くします。
【戸に鍵を】ペトロが拘留されていた時には、天使に導かれて「門がひとりでに開いた」(使徒言行録12章10節)とあります。ヘレニズムの文学でも、「戸がひとりでに開く」場合と、神々が「霧や風のように」閉じられた部屋に入る場合とがあります〔ブルトマン前掲書〕。ヨハネ福音書のここも、弟子たちの恐れよりも、復活のイエスの「からだ」が、閉じられたままの入り口をも通り抜けて入ることができる「神秘のからだ」であることを伝えているのでしょう。
【真ん中に】原文は「(イエスが)<来て>その真ん中に/へと立った、そして彼らに言う」です。ルカ24章36節では「(イエスは)彼らの真ん中に立った、そして彼らに言う」ですから、ほとんど同じです。別個に伝えられた伝承だと思われますから、共通する元の伝承が存在していたことを示唆しています。ヨハネ福音書では「来る/戻る」がありますから、14章18~19節/同28節がここで成就したことになります。
【平安あれ】原文は「あなたがたに平安を」です。「シャーローム」「シェルマー」(平安を)は、日常の「今日は」にあたる挨拶です。複数の人たちへの場合は「あなたがたに」が加えられて、「シャーローム・アーレーケム」(皆さん、今日は)です。しかしここでは、怖れている弟子たちへの単なる挨拶以上の意味がこめられていて、この「平安あれ」は20章21節/同26節でも繰り返されます。ルカ24章36~37節にも「彼らは恐れおののいた」とあり、イエスは彼らに「あなたがたに平安を」と告げています。なお、ルカ24章36節には、続いて「わたしである。恐れるな」が加えられている異読があります〔新約原典テキスト批評〕(士師記6章23節/マルコ6章50節参照)。
[20]【手とわき腹】原文は「そう言って、両手とわき腹とを彼らにお見せになった」で、これはルカ24章40節「そう言って、両手と両足を彼らにお見せになった」とほぼ同じです(「彼らに」の位置がヨハネ福音書では一定でありませんが)。ヨハネ福音書の「脇腹」とルカ福音書の「両足」が両者の最大の違いです。おそらく両者に共通する伝承が存在していたと思われますが、この部分では、ルカ福音書のほうがヨハネ福音書よりも元の伝承に近いと考えられています。だとすれば、ヨハネ福音書の「脇腹」は、19章34節に合わせたのかもしれません。ルカ福音書とヨハネ福音書を総合して、「イエスの五傷」(両手と両足と脇腹)と言います。
これらの傷から判断すれば、イエスの十字架で、体に打ち込まれた釘は、少なくとも3~4本だったことになります。3本とは、両足のくるぶしを重ねて1本の釘で打ち付けた場合です(この場合は足を載せる台が取り付けてあったことになります)。なお、「両手」が「手のひら」のことだとすれば、手のひらで体全体を支えることができませんから、これは「手首」を指すと考えられます(ヘブライ語もギリシア語も「手」は「手首」をも含みます)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ただし、十字架刑の場合、通常は縄か革紐で両腕を十字架に縛りつけましたから、ヨハネ福音書に「釘」とあるのは、後の伝承からではないかとも言われています。
【主を見て】ここでヨハネ福音書は、「主」をイエス復活以後のキリスト教徒が用いた「天地の創り主」の意味で、イエスの称号として用いています。ルカ福音書では、弟子たちが「主を見て」「喜びのあまり信じることができなかった」とありますが、ヨハネ福音書では、より冷静な言い方で「喜んだ」です。イエスが復活して生きているのを喜んだという意味にもとれますが、むしろ、復活の主イエスに「出会う」こと、これが喜びだったのです(16章22節)〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[21]【平和が】イエスが同じことを繰り返したのは、弟子たちの不安を鎮めて、自分の復活を確認させるためでしょう。
【遣わす】「父がわたしを遣わした〔アポステローの現在完了形〕」と「わたしがあなたがたを遣わす〔テンポーの現在形〕」が並行していて、両方の動詞が同じ意味で用いられています。「遣わす」のギリシア語「アポステロー」から「アポストロス」(=「遣わされた者」apostle「使徒」)が出ました。これは全権を委任された権威を持つ「使者」のことです。しかし、ヨハネ福音書では、「使徒」という言葉が1度しかでてきません(13章16節)。そこでも、「アポステロー」と「ペンポー」が併用されていて、「使徒」と言うより「遣わされた者」の意味です。ここ21節でも、イエスの「使徒派遣」は、あからさまな言い方ではなく、「遣わす」という動詞で間接的に言い表わされています。
[22]【息を吹きかけ】原文の「息を吹きかけた」はギリシア語「プネオー」(息をする/息を吐く/風が吹く)のアオリスト(過去)形です。この動詞の名詞形「プニューマ」は「息/霊」です(3章8節の「風」と「霊」は同一語)。だから、ここは、「霊を吹き込んだ」という意味に解釈することも可能です。このように「息」と「霊」の意味の二重性から、ここの解釈も幾つかに分かれることになります。
(1)中近東(オリエント)では、聖人や偉大な人(皇帝)の息には超自然の働きがあって、その人に息を吹きかけてもらうと、息を受けた人の病気が治ると信じられました〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ここもその意味で、「<息を>吹きかける」ことだという解釈があります。しかし、ヨハネ20章22節にこのようなヘレニズム思想を読み取るのは不適切です〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
(2)「プネオー」の意味を「霊」だと解釈して、神の人や聖人がその「霊/息を吹きかける」ことによって、悪魔払いができるという信仰がありました。この信仰は後の時代のキリスト教会にも受け継がれて、「霊を吹き込む」を「力/能力を授与する」の意味に理解します。原初の人アダムは、神の息(霊)を吹き込まれて<教会の祭司に任ぜられた>、あるいはイエスの母マリアは、神から「恵みの息(霊)」を吹き込まれて受胎したという伝承がありました〔『シュビラの託宣』8章462節。教文館『聖書外典偽典』(6)新約外典(Ⅰ)〕。これも後代の解釈ですから、22節の聖霊授与を単なる「能力/権能」の授与に限定するのは適切でありません。
(3)ここ22節の「プネオー」は、創世記2章7節の七十人訳を反映していて、「神は彼(アダム)の顔に命の息(プノエー)を吹きかけた(プネオー)」"God breathed upon his face the breath of life."とあるのを受け継いでいるという解釈です。七十人訳創世記2章7節で、神がアダムに「命の息を吹き込んだ(「プネオー」のアオリスト形)」とあるのは、単に「死んだ状態にあった者が、よみがえったように生き生きした」(エゼキエル書37章9節はこの意味?)という意味でなく、創世記では、明らかに<創造の出来事>が語られています(エゼキエル書37章9節/知恵の書15章11節もこの意味に解釈することができます)。だから、ヨハネ福音書は、創世記2章7節を今回の20章22節に対応する旧約の予型と見なして、イエスの復活と昇天によって、創世記の予型が成就したこと、ここから「新たな創造」が始まることを指していることになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
【聖霊】ここの「聖霊」には冠詞がありませんが、ここでは明らかに「聖霊」を指しています。後の教会は、三位一体の教義の形成において、この22節を基に、御子は単に聖霊を「遣わした」だけでなく、父から出る聖霊の発出それ自体に御子も与っていると解釈しました(マタイ28章19節/ルカ24章49節)〔ブラウン前掲書〕。
【受けよ】ここでの聖霊授与によって、14章16節の約束が成就したことになります。聖霊の「降臨」よりもイエスが「昇天」したことを啓示するためだからパラクレートスは関係しないという説がありますが、これは誤りです。ヨハネ福音書では、聖霊授与がイエスの復活顕現と結びついていることがとても重要で、この点で、ヨハネ福音書と使徒言行録2章3~5節は共通しています。
[23]【赦す】原語「アフィエーミ」は「去らせる/放免して行かせる/赦す/そのままに残す」の意味で、ここはアオリスト形です(ここは接続法なので過去のことではありません)。また、これに対応する「赦される」のほうは受動態完了形です。しかし、「赦される」には受動態現在形あるいは受動態未来形の異読があります。
【赦さない】前の「赦す」とは別の原語「クラトー」です。「クラトー」は「獲得し支配する/捕まえる/引き留める/手放さず保持する」の意味で受動態現在形であり、帰結のほうの「そのまま残り続ける」は受動態完了形です。また、「もし~」は、必ずしも仮定ではなく「~する時」の意味です。「だれ」は複数ですが単数の異読があります。
したがって、23節全体を意訳すれば、「どんな人(たち)の罪(複数)も、あなたがたが赦した/見逃した時は、その人たちは赦された/そのまま見逃された状態でいることになり、どんな人たちでも、(罪が)残され/見逃されない時は、残されたままの状態が続くことになる」です。ただし、完了形をそれほど厳密に解釈せず、異読にあるように現在形あるいは未来形と同じ意味に解釈することもできます。
ここは、マタイ16章19節=同18章18節とほぼ同じことを指していて、マタイ福音書では「つなぐ~解く/つながれる~解かれる」となっています。この節は、後のキリスト教会で、聖職に叙任された者だけが、「罪の赦しの洗礼」を授ける/授けない権威をイエス・キリストから任せられていることの根拠とされました。しかし、ここでの「罪の赦し」を教会の洗礼授与の権限に結びつけて限定するのは適切でありません〔バレット『ヨハネ福音書』〕。むしろ、ここで弟子たちに与えられる権威は、復活したイエスが与える聖霊の働きと関連していることに注意すべきです。また、共観福音書と比較して、ヨハネ福音書の聖霊授与が、伝道目的に特化されていないことも注目されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。ここで言われていることは、キリスト教徒が、異教徒と関わる際にも、大事な意味を帯びることを指摘しておきます。
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