78章 弟子たちへの顕現
                  20章19〜23節
■20章
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
                 
                  【注釈】

                                 【講話】
■アンブロシウス司教
 イタリアのミラノに、アンブロシウス(Ambrosius)という司教がいました(在位374〜97年)。後にキリスト教神学に大きな貢献をしたアウグスティヌスは、この司教に接してマニ教からキリスト教へ回心する決心をして、この司教から洗礼を受けています。アンブロシウスは、教会が国家権力の上に立つべきことを断固として貫いた人です。若くして即位したローマ皇帝テオドシウス1世は、アンブロシウスと共に国家と教会の調和を図りました。しかし、ギリシアのテサロニケで、皇帝の武官が、群衆の暴動を取り締まっていた時に殺されるという事件が起こります。皇帝は、市民たちを円形競技場に招待するふりをして、集まった市民7千人を虐殺しました。
 これを聞いたアンブロシウスは、皇帝に「もしもあなたがこの罪を悔い改めないなら、たとえあなたが(教会へ)出席しても、わたしは(あなたのために)犠牲を捧げることをしない(聖餐を与えない)」と書き送ったのです。皇帝はついに、その年のクリスマスに、アンブロシウスのもとで「悔い改め」を公に行ないました(390年)。アンブロシウスは、たとえクリスチャンの皇帝と言えども、罪を犯したならば、彼に聖餐を授与しないことによって、キリストの僕として、「人の罪を赦すことも、赦さずにおくこともできる権威」を行使したのです。
■トマス・ベケット主教
 トマス・ベケット(1118年頃〜70年)は、イギリスのカンタベリの主教でした。彼もまた、若くして即位したイギリス王ヘンリ2世と共に、教会と国家との調和を図りました。しかし、ヘンリ2世が、教会の権利を抑えようとしてクラレンドン憲章を発行した時に、ベケットがこれに反対したために、フランスへ追放されます。後に許されて、再びカンタベリの大主教に戻った時に、ベケットは、自分に反対していた聖職者たちをことごとく罷免したのです。これを聞いて怒ったヘンリ2世は、4人の騎士をカンタベリへ派遣して、聖堂内でベケットを殺害しました。しかし、当時のカトリック教会は、国王に反対して殉教したベケットを聖者として列聖しました。このために、民衆の間にベケット信仰が興り、ヘンリ2世は、公にベケットの霊廟の前で懺悔しました。ベケットもまた、先のアンブロシウスと同じように、大主教として、「罪を赦すか、あるいは赦さないで留め置くか」を決める権威を行使して、教会の聖職者たちを処罰しました。
■御霊のお働き
 これらは、歴史的によく知られた事件ですが、今回のヨハネ福音書の弟子たちへの顕現と、その時に与えられたイエス様のお言葉「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」と「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。しかし、その罪を赦さなければ、赦されないまま留め置かれる」は、このように、教会の聖職者たちに宛てられた御言葉であると理解されてきたようです。聖餐だけでなく、「過去のすべての罪を赦す」洗礼もまた、聖職者が入信する人に授けるものですから、聖職にある人は、この罪の赦しの洗礼を、授けることも、授けないでおくこともできます。このように、今回のイエス様のお言葉は、教会の聖職にある人たちのためであるという解釈が、長い間行なわれてきました。
 ところが、ヨハネ福音書のこの箇所は、共観福音書と比較すると、そのような「使徒」と使徒の後継者としての教会の聖職者たちへの御言葉だけでなく、イエス様を信じてイエス様に従ってきた「弟子たち」に向けて語られているのです。マタイ28章18節以下では、11人の弟子たち(使徒のこと)が、イエス様から、伝道への派遣命令と共に、洗礼を授けて教えを与える権威を授かっています。ところが、ヨハネ福音書の今回の箇所では、聖霊授与が、そのような伝道を目的とする派遣とは直接つながっていません。したがって、ここで言う「弟子」とは、イエス様に心から従う人たちのことであって、必ずしも「使徒」とその後継者のことだけではありません。ここでは、言わば、復活のイエス様に出会い、このイエス様を信じた人なら、そのすべての人にイエス様から聖霊を授かることができるからです。これが、ここでのヨハネ福音書の大事な特徴です。だから、イエス様のお言葉は、聖霊を授与されたすべての人たちに向けて語られているのです(14章21〜23節)。
■霊能者の権威
 ただし、そうなると、聖霊を授かって、特別な霊能の賜物を授かっている人ならだれでも、とりわけ伝道者や牧師さんたちは、「罪を赦すか、赦さずにおくかを決める権威」が与えられていることになります。ここにまた大きな問題が生じます。それは、霊能の伝道者や牧者たちは、自分たちこそ、ほんとうの意味で「イエス様から派遣されている」と信じ、そのように主張するでしょう。このような霊能の聖職者たちが問題なのは、彼らの中に、「偶像礼拝」、とりわけ日本の神道や仏教を批判したり否定したりする人たちがいるからです。わたしたちの国に限らず、朝鮮半島や中国には、長い歴史の中で培われてきた仏教や儒教(日本の場合はこれに神道が加わる)の霊的な伝統があります。
 霊能のキリスト教伝道者たちが、その霊能の業を現わすと同時に、神道攻撃や仏教批判を行なったら、どういうことになるでしょうか? 極端な例をあげると、神社仏閣の周辺を回り、これらの「呪い」から、イエス・キリストの名によって日本人を解放しようという試みさえ行なわれていると聞きます。幸いにして「神社仏閣」の側からは、現在のところ、キリスト教に対して攻撃したり敵対したりしてはいないようです。だから、攻撃し敵対を仕掛けているのは、神道や仏教の側ではなく、キリスト教側からです!
 このような人たちが、ヨハネ福音書の今回の箇所を盾にとって、「自分たちこそイエスの代理である」と主張して、「罪を赦す権威」を独り占めするならば、日本人は、おそらく一億総地獄行きにされるでしょう。現在だけでなく、幾千年もの過去から現在にいたるアジアの非キリスト教国の厖大な総人口が、彼らの手によって、全員地獄行きを宣言される、ということにもなりかねません。ヒットラーはユダヤ人を虐殺しましたが、彼はユダヤ人の体を滅ぼしたけれども、その精神を滅ぼすことはできませんでした。ところが、これら霊能の伝道者たちは、アジア人の体も心も精神も滅ぼすことができると宣言するのです。
 幸いなことに、霊能の指導者たち全部がそうではありません。霊能者の中にも、他宗教に寛容な方々がおられます。この間、イスラエルに住んでいるゲイヴリエル・ゲフェン"Gavriel Gefen"という方と、その日本人の奥さんとにお会いする機会がありました。この人は、ユダヤ教のトーラーを守りながらメシア・イエスを信じている人です。ゲフェンさんは「ナザレのイエスの霊性には非常に多くの側面が具わっていて、それらの一つ一つが、あらゆる地域のあらゆる文化と宗教に対応している」という意味のことを話しておられました。とても興味深いと思います。
 聖書が霊能主義者だけに委ねられると、<恐ろしい聖書解釈>が行なわれる危険が生じてきます。自分たちと異なる宗教と、これを信じる文化を排除しようとしたり攻撃しようとする人が、「愛」や「平和」を真面目に口にできるでしょうか? このように言うのは、決して霊能それ自体を否定しようと意図するからではありません。逆に、イエス様の御名による霊能の業は、とても大事な「しるし」であり、霊能にはそれなりの大事な役目と働きが与えられています。霊能には祈りが伴います。しかし、祈りは霊能のためだけではありません。正しい聖書解釈にも祈りが欠かせません。学問的な広い視野から聖書を読み、同時に祈りをこめてナザレのイエス様の霊性を汲み取る聖書解釈が、今ほど必要な時はありません。孔子の『論語』をもじるなら、「学びて祈らざれば、すなわちくらし。祈りて学ばざれば、すなわち危うし」です。
■平和を創り出す
 ここでの御霊の御臨在は、「あなたがたに平和/平安あれ!」という御言葉を伴います。ここでは「平和/平安」は、イエス様の御臨在それ自体のことです。「平安」とは、イエス様御自身のことであり、イエス様御自身が「わたしたちと共に」いてくださる、そのことにほかなりません。だからわたしたちは、<ナザレのイエス様>に戻らなくてはなりません。ナザレのイエス様こそ御霊の源泉だからです。わたしの言うのは、歴史学で言う「史的イエス」のことではありません。<聖書が証ししている>ナザレのイエス様のことです。
 イエス様は言われました。「幸いだ。平和を創り出す人は」(マタイ5章9節)。原語は、平和を「新たに創造する」という意味です。「平和を<創り出す>」こと、それができるお方こそ、ナザレのイエス様であり、その霊性です。
 平和は、存在するものではなく<創り出す>ものです。このような創造は、人間の業や計らいによって達成できるものではありません。天地の創造は「神から」出ています。同じように、「愛」も「平和」も、今そこに「ある」ものではない。絶えず新たに創り出されていかなければならないものです。
 イエス様が弟子たちに「息を吹きかけられた」(20章22節)とあるのは、まさにこのことを言い表わしています。神が人を土から造られたその直後に、神御自身の息をこれに吹き入れたとあります(創世記2章7節)。これによって、人は神にあって生きるものとされました。ちょうどそのように、復活のイエス様は、その息を弟子たちに吹き入れて、弟子たちは、新たな人間へと変容し、神によって「平和を創り出す人」へと変えられていくのです。
■創造する御霊
 20章では、共観福音書と異なって、復活と聖霊授与が同時に行なわれています。しかも聖霊授与が、直接に宣教への派遣命令と結びつけられずに、すべての「弟子たち」に向けられています。このことは、次に出てくるトマスの場合に、いっそうはっきりします。しかも、この聖霊授与が、<新しい創造の働き>として描かれているのです。イエス様の復活に出合うことは、「ナザレのイエス様に出会う」ことです。これが、ペトロに起こったことであり、パウロに起こったことであり、彼らの証しを聞いてイエス様の復活を信じたすべての人に起こってきたことです。彼らはだれ一人漏れることなく、イエス様の御霊の授与に与ることができますから、ここ20章で語られているのは、聖霊のお働きを受けているすべての人について言われているのです。
 「知恵の御霊」と言いますが、「知恵」は、孔子やソクラテスに具わっていた「知恵」のことでもあり、釈迦牟尼が仏陀となった悟りの知恵のことでもあります(シラ書24章6〜12節参照 )。しかし、ヨハネ福音書がここで証しする「知恵」は、世界の様々な「知恵」をさらに超える「<創造する>知恵の御霊」です。この「知恵」は、「世の初めから隠されてきた」知恵であり(コロサイ1章26〜27節)、今イエス・キリストにあって啓示された「知恵」であり(エフェソ1章8〜10節)、しかも世界の創造に携わった「知恵」なのです(箴言8章22〜31節)。
 だからこれは、御霊の霊風に身を委ねていくうちに、自分の内に御霊のお働きが、自然と成就していく、自分の内側が、徐々に変えられていく、新しい自分が、新しい人間存在として、今この地上にありながら創造されつつあるという、このような自覚です。この事態は、わたしたちが地上にいる間は、どこまで行っても未完成ですが、そこには、たとえわたしたちの肉体が消滅しても、なおなくならない何か不滅なものが、この肉体にあるわたしたちにおいて、創られつつある。こういう自覚です。これが聖霊のお働きであり、これがほんとうの「知恵の御霊」です。それは、イエス様御自身の御霊ですから、命であり真理であり、歩むべき道です(14章6節)。わたしたちに与えられている<人間として最も高く尊い価値観>がここから生じてきます。わたしたちは、日本のリヴァイヴァルのために、もう一度<ここから>出発し直さなければならないのです。
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