74章 イエスの死
                19章28〜37節
■19章
28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
                【注釈】
                            【講話】
■暗闇
 今回はイエス様の十字架上での死の後半部分です。共観福音書では、午後3時になると全地が暗くなったとあります。ルカ福音書では、これに「太陽が欠けた」(原語直訳)が加わります。ただし、過越は満月の時ですから、これは日食のことではありません。ここで語られている「闇」は、砂嵐によるなどの説明もありますが、聖書では「神のみ業」と切り離して、自然現象をそれ自体として観ることをしませんから、ここで言う「闇」も本質的には霊的な出来事だと考えてください。
 創世記1章3節には、不思議なことに、神は、太陽と月をお造りになるその前に、「光があるように」と言われて光を創造され、光と闇とをお分けになったとあります。この光は、1章5節に「光は暗闇の中で輝いている」とある「光」のことです。だから、この「光」は、太陽と月の運行によって生じる明暗のことではありません。本質的に<霊的な>光のことです。だから、創世記にあるように、神は光を見て「善い」とされたのです。物事が善か悪かは、神と人間との有り様で決まりますから、人間の霊的な有り様と密接に関連します。言い換えると、この霊的な光は<価値観>を表わす光であって、自然現象のことではありません。
 聖書に限らず、古来地上で戦乱などの大乱が起きる時、あるいは偉大な人が死ぬ時などに、「天変地異」が生じると言われています。これらの「天変地異」は、神の不思議なみ業であると同時に、それらが人間に生じた出来事であるという特徴を帯びています。
 出エジプト10章21〜23節によれば、モーセが手を天に向けて差し伸べると、三日間エジプト全土が暗くなった。それなのにイスラエルの民の住む所だけは光が差したとあります。そんなおかしなことがあるか、と思うかもしれませんが、これも霊的な光であり暗闇のことです。これで見ると、聖書で言う「光と闇」は、昼と夜の時間のことではありません。今回の十字架の場でも、「<全地は>暗くなった」とあります。ここでは「天の光」と「地の闇」が対照されているという見方もありますが、ここで言う光と闇は、「天」と「地」とを対比/対照させているとも言えません。創造主である神御自身を除けば、むしろ、天上から地上にいたるまでの世界/宇宙が、光と闇によって二つに縦割りにされた状態に近いでしょう。だからこれは、神のみ業による不思議な出来事です。黙示文学の『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の世界にも、こういう縦割りの明暗がでてきます。
 エルサレムのイスラエル博物館に、クムランの洞窟で発見された文書を展示している「書物の社」があります。この社(やしろ)は、壺の蓋(ふた)のように丸くて真ん中が突き出た変わった形の真っ白な建物です。これの入り口から少し隔てた所に、入り口に面して長方形の真っ黒な壁が向き合うように垂直に立っています。これは光(白)と闇(黒)との対立を象徴しているそうです。
 共観福音書の暗闇は、アモス書8章9節にある「白昼に大地を闇とする」から出ていると言われています。アモス書では、これは終わりの日の裁きの闇です。ヨハネ福音書のここも、イエス様の十字架の上に、人類に向けられた神の裁きが降ったことを表わす暗闇のことでしょう。この暗闇の中で雷が鳴ったかどうか分かりませんが、ヨハネ福音書では、受難を間近にしたイエス様が祈られると、人々は「雷が鳴った」と言います(12章29節)。イエス様は、その時「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」と言われ、続いて「わたしが地上からあげられる時(十字架から昇天までの時)、すべての人を自分のもとへ引き寄せる」と言われました。だから暗闇のままでは終わらないで、そこから光が差してきます。イエス様は、これに続いて「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに(光を)歩みなさい」(同35節)と警告しています。
■イエス様の叫びと兵士の告白
 マルコ=マタイ福音書では、「全地を覆う暗闇」の中で、イエス様が天に向って「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫びます。これは、自分を見棄てた神に向かって叫び求める不思議な祈りです。この御言葉も詩編22篇の冒頭の節から出ています。
 イエス様の御言葉には詩編と預言書からの引用が多いのですが、こういう時にこういう詩篇が出てくるのは、イエス様にとってこの22篇が、いかに身近で大切な篇であったかが分かります。神に見捨てられた者が、なおもその神に向かって叫び求めるというこの矛盾こそ、イスラエルの神への「信仰」の本質から湧き出る祈りです。不思議なことに、この22篇の後半では、見棄てられた叫びが、神への賛美に変わります。神が「恵み/救いのみ業」(22篇31〜32節)を成し遂げてくださったからです!(通時的に見れば、22篇には編集がなされています。しかし、わたしたちは共時的に読みますから、この問題に触れることはしません)。マルコ=マタイ福音書では、イエス様のこの叫びが、「ほんとうにこの人は神の子だった」という兵士の告白で終わります。自分を見棄てた神への叫びとこれに応える神。この二つの間に、福音書が語るイエス様の受難のすべてが隠されています。
 マタイ福音書の場面は、マルコ福音書とかなり違います。最大の違いは、マタイ27章51〜53節です。
そして神殿の垂れ幕が裂け、
そして地では地震が起こり、
そして岩が裂け、
そして墓が開き、
そして眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返り
そして、イエスの復活の後、
墓から出て来て、聖なる都に入り、
そして多くの人々に現れた。
 マタイ福音書はここで、イエス様が息を引き取られた直後に起こった、終末的な黙示とも言える事象を伝えています。マルコ福音書にも「神殿の垂れ幕が裂けた」とありますが、それ以上のことは記されていません。ところがマルコ福音書でも、事の一部始終を見ていた見張りの百人隊長が「この人はほんとうに神の子だった」と(思わず?!)告白するのです。だからマルコ福音書では、神に見捨てられたイエス様の叫びと、ローマ兵の「神の子」告白と、この二つの正反対の言葉が、十字架の暗黒の谷間を挟むように、その両側で語られることになります。しかも、絶望と希望の間に横たわるこの深い亀裂をつなぐ橋はどこにも見あたらないのです。
 これに対して、マタイ福音書では、マルコ福音書にはない地震や裂ける岩が出てきて、墓が開いて復活が生じます。「これはマタイによる後からの追加編集で、マタイが、マルコ福音書に描かれている深い亀裂を覆い隠すように配慮したためである。しかし、マタイのここでの付加は、マルコ福音書が伝えようとしている暗闇の亀裂の意義を、かえって弱めてしまっている」という批評があります。マタイによる「あらずもがな」の付加は、マルコ福音書の描くせっかくの十字架の意義を弱める逆効果だというわけです。こういう解釈は、マルコ福音書とマタイ福音書の成立を時間の軸に沿って眺め、マルコ福音書からマタイ福音書へ移行する編集過程をたどり、両者の違いに目を留めるところから生じるもので、通時的な解釈の一つの例です。ただし、マタイ福音書のこの「補充」は、伝えられた伝承資料によるもので、作者の発案によるものではありません。
 けれども注意して読めば、マタイの「加筆」は、マルコ福音書の十字架の意義を弱めてもいなければ、そこに潜む亀裂の深さを見誤ってもいません。二つの福音書を重ね合わせることで、マルコ福音書に出てくる亀裂の深さが弱まるどころか、逆にその亀裂の意味がいっそう深く見えてきます。
 マタイ福音書の付加部分では、「幕が裂ける」「地が揺れる」「岩が裂ける」「墓が開かれる」「生き返る」「人々に現われる」などの動詞が、すべて受動態です。こういう受動態は、人間の力の届かない世界の事、人知の及ばない所で生じる出来事を表わす場合に用いられる独特の用法で、「神的な受動態」"divine passives" と呼ばれています。正しくは「神によって引き起こ<される>受動態の出来事」と言うべきでしょう。日本語にも、「一人息子に<死なれる>」など、これにいくらか似た言い方があります。だからこれらの事象は、人間の意図や力から全くかけ離れたところに起因する出来事を表わすのです。
 マタイ福音書は、この「神的な受動態」を用いることで、イエス様の叫びと、異教の兵士の「神の子」告白との間に生じた「全地が暗くなる」出来事の合間に、イエス様御自身さえ全く感知しないところで、人間の力も知力も及ばない出来事が、十字架の暗闇を通して同時進行していたことを言い表わそうとするものです。十字架の上に降った暗闇の谷間にイエス様の絶望的な叫びがこだましています。マタイ福音書は、人間の手の届かない出来事が同時進行していることを通じて、この暗闇を覆い隠すどころか、暗黒の亀裂をいっそう際立たせるのです。それは、神の裁きの暗闇のまっただ中で起こる「人知を超えた」出来事であることを示すためです。
 そこで起こっているのは、イエス様の十字架上での叫びがこだまする谷間の裂け目から生じる出来事、死人が生き返る出来事です。イエス様の死から命が、暗闇から光が顕れるのです。だから、その事態は、イエス様も全く感知しえない、完全に神によって引き起こされる受動態の出来事です。このように、マタイ福音書は、マルコ福音書の描く暗闇の深淵こそが、復活を呼び起こす神の御業と連動していることを、その黙示的な用語で言い表わそうとするのです。このような解釈は、マルコ福音書の上にマタイ福音書を重ね合わせることで初めて見えてくる解釈です。
■神殿の垂れ幕
 共観福音書は、神殿の垂れ幕が裂けたことを伝えています。イエス様の時代のユダヤ教の神殿神学では、神の聖なる御霊の御臨在は、神殿の至聖所の内部だけに限られていました。そこへは大祭司だけが、年に一度入ることが許されていて、大祭司は、そこで神と出会い、民の罪のために贖罪の犠牲の血を注ぐ祭儀を執り行なったのです。エルサレム神殿が「神の家」と呼ばれたのはこのためです。ちなみに、現在のイスラエルで、ユダヤ教の信者たちが岩のドームの近くに遺された「嘆きの壁」の前で祈るのは、この部分の壁が、かつてのエルサレム神殿の至聖所(神殿の西の端にあたる)に最も近い所を支えていたからです。
 原初キリスト教は、ユダヤ教のこの神殿神学を受け継いで、これを変容させました(ヘブライ6章19節/同9章2〜3節/同10章19〜22節)。ただし、ヘブライ人への手紙の神学は、マルコ=マタイ福音書が伝えるヘロデの神殿に関するものではなく、イスラエルが荒れ野を旅した頃のモーセの幕屋伝承に基づいています。ヘブライ人への手紙には、イエス様が、その祈りと十字架の死によって至聖所の垂れ幕の奥まで入り、そこで「永遠の大祭司」として、わたしたちの贖罪のために神への執り成しを行なってくださるとあります(ヘブライ5章7〜10節/同9章7節/同11〜14節)。
 しかも、この手紙には、イエス様が「わたしたちの<先駆者>」(ヘブライ6章20節)だとありますから、単にイエス様だけが、旧約の大祭司の役割を永遠に代行するだけでなく、イエス様に従う者たちもまた、祭司と大祭司しか入れなかった聖所を通り至聖所まで入り、そこで神と親しく交わる道が、イエス様の十字架の死によって啓(ひら)かれたことになります。これは、旧約の神殿神学から見れば驚くべき変容です。ユダヤ教では至聖所内に限られていた神の御臨在の聖なる霊が、イエス様の十字架の贖いによって「イエス様を信じる者」すべてに授与されるからです。至聖所の垂れ幕が二つに裂けたことによって、神の御臨在が、ユダヤ人と異邦人の隔てなく、すべての人に啓(ひら)かれたのです。
 キリスト教のこの神殿伝承は、マルコ福音書で証言されているとおり(マルコ14章58節/同15章29節)、イエス様が神殿内で行なった「神殿浄化」の行為にさかのぼると考えられます。だから、イエス様の行為は、単なる「宮清め」ではなく、神殿制度それ自体を根源的に変容させる意義を帯びていたのです。イエス様に宿る御霊のこのような働きが、イエス様の十字架の死を通じて神殿の垂れ幕が裂けるという伝承へつながったのでしょう。だから、イエス様の霊性の本質がこの垂れ幕の出来事に顕されています。聖霊の御臨在が、イエス様を信じるすべての人に啓かれたこと、これこそがキリスト教の伝える福音の核心です。福音とは、<イエス様を通じて与えられる御霊の御臨在>のことです。これありて福音あり。これなくば福音なしです。
■ルカ福音書のイエス様の最期
 ここでヨハネ福音書に入りたいのですが、その前にルカ福音書の記事に目を留めたいと思います。
イエスは、大声で叫んで「父よ、あなたの御手にわたしの霊を委ねます」と言った。こう言ってから息絶えた。(ルカ23章46節)
 ルカ福音書は、「大きな声で」と「叫んだ」と「言った」と同じことを3度繰り返しています。マルコ福音書はイエス様の2度目の叫びの内容を語っていませんが、ルカ福音書は、その叫びの内容をここで語っています。マルコ福音書のイエス様は「わが神、わが神、」と自分を見捨てる神に向かって叫びました。ルカ福音書でイエス様は「父よ」と呼んでいます。これは、詩編22篇にも31篇にもなく、先のマルコ福音書の叫びにもなかった呼びかけです。イエス様の神が、イエス様の父であることがここで再び示されるのです。自分を「見棄てた」と思われた神が、自分の父であることが、これを聴く人々に示されるのです。イエス様が「あなたの御手に」と言った「あなた」とは、この父のことです。神に捨てられたと思ったら父に見出されたのです。アブラハムに殺されかけたあのイサクの心境です。聖書が伝える「復活の信仰」とはこういうものだとヘブライ人への手紙が教えています(ヘブライ11章17〜19節)。
 「父よ」に続く「あなたの御手にわたしの霊を委ねます」には、詩編31篇6節が反映しています。ここは同6節の前半で、後半は「わたしを贖ってください」です。だから「父よ、あなたの御手にわたしの霊を委ねます。わたしを贖ってください」、これがルカ福音書によるイエス様の最期の御言葉が意味することであり、十字架七言の最後の御言葉です。
 詩編31編は、ユダヤ教では眠りにつく前の夕べの祈りとして用いられていました。この伝統が最初期のキリスト教徒に受け継がれて、この詩編が世を去って「眠りにつく」前の祈りとして用いられたのかもしれません。これから判断すれば、詩編31編からの引用を含むここのルカ福音書の記述が、ルカ自身による発案や加筆ではなく、ルカ福音書以前の四福音書に共通する伝承資料に基づいていると見ることができましょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。
 ルカ福音書は、マルコ福音書やマタイ福音書と用語が違っていて、百人隊長が「ほんとうにこの人は<正しい人>だった」と告白します。「正しい」は「無実である」と「義である」の意味にも受け取れますが、この言葉もルカの発案ではなく、ユダヤ教の「人の子」伝承から出た用語です。それは人々から迫害され見棄てられた人こそが、主なる神に受け容れられることで、彼が「正しい人」だったことが人々に証しされることを指します(英語でこれを "vindication"と言います)。神御自身が、イエス様の「正しさ」を立証したこと、四福音書がそろって、このことを証ししているのです(ヨブ記1章8節/同42章7〜8節 )。だからこそ、その「正しさ」の立証は、人間の誉れに帰せられるものではなく、神の御栄光に帰すべきものです(使徒3章14節参照)。ルカ福音書に、十字架のイエス様の最期を見た群衆が「胸を打ちながら」帰ったとあるのは、単に死者を悼(いた)むだけでなく、イエスを嘲った者たちをも含めて、人々がイエス様の死という「出来事を観て」(原文の「観る」には「思いめぐらす」の意味もあります)、自分たちがイエス様に対して行なった行為が「誤っていた」ことを悟り、これを嘆いたのです。このように、ルカ福音書では、十字架七言の最初にイエス様の「どうか彼らの罪をお赦しください」が来て、最後に「この人は正しい人だった」で終わるのです。
■成し遂げられた
 ヨハネ福音書に入ります。ヨハネ福音書のイエス様の最期は、ルカ福音書のそれと共通するところがあります。
「父よ、あなたの御手に
わたしの霊を委ねます」
こう言って息絶えた。
 (ルカ福音書23章46節)
イエスは「成し遂げられた」と言われた。
そしてその霊を明け渡して
頭を垂れた。
 (ヨハネ19章30節)
  ヨハネ福音書のほうは原文の順序を少し変えてありますが、ルカ福音書と対比させると、「父よ、あなたの御手に」と「(神によって)成し遂げられた」とが対応し、「霊を委ねる」と「霊を明け渡す」が対応し、「息絶える」と「頭を垂れる」が対応します。ルカ=ヨハネ福音書のこの部分には、七十人訳のイザヤ書53章11節の御言葉が反映していると言われています。
主は嘉(よし)とされた。
彼の魂からその重荷を取り去ることを
彼に光を顕し、彼に理解をもって臨むことを
多くの人に仕えた正しいその人を義とすることを。
 イザヤ書では、ここで、ヤハウェの「受難の僕」による贖いの業が完了します。ヨハネ福音書は、イエス様の十字架の最期の場面を「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられて、聖書の言葉が成就したのを知った」(19章28節)で始めています。原文では、これに「(イエスが)『渇く』と言われた」が続きます。ヨハネ福音書の作者は、この28節に、イエス様の受難の意味すべてをこめているのです。
 イエス様は父の業を「成し遂げ」ようとされた。だから、終始ご自分で事態をコントロールしたし、またそうすることができた。これがヨハネ福音書の描き方だとは、よく言われることです。しかし、注意して読むと、これは少しおかしいです。なぜなら、ここでは「完遂<された>/成し遂げ<られた>」からです。この受け身は不思議な受け身ですが、わたしたち日本人にはよく分かります。「わたしは、息子に先立た<れた>」という言い方をするからです。これは「わたしがその事態をコントロールできた」という意味ではありません。そうではなく、自分の力では、どうにもならない事態を指すのです。これをイエス様の場合で言えば、「イエスは、そのみ業を<父に成し遂げられた>」のです。これはイエス様自身ではなく、御父のお陰でイエス様が受難の御栄光の業を完成されたという意味です。ここでは「完遂する」という動詞が表わす強い内容と、それが受動態完了形であることとの間に、「完遂した」あるいは「完遂させた」主語が、イエス様御自身でありながら、しかもイエス様御自身では<ない>という不思議な緊張関係を読み取ることができます。だから、イエス様から見れば、ようやく「これで終わった」"It is finished."〔NRSV〕という安堵の意味にもなります。しかもこの完了形は、これが終わりではなく、そこからわたしたちの現在まで、イエス様が成し遂げられたみ業が継続していることをも示すのです。
 ヨハネ福音書には「その霊(息)を<引き渡した>」とあるのに、そこには、ルカ福音書の「父に向かって」がありません。だから、「引き渡した」相手が誰なのかかが出てきません。だからここは、ユダが「イエスを引き渡した/裏切った」とあり、ピラトがイエスを十字架刑に「引き渡した」とあるのと同じように、自ら自分を死へ「引き渡した」と受け取れないこともないのです。むしろ、イエス様ご自身の主体性から見るならば、「その息/命を<死に引き渡した>」と言うほうがより適切かもしれません。だとすれば、イエス様はご自分の命を「引き渡した/裏切った」のです。イエス様がご自分でコントロールできたこと、それは、<自ら死を選んだ>そのことです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。だから、ヨハネ福音書の受難物語は、イエス様の命が死によって裏切られ、その裏切りが、今度は神の御手にある御復活によって「裏切られる」のです。受難物語は二重の裏切りの逆転劇です。イエス様の十字架の死によって、神と人との全く新しい交わりの場が<父なる神の御手によって>完遂されたのです。ここに、イエス様の御復活と、これに続く御霊の御臨在の起源が潜んでいます。
■血と水
 マルコ福音書には「この人はほんとうに神の子だった」とあって、ここでイエス様という「人」を「神」と結びつける言い方がでてきます。だから、「本当に」とあるのも、イエス様が神の子だと言われていたそのことは「本当だった」という意味にもとれるし、「イエス様は<本当は>神の子だった」という意味にもなります。後の意味は、イエス様の人間性の奥に、人を超えた神の霊性が宿っていたことを証しするものですから、イエス様を神の子と信じるマルコ福音書の読者の視点がそこにこめられていると見ていいでしょう。だとすれば、マルコ福音書では、それまで「メシアの秘密」として隠されていたイエス様の「真の」有り様が、最後になって明かされたことになります。このために、この節をマルコ福音書全体のクライマックスだという見方も出てきます〔フランス『マルコ福音書』〕。
 ところが、ヨハネ福音書は、ことさらに共観福音書では扱われて<いない>部分に目を留めて、これに光を当てようとしているように見えます。先に指摘したように、ヨハネ福音書には、イエス様が「すべてのことが今や成し遂げられたこと」を知ったとあります。「すべてのこと」とは、父が御子を愛して彼に<すべて>を「託した」こと(3章35節)、したがって、イエス様がこの地上で「成し遂げる」ために、父から与えられた<すべて>のことを指します(13章3節)。しかし、「父から与えられたことすべて」を「成し終える」には、ある特定の意味がこめられています。それは父の御心に従って「自分自身を神への犠牲として」その命を献げることです。「わたしの時」がついに来たのです(4章34節)。「成し終える」には、ほんらい、大祭司が贖いの犠牲の祭儀を最後まで完遂するという意味があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 共観福音書が証しするイエス様の十字架は、神の子の受難であり、その死を通して父である神が、御子を復活させてくださったことです。しかし、ヨハネ福音書は、共観福音書が伝える御子の受難をさらにもう一歩深めて、その受難の意義を明らかにしようとするのです。ヨハネ福音書は、これをイエス様の「血と水」で言い表わします。ここには、ヨハネ福音書によるイエス様の受難の解釈が象徴されています。
 ヨハネ福音書は、イエス様の脇腹から流れ出た血によって、過越の小羊が犠牲として屠られる時に流す「血」を象徴しています。それは、「世の罪を取り除く神の小羊」(1章29節)が流す血です。この血によって、わたしたちは、その罪が赦され、神の子とされる資格が与えられるのです(1章13節)。御子の贖いの血によって、わたしたちは自分の罪を赦され「イエスの血によってあらゆる罪から浄められて」(第一ヨハネ1章7節)、神との交わりの内を歩むことができるようにされるのです。
 さらにヨハネ福音書は、「水」によって、わたしたちが御子イエスの贖いを通して授けられるイエス様の御霊を象徴しています。イエス様の御臨在が、復活のイエス様から賜わるパラクレートスとしてわたしたちと共にいてくださること、このことをイエス様の脇腹から流れ出た「水」が表わすのです。それは、何時までも無くならない「活ける水」であり、わたしたちを「活かし続ける」創造の御霊の働く命の川です(7章38節=ヨハネ黙示録22章1節)。イエス様の「血と水」、これこそが、イエス様が弟子たちにその愛を「最後まで全う」(13章1節)してくださった証しです。ヨハネ福音書は、わたしたちに「罪の赦し」と「聖霊の御臨在」の二つをもたらしてくださった御子の受難をこのような「愛と栄光の受難」として、わたしたちに啓示しているのです。
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