【注釈】
■18章
[38b]マタイ=マルコ福音書では、ピラトは「彼(イエス)はどんな悪事を働いたのか?」と尋ねていますが、それ以上のことは言っていません。これに対してルカ=ヨハネ福音書では、ピラトは、はっきりとイエスの無実を告げています。ただし、ルカ福音書では、尋問が終始公開で行なわれているのに、ピラトが<なぜ>無実だと判断したのか? その理由がはっきりしません。これに対して、ヨハネ福音書では、ピラトとイエスだけの対話を通じて、なぜピラトが「イエスに何の罪状も見いだせない」と告げたのか、その理由を読者にも考えさせようとしています。
[39] ピラト自身が、イエスを処刑する根拠に乏しいと見ているのは、直前の38節で分かります。彼は「過越祭の慣例」を持ち出してイエスの釈放を提言します。ただし、彼は、「あのユダヤ人の王」というやや軽蔑をこめた言い方で問いかけているのを見逃すことができません。これは、イエスに対するよりも、むしろ「ユダヤ人」に向けられた皮肉と嘲りだと受け取るべきでしょう。
[40]ヨハネ福音書では、バラバの釈放を求めるのは、イエスを訴えた「同胞や祭司長」(8章35節)です。ピラトは彼らに尋ね、彼らがバラバの釈放を要求しますから、終始ユダヤの指導者たちが全面に出てきます。マルコ福音書では、釈放の要求も、バラバを選ぶのも「群衆」ですから、この点がヨハネ福音書と異なっています。さらに、マタイ=マルコ福音書では、イエスが何も答えなくなってから、バラバのことが持ち出されます。だから、裁判が大詰めに来た段階で、二人のどちらを選ぶのかがユダヤ人に提示されます。しかし、ヨハネ福音書では、イエスの審議がまだそこまで行かないうちに、ピラトからのイエス釈放の問いかけに対して、ユダヤ側から「突然に」バラバの釈放要求が出されます。バラバが「強盗」だとは、反乱罪を犯した者に対する体制側の呼び方ですから、マルコ福音書では、真理の王国の主であるイエスと、暴動を起こしたバラバと、どちらを選ぶのか? この選択がユダヤ人に委ねられていることが、読者に印象づけられます。これに対して、ヨハネ福音書では、読者が、すでにバラバについて知っていることを前提にしているのでしょう。だから、二人の「どちらを選択するか」ということではなく、ほんらい釈放されるべき「イエスの釈放」をユダヤ人側が拒否したこと、イエスに「代わって」わざわざバラバの釈放要求が出されたという印象を強くします。
■19章
 ヨハネ福音書の記述は、おおむね共観福音書と合致していますが、ヨハネ福音書は、マタイ福音書ほどにはユダヤ人の罪を重く観ることをせず、ルカ福音書ほどにはローマ側の責任を回避する描き方をしていません。ヨハネ福音書は、ここでもマルコ福音書の記述と一致していますが、今回の部分に限って見ても、マルコ福音書の簡略な記述に比べると、「見よ、この男だ」、「神からの真の権限」、「敷石の場」「皇帝のほかに王はいない」など、他の福音書には出てこない重要な発言が記されています。ヨハネ福音書は、これらの発言を通して起こった出来事を解釈しているのです。
[1]【鞭打たせた】共観福音書では、ピラトが死刑の判決を下した<後で>鞭打ちが行なわれますから、これは十字架刑の最初の段階になります。鞭打ちはとても厳しく、この場合は、ユダヤの会堂での鞭打ちとは違って、回数の制限がありません。ローマの市民権を持たない地方の平民や奴隷には、鉄や骨などのスパイク(刺)のある革の鞭が用いられましたから、鞭打ちで死にいたる場合もあったようです。しかし、これは十字架上での死を早めるので、かえって「お情け」と考えられました。
 ヨハネ福音書では、共観福音書と異なって、判決の<前に>鞭打ちが加えられ、しかもその後で、ピラトはなおもイエスの釈放を提案していますから(19章12節)、これは「警告の鞭打ち」であって、処刑の一環ではありません。だからと言って、鞭打ちが「軽かった」という意味ではなく、「骨の髄まで」打たれた後で釈放された例もあります〔ヨセフス『ユダヤ戦争』6巻5章304節〕。少なくとも、ヨハネ福音書の読者は、共観福音書の鞭打ちとヨハネ福音書のそれとを区別することができなかったでしょう。鞭打ちは公開の場で行なわれましたから、苦痛だけでなく「辱め」の意味もありました〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
[2]【茨で冠を】いわゆる「王冠」"crown"は、ローマ帝国の属国である「同盟国」の王たちがかぶるものです。ローマ皇帝は、より軽くて小さい「王環」"diadem"を頭に載せていました。イエスが実際にかぶせられたのは、茨ではなく、ナツメヤシの枝で編んだもので、尖った葉が外へ突き出ていたので、後光のように見えたのではなかったかと考えられます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。そうだとすれば、この「冠」は、茨の刺で苦痛を与えるためではなく、「ユダヤ人の王」をもじって嘲るためのものです。
[3]ヨハネ福音書のこの記事は、マタイ=マルコ福音書の資料を短く縮めたようにも思われますが、鞭打ちと侮辱がひとつになって伝承されていますから、ヨハネ独自のものです。これはおそらく、マタイ=マルコ福音書の記事以前からの共通の伝承から出ているのでしょう。ヨハネ福音書では、ピラトの裁判全体が、この19章2~3節の場面を中心にして対称形に構成されています。だから、ここで兵士たちが言う「ユダヤ人の王」は、ピラトの言葉を真似たもので、そこにはローマ側からの嘲りと侮蔑がこめられていて、これが裁判の場面全体を流れる基調です。しかし、この嘲りは、イエス個人に向けられているだけでなく、むしろ、イエスをローマへの反逆者として訴え出たユダヤ人全体にも向けられているのを見逃すことができません。ユダヤの聖書学者フルッサーが、ヨハネ福音書のここの場面に、「イスラエルに対する残酷で冷笑的な憎悪」を読み取っているのはこのためです〔フルッサー『ユダヤ人イエス』〕。
 ここには、ローマの支配からの自由を求めるイスラエル側のメシア待望に向けられるローマ側の嘲りと侮辱が描かれています。イスラエル側にとっても、またローマ側にとっても、最大の皮肉は、イエスがほんとうの意味でメシアで「ある」というそのことです。ユダヤ人が言う「律法に背いた罪」も、ローマに反逆を企てた「ユダヤ人の王」というピラトの名目も、イエスが神から遣わされたメシアであり、その意味で、真の意味の「イスラエルの王」であるという事実を前にする時に、逆に「神による皮肉」が見えてくるのです。ここに、ヨハネ福音書の作者による、この世の宗教的な権威とこれに動かされる政治権力への鋭い風刺と批判を読み取ることができます。
[4]~[5]【また出てきて】ピラトは、兵士たちが官邸内の中庭でイエスに侮辱を加えている間、官邸の中にいたのでしょう。ピラトは頃合いを見て、再びイエスを外へ連れ出したのです。彼は、鞭打たれたイエスの姿をユダヤの指導者たちに見せて、これでイエスを「無罪放免」にしようともくろんだのでしょう。暴動の首謀者であるバラバを釈放するよりもイエスのほうが好都合だと考えたのかもしれません。
【見よ、この男だ】「この男」は直訳すれば「この人」です。この5節の場面は、18章38節の「彼(あの男)」および39節の「このユダヤ人の王」と並行しています。サマリアのモーセ伝承では「人」はメシアの称号として用いられたという説があり、また、ここの「人」は、「人の子」との関係で、パレスチナでは「神」をも意味するという説もあります。また、ゼカリヤ書6章12節に出てくる「主の神殿を建て直すメシアとなる人」と結びつける解釈もあり〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕、イザヤ書53章3節の「受難の僕」と関連づける説もあります。これらは、ヨハネ福音書の読者の視点からの解釈でしょう。
 これらの諸説に対して、ここでのピラトの行為は、皇帝即位に際して、ローマの民衆が新皇帝を承認する意思を表明するために叫ぶ「即位への歓呼」"royal acclamation" を茶化したものではないかという見方があります〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕〔フルッサー『ユダヤ人イエス』16章「エッケ・ホモのほんらいの意味」〕。ローマ皇帝が即位する際に、ローマ市民は、新皇帝を承認する意味で、ラテン語で「エッケ・ホモ」"Ecce homo!"(見よ、この人だ!)と一斉に歓呼の声をあげました。この「歓呼の式典」は、皇帝即位の儀式では欠かすことのできない大事な意味を帯びていました。類似の例は、サウルが王に即位した際に、サムエルが「見よ、この人を!」(サムエル記上9章17節)と叫ぶ場合にも見ることができます。そこの「ヒンネー・ハーイーシュ」(見よ、この人を)の七十人訳のギリシア語が、ここヨハネ19章5節と一致します。
 だから、ピラトは、イエスに茨の冠をかぶせ、「紫の衣」をまとわせたままで、その姿を階段の下にいるユダヤ人の群衆に見せて、「お前たち、ユダヤ人の王が即位したぞ!」と嘲って叫んだのです。言うまでもなくこれは、ローマ帝国からの解放を求めるユダヤのメシア運動に対するローマ側からの痛烈な皮肉と嘲りで、残忍なピラトのユダヤ人に対する軽蔑を表わしています〔フルッサー『ユダヤ人イエス』〕。
 このような「茶番」は、もしもイエスがほんとうにユダヤ独立革命の英雄だったとすれば、そして、ピラトがイエスをそのような反逆者だと確信していたとすれば、逆に民衆の涙と同情を誘い、彼らの反ローマ感情をいっそうかき立てますから、その効果を半減します。イエスがメシア運動の英雄にはとても見えないからこそ、ピラトがイエスにローマ帝国への脅威を全く感じないからこそ、この茶番が成り立つのです。イエスを見ているユダヤ人への嘲りがその効果を発揮するのです。だからこそ、ピラトの嘲笑を受けた民衆は、侮辱に堪えかねて、「この男」を見て一斉に「十字架に付けろ!」と叫んだのです。
 この茶番が、「滑稽で無害なイエスの姿を見せつけて(ユダヤ人たちの)告発を断念させる」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕ためなら、これは逆効果でした。この後でピラトは、またもイエスの無罪を提示しますが、おそらくこれはゼスチュアで、イエスへの民衆の憎しみが止め難いところへ達しているのを見越して、法的に無罪のこの男を反逆罪で十字架刑にするのは、ユダヤ側の要求を受け容れることで暴動に発展するのを防ぐという名目を得るためです。こうして、ピラトは、暴動鎮圧のために「無罪の男」を処刑する名目を作り出すことに成功したのです。彼は19章15節で、もう一度同じ茶番を演じて見せて、イエスに対する処刑の名目をユダヤ人に確認させています。このように見ると、ここの記事は、ヨハネの創出ではなく、ヨハネ共同体に伝えられていた伝承に基づくもので、実際に裁判の場でピラトが見せた嘲りの姿勢をヨハネがドラマ化していると見ることができます〔フルッサー『ユダヤ人イエス』〕。
 しかし、その場にいたであろう「イエスを信じる人たち」から見るなら、また、イエスを神の子と信じるヨハネ福音書の読者たちがこの記事を読む場合には、ここには全く異なる実相が見えていたでしょう。「ロゴスが肉体となってこの世に来た」(1章14節)ことの究極の結果が、何をもたらしたかをこの場面は見事に描いています。「彼は自分の民の所へ来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」のです(1章11節)。イエスの罪のない姿と訴えられた王権との落差が、嘲笑の的にされているのですが、その一方で、心ある読者たちは、そのようなイエスの姿を通して顕れる「受難の僕」と、その背後に神の御栄光を垣間見るのです。ヨハネ福音書の読者が観ているのは、このイエスの姿であり、以後、ヨーロッパ絵画の伝統的な「エッケ・ホモ」は、このようなヨハネ福音書の描写に基づいて描かれることになります。
[6]【あなたたちが引き取って】「あなたたち」が強調されているのは、ピラトが、「イエスを処刑したければ自分たちの責任でやればいい」とユダヤ人の指導者たちの要請を突っぱねているからで、ユダヤ人たちのイエスへの処刑要求を拒否しているのです。おそらく、これは、相手に死刑の権限がないことを見越した上でのピラトのユダヤ人たちに対する当てつけのゼスチュアでしょう。ところで、ヨハネ福音書では、イエスが、茨の冠を取り除かれて再び自分の衣を着せられたという記述がありません。画像に描かれる「茨の冠をかぶせられた十字架上のイエス」の姿は、ここから出たのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。
[7]【ユダヤ人たち】イエスが常々口にしていた「わたしの時」がついに来たのです。マルコ15章13~15節では、ユダヤの指導者たちに唆された群衆が、「十字架につけよ」と2度叫びます。これに対してヨハネ福音書では、2度叫ぶのは、18章28節の「ユダヤ人たち」ですから、彼らはユダヤの指導者たちです(19章6節/同15節)。ルカ福音書と同様に、ヨハネ福音書も指導者と群衆とを区別しているようです。これで見ると、ヨハネ共同体に伝えられていた伝承は、「民衆の視点」から見たものだったのでしょうか〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕、あるいは、反ローマ的なユダヤ民族主義の立場からの伝承だったのでしょうか〔フルッサー『ユダヤ人イエス』〕。ヨハネ福音書では、イエスの逮捕に際してローマ兵が参与していましたが、ここのイエスの十字架刑では、ローマの直接の関与が薄められています。同時に、共観福音書に比べると、民衆よりも、むしろ指導者たちの参与に焦点が当てられています。彼らは「律法に基づいて」イエスの処刑を求めていますが、それは、イエスが自分を「神の子」と称したからです。だから、ユダヤ人たちが訴えたほんとうの理由が「宗教的な」動機であったことが暴わにされます。
【神の子】この7節はヨハネ福音書だけです。イエスが自分を神の子だと「自称した」(原文の意味は「ふりをした/見せかけた」)ことはありません。実際は、イエスを取り巻く人たちが彼をこのように称したのです。民衆がイエスを「神の子」と称したのは、神から遣わされたメシア像をイエスに重ねたからです。しかし「神の子」は、ヘレニズム世界では、ローマ皇帝をも含む様々な意味を帯びていましたから、ピラトたちローマ側から見れば、「神の子」は、ローマ皇帝に対抗する意図でイエスがこれを僭称したとも受け取ることができます。ただし、「わたしたち(ユダヤ人)の律法によれば」とあるのですから、ここでユダヤの指導者たちが言う「神の子」とは、ユダヤ教で言う「神の子」のことでしょう。この言い方が実際に神への冒涜になるのかどうか、厳密に言えば問題ですが(5章17~18節/10章33~36節を参照)、ユダヤの指導者たちがイエスの処刑を求めるのは、まさにこの理由からで、政治的な理由からではありません。ピラトもこの点を見抜いているのでしょう。
 しかし、イエスを「神の子」と信じるヨハネ福音書の読者たちの目から観ると、事態は全く別の様相を帯びてきます。おそらく、ここには、ヨハネ共同体と当時のファリサイ派ユダヤ教の指導者たちとの論争が反映しているのでしょう。ヨハネ福音書は、彼らとの論争を通じて、イエスの受難の意義を「神学的に」深めているのです。ヨハネ福音書の読者は、「神の子」の称号が、イエス自身からではなくイエスの父から授けられたことを知っています(1章18節)。「ユダヤ人」の律法はイエスの死を要求し、彼らの要求は成就します。しかし、まさにこのイエスの死を通じて、「御子を通じて世が救われる」神の御心が成就するのです(3章16節)。これがヨハネ福音書の読者がここに読み取っている受難の出来事の意義です。ヨハネ福音書は、神の子であるイエスが、神の御心に従って「死刑」に臨もうとしている姿を描くことで、ローマ側、ユダヤ側、キリスト教側、それぞれが「神の子」イエスをめぐって対立している様を描き出すのです。
[8]~[9]【どこから来たのか】ユダヤ人たちがイエスについて「神の子」を口にしたので、ピラトは、改めて目の前にいる人物が、宗教的な霊性を帯びていることを意識したようです。「恐れた」とあるのは、イエスに脅威を抱いたと言うより「神」への漠然とした「畏れ」でしょうか。「イエスはピラトにとって不気味な」存在なのでしょうか〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、それとも政治的に見れば無罪にあたる者を反逆罪で処刑したことがローマに知れたら、後で面倒なことになると予感したからでしょうか〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。「どこから」は、ヨハネ福音書にしばしば表われる問いかけですが、これはその人の起源を問うだけでなく、その人自身の霊的な本質をも問うものです。だからピラトは、またもイエスを官邸内に入れて、「いったいお前は何者なのか?」と問いかけるのです。しかしイエスは、もはやこの問いに答えようとはしません。答えはすでに出ています。それは、彼の目の前にいるイエス自身です。言葉は「事」としてすでに語られているのです(マルコ15章5節参照)。ピラトは、この時初めて、後にローマ帝国が感じることになる「キリスト教に対する脅威」を漠然と予感したのかもしれません。だとすれば、ここで異邦人であるピラトのほうが、ユダヤの指導者たちが全く理解できない「神への畏れ」を感じとったことになります(マルコ15章39節参照)。これもヨハネ独特の皮肉でしょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
[10]ローマの法律によれば、黙秘は直ちにその人物の有罪を意味しません。しかし、裁判官の問いに答えなければ、裁判官は、三度(たび)被告に対して、彼に対する嫌疑を問いただした後で、有罪を決定することができます。被告はほとんどの場合、裁判官の好意を得るために、裁判官への信頼や感謝の言葉を述べたり、場合によっては、自分に有利な判決を出すことで、裁判官自身にも大きな益をもたらすなどと「自己弁護」を展開します。ところがイエスは、ピラトが自己の一存で「釈放する」ことも「十字架につける」こともできるのを承知の上で、さらに、ピラトがイエスの無罪を認めていることさえ知りながら、黙っています。なぜ黙っているのか? これがピラトを「当惑させる」のです〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
[11]【何の権限もない】原文の意味は「事わたしに関する限り、あなた(ピラト)には全くなんの権限も与えられていない」です。これがピラトの疑問と当惑に対するイエスの答えです。ヘレニズムの哲学者たちの中には、死ぬことを「軽い」こととして、従容(しょうよう)として死につく人たちもいました(例えばソクラテスに見習って)。こういう哲学者たちは、ピラトにしてみれば、妄想に取り憑かれているか、神的な哲学者か、どちらかに見えたでしょう。しかし哲学者たちは、しばしば一般大衆の常識を無視したり、軽蔑したりする傾向がありましたから、ピラトは、ここでのイエスの沈黙が、ピラトを「無視している」あるいは「軽蔑して」いると思い違いをした節(ふし)があります。
 イエスは、このようなピラトに対して、神の力と権威は、たとえ権力者といえども、人間の思惑や力を超えて働くものであると語り(ダニエル書4章32節)、たとえ神に逆らおうとする者でさえも、結局は神の御手によって動かされているにすぎないと教えます。その上でイエスは、律法を楯に無実のイエスを断罪しようともくろむユダヤの指導者たちのほうが、イエスの釈放を考えるピラトよりもいっそう厳しい裁きに遭うと警告するのです。神は、律法を与えられた民に対しては、そうでない異邦の民よりも、いっそう厳しい裁きを下すからです。
 イエスの答えの後半「それゆえに、わたし(イエス)をあなた(ピラト)に引き渡した者(単数)の罪はもっと大きい」で、「それゆえに」とあるのは、ピラトが上から授かった神の力に動かされている道具にすぎないことを指すのでしょう。だとすれば、イエスをピラトに引き渡した「そのもの」は、ピラトを意識的に動かしているものとは別の力によっていることになります。「そのもの」(単数)はいったい何によって動いているのでしょう? ここの単数の「そのもの」をユダヤやカイアファと関連づける解釈もありますが、この「そのもの」は、複数の「ユダヤ人たち」をも動かす力です。ヨハネ福音書では「ユダヤ人」が「この世」を代表することを考え併せると、そのものは同時に「この世」をも動かす力でしょう。だから、これは「この世を支配する者」(14章30節)、すなわち「悪魔=サタン」につながります。ただし、大祭司カイアファを任命したのが、ほかならぬローマの権力だとすれば、ローマ側に全く責任がないとは言えません〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。「ピラトが神の道具として行為することは彼の罪を免じるものではない」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕のです。なお、この問答の後で、ピラトはイエスを外へ連れ出したことになります。
[12]【皇帝の友】ローマ皇帝は、実際の政策決定を元老院よりもむしろ自分の側近たちと相談して決めていました。これは、現代で言えば一種の「内閣政治」で、ローマが帝政に入ってからは、元老院は皇帝とその側近たちの政策の執行機関に近かったようです。このような皇帝の側近たちは「カエサル(皇帝)の友人」と呼ばれていました。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤ湖畔に、皇帝ティベリウスの名にちなんだ都市ティベリアスを建設するなど、その親ローマ政策によって、この「皇帝の友人グループ」に入ることができました。ティベリウス帝は、地方総督や代官たちの「職権乱用」と、これによって生じる地方の騒乱には厳しい目を向けていましたから、ピラトがイエスを釈放しようとしたのは、イエスの処刑が彼の支援者たちからの抗議を招いて、その結果「騒ぎ」が起きることを警戒したからでしょう。
 ところが、ユダヤの指導者たちは、ピラトの弱点を巧みに利用して、もしもピラトが「皇帝に背いたとされる」イエスを釈放するなら、彼は「皇帝の友」ではなくなると迫ったのです。もしも、ピラトが反逆者を釈放したのなら、ピラト自身が反逆罪で処刑されるおそれがありますから、ピラトはここで、自己保身の立場から見て、窮地に立たされたことになります。実際、彼は、後にサマリアの人たちを騒乱の罪で処刑したために、逆にサマリア人たちから総督に訴えられて、職を解かれ、最後は自決に追い込まれたと伝えられています〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
[13]【敷石】現在、エルサレムにあるイスラエル博物館に隣接して、紀元66年頃のエルサレムの大規模な模型が展示されています。これによると、ヘロデの宮殿は、エルサレムの西の城壁に沿って、南北に矩形に広がっています。宮殿自体もまた城壁で囲まれていて、東側の城壁の中央に城門があり、城門は、その東にある方形の広場(市場)に面しています。城門を入るとさらに立派な柱廊があり、そこを通ると広い中庭にでます。中庭を挟んで北と南に建物があります。18章28節には、大祭司たちは「汚れを受けないために官邸には入らなかった」とありますから、彼らは城門から中へは入らなかったのでしょう。
 「ガバタ」(敷石)と呼ばれる裁判席は、ヘロデの宮殿を囲む<南の>城壁の外側にあって、城門に面して左側にあったという報告があります。城壁を背にして階段のある石組み(裁判席)がそこで発掘されたからです〔Tabor, The Jesus Dynasty. Simon & Schuster (2007).214.〕。ヘロデの宮殿を囲んでいた城壁の南面は、現在のエルサレムを囲む城壁と同じ位置で、この城壁を背にしてガバタがあったのでしょう。この想定に立つなら、城門それ自体も階段を上った高い位置にありますから、群衆は、城壁の入り口へ登る階段の下にいたことになり、イエスは、階段を上がった城門の前に立っており、イエスの左側には、さらに高い裁判席が設けられていたことになります〔Tabor, The Jesus Dynasty. 215.〕。だからピラトは、わざわざ「外に」出てきて、被告と告発者だけを城門まで登らせて彼らの言い分を聞き、イエスだけを城門内の中庭へ入れて尋問したことになります〔Peter Connolly, Living in the Time of Jesus of Nazareth.  Steimatzky (1983).49.の絵を参照〕。その後で、ピラトは裁判の席についたのでしょう。
 かつては、この「敷石の高座」は、神殿横のアントニアの砦跡から発掘された石だと考えられていまたしが、現在ではそれがハドリアヌス帝の時代のものであることが分かりました。イエスの裁判は、アントニアではなく、ヘロデの宮殿で行なわれたと推定されています〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。ただし裁判の場所について異説があります。石の高座は、石板を重ねただけの造りだったとする説とモザイクの紋様で飾られていたという説とがありますが、どちらか分かりません。ヨハネは、「敷石」を「ヘブライ語でガバタ」と述べていますが、「ガバダ」は「敷石」のギリシア語「リソストロートス」にあたるヘブライ語ではなく、「ガバタ」はほんらい「突き出た高い場所」を意味すると考えられます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 ローマの裁判は公開の場で行なわれましたから、一段と高い「敷石の席」が設けられていて、そこが裁判の判決を宣告する場所となっていたのです。「裁判の席に(イエスを)<着かせた>」〔新共同訳〕とありますが、これだとイエスを、嘲りの意味でその席に「座らせた」ことにもなりましょう。「着かせた」とある動詞は自動詞とも他動詞とも読むことができます。しかし、ローマの代官が、大事な裁判の場で、そこまでふざけたことをするとは考えられません。ローマの裁判では、裁判する者が高い裁判の席に座り、そこから参加者一同を見渡しながら、被告をその前に立たせたままで行なうのが通常です。だから、「座った」のはピラトのほうでしょう 〔"Pilate brought Jesus outside and sat on the judge's bench at a place called The Stone Pavement."[NRSV]。ただし、欄外に "seated him(Jesus) "とあります〕。
[14]【正午ごろ】原文では、裁判の席に着いたのが「過越祭の準備の日の第6の時刻」です。マルコ福音書ではイエスが十字架にかかるのが「第3の時刻」です(マルコ15章25節)。ヨハネ福音書では、十字架の日が、共観福音書の記述より1日早くなりますので(曜日はどちらも金曜)、これを調和させようといろいろ試みがなされてきましたが、現在ではこの試みは放棄されています。実際の出来事は共観福音書のほうに近く、ヨハネ福音書は、イエスの受難を過越の小羊が犠牲に献げられる当日にすることで(18章28節参照)、イエスと犠牲の小羊とを同一視する神学的な構成をとっているという見方が有力です(福音書補遺→「マルコ福音書とヨハネ福音書の受難週対照表」を参照)。
 ただし、ここ14節で問題になるのは、日にちのほうではなく、十字架刑の<時刻>のほうです。イエスの頃のユダヤで、エルサレムで公式に用いられていた暦は太陰暦ですが、当時のローマの暦の影響で、太陽暦も加味されていました。1日は日没から次の日没までで、夜間の日没から日の出までは、3時間ごとに「第一の刻限」から「第四の刻限」まで四つに区切られていました。この区切りは、ローマ兵の「見張りの刻限」(英語の "watches")に合わせたのでしょう。しかし日の出から日没までの昼間は、ローマ暦に従って、通常は12時間とされていました(11章9節)。したがって、朝6時から計算するとマルコ福音書の「第3の時刻」は9時になり、ヨハネ福音書の「第6の時刻」は正午にあたります。
 ヘブライ語でもギリシア語でも、数字は文字で表わしました。アルファベットでは、ヘブライ文字とギリシア文字との起源が関連します。ギリシア文字では、アルファベットの三つ目のガンマ(Γ)は数字の3を表わし、六つ目のヴェ(F)は数字の6を表わしました(「ヴェ」は後に廃れてなくなりました)。ヴェは上線の下に短い線が入っていましたから、二つはまぎらわしかったので、混同されたという説があります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ただしこれには異論もあります 〔France, The Gospel of Mark. NIGTC. 644.Note21.〕。
 問題は、どちらがどちらと混同したのか? です。イエスがピラトの官邸へ連行されたのが午前6時頃だとすれば、その後の尋問と裁判と鞭打ちと嘲りの後で、ゴルゴタまで歩くのですから、時刻に関する限りでは、マルコ福音書の「朝の9時」での十字架刑は少し早すぎるように思われます。「シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかった」(マルコ15章21節)とあることから判断しても、イエスの十字架刑は、もう少し後の時刻ではなかったかと推定されます。ただし、ヨハネ福音書のほうに「正午」とあるのも、過越祭の犠牲の動物が捧げられる午後にイエスの十字架刑を合わせている可能性がありますから、実際にイエスが十字架刑にかけられた時刻は、午前中の9時から正午までの間だと見ていいでしょう。
 小羊が神殿で献げられる時刻は、朝と夕とに分かれていましたが、通常の場合、夕べのほうは2時半~3時半でした。翌日(日没の18時以後)に家族でこれを食することができるためです。しかし、過越祭の準備の日の場合は、通常とは異なり、夕べの犠牲の時間が1時間か、あるいはそれ以上早められて、ほぼ午後1時頃から小羊の犠牲が行なわれ始めたようです。判決が正午だとすれば、十字架刑は、ほぼ午後1時頃になりますから、ちょうど犠牲の時刻と重なります。もっとも、過越祭の準備の日の実状は、正午ごろから犠牲がすでに始まり、午後4時~6時頃には、犠牲を司る祭司たちは大忙しだったようです。ただしヨハネが、はたしてイエスが十字架にかかる<時刻>まで正確に犠牲の小羊に合わせようとしていたかどうかは疑問です。おそらくヨハネ福音書は、「過越祭の前日の午後」をイエスの十字架刑の時とすることで、小羊の犠牲と一致させているのでしょう(1章29節参照)〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
【あなたたちの王だ】ここのピラトの言葉は、19章5節のそれと対応していますから、説明は控えます。ただし、ここでの繰り返しは、続く15節の「ユダヤ人」の答えを引き出すためのヨハネの劇的な構成です。
[15]【彼らは叫んだ】主語がおそらく意図的に曖昧にされています。共観福音書では、祭司長たちが群衆を「扇動」したり「説得」したりして、イエスの十字架刑を要求させています(マルコ15章11節/マタイ27章20節)。しかし、ここヨハネ福音書では、「殺せ」という叫びに続くのは、ピラトの再度の「お前たちの王」であり、これに対する祭司長たちの言葉です。ピラトの繰り返しは、皇帝への反逆を企てた「ユダヤ人の王」としてイエスを処刑することを確認させるためです。ヨハネ福音書は、これによって、イエスを十字架にかけた「この世」に潜む正体を読者にはっきりと確認させるのです。それにしても、「この哀れを催させる人物をどうして<皇帝への反逆者>として真面目に受け取ることができようか!」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。だから、ユダヤ人(この世)の告発も、ピラトの名目も、明白な虚偽にすぎません。
【皇帝のほかに】祭司長たちのこの答えには、二重の皮肉がこめられています。一つは、ローマ皇帝への忠誠を誓うふりをしながら、祭司長たちは、実際にローマへの反逆を企てたバラバの釈放を要求していることです。もう一つは、ユダヤ教の正統信仰からすれば、イスラエルの真の王とは主なる神ヤハウェにほかならないことです(士師記8章23節/サムエル記上8章7節)。ここでヨハネ福音書は、過越祭に歌われた次のような言葉を、彼らの言葉の背後に置いていると考えられます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
永遠から永遠まであなたこそ神です。
あなたのほかにわたしたちに王はいません。
贖い主であり救い主である方よ・・・・・
あなたのほかにわたしたちに王はいません。
 これで分かるように、彼らは、イスラエルの神への忠誠を捨てて、カエサルを事実上の「神」として告白したのです。おそらく、このような深刻な「皮肉」の裏には、ヨハネ共同体を敵視していた当時のファリサイ派ユダヤ教の指導者たちの存在があったのでしょう。神の律法に背いたかどでイエスの処刑を求めるイスラエルの指導者たちが、その訴えの根拠として、事もあろうにローマ皇帝を事実上の「神」だと告白するという重罪を犯していること、ヨハネ福音書がここで描き出そうとしているのは、このような矛盾です。もっとも、当時のユダヤ人の中には、祭司制度さえあれば、「王」はローマ皇帝だけで十分だと考える人たちもいました。しかし、ヨハネ福音書がここで、このような人たちの代弁をしているとは考えられません。
[16]【イエスを彼らに】直訳すれば「彼を彼らに」です。「彼らに」は、15節から判断してユダヤ人たち(祭司長たち)を指しますが、実際にピラトが「引き渡した」のは、処刑を執行するローマ兵たちです。言うまでもなくヨハネ福音書の読者は、事実とヨハネ福音書の描写とのこの違いの意味を十分理解しています。ピラトはイエスを「彼らの要求」に応じて「引き渡した」のですから、イエスの十字架刑を「引き受けた」のは、彼らユダヤ人の指導者たちなのです。だからこの16節は、マタイ27章25節に通じる意味を含んでいます。
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