72章 ピラトによる裁判
               18章38節〜19章16節
■18章
38bピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
39ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
40すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
■19章
1そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
2兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
3そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
4ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
5イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
6祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
7ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当ります。神の子と自称したからです。」
8ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
9再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
10そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
11イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
12そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
13ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
14それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
15彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
16そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。
                
                    【注釈】 
                                  【講話】
■イエス様を十字架したもの
 今回のピラトの裁判と判決にいたる過程で、先ず確認したいことは、イエス様を十字架につけたのは、ローマの権力を利用したユダヤの宗教的・政治的な指導者たちだったということです。ただし、ヨハネ福音書はここで、ヨハネ共同体と同時代のファリサイ派ユダヤ教の指導者たちをも重ね合わせています。だからヨハネ福音書は、彼らを「ユダヤ人」と呼んで、それ以上の特定を避けて、彼らを「この世」と同一視しています。
 「ユダヤ人の王」として来られたイエス様が、ほかならぬ自分の民、すなわ、ローマの権力を利用したユダヤ人によって十字架されたというのが、ヨハネ福音書のメッセージです。ヨハネ福音書は、ここで「ユダヤ人の罪」を的確にえぐり出しています。
 ユダヤ人の指導者たちは、イエス様を告発した理由について、イエス様が「自分を神の子と自称したから、律法によれば死罪にあたる」(19章7節)と述べています。このことは、イエス様が十字架された根本の原因が、「律法」すなわち宗教的な敵意あるいは憎悪に起因することを示しています。ヨハネ福音書は、イエス様が十字架されたほんとうの理由が「宗教的な」動機によることを露わにするのです。人を救いに導き、人類に平和をもたらすはずの宗教こそが、実は人を殺し、互いに憎み合うことで滅びをもたらすという逆説が、ここで明らかにされます。
■律法と神殿
 ただし、ローマの権力が、ユダヤ人によって利用されたにすぎないと言っても、ピラトが体現する為政者の権力が、それで無罪になるわけではありません。国家権力もまた、当然良い意味でも悪い意味でも、「この世」と関わるものです。ヨハネ福音書の言う「この世の支配者」は、悪の力を象徴しますが、国家権力=「この世の支配者」ではありません。逆に国家権力は神に由来し、その権威もその力も、神に支えられて初めて、ほんとうに正しい機能を全うすることができます(19章11節)。「国家の権威は神に基づくものとして世に対立すること、この権威は世に属してはいないので、世から独立して行為しうるし、また行為しなければならないこと、それゆえ国家の行為の実行は、神か・世かという、あれか・これかの前に立たされていること」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕を忘れてはならないのです。
 では、イエス様が言われた「わたしの国」と、ユダヤ人の指導者たちとの間に、なぜこのような敵対関係が生じたのでしょうか? ここで言う「ユダヤ人」が、人種の意味でないことは、訴える側も訴えられる側もユダヤ人であることからすぐに分かります(19章7節)。両者の敵対関係は、ユダヤ教の律法がその主な原因だとあります。この事態は、使徒パウロが、キリストの福音とユダヤ教の律法とを対照/対立させたこととも符合します。ただし、イエス様が律法を否定したり、意図的に破ろうとしたとは考えられません。「安息日に人を癒やすのがなぜ律法に違反するのか?」と問い返しておられるのは、律法を否定するのではなく、むしろ「イエス様流に」律法を活かそうとされていることを現わします。実は、律法以上にイエス様とユダヤの指導層とを対立させたのは神殿制度です。ところが、イエス様は、神殿を「わたしの父の家」と呼んでいますから、イエス様が神殿それ自体を否定したり、ましてこれを破壊しようとしたとは考えられません。それなのに、律法と神殿の解釈をめぐって、イエス様とユダヤの指導層との間に根本的な対立が生じたのです。
■「宗教」に潜む魔性
 イエス様を十字架した人たちの動機は、根源において、為政者の権力とは直接関係のない「宗教的な」対立に根ざすものですが、それは、ユダヤの指導者たちが言う「わたしたちの律法」の奥に潜む得体の知れない魔性から来ています。いったいこれの正体は何でしょうか? ヨハネ19章がわたしたちに提起するのは、この根源に向けられた問いです。マルコ福音書は、これを「ねたみ/悪意」(マルコ15章10節)と言い表わして、これが「この世/時代」の「宗教性」から出ていると証ししています。宗教的「憎悪と敵意」こそ、ヨハネ8章が暴き出している「この世」に潜む悪の本質であり、「悪魔」「サタン」の正体なのす。パウロはこれを「律法(宗教)が挑発する罪」と呼んでいます。
 ヨハネ福音書の言う「この世」の罪の根源には、このような宗教的な敵意と対立が潜んでいます。人が「この罪」と向き合い、そこに潜む問題点を見据えて、これの解決を図らなければ、「この世」の罪を解決することができません。しかし、人間が自力で己の罪と正しく「向き合う」のはまず不可能です。なぜなら、宗教的な争いは、人が己を「正しい」と思い込むところに、すなわち己の信念に基づく価値観に根ざしているからです。「律法」によってイエス様が殺されたとは、このような人間の宗教的な「価値観」から、それも「偽りの価値観」から生じた殺意によるものです。問題の根源には、政治よりも経済よりも難しい「宗教的価値観」が潜んでいるのです。
■価値観と寛容
 暴力や欲望、権力の乱用など、この世には様々な罪があります。しかし、ここで問われているのは、宗教的な罪、すなわち<価値観>にかかわるものです。なぜ価値観がそれほど恐ろしいのか? それは、価値観こそ、何が正しいか不正かを決める力だからです。だから、この価値観は、あらゆる罪を「正当化する」よう働くことができます。仏教であれ、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、その他の宗教も、その価値観によって、人の犯す罪を正当化してきた歴史を過去に持っています。だから、わたしたちは、<宗教的な寛容性>こそ、イエス様の十字架がもたらしてくれた最大の福音であることを知る必要があります。イエス様が「世の罪を取り除く神の小羊」であるとは、まさにこの意味です。「人にはそれはできない。しかし神にはできる。神は何でもできるから」とイエス様が言われたのは、このことを指すのでしょう。
■宗教する人
 人間は、いろいろな営みをする存在です。人は誰でも「安い」物を買いたがり「高く」売りたがります。だから人は「経済する人」(ホモ・エコノミクス)です。人は言語を語ります。だから「語る人」(ホモ・ロクエーンス)です。同じように、人は誰でも未来を知りたがり、何のために生きるかと迷い悩み、罪を犯すと苦しみます。だから、人間は「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)として造られています。言い換えると、人間は、生物的にも、歴史的にも、心理的・心霊的にも、宗教を志向する存在として規定されているのです。この「宗教する人」が互いに争い合うこと、これが、「この世/時代」に潜む罪の本質だということもまた真理なのです。人が、この世に来た光を憎んだのは、光より闇を愛したからで、それは、彼らの行ないが悪いためだというのが、ヨハネ福音書の証言です。闇とは兄弟を憎むことですから(第一ヨハネ2章11節)、宗教的な敵意こそ、闇の正体であり、悪魔(サタン)の正体です。わたしたちがこのことを自覚した時に初めて、ここで語られているイエス様の十字架刑のほんとうの意義が見えてくるのではないでしょうか。
■聖なる茶番劇
 イエス様のこの裁判では、ほんらい訴えられるべき者が訴えを起こし、訴えるべき方が、逆に訴えられていて、しかも、それを裁く地上の権力(それ自体もまた神に裁かれるべきものです)によって嘲られています。イエス様を「ユダヤ人の王」として嘲ったピラトは、人類のこのような宗教性に潜む愚かさをあざ笑っているかのようにも見えます。おそらく、この茶番を最も喜んで眺めていたのは、この世の支配者であるサタン(悪魔)でしょう。その上で、これらのすべてを御子の栄光へいたる一幕として演出しているお方が、その背後におられることをわたしたちは洞察する必要があります。ヨハネ福音書は、この「聖なる茶番劇」をわたしたちにみごとに描いて見せてくれます。
 人類は長い歩みの中で、地球環境をも含む様々な厳しい試練をくぐり抜けてきました。人類はこれらの試練を「火」と「道具」と「言語」と「宗教」によって生き抜いてきました。同時に人は、これら四つの才能を発達させて、人間の身体をも含めて、その有り様そのものを変容させてきました。それは道具や知識ではなく、それらの根源を形成する価値観それ自体が「新しく造られる」ことで、言い換えると<霊的な進化と変容>によって達成されてきたのです。事情は今も変わりません。このような「創造」なしに、人類がこれから生き延びる道はありません。それができるか、できないかではなく、それ無しには生き延びる道がないのです。だから、今人類には、その生存をかけて宗教的な寛容が求められています。人類はこの危機をも克服することが出来るでしょうか?  わたしはできると信じています。なぜなら、過去の長い進化の過程から見れば、このような生存をかけた必要こそ創造の母だったからです。
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