【注釈】
■17章20~23節
彼らのためだけではなく、
彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも祈ります。
すべての人が一つになるためです。
父よ、あなたがわたしにおり、
わたしがあなたにいるように
彼らもわたしたちにおらせてください。
あなたがわたしを遣わしたと世が信じるために。
わたしにお与えになった栄光を
わたしも彼らに与えました。
彼らが一つになるためです
わたしたちが一つであるのと同じように。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにいます。
彼らも一つになることが成就するためです。
それは、世が知るためです
あなたがわたしを遣わして
彼らを愛したことを
わたしを愛したのと同じように。
今回の部分は、できるだけ原文に近づけるために、ぎこちない訳文になっています。「~するため」"in order that..."という目的を表わす節が繰り返し表われ、その間に「ちょうど同じように」が挟まり込んでいます。21節と22~23節とは、「ために」節の繰り返しによって並列関係を形成しており、内容的にも対(つい)を成しています。
〔21節〕
一つになるため
あなたがわたしに、わたしがあなたにいるのと同じように
彼らもまたわたしたちといるため
世があなたがわたしを遣わしたと信じるために
〔22~23節〕
一つになるため
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいて、
一つであるのと同じように
彼らも一つになることが成就するため
世があなたがわたしを遣わしたと知るために
〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕
これで見ると、21節と22~23節との対応関係は、同じ繰り返しではなく、「あなたがわたしに」→「わたしが彼らに」/「わたしたちと(一つで)いるため」→「一つになることが成就するため」/「世は信じるため」→「世は知るため」のように、「父とイエス」から「イエスと信じる人たち」へ、「一つである」から「一つになることが成就する」へ、「世が信じる」から「世が知る」へと内容的に進展しているのが分かります〔ブラウン前掲書〕。
先に、17章の執り成しの祈りは、イエスの「父」に向けられていると指摘しました。それまでイエスに集中してきた弟子たちの目が、16章25節からは、イエスによって父へ向け変えられるのです。ところが、ここへ来て再び、御子イエスと父との交わりが新たな意味を帯びて顕れ、その交わりに弟子たちも導き入れられて、全体が「一つになる」のです。ここで注目したいのは、父とイエスと弟子たちの一体関係が、「すべての人」(21節)にも及ぶ広がりを見せていることです。父と子の交わりを軸に、弟子たちがその交わりに加わり、その広がりが「世」に向かって働きかけ、これによって「世」が、父子一体の愛を信じるようになること、これが、執り成しの祈り求めの最終目的であることが分かります。
このように、父と子を軸に形成される神と人の交わりの一致が、世界を含む人類全体の調和/一致へ導かれることが、御子イエス・キリストの共同体が目指す目的であることが明示されるのです。この意味で、17章の執り成しの祈りは、エフェソ人への手紙の世界に通じています(エフェソ1章3~10節/同17~23節/同4章4~6節)。この書簡は、エフェソとその周辺の諸教会に宛てられたものであり、パウロの名を借りた偽書だと考えられますから、時期的にヨハネ福音書に近いと見ることができます。
[20]【彼らのためだけではなく】「彼ら」とは、最後の晩餐での11弟子たちを指します。祈りや誓いや呪いは、そこに居合わせた人たちだけが対象にされるとは限りません(申命記29章13~14節を参照)。20節から、「弟子たちを通して信じる」すべての人たちのために、新しい視野に立つ執り成しが始まります。ここでの「信じる人たち」は、使徒たち以後の教会のメンバーたち、すなわちヨハネ共同体をも含めて、これからイエスを信じるすべての人たちをも視野に入れています(10章16節/12章32節)。このように、20~21節では、最後の晩餐に居合わせた弟子たちだけでなく、彼らの言葉を聞いて信じる将来のすべての人へと祈りの範囲が広がります。
このためでしょうか、20~21節は、後からの挿入ではないかという説があります。20節の「彼らのためだけでなく」の「彼ら」は、最後の晩餐での弟子たちを指します。21節の「彼らもわたしたちの内に」の「彼ら」は、使徒たちの言葉を聞いて信じる人たちです。ところが、22節の「彼ら」とはだれのことでしょうか? 20~21節を後からの挿入だと見る説は、続く22節の「彼らも一つになるため」の「彼ら」を再び最後の晩餐での弟子たちだけに限定して解釈しようとします。先に見たように、21節は、続く22~23節と緊密につながるように構成されています。21節の「彼ら」も22節の「彼ら」も「現在(イエスが最後の晩餐で語っている時)の弟子たちだけではなくて、未来の弟子たちにも関係している。したがって、22節の『彼ら』には、(使徒たちを含む)すべての時代の信仰者が含まれている」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕というのが正しい見方です。ヨハネ福音書は「狭い共同体意識」に基づいているという先入観が、このような挿入説を生むのでしょうか。ここは、とりわけ、「狭い仲間意識」を打破して「すべて人の一致」を願い求めるイエスの意志が、明白に表わされている箇所なのです。17章の祈りの背後には、ナザレのイエスの霊性に源を発するパラクレートスが働いていますから、この働きが、イエスの祈りにこのような発展的な広がりを与えているのです。
【彼らの言葉】単数の「御言葉」が、イエス・キリストを伝える福音を意味するのは、ヨハネ福音書も共観福音書も使徒言行録も同じです。「彼らの言葉によってわたしを信じる」とありますが、ここを「わたしに<ついての>彼らの言葉を信じる」"believe by their word to/in me"と読むことも可能でしょう。
[21]【すべての人を一つに】原文と私訳は「すべてがひとつになるために」です。新約聖書のギリシア語では「~ために」"in order that..." は、「~こと」"that..." と同じ意味でも用いられますから、ここは、直前の20節を受けて、御言葉を信じる人たちが「一つになること」が、御言葉を証しする目的であり、同時に御言葉そのものの内容にもなります(17章11節)。「すべて」を「すべての人」〔新共同訳〕と解釈して、人類全体を含めることもできますが、「一つになる」のは「世」に向けて証しするためですから、まずは「すべての信仰者」のことでしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。このように、すべてのキリスト信者の一致が祈り求められるのは、ヨハネ共同体の頃の諸教会/諸派の間で「一致」が強く求められていたことが背景にあります。イエスの復活信仰以後に成立した原初キリスト教は、多種多様な地域の人たちに伝えられていましたから、それだけ信仰の内容も多岐にわたり、様々な形態の教会/共同体が存在していました。ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の間だけでなく、ユダヤ人キリスト教徒同士の間でも、また異邦人キリスト教徒相互の間でも、信仰の一致が保たれていたとは言えません。ヨハネ共同体は、自分たちの分裂体験からも、このような「一致」の重要性を痛感していたと思われます。ただし、ヨハネ福音書がここで求めているのは、多様な諸教会が、それぞれの独自な霊性を犠牲にしてまで、諸教会を組織し統合して、制度的な「一致」を推し進めることではありません。「一致」"unity" は「団結」"oneness" ではないからです。
【あなたがわたしの内に】ここで、父と子の交わりが(英訳は原文に近く "You in me, and I in you." )、すべての信仰者が一致するための基本軸として提示されます。この父子関係は、「あなたがわたしの内に」とあるとおり、先ず父からの子への働きかけと、子への宿りに始まります(5章19節/10章37~38節)。父と子は「ひとつ」ですが(10章30節)、父と子は同じではなく区別されます(5章30節/10章35~36節)。父は永遠にいます「聖なる方」であり、絶対的な存在です。この絶対者である父が、子を通して地上に顕れます。しかし、聖にして永遠な絶対者が、そのままの姿を地上に現わすことは決してありません。絶対者は普遍ですが、その絶対性は、必ず固有性を具えた「個人」の姿として地上に現われます。父なる神が、歴史的な一つの時点に現われた「ナザレのイエス」として啓示されるのはこのためです。
しかし、個人が具える固有性は、それ自体絶対的な存在ではなく、絶対的な存在に対して常に相対的ですから、絶対者が個人に宿ることは、その個人が相対化されて「無にされる」ことを意味します。だから、父が子(イエス)において働くとは、子が「無になる」ことにほかなりません(フィリピ2章6~10節)。絶対者にある個人が「無になる」時に初めて、その個人が、真の絶対者を啓示する存在になるのです。ナザレのイエスが、父との交わりにあって完全に無になり、父と子が「一つになる」時に初めて、父が子において顕れるのです。福音書は、「父が子におり、子が父にある」交わりの行き着く事態を十字架での「イエスの死」としてわたしたちに伝えています(ルカ23章46節)。この十字架の死にナザレのイエスの人間性と霊性の真相が現われており、子が父によって復活させられた根拠もここにあります(フィリピ2章6~10節)。父が子にあって遣わす御霊の働きも同じです。復活したイエスの御霊(パラクレートス)は、わたしたちを常にナザレのイエスへ引き戻し、歴史のイエスの「無私の死」において、父と子の栄光の交わりをわたしたちに啓示し続けます。「彼ら(弟子たち)の言葉によってイエスを信じる/彼らがイエスについて語る言葉によって信じる」とあるのは、このように、常にイエスを想起し直すことによってイエスに「信じ入る」ことです。パラクレートスは、このようにして、わたしたちを父と子の交わりへ導き入れるのです(17章26節/第一ヨハネ1章3節)。
【彼らもわたしたちの内に】「彼らもわたしたちにあって<一つで>あるように」と「一つ」が繰り返されている異読が複数あります。これは、21節の始めの「一つ」に惹かれた後からの挿入と思われますが、ここは、「父が子におり、子が父にいる」ことを通じて働く業が「彼らをもわたしたちにある」状態へと導き入れることを指していますから、この挿入は不要です。地上のもろもろのキリスト教的な共同体は、御子と御子を通して啓示される父によってのみ、初めて真の意味での「一致」に到達することができるからです。
【世は信じる】「世」は、地上の可視的なものに絶対性を見出そうとします。これが、ほんらい神ではない偽りの神を拝する「偶像礼拝」のもとです。この世が、父なる神によって造られた被造物にすぎないことを知って、自分たちの相対性に気づくこと、これが、ナザレのイエスに啓示された御霊の働きであり、父と子の交わりがこの世にもたらす働きかけにほかなりません。神と「世」との対立は、「世」が、神に向かって己を絶対化する時に生じます。「世」が「偽りの神」を棄てて、父と子の交わりに導き入れられることによって、「すべての人」が一致にいたること、これが、この執り成しの祈りの内容であり、同時に祈りの目標です。したがって、21節の「世は・・・・・」は、この節の初めから言われていることを受けていて、その最終目的が、父子と御霊の臨在を通じて、世が「自らの相対性」を悟ることであるのが分かります。
[22]~[23]【あなたが与える栄光】17章1節と同5節の「栄光」がここにもでてきます。1節は受難の栄光であり、5節は子が世の初めから父と共にいた時の栄光です。ここ22節の「くださった/与えた」は完了形ですから、すでに父から子への栄光の授与が完了していて、その結果が現在まで継続していることを意味します。ヨハネ福音書は、現在ヨハネ共同体が置かれている視点から、過去のイエスの出来事と彼に宿っていた永遠の霊性とを「栄光」として想起するのです。しかし、ここでは、子であるイエスが受けている栄光を「彼らにも」与えた〔完了形〕とありますから、子を信じる者たちにも御子イエスの栄光がすでに啓示されていることになります。だから、ここで言う「栄光」とは、御子イエスの死と復活を通して顕現するイエスの御霊の御臨在にほかなりません。これに与る人たちに栄光が顕現するのです(エフェソ1章17~19節)。
【完全に一つになる】原文の直訳は「一つになることが成し遂げられた者になる」です。「彼らが全うされたものとなり」〔岩波訳〕。「成し遂げる/成就する」は、すべてイエスについて言われています。しかしここでは、それが、イエスを信じる人たちについて言われるのです。イエスを信じる人たち全体を「エクレシア」(神に召されてイエスを信じる共同体)と呼ぶなら、栄光は、エクレシアの本質に具わる輝きであり、一つにされる(一致)は、その栄光の「しるし」なのです。エクレシアの栄光が「達成される」とは未来を志向することですが、ここでは、「この世が知るため」とありますから、現在この地上でエクレシアに栄光が顕れることでしょう。だから、エクレシアが「成し遂げられた者」〔受動態完了分詞〕にされるとあるのは、次に来るように、エクレシアに与えられる「神の愛」が証しされることです。
【世が知る】23節後半は「世が知るため・・・・・」で始まりますが〔私訳の下から4行目〕、これは、21節の「世が信じるため・・・・・」と対応していて、21~23節全体をしめくくっています。エクレシアに顕れる「一致の栄光」だけが、まだ信じない「世の人たち」をして、イエスが父から遣わされたことを悟らせる最大の証しとなるのです。エクレシアは、父と御子の栄光に与ることによって初めて、その一致を保ち続けて、最後まで「成し遂げられる」ことができるのです。
【彼らをも愛して】「愛する」の主語を父ではなく「わたし(イエス)」とする異読があります。しかし、17章全体が父の神を中心に執り成しが行なわれていますから(16章26~27節)、ここでは、神が「彼ら」に向ける愛のことだと理解するほうが適切です。なお「彼ら」をことさらに当時のエクレシアだけに限定する必要はないでしょう。「イエスを信じる人たち」は、父がエクレシアを通じて「世に働きかける」ことを通じて将来信じる人たちも含んでいますから(3章16節)。
■17章24~26節
父よ、わたしにお与えになった人たちのために求めます。
わたしのいるところへ彼らも共にいるためです。
それは、彼らがわたしの栄光を観るためです。
その栄光は、わたしにお与えになったもので
世の創造の前から、わたしを愛してお与えになったものです。
義なる父よ、
世はあなたを知らなかったけれども
わたしはあなたを知りました。
また、彼らに知らせました
あなたがわたしを遣わされたことを。
彼らにあなたのみ名を知らせました。
さらに知らせます。
あなたがわたしを愛したその愛が
彼らにもあるためです。
わたしも彼らにあるからです。
[24]【父よ】24節前半を直訳すれば「父よ、わたしに与えたくださったものについてわたしが求めること、それは、わたしがいるところに、この人たちもまた、わたしと共にいることです」となります。原文は「~ために求める」"I request in order that..."とも理解できますが、ここは、むしろ「~ことを求める」"I request that..."に近いでしょう。したがって、私訳の「わたしと共にいるためです」(目的)あるいは「おらせてください」(祈願)は、むしろ「(現実に)わたしと共にいることです」の意味に近くなります。未来志向の終末観から出ているよりも、むしろ、この地上で、エクレシアにおいて「わたしがある/いる」ことが、すでに現実となって顕れることが求められているのです。終末とは、現在を将来へ動かす力だからです。エクレシアは、この地上でどこまでも主イエスと共に「在り続ける」ことによって、主と共に歩み、栄光から栄光へ「変容されて」いくのです(第二コリント3章18節)。
24節と25節で、父への呼びかけが2度表われます。また「おらせてください」(原語は「わたしは意思する」)とあって、今までの「願う」よりも強い動詞が用いられています。ただし、この「要求」は、父の意思に従う子の意思であるのは言うまでもありません(5章30節)。24節からイエスの祈りは最終段階に入り、最も大事なことをはっきりと祈り求めています。父と子とエクレシア、この三者が一つであること、また一つになること、これこそが、イエスの最大の願いなのです。
【天地創造の前から】この言い方は、ヨハネ福音書ではここだけですが(ただし17章5節参照)、新約聖書の他の箇所にも「天地創造の時に」あるいは「世界の初めに/初めから」がでてきます(マタイ13章35節/同25章34節/ルカ11章50節/エフェソ1章4節/ヘブライ4章3節/同9章26節/第一ペトロ1章20節/ヨハネ黙示録13章8節/同17章8節)。「先在のロゴス・キリスト」の思想はヨハネ福音書の特徴とされていますが、これは、共観福音書がイエスの地上における「働き」を重視して語っているのに対して、ヨハネ福音書のほうは、イエスの働きを語るだけでなく、イエスの霊性そのものが、創造「以前から」の永遠の命である神から出ていること、言い換えると、イエスの霊性を「先在のロゴス」から解き明かそうとしているからです。父と子の「愛」(交わり)から成り立つ三位一体観の源が、ここに求められるのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【彼らに見せるため】原文は「彼らがわたしの栄光を観るため」で、「観る」には「テオーロー」(見る/観る)が用いられています。ここでの「観る」は、「観て信じる」ことであり、その結果「彼らもまた」イエスの栄光に与ることです。「父が天地創造の前から子を愛した」とありますが、「彼らもまたわたしと共にいるようになる」のですから、父の愛は、子にあって「彼ら」(エクレシア)にも「世界の初めから」注がれていたのです(エフェソ1章4節を参照)。
[25]【正しい父よ】原文は「義なる父よ」で、このような父への呼びかけは希です。17章だけに限ってみても、「父よ」(1節/5節/21節)、「聖なる父よ」(11節)、「義なる父よ」と、父への呼びかけが繰り返されます。「義なる」とあるのは、一切を偏(かたよ)り見ることをしない公正な判断と裁きを下す「父」への呼びかけでしょう。
【知りません】「義なる/正しい」父への呼びかけに続いて、「そして世は父を知らなかった」「わたしは父を知っていた」「そして弟子たちは(父がイエスを遣わしたことを)知った」と三つの「知る」が続き、どれも過去を表わすアオリスト形です。ただし動詞が表わす「時間」は「時制」 "tense" と呼ばれていて、必ずしも実際の時間のことではなく、語り手が心の中でイメージする「時間感覚」のことです。だから、その動作が幾度も繰り返されて来た場合にも、あるいは、現在から振り返って、動作全体がすでに過去のこととして心の中で「まとまって」見える場合にも、アオリスト形が用いられます。特に「知る」という行為は、一度「知った」ならば、通常、その認識はそれ以後も続きます。だから、ここでの「知った」は、単純に過去のことではなく、今までを振り返って、その動作を「まとめて」締めくくっているのです。"The world does not know you, but I know you."[NRSV][REB]/"The world has not known thee, but I have known thee."[Revised Standard Version]。「そして」が2度繰り返されていますが、「世は知らなかった<けれども>」「<しかし>弟子たちは知った」のように訳すこともできます。「そして」の繰り返しは、「知らなかった」ことと「知ったこと」が同時に進行していて、その事態がこれからもかかわり合いながら進行することをも示唆するのでしょう。ヨハネ福音書は、この25節で、最後の晩餐にいたるまでのイエスと世にいる弟子たちとの地上でのかかわり方を簡潔にまとめているのです。
[26]【御名を知らせます】前節での「世」と「イエス」と「弟子たち」の関係を受けて、父を弟子たちに啓示し、弟子たちを通して世に啓示する者が「わたし(イエス)」であることが最後に確認されます。イエス・キリストを「知る」ことこそ、父が与える永遠の命を知ることです(17章3節)。父は、「イエス・キリストを知る」ことを通じて、かつての弟子たちに授与されたように、その御名を「これからも知らせ続ける」のです。
ヨハネ福音書では、地上のイエスは「受肉したロゴス」であり、「ロゴスは肉と成ってわたしたちの間に宿った」(1章14節)ことです。「宿った」のヘブライ語の原義は「幕屋を張る」ことです。イスラエルの神ヤハウェは、幕屋の中に臨在し続けてご自分を顕しました。幕屋(とイスラエルの神殿)は、神が宿る場所であり、それゆえ「御名を知る」場所です。父の御名が、イエスを通じて弟子たちに啓示されたように、「これからも」父は、その業をイエスを信じる「彼ら」を通じて継続します。これこそ、イエスが、父の御名によって遣わすパラクレートスの働きです(15章26節)。彼(パラクレートス)によって、「これからも」人々の内に/間に、父の御名が臨在し続けるからです。「内に」は「間に」と訳すこともできますが、イエス・キリストの御霊が信仰者全体の交わりの「中に」臨在することと、個人個人の「内に」臨在することは、矛盾することではなく、新約聖書は両方の意味で御霊の働きを伝えています。
【あなたの愛が】イエス・キリストを受け入れることは、父の愛を受け入れることであり、パラクレートスが宿ることは、父の愛がその人に宿ることです。「神が愛である」ことは第一ヨハネ4章7~12節にはっきりと示されています。信じる人たちの内に働く神の愛とは、「この世に向かって」働く愛です。なぜなら、神は世の創造主であり、それゆえに世の「父」でもあり、それゆえに世に向かって「命の光」を照らし(1章4~5節)、そうすることで、常にこの世に「神を顕す」からです(1章18節)。「それは啓示によって創造自体が回復され、世が元来の創造の関係へと連れ戻されることを意味する」のです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「このために」、イエス(わたし)が彼ら(信じる人たち)に宿っていること、これが、ここでの執り成しの祈りの締めくくりです。
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