68章 一つになるために
17章20〜26節
■17章
20「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています
26わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
【注釈】
【講話】
■父と子と御霊のエクレシア
17章のイエス様の祈りは、これまで、主として遺わされた11人の弟子(使徒)たちのためでした。ただし、そこには、ヨハネ共同体をも含めて、使徒たち以後にイエス様を信じた人たちも重ね合わされています。ところが20節からは、イエス様の祈りが、「すべての人が一つになること」(21節)へ向かいます。「すべての人」ですから全人類が含まれます。これはとても大事なことです。イエス様の祈りには「信じている人」だけしか含まれていないという見方もありますが、少なくともここからは、まだ信じていない人たちが、イエス様へ導かれることが祈り求められているのは確かです。
「父なる神に召されてイエス様を信じる人たちの共同体」を「エクレシア」と云います。「エクレシア」は、ギリシア語の動詞「エクカロー」(召し出す/呼び寄せる)の名詞「エクレーシア」(集会/教会)です(英語では"ecclesia"〔エクリージア〕)(マタイ16章18節他)。日本語で通常「エクレシア」と言われます。新約聖書の「エクレシア」は、七十人訳旧約聖書のギリシア語を受け継いでいて、これのもとのヘブライ語は「カハル」(会衆)です。「カハル」は、「主の会衆」として旧約にしばしばでてきます(申命記23章3節他)。
イエス様は、ここで、ご自分を通して父によって召し集められた信者たち(エクレシア)だけでなく、エクレシアの外にいる「この世」の人たちのためにも祈っておられます。父は「この世を愛して」子をお遣わしになったからです(3章16節)。17章20〜23節が大事なのは、「すべての人たちが一つになる」ことが、イエス様による父への祈りの最終目標だからです。全人類が一つになること。これが、エクレシアと人類の歴史が導かれる目標であると、ここにはっきりと示されているのです。だから、エクレシアは、人類の歴史の意義そのものを体現します。イエス様は驚くべき事を祈り求めて、これを成し遂げられた。聖書はすごいことを語っているのです。
この目標が達成されるのは、「父がわたしにおり、わたしが父にいる」こと、そして「彼らもわたしたちと共にいる」ことを通じてです。「わたしたち」とは父と子のこと、「彼ら」とは使徒たちと以後のエクレシアを指します。父と子とエクレシアが一つになることで初めて、世の人たちは、父なる神が、現にわたしたちエクレシアに臨在しておられることを知り、父が子をこの世へお遣わしになったことを信じるのです。
父と子の交わりにおける栄光は、天地創造の前からすでに存在していました(17章24節)。この交わりが初めにあったからこそ、人と自然を含む世界が創造されました(1章3節)。だからこそ、イエス様は、父子のこの交わりの中へ信じる者が導き入れられるよう祈るのです。父と子と聖霊(パラクレートス)の交わりに人が加えられるとは、人が「新しく生まれる」こと、すなわち<新たに創造される>ことです。エクレシアには、御父と御子と御霊の三位一体が宿っています。イエス様が祈り求めておられるのは、「三位一体が宿るエクレシア」のことですから、エクレシアは四位一体です。今わたしは、信友たちとエフェソ人への手紙を読んでいますが、エフェソ1章にでてくるエクレシアは、実に壮大で不思議な存在で、エフェソ人への手紙には驚くべき「エクレシア神秘思想」が提示されています。
■「世」が父を「信じる」
23節後半に、この世は「父が子をお遣わしになったことを知る」とあります。父がイエス様をお遣わしになることで、わたしたちエクレシアを愛しておられることを「(世が)知る」ようになるからです。それも、「父がイエス様を愛されたそのとおりに」エクレシアのわたしたちを愛しておられる。このことを「世が知る」のです。
今回は、「〜とちょうど同じに」が繰り返されるのに注意してください。「父がイエス様を知っておられるちょうどそのとおりに(わたしたちエクレシアを)知る」とあるのは、わたしたちエクレシアから見れば、「父に知られているとおりの」イエス様をわたしたちも知ることを意味します。これが、イエス様をほんとうに知ることです。イエス様をほんとうに知ることが、「わたしたちをほんとうに知る」ことにつながるのです。わたしたちが「ほんとうのイエス様」を知ることができれば、その時に初めて、御子を通じてわたしたちに顕された父の愛をほんとうに知るからです。これが、まことの意味で「イエス様の霊性」を「知る」ことです。
わたしたちが、「ほんとうのイエス様」を知る時に初めて、イエス様を通してイエス様の父をも知るようになります。しかしながら、わたしたちがイエス様を知り、イエス様を通じて父を知るという時の「知る」とはどういうことでしょう。祈りによってイエス様の御霊の御臨在に導かれる時には、もはや、わたしたちのほうから何かを「知る」のではありません。そこ顕現するのは、イエス様と父の交わりの中に映し出されて顕れる「わたしたち」です。わたしたちは、ただ、父と子に「知られている」自分を、言い換えると、イエス様にあって新たに「創造されつつある」自分を「そういう者として」知るのです。わたしたちは、このようにして、自分に与えられるイエス様の御業を知り、イエス様を通して父を知り、その父を通して再びイエス様を知り、父と御子との交わりの中にあって、父と子に「知られているとおりの自分」を「知る」ようになるのです。父と子の交わりの中に導き入れられることを通じて、わたしたちは、父に知られているとおりの自分を知り、その自分を通して父を知る道が啓かれるのです。だから、その「知る」には、わたしたち自身が「自分を再発見する」ことも含まれてきます。これが、父にあってイエス様を信じるエクレシアのメンバーになる時に生じることです。
それでは、「世が父を知る」のは、どのようにしてでしょう?父と子の交わりが宿るエクレシアを通じてです。父子の交わりに導き入れられ、エクレシアのメンバーとされたわたしたちを通して初めて、この世は父なる神を知るようになるのです。父がわたしたちを愛しておられることが、世の人たちにも分かるからです(23節)。エクレシアが「父子の交わりにいる」ことを通じて、世が父の愛を悟るならば、21節にあるように「すべての人が一つになる」道が啓(ひら)けるのです。わたしたちにせよ、世の人々にせよ、このような父を認識できるのは、言うまでもなく復活したナザレのイエス様を通じてです。これ以外の直接的な「神」認識は、得体の知れない霊力に支配される危険を伴うからです。このようしてイエス様は、すべての人が「一致する」道を啓(ひら)いてくださったのです。 ヨハネ福音書が語る「一致」は、何よりも、パラクレートスによる祈りから生まれる一致です。エクレシアにある三位一体の宿りを知る時の「知る」は、祈りによる「知る」ことです。「〜ために」の繰り返しは、まさに<祈り求め>こそが「一致」の源であることを教えてくれます。「ために」は目的でもあり、現実に生起する「こと」でもあり、祈りによって生じた出来事の結果をも表わすのです。一致の交わりは、祈りの中で起こる出来事であり、それゆえに内面的・主観的であると同時に、この世に向けて働く外面的な客観性をも具えています。この「祈り」こそ、主客一如の世界の出来事なのです。パラクレートスの働きは、祈りを通して実現する創造の御業です。17章のイエス様の執り成しは、パラクレートスの働きによる祈りそのものです。
■御栄光の多様性
父と子がわたしたちエクレシアと共にあるのは、わたしたちエクレシアが、イエス様の御栄光を「観る」ためだとあります。ここでは、イエス様を通して、父御自身がわたしたちの間に御臨在くださることを「栄光」と呼ぶのです(24節)。「御栄光」とは、神がその御臨在を顕すこと、言い換えると、神がこの世にあってほんとうに働いておられることが、人々の前に証しされることです。イエス様の御霊を通して働く御臨在のこの御栄光こそが、信じる人々が「一致」するための基であること、これがヨハネ福音書のここでのメッセージです。
コイノニア会は、ごくわずかの人数の集いですが、ずいぶんいろいろな方々がおられて、それぞれに違った持ち味と個性を発揮しています。東京集会では、あちこちの教派の方々が来られて初顔合わせの場合が多いのですが、それでも、祈りを共にすると、主様の御臨在を感じることができます。実に不思議です。理屈ではなく、とにかく集って祈りを共にする。すると、そこにイエス様の御霊が御臨在くださる。これが「コイノニア」(交わり)の証しです。これ以外になんにもない。でも、この一事がすばらしい。何物にも替えがたい「御霊にある出来事」ですから。イエス様の御霊にあっては、このように、御臨在と御栄光と一致が一つです。
■田ごとの月 17章のイエス様の祈りを「田ごとの月」の譬えで終わりたいと思います。山の多い日本では、田は必ずしも広い四角形とは限りません。棚田のように、田などできないような場所にも、様々な形をした田があります。それでも、恵みの雨が降れば、田はその形に応じてそれぞれに水を蓄えて稲を育みます。雨は言うまでもなくイエス様の御霊です。雨を蓄えた田には、それぞれに月の姿が映ります。どんな場所のどんな形の田でも、水さえあれば、それなりに月の姿が映るのです。これが「田ごとの月」です。月は一つですが、田に映る月の姿は無数です。どの月影がほんものか?などと問うのは愚かです。しかも、恵みの雨が降り注ぎ続けるなら、やがて水はあふれ出て、田ごとの水もつながって、広いひとつの水面になるでしょう。そうなれば、そこに映る月の姿はただ一つです。
このように、今はキリスト教も数多くに分かれていますが、どんな姿のキリスト教にも、そこに御霊さえ御臨在くださるなら、イエス様の月は必ず映ります。しかも、天から注がれる御霊の恵みによって祈りが深まるならば、やがて宗派・宗団の垣根を超えて、一つのイエス様の群れになるでしょう。その時には、イエス様のみ姿はただひとつです。「一人の牧者、一つの群れ」(10章16節)がこのようにして実現するのです。今はまだそこまで行っていませんが、やがては必ずそうなるでしょう。なぜなら、これが成就することこそ、17章のイエス様の祈りだからです。
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