【注釈】
■17章9~10節
わたしは彼らのために祈り求めます。
世のために祈り求めるのではなく、
わたしにお与えくださった人々のためです。
彼らはあなたのものだからです。
わたしのものはすべてあなたのもの、
あなたのものはわたしのものです。
わたしは彼らにあって栄化されたのです。
 
[9]イエスは、これまで弟子たちの間でその栄光を顕し(17章4節)、彼らに神の御名を知らせ(6節)、神の御言葉を与えました(8節)。この9節からは、弟子たちのための執り成しの祈りに入ります。
【お願いします】原語「エロートー」には「祈り求める/願い求める」と「尋ね求める」のふたとおりの意味があると先に指摘しました(16章23節/同30節)。この9節では「祈り求める」です。イエスが父に「祈り求める」時には、ヨハネ福音書は「エロートー」を用いて、「アイトー」(請い求める/請願する)を用いることはしません。「わたし」が繰り返されていますから、イエスが強調されているようですが、祈らせるのは父であり、父子一体です。執り成しは直前の6~7節を受けていて、「あなたがわたしにお与えになった」弟子たちのためです。ここで作者が想い描くのは、最後の晩餐の11人の弟子たちですが、彼の視野には、使徒たち以後に「イエスを信じた弟子たち」も入っています(17章20節参照)。
【世のためではなく】執り成しは、先ずこの祈りに「含まれない」ものから始まります。祈りは「世のため」ではありません。この否定はとても強く響きますから、イエスの祈りでは「世」が全く無視されているか、排除されているようにも思われます。ところが、父は、イエスを「この世に」遣わし、続いて弟子たちをもこの世に遣わそうとしているのです。父は「世を愛する」(3章16節)からです。弟子たちを世に遣わしておきながら、世のためではなく弟子たちのために祈るのです。
 ヨハネ福音書が言う「世」とは、弱く罪深い人間性とこれを支配する闇の力を指しています。ここでのイエスの祈りが、この世に残る弟子たちに集中していて、「世」を含まないのはなぜでしょうか? イエスは、今まさに、世によって排除され、世によって苦難を受けようとしています。しかも、「その出来事」によって、父から栄光を受けるのです。イエスがこの世に遣わされたことが、世がイエスに敵対する結果をもたらし、今世にいるイエスへの敵対が、イエスの栄光へ転じて、その栄光が、結果として、この世に「裁き」をもたらすのです(16章8節)。だから「世」は、個々の人の罪性だけでなく、人の罪性が累積することで形成される「罪の組織体」を指します。この「罪のピラミッド」の頂点に位置するのが、往々にして宗教的・政治的な権力者たちであり、闇の組織の背後に潜んで「世」を操る「悪魔」であり「この世の支配者」(12章31節)です。執り成しは、このような世にあってイエスを証しする弟子たちのためです。ここでの祈りに「世」は含まれません。なぜなら、この状況においては、イエスの祈りは、敵対する世が、世で「なくなる」ことだからです。
【与えてくださった人々】6節後半に「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださった」とあるのと同じことをここ9節では逆の順序で言っています。父がイエスに「与えてくださった人たち」とは、十二弟子だけでなく、ヨハネ共同体もそうであり、それ以後にイエスを信じるすべての人たちをも含みます。彼らは、地上にあって父を証ししたナザレのイエスに自分の霊的な存在の根拠を見出す者たちです。イエスを信じる者だけが「わたしの者」になるのです。「わたしの者」とは、イエスを通して顕された父の愛をこの世にあって証しする者のことです。人はこのような者にされる時、初めて「わたしの者」に「なる」のです。イエス・キリストの教会は、このようにして初めて真のエクレシア(教会)に「なる」のです。
[10]【わたしのものはすべて】9節では「わたしに与えてくださった<人々>(男性複数形)」"those whom you gave me"とありますが、ここ10節では「わたしの<もの>すべて(中性複数形)」"all (that is )mine" になっています。おそらく、人間だけでなく、広く「被造物」全体を指しているからでしょう。「イエスに属するもの」とは、神から出たすべての被造物です。神から出た被造物すべてが、神のロゴスであるイエスによって生じたからです(1章3節)。ここでは、明らかに前節の内容が拡大されていますから、「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」は、後からの挿入でしょう。しかし、この挿入が示唆するのは、被造物全体が、イエス・キリストにある創造によって生起したことであり、人間を含む被造物は、そういうものとして、イエスに属する物/者に「なる」のか、それとも世に支配されるものに「なる」のか、これが問われることです。
【栄光を受けた】「わたしは彼らによって(栄光を受けた)」とありますが、もしも、直前の前半部が挿入でないとすれば、「彼らよって」ではなく「それらによって」となり、人間だけでなく、被造物全体のことになります。しかし、ここは、9節の「彼らはあなたのもの」とあるのを受けていると見るほうがいいでしょう。「彼ら」とは、イエスに従う弟子たちのことですから、その「彼らにあって」イエスが栄光を受けるという意味です(14章13節参照)。ここでも、「彼ら」は、使徒たちだけでなく、以後のヨハネ共同体を含む「イエスを信じる人たち」全体のことです。なお「彼らによって」ではなく「彼らにあって」と訳すほうがより適切でしょう。イエスを信じる者たちにおいて、神のロゴスにある新たな創造が始まるのですから、「彼らにあって」は、神の業が働く「創造の場」のことです。イエスの受難が、「彼らにあって」イエスの霊性が働く場をもたらすからです。この出来事によって、イエスが、彼らの内に「栄光化されて」(原語は「栄化する」の受動態完了形)顕れること、これがすでに始まっているのです。
■17章11~13節
わたしは、もはや世にいませんが
彼らは世にいます。
わたしはみもとに参ります。
聖なる父よ、わたしにお与えになった御名によって
彼らをお守りください。
わたしたちのように、彼らも一つとなるために。
彼らと共にいた間、わたしは彼らを守りました
あなたがお与えくださった御名によって。
わたしが見守ったので、彼らはだれも滅びることなく、
滅びの子だけが滅びました。
これは聖書が実現するためです。
それゆえ今、わたしはみもとに参ります。
世にいる間に、これらのことを語るのは、
わたしにある喜びが彼らのうちにも溢れるためです。
 
[11]この節の前半(私訳のはじめの3行)では、「そして」(原語で「カイ」)が文頭に繰り返されています。この意味合いを把握するのは難しいのですが、あえて訳すとすれば次のようになるでしょうか。
<この>わたしは、もはや世にはいません。
<しかし>彼らは世にいます。
<だからこそ>わたしはみもとに参ります。
 「このわたし」と訳したのは、ここで言われているのが、イエスの身体的な存在よりもイエスの臨在それ自体を指しているからです。読みようによっては、イエスの臨在を顕す「わたしはある=エゴー・エイミ」が、たとえ一時的にせよこの世からなくなる、という意味にとれなくもありません。英語で言えば、" And now 'I AM' is no longer in the world." です。この点を意識したからでしょうか、ある異読では「わたしはもはやこの世にいません。<それでもわたしはこの世にいます>」" yet I am in the world" という挿入がなされています。この異読は、13節に「今、わたしはみもとに参ります」とあるので、「<それまでは>イエスはこの世にいる」ことを言うための補足だと説明されていますが、そうではなく、異読の補足は、ここに「エゴー・エイミが存在しなくなる」恐れを読み取ったからだと思われます(だからこの読みは原文ではありません)。イエスの身体的な存在が亡くなった後でも、弟子たちはこの世にいます。彼らが「世にいる」のは、イエスが「世にいる」ことで顕されてきた「エゴー・エイミ」が、今度は「彼らにある」エゴー・エイミに「なる」ためです。イエスが今、父のみもとへ<来る>のは、このためです。イエスが父のもとへ「来る=行く」ことによって初めて、地上にいる弟子たちにも「エゴー・エイミ」が実現するからです。
【みもとに参ります】「参ります」と訳した原語は「来る/到着する」です。これまでイエスは、父のもとへ「行く」「立ち去る」「赴く」と言っていましたが(14章3節/16章5節)、ここでは、父のもとへ「来る」のです。「来る」のは父に呼ばれているからです(英語の"I'm coming."〔今行きます〕 の用法に近い)。イエスは、祈りの中で、すでに父に近づきつつあるのです。
【聖なる父よ】「父よ」(17章1節/5節)が、ここで「聖なる父よ」に変わり、25節では「正しい父よ」になります。神を「父」と呼ぶのはイエス独特ですが、「聖なる父」も新約聖書ではここだけです。『十二使徒の教訓/ディダケー』の聖餐の感謝の祈りに、「聖なる父よ、あなたがわたしたちの心の中にお住まわせになったあなたの聖なる名と、あなたが僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた知識と信仰と不死とについて、あなたに感謝します」(10章)〔小高毅訳〕とあります。この言い方は、神を「イスラエルの聖なる方」「至聖なる主」(第二マカバイ14章36節)と呼ぶ伝統から来ているもので(イザヤ6章3節参照)、ヨハネ福音書もこれに倣(なら)っているのでしょう。ここは「御名が聖なるものとされますように」(マタイ6章9節)とある主の祈りを思わせます。なお、「聖なる者(たち)」は、キリストを信じる「聖徒(たち)」のことです。
【御名によって守る】イエスはここで「父の聖なる御名」によって/あって、弟子たちを守ってくださるよう祈り求めています。「あなたたちは自分自身を聖別して聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」(レビ記11章44節)とあるように、旧約聖書は、食物規定や倫理的な規定によって、イスラエルの民が周辺の異教の民から「身を守る」ように教えてきました。この意味での「身を守る」は、「安全に保護される」ことだけでなく、「この世」の悪しき影響から「護られる」ことであり、新約聖書では、これが聖なる者にふさわしい生活を「守る」ことだとされています(第一ペトロ1章16節)。しかし、ヨハネ福音書では、これよりも積極的に、父なる神との交わりにあって身を「聖別して」捧げることで父と一つになり、「聖なる者」となるように求められているのです(マタイ5章48節参照)。なお、ここの関係代名詞の先行詞を「御名」ではなく「彼ら」とする異読があり、これだと「あなたが与えてくださった<彼らを>御名によって守ってください」となります("protect those whom you  have given me"〔NRSV〕欄外の読み?)。これは17章6節や18章9節に影響された後からの読み替えだと思われます〔聖書テキスト批評〕。
【一つとなる】「一つ」は中性単数ですが、ここでは、父とイエスがその人格的(ペルソナ的)な交わりにおいて「ひとつ」にされることです。これは「一体となる」「団結する」ことではなく、むしろ、愛の交わりにおいて「一致する」こと、一つに結び合わされることです(第一コリント12章4~11節/エフェソ4章3節)。単一的な「団結」"oneness" ではなく、相互理解に基づく「一致」"unity"のことです。
[12]【守りました】原語の「テーロー」は、掟や戒めを「守る」こと、あるいは人・物を「保持する」こと、人を「監視する」ことです。これに続く「保護する」の原語は「フュラッソー」で、これは「寝ずの番をする」「見張る」「見守る」ことです。軍事的な意味でなら、「テーロー」よりも「フュラッソー」のほうが強い意味ですが、ここの「守る/保護する」は「注意深く目配りする」ことでしょう。七十人訳の知恵の書には、この二つのギリシア語の動詞が組み合わされていて、アブラハムがイサクを捧げた時の様子を「諸国の民が一致して悪事を謀り、混乱した時、知恵は一人の人に<目を留めて>(フュラッソー)、神の前にとがのないように<守り>(テーロー)、わが子への情に打ち勝つ力を与えた」とあります。ヨハネ共同体は知恵の書をよく知っていたと考えられますから、ここには知恵の書が反映しているのかもしれません。
【保護したので】原文は「わたしは~守りました~そして保護しました、そして彼らの中でだれも~」となっていますから、「保護しました」を前の「守りました」に続けるのか、あるいは後に続けるのかで、ふたとおりの読みがあります。「あなたが与えてくださった御名によって彼らを<守り保護しました>」〔岩波訳〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔REB〕。「わたしが<保護したので>、彼らの中でだれも滅びませんでした」〔新共同訳〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕〔NRSV〕〔私訳〕。
【滅びることなく】新約聖書で「滅びる」とは、終末において最終的に裁かれて「断罪され地獄に堕ちる」ことです(マタイ7章13節/フィリピ1章28節/ヨハネ黙示録17章8節)。だから、ここでの「滅びない」は、父からイエスに授けられた御名によって、弟子たちが最後まで保たれるという意味です(6章39節/10章28節/13章1節)。
【滅びの子】旧約聖書では「滅び」は、生ける神から切り離されて陰府で「消滅する」ことです。ただし「滅びの子」は、七十人訳のイザヤ書に「お前たちは滅びの子たち、不法の子孫ではないか?」(イザヤ57章4節)〔私訳〕とでてくるだけです。新約では、第二テサロニケ2章3節に「まず初めに背教が起こり、不法の者(単数)、すなわち滅びの子(単数)が顕れる」があります。これは終末のことではなく、終末とキリストの再臨に先立って、「不法な者/滅びの子」(単数)すなわちサタンが顕れて、彼によって人々の間にキリストへの背教、あるいは神への反逆が起きることを指します。しかし、ヨハネ福音書では、「滅びの子」は、イエスの受難の直前にユダの姿となって顕れます(13章27節/6章70~71節参照)。しかも、この「滅びの子」は、今度は異端に姿を変えて第一ヨハネの手紙に「反キリスト」としてでてきます(第一ヨハネ2章18~19節)。
【聖書が実現する】13章18~19節を参照(そこは詩編41篇10節を反映)。「聖書が実現する」は、直前の「滅びの子だけが滅んだ」とあるのを指すのでしょう。だから「滅びの子」として予め定められていたユダ以外は、だれ一人滅びにいたることがなく、イエスの御名によって保護され維持され続けてきたのです。ユダ以外の11人の弟子たちが保護されてきたその一方で、「世」と「滅びの子」とは、<すでに>その姿を顕したのです。イエスの執り成しは、このように「世」と「滅びの子」の正体をも暴いて、その本性を明らかにします。
 ただし、だれが滅びの子であり、だれがイエスの執り成しによって守られるのか?という疑問が残ります。イエス以外には、弟子たちの中でユダの裏切りにだれ一人気がつきませんでした(13章28節)。いったいだれが「滅びの子」に属するのか、あるいは属さないのか? これは、使徒たちにも分からなかったのです。だから、使徒以後のヨハネ共同体においても、現在のわたしたちにおいても、毒麦と真正な麦との区別と同様に、外からの目には明らかでないのです。
 ただ一つ確かなのは、滅びに定められ<なかった>弟子たちは、彼らに具わる特質や才能や努力によって滅びを免れたのではなく、ただ「イエスの御名」によって「守られ保護されていた」からにほかならないことです。言い換えるなら、弟子たちは、イエスが彼らと共にいてくださるという臨在それ自体によって保護されてきたのです。弟子たちは、イエスに働く父なる神からの霊性によって、彼らのあらゆる無知や欠陥や罪性にもかかわらず、保護され保持されていたこと、このことが、今祈るイエスの「執り成し」によって示されるのです。
[13]【今みもとに参ります】原義は「あなたのところへ来る」(現在形)です。文頭の「しかし」〔新共同訳〕という訳は必ずしも適切でありません。12節で語られている執り成しの意味からすれば、「だから」のほうがより適切です。ナザレのイエスに賜わった父からの御名だけが執り成しの根拠ですから、この御名が、イエスの在世以後においても、変わることなく弟子たちと共にあること、イエスを信じるすべての人たちとも共にあって御名の働きが顕れること、これによって、イエスを信じる者たちが「一人も滅びることなく」保護され見守られること、まさにこのために、今イエスは「あなたのもとへ来る」のです。だから、イエスの執り成しは、歴史のイエスと共にいた弟子たちの場合でも、およそ60年ほど後のヨハネ共同体の場合でも、現在のわたしたちの場合でも少しも変わりません。「執り成し」は、父から御名を与えられたナザレのイエスの臨在そのものの働きであり、人が滅びを免れるのは、ひとえにこのイエスの執り成しのお陰なのです。
【喜びがあふれる】ここの「喜び」は、現在ではまだ十分ではないけれども、終末が来た時に初めて成就されるという解釈もありますが、これでは喜びとは言えません。「今は」不十分でも、やがて「満たされる」と言うのなら、それは喜びへの期待ではあっても、喜びそれ自体ではないからです。ルネサンスの時代に「信仰は過去のイエス・キリストの十字架の業から」「愛は現在の業」「希望は未来へ向かう」と言われました。「喜び」と「愛」は、現在働いていなければ、それは「期待」であり「祈願」ではあっても、喜びそのもの、愛そのものでは<ない>のです。わたしたちは、ここで初めて、イエスの祈り、「今みもとに来ます!」の意味が分かります。この執り成しの祈りによって、先に別れの説話で約束されていたことが成就するからです(16章22~24節)。
■17章14~16節
わたしは彼らに御言葉を与えました。
しかも世は彼らを憎んだのです。
彼らが世からのものでないからです
わたしが世からのものでないのと同じように。
わたしが祈り求めるのは、彼らを世から取り去ることではなく、
あなたが彼らを悪い者から守ってくださることです。
彼らは世から出ている者ではありません。
わたしが世から出た者でないからです。
 
[14]【御言葉を伝えた】「御言葉」の原語は単数の「ロゴス」です。ここでは「わたし」が強調されていますから、イエスこそ、世界の創造に与った「ロゴス」その方であり(1章1節)、このみ言(ことば)が弟子たちに与えられたという意味です。世界は神が創造した被造物であり、したがって「世」は神の被造物です。創造主が、ご自分の「ロゴス」を人の姿として「世」に与えた時に初めて、人は自分が造られたもの、「被造物」にすぎないことを悟るのです。なお、御言葉を「与えた」は完了形で、その出来事が今もなお継続していることです。続く世は「憎んだ」はアオリスト形(過去)で、イエスの受難の時を指しています。これに続く「(弟子たちは世から)出ているのではない」は現在形で、今もその事情が変わらないことです。
【世は彼らを憎む】先に述べたように「世」とは、世界像や宇宙像のことではなく、「罪深い人の世」のことです。神のロゴスが「世」に顕れることで、新たな創造が始まります。創造の働きは、光が闇の中に差し込むように、世の闇を暴きます。人間が神のみ言に出逢うと、自分自身の起源を悟らしめられ、己が造られた「塵に等しい」存在であることを知らされ、根底から揺さぶられるのを避けられません。「憎む」とは、このような自己の無価値性を「認めない」ことであり、そのように働きかける御言葉を拒否することです。「世」は、自分が造られた存在であることを受け入れることができません。だから、神からの働きかけに直面しても、自分が神と対等であるかのように振るまい、神を自らの判断であしらい、自分の無価値を認めず、神の啓示に逆らって、自己の存在価値を神に向かって誇示し、自力で己を意義づけようとするのです。これが、神のロゴスに出逢った人間が、その罪を暴かれそうになる時にすることです。だから、神を「憎む」とは、神の前でなおも「自立しようと」することであり、与えられた御言葉を「自己判断」によって処理しようとすることです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。これの反対は、自己の思い計らいを離れて無心になることです。
【わたしが世に属していないように】「属する」の原文は「~から出ている」です。この句〔私訳の4行目〕が抜けている異読があります。この句は後出の16節の終わりの句と重なりますから、これを省いた異読は、おそらくこの句が、16節に倣って後から加えられたと判断したのでしょう。
[15]【世から取り去る】ここでは、イエスの祈りが、弟子たちをこの世から「取り去る」ように求めて<いない>ことが注目されます。これが、ヨハネ福音書において特に注目されるのはそれなりの理由があります。新約聖書では、終末のキリストの再臨において初めて、人は悪から最終的に解放されます。ところが、ヨハネ福音書の場合は、現在の時点において、<すでに救いが実現している>ことが強調されている、こう一般に考えられているからです。しかし、もしも、いわゆる「実現した終末」観が、共観福音書にある世の終わりの終末を「先取り」している、あるいは、これを矮小化していると見るのであれば、そのような評価は適切でないばかりか、皮相な判断に基づくもので、誤解を招きます。
 ここ15節でイエスは、弟子たちが悪の世から取り去られることを祈り求めて<いない>とはっきり語っています。イエスの祈りは、弟子たちがこの世から遠ざかり、この世を離れることではなく、逆にこの世のまっただ中にあって、「悪/悪魔」の迫害から守られることなのです。なぜでしょうか? 父がイエスをこの世に遣わしたまさにそのように、イエスは父の御名によって、弟子たちをこの世に遣わそうと祈り求めるからです。すでに見てきたように、弟子たちがイエスとその父を世に向かって証しすることは、これを拒否する世にとって裁きをもたらす結果になります。「この世」とイエスとは、互いに相容れることができない二元的な関係にあるという見方がここから生じることになります。にもかかわらず、イエスが弟子たちを「世」から遠ざけようとはせず、逆にこの世の悪の力から守られるように祈るのは、弟子たちがどこまでもこの世にとどまることでイエスとその父からの栄光を証しすることを止めないためです。これは、イエスとこの世との二元性を克服しようとする挑戦にほかなりません。この15節では、まさに「このこと」が証しされているのです。
 ヨハネ福音書の解釈で特に注目されるのは、この福音書の「裁きと救い」に関する考察です。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(3章18節)には、終末的な啓示者である贖い主がすでに到来していることがはっきりと表明されています。「実現した終末」をもたらす神の独り子への信仰か不信仰かによって、裁きが「今ここで」生じるのです。ところが、神の意志は、この世が裁かれることでは<ない>と言うのです(3章17節)。しかも、御子を信じることを拒否する者たちは「裁き」に出逢うのです。神の終末的な愛と贖いの裏には、このように暗い裁きがあります。こういう謎の中を福音書の記者は手探りしながら進むのです。
 神が正しい者に報いを、悪い者に罰を与えることは、ヨハネ福音書以前のキリスト教ですでに言われていることです(ローマ2章6~10節/第二コリント5章10節/ローマ14章10節)。しかし、ヨハネ福音書の世界では、信じない者たちが、終末的な最後の裁きに「すでに出逢っている」ところに問題があります。こうして、「不信仰即自己断罪」が生じることになりますが、それは、彼らが神の御子への信仰を「拒否する間に限られて」います。3章18節を注意深く読むと、先ず、信じる者は終末の裁きに逢わないとあり、これに続いて「不信仰即自己断罪」が来ますから、救いの扉は、閉じられていないことが分かります。だから不信仰な群衆に向けて、暗闇に追いつかれないように「光のあるうちに光を信じなさい」という語りかけが向けられるのです(12章36節)。このように見るならば、ヨハネ福音書では、「裁き」そのものもまた使信(ケリュグマ)であると言えましょう。
 しかも、この裁きの使信は、未来をも排除しません。なぜなら、不信仰への拒否は、その人への裁きを確定させますが、その拒否に対する啓示者(イエス)の言葉は、その者を「終わりの日に」裁くとあります(12章48節など)。この句からは、ヨハネ福音書の終末観に潜む重要な意図を読み取ることができます。それは、現在生じている不信仰者への裁きが、彼をいっそう頑なにする可能性があると同時に、このような裁きを阻止する可能性を神から奪うことをも<しない>からです。ヨハネ福音書の裁きと終末を結ぶ基本的な関係がこの点にあります。したがって、「終わりの日に」は、ヨハネ福音書の「終末的な裁き」の根底に関わる言葉です。この言葉は、神が全世界に向けて、神による「裁きの働き」を完成させる時が訪れることを妨げないためです。「神の怒り」(3章36節)とは、単に絶望的な宿命を告げる言葉ではないからです。ヨハネ福音書の「裁き」は、人間の命と救いが、人間の判断や力を超えた神の力と権限に完全に従属していることを告げるのです。このようにして、ヨハネ福音書の「終末」は、人が、単純な「最後の審判」思想に陥るのを防ぐのです。
【悪から守る】「悪」の原語は、「悪しき者」(単数)とも訳すことができます。「悪しき者」とは「この世」に働く悪魔/サタンのことです。どちらでも内容的にそれほど変わりがないと思われますが、ここでは、人格化された「悪しき者」のほうが適切でしょう(第一ヨハネ2章13節後半参照)。「悪しき者/悪から守る」は、主の祈りを思い出させます(マタイ6章13節)。ただしマタイ福音書の主の祈りは、今の時から終末にいたるまでの全体を視野に入れていますが、ヨハネ福音書では、強調点がやや異なっていて、弟子たちが「今この世にいる間」のほうに祈りが向けられています。「今この世にいる間」に焦点が合わされている点で、ここは、ヨハネ黙示録3章10~12節と比較することができましょう。
 ヨハネ黙示録では、フィラデルフィアの教会が「今の時の苦難」に耐え忍んで来たとあります。このゆえに「全世界に来ようとする試練の時」にも教会が守られるという約束が与えられるのです。ただしこの「試練の時」は、まだ世界の最終的な出来事ではありません〔J.B. Caird. The Revelation of St John The Divine. Black's New Testament Commentaries. Hendrickson (1966).54.〕。だからこそ、「わたし(イエス)はすぐに来る」と約束されているのです。終末は「イエスが来る時」(ヨハネ黙示録3章11節)だからです。「イエスの新しい神の神殿」(同12節)が降る時だからです。そうであれば、教会が「今の時に」この世で苦難に耐え忍んでいるまさにそのことが、彼らが「来るべき苦難」においても保護されることの証しであり、「すぐに来る」は、その見守りが終末の時まで持続することを約束するものです。ここでも、ヨハネ福音書と同様に、彼らが「イエスの神の御名」(黙示録3章12節)と共にあることが彼らへの見守りの根拠です。だからここでは、教会が、苦難から免れることではなく、苦難に耐える支えが与えられることが、約束されているのです〔G.K. Beale. The Book of Revelation. The New International Greek Testament Commentary. Eerdmans (1999).293 〕。しかもその見守りが、終末の時まで継続することが約束されているのです。
[16]この節は、14節の後半と同じであるため、複数の異読で省かれています。ただし、並行するからと言って同じ「繰り返し」とは限りません。この節は、次の17節へつながる大事な根拠になっています。ところで、14節と16節は、ヨハネ福音書の二元論(イエス対この世)を表わす典型的な例とされていますが、15節の注釈で述べたように、ヨハネ福音書の二元性は、この福音書の世界が、神中心の一元的な世界へ向かうための重要な過程を秘めています〔この問題については、ヨハネ福音書補遺→「ヨハネ福音書の解釈とその二元性」を参照してください〕。
■17章17~19節
彼らを真理にあってきよめてください。
あなたの御言葉こそ真理です。
わたしを世にお遣わしになったように、
わたしも彼らを世に遣わしました。
彼らのために、わたしは自分自身を聖別します。
彼らも真理によって聖別された者になるためです。?
 
[17]16節では、イエスがこの世に属していないのと同じく、弟子たちもこの世に属していないとあって、「イエス(と弟子たち)」対「この世」が、二元論的に対立し合っているように見られがちです。17節はこれを受けていますが、このような二元性は、実はこの世の側から見える皮相にすぎないのであって、二元性は、すでに父のみ手の中で一つに掌握されているのです。17節~19節ではこのことが語られます。
【聖なる者】「(弟子たちを)聖なる者たちとする」は、彼らが父へ結びつけられることです。「聖なるものとする」は、父なる神のものとして「聖別する」ことで、イエス自身がこの意味で「聖なる者」です(10章36節)。イエスは、弟子たちも父のものへ聖別されるよう祈るのです。だから、ここは、19節の「彼らも真理によって聖別された者になる」〔私訳〕ことへつながるのが分かります。「聖別する」は、古代イスラエルの伝統から来ていて、そこでは神の祭司を「聖別する」ことです(出エジプト28章41節)。イエスが先ず大祭司として「聖別」され(17章19節)、これによって弟子たちが祭司として聖別されるのです。
【真理によって】これを副詞と見て「本当に/真実に(聖別する)」と解釈することもできます。しかし、ここは名詞として「真理にあって」と訳すほうがいいでしょう。「真理」は、この場合、イエス自身を指します(1章14節/8章31節)。
【御言葉は真理】続いて「真理」であるイエスこそが、父から遣わされた「御言葉」であり、神の「ロゴス」(み言)であることが示されます。「真理」はイエスのことですから、これは「父がイエスにあって語った」御言葉のことです。「御言葉」には、イエスの言葉だけでなく、彼が地上で行なった業全部が含まれます。だから「御言葉」はイエス自身です。この「御言葉」が、父の御名によって、地上の弟子たちに「働きかける」ことで、「遣わされた」弟子たちも、父と御子をこの世に証しすることを止めないのです(17章18節)。「御言葉は真理です」は、詩編119篇142節の「あなたの律法は真実/まことです」の七十人訳を反映していると言われています。ただし、この17節では、「律法」はイエス自身であり、その愛の戒めです。
[18]~[19]【彼らも遣わした】父がイエスを(この世へ)遣わし、イエスが弟子たちを遣わすという並行関係に注意してください。この関係は、イエスが父にあって生きるように、弟子たちもイエスにあって生きること(6章57節)、父がイエスを知り、イエスが弟子たちを知ること(10章15節)、父がイエスを愛するように、イエスが弟子たちを愛する(15章9節)とあるように、「生きる」と「知る」と「愛する」の三相において証しされてきました。これらの並行関係は、外に向かって「閉じられた」ヨハネ共同体の信仰を映し出していると解釈される傾向があります。ところが、この17章では、イエスの執り成しが父へ向かうのに伴って、このような「閉鎖性」がはっきりと打破されるのです。と言うよりも、そもそも初めからヨハネ福音書の信仰は、繰り返し打ち寄せる波のように外に向かって働きかけるものなのです(13章20節)。「遣わした」とアオリスト(過去)形なのは、ヨハネ共同体の視点から見て、イエス復活以後の十一弟子の派遣を指すからでしょう(20章21節)。イエスの派遣が完了すると同時に弟子たちの派遣が開始されるのです。派遣のこの並行関係は、さらに父とイエスが一つであるように、弟子たちも父子とひとつになること(17章22節)へつながり、その結果、「すべての人」が、イエスの贖いと執り成しに与ることが父の御心であることが明らかにされるのです(12章32~33節)。
【自分自身を】10章36節では父がイエスを聖別しますが、ここではイエスが「弟子たちのために」自分を聖別するのです。この「ために」は、イエスが、イスラエルの民の「ため」だけでなく、神の民がひとつになる「ため」に殺されることを示唆していますから(11章52節)、ここにマルコ10章45節の「多くの人のための」贖いの死を読み取る解釈もあります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ここの「ために」が、6章51~58節で語られる「イエスの肉と血」(聖餐の象徴)と関連するとすれば、ヨハネ福音書のイエスは、自分の聖別を大祭司の執り成しのサクラメントと見なしていることになります。
【真理によって】ここの「真理」には冠詞がありませんからで、17節よりは副詞的な用法に近く(英語の"in truth / indeed")、「真実に/本当に」聖別するという意味でしょう。
                   戻る