67章 遣わされた者たちへの祈り
17章9〜19節
■17章
9 「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」
■世にあって世から守られる
今回語られているイエス様の御言葉で、先ず注意したいのは、わたしたちがこの世にありながら、しかもこの世から「守られる」ようにイエス様が祈っておられることです。これは、わたしたちが「世にいながら世から守られる」という不思議な状態を指しています。ここで「世」とあるのは、現代の科学的な「世界」あるいは「宇宙」とは違います。日本語で言う「人の世」あるいは「世の中」の「世」のほうがむしろ近いでしょう。さらに「昭和の世」とか「平成の世」という時代を表わす「世」の意味もこれに含まれます。
では、「世界/宇宙」と「人の世」とは、どこが違うのかと言いますと、世界や宇宙は、ひとまずわたしたち人間と切り離して、ある程度客観的に外から観たり判断したりすることができます。ところが「人の世」はそうはいきません。この「世」には、自分も含まれているからです。自分をも含む人と人との関わり合い、これが人の世を作り出しています。経済学や政治学が、自然や宇宙を対象にする自然科学や物理学のように理論通りにいかないのは、政治(たとえば選挙)や経済(たとえば株価)が、その時々の人の思惑(おもわく)に左右されるからで、人間相互の関係の中では、予測不可能な事態が生じるのです。国家権力による戦争の場合も同じです。
政治や経済は、人間の行動と直接に関わっていますから、わたしたちにもそれなりの責任があります。だから「世の中」は、自然災害に比べると、より直接に自分の有り様として考えなければならなくなります。経済と個人が直接に関係する身近な例が、就職/失業問題でしょうか。政治や政治権力と個人が直接関係するのは、犯罪と刑罰です。ただし、これには、思想犯や確信犯など、個人の良心に従って国家権力に逆らったり、政治的な運動を行なう場合も含まれます。広く「世の中」のことではなく、もっと身近な自分の職場のこと、家庭のこと、さらに自分自身のことになりますと、問題はより切実で、ストレスや過労のために、精神的あるいは身体的な病気になるのは、これらが原因です。
■世の悪と「わたし」
ところが、信仰の立場から、言い換えると「霊的な」視点から観ますと、たとえ自分自身に関わる問題でも、世の人たちが見る私事とは少し違った様相を帯びてきます。自分自身の問題が、同時に、自分の周囲の人たちの問題となり、さらにそれが、世の中全体をも含む視野へと広がってくるからです。先に述べたように、宗教や信仰に関わる霊的な領域では、守ろうとする自分自身もまた、その「世の中」に属しています。「世」は、いわば自分の内部にあり、同時に自分の外部にもあるのです。ここでは、自分の主観的な領域が、客観的な外の世界とつながります。だから霊的な問題は、主観と客観という区別を超えた領域、言わば「主客一如」の領域において観たり考えたりしなければなりません。
経済にも、景気が「よい」「悪い」があるように、「世」は、その時々で、善悪様々な諸相を見せます。同じローマ帝国の「世の中」でも、パウロが言うローマ帝国は、クリスチャンが従うべき権威を有する「世」です(ローマ13章1〜4節)。ところが、ヨハネ黙示録13章1節〜6節のローマ帝国は、聖なる者たちを迫害する「獣」の姿で描かれていて、それは「第二の獣」が人々の額に刻む「666」の数字で表わされます(同15〜18節)。だから、17章15節で、「悪/悪い者から守られる」とあるのは、このような「悪い世」にあり「罪深い世」の領域にありながら、それも「自分の内と外の世」から、自分が守られることになります。しかも、「世」は、その時その場の「時の場」で善悪様々の諸相を呈するのです。自分自身もその一部であり、しかもそれが「時の場」で臨む迫害であり憎悪であるとすれば、いくら自分でもがいても、自己努力でそのような「悪」から自由になることはできません。もがいたり努力したりすること自体が、「世にある」自分をいっそう「この世」の深みへ引きずり込む結果をもたらすからです。
だから、イエス様は、「世にあって世から守られる」ことを弟子たちに「命じ」たりはしませんでした。そうではなく、彼らが悪しき者から守られるように「父に祈り求める」のです。「祈り求める」のは、世から来る罪悪を免れることが、わたしたち人間には不可能だからです。「世」は「人の世」であり、そこに自分も含まれるからです。イエス様がこの「わたし」を守ってくださらなければ、イエス様の御霊に生きようとする「わたし」を圧殺して押し殺そうとする力が、肉にあるわたしたちに働くのは避けられないからです。
■真理の御言葉
イエス様がここで祈り求めておられる神からの「力」は、どこから来るのでしょうか? それは「真理の御言葉」(17節)からです。ここで言う「真理」には、現代科学にも通じる「真理」の意味も、この世の「偽り」に対立する「真相/事実」の意味も含まれますが、むしろ、ここでの「真理」は、ヘブライの伝統的な意味で言う「信頼できる/真実で裏切らない」ことのほうがふさわしいでしょう。ここを「<あなたの>真理/真実」と読む異読があるのもこの意味を示唆します。だから、「真理の御言葉」とは「真実な」言葉のことであり、「真実な」は、いかなる場合でも信頼できること、わたしたちを時々刻々活かしている心臓の鼓動のように「常に働いて支えてくださる」ことです。
神様の御言葉それ自体は目に見えません。したがって、客観的に外から見ても存在しないように思われるかもしれません。しかし、御言葉は、「働く」ことによって、出来事となって外に現われます。御言葉それ自体は目に見えませんから、御言葉の働きが外に出来事として現われても、それが「御言葉が働いた」結果であることを「証明する」ことはできません。御言葉の働きであることが「分かる」のは、見る人の主観の領域に属するとも言えるからです。御言葉の「働き」は、明らかに外に現われる客観的な働きであり出来事です。しかし、それが御言葉の働きであることを「客観的に証明する」ことはできません。なぜなら、ここで生じている御言葉の働きは、主観でもなく客観でもない、その両方を含む世界、いわば主客の区別を超えた「主客一如」の領域において初めて意味を持つような仕方で働くからです。だから、神様の「真実/真理」を信じる人だけが、御言葉の働きが「分かる」のです。御言葉の働きを通して顕れる神様の真実に応える人格的な「誠実さ」を具えている人だけが、御言葉が「真理/真実」であることを悟るのです。人は、神様の御言葉が真理であり真実であることを「証(あか)しする」ことはできますが、「証明する」ことができないのはこのためです。したがって、御言葉が働く時には、これを見る人のほうが、その人の「神様を見る目」を試されることになります。
人がほんとうの意味で、全人格的に働くことをその人の「自由」と言います。ですから、真理の御言葉が働くことと人間の自由とはひとつです(8章32節)。御言葉が働くところには自由が存在するのです(8章32節/第二コリント3章17節)。この自由を妨げるものが「罪」であり、この世にある人は、この意味で「罪に縛られた存在」であり「罪の奴隷」(8章34節)です。
人は、神様の御言葉の働きかけによって初めて、体力や知力だけでなく、霊性を伴う全人格において個性を発揮することができるのです。普遍性と個人は、一見すると結びつかないように思われがちですが、イエス様は、生涯パレスチナ地方から外へ出たことがありませんでした。それなのに、イエス様の霊性には、人類全体を包む普遍性が具わっていたのです。このように、ほんとうに個性的な人は、実は最も普遍的な人です。
■聖別する方
今回、イエス様は「彼らのためにわたし自身を聖別します」と祈っておられます。「彼らのために」ご自分を聖別するのは、「彼らもまた真理によって聖別される」ためです(17章19節)。それは、父がイエス様を世にお遣わしになったちょうどそのように、彼らをも世にお遣わしになるためです(17章18節)。ヨハネ福音書のイエス様が、繰り返し「この世から離れて」父のもとへ行くと言われ、父にご自分を捧げると言われるのは、弟子たちが「この世に遣わされる」ためであるという逆説がここに表わされているのです。
「彼らは」どのようにして聖別されるのでしょうか? イエス様の名で父から遣わされる聖霊によってです(20章22〜23節)。パラクレートスの御臨在が、わたしたちを父へと聖別し、自分を神に捧げるように働いてくださるのです。聖別されたわたしたちは、この世で何をするのかと言えば、「世の罪を取り除くため」の罪の赦しを祈り求めるのです。「だれの罪でも、<あなたがたが>赦せば、その罪は赦される」(20章23節)からです。わたしたちは「この世」にいて、「この世」はわたしたちの内にありながらも、わたしたちが「この世から聖別される」ようイエス様が祈り求めておられるのは、このためです。わたしたちの内と外にある「この世」からわたしたちを守り、御子の御臨在へ導き入れるためです。これが、ここでの「聖別」の意味です。
18節では、その聖別が、ご自分がこの世に遣わされたのとちょうど同じように、「彼ら」もこの世に遣わされるためだとあります。イエス様は、荒れ野でサタンの誘惑に勝ち、この世に向かって御国の到来を伝え、み業によって「世に勝つ御臨在」(16章33節)を証しされました。今イエス様は、ご自分が成就なさったそのことが、弟子たちにも成就されるよう祈り求めておられます。「自分自身を聖別する」というイエス様のこの不思議な御言葉は、「彼ら」、すなわちわたしたちのためなのです。
イエス様が言われる「彼らのため」とは、主が最後の晩餐において、弟子たちのためにお与えになったイエス様のお体(パン)であり、「多くの人たちのために」(マルコ14章24節)流されるイエス様の血(ぶどう酒)へつながるものです。「聖別する」とは、神に向かって人々のために「犠牲として捧げられる」ことだからです(申命記15章19〜21節)〔ビーズリ=マレー『ヨハネ福音書』〕。
イエス様はここで、弟子たちがこの世から守られ、しかもこの世へ遣わされるために、御自身を神に「犠牲として」捧げられ、ご自分の「肉と血」を弟子たちにお与えになるのです(6章53〜56節)。この結果、弟子たちに授与されるイエス様の「真理の御霊」(「パラクレートス」16章13〜14節)にあって、彼らもわたしたちも、この世にあってこの世から守られ、この世へ遣わされるのです。この意味で、パラクレートスは、イエス様の執り成しの祈りの源からわたしたちに働いてくださるのです。
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