【注釈】
■16章25~28節
これらのことをあなたがたにたとえで語ってきた。
だが時が来ると、
もはやあなたがたにたとえで語ることをせず
父について、あからさまに告げるようになる。
その日には、
あなたがたはわたしの名によって願い求める。
だが、わたしは言うまい
あなたがたのためにわたしが父に請願すると。
父御自身があなたがたに親愛を抱いておられるのだから。
あなたがたが、わたしに親愛を抱いており
また、わたしが神から来たと信じたからである。
わたしは父のもとから出て、この世に来た。
再びこの世を去って、父のもとに行く。
 
 今回で別れの説話が終わります。ここでイエスが「これらのこと」を「たとえで」語ってきたと言うのは、直前の20~22節にある「産みの苦しみの女」のたとえを指すとも考えられます。イエスはここで、「たとえ」ではなく「あからさまに」語ると言い、さらに16章23節にあるように、弟子たちが「何も尋ねない」時が来ると言います。この段落は、直前の段落に続いていますが、同時に、これまでの別れの説話全体をも指していることが、次第に分かってきます。
[25]【たとえ】これの原語は、ギリシア語「パロイミア」の複数形で、「たとえ/比喩」あるいは「謎/神秘」を意味します。新約聖書でこの語は、ヨハネ福音書のこの段落(25節と29節)と「善い羊飼い」(10章6節)のところにでてきますが、それ以外では第二ペトロ2章22節に「諺」〔新共同訳〕としてでてくるだけです。共観福音書では、通常「パラボレー」"parable"が「比喩/譬(たとえ)」の意味で用いられますが、どちらのギリシア語もヘブライ語「マーシャール」の七十人訳から来ています。「マーシャール」は、諺、比喩、謎、神秘など広い意味を含みますが、ギリシア語の「パラボレー」は、様々な形の「比喩」や「類比」や「譬」を意味し、「パロイミア」のほうは、どちらかと言えば「謎」「神秘」として「隠されたこと」の意味に近いようです。しかし、両者の違いはそれほど厳密ではなく、シラ書47章17節では、「格言」(パロイミア)「たとえ」(パラボレー)〔新共同訳〕として、どちらもほぼ同じ意味で用いられています。
【はっきりと】原語「パレーシア」は、ほんらい名詞ですが、ここは与格で副詞的に用いられていて、「はっきりと」「明らかに」の意味です。「はっきりと」は、「たとえで/謎として」あるいは「隠された状態で」と対照される言い方です。だから、隠されたことが、はっきりと啓示されることで、ここでは、この言い方が、特に「尋ねる」ことと「答える」ことに関連して用いられています。
 11章11~14節で、イエスが「ラザロは眠っている」と告げると、弟子たちは、「眠っているのなら、回復するでしょう」と答えます。するとイエスは「ラザロは死んだ」と<はっきり>告げます。ラザロの一時の死の状態を「眠る」と「たとえ」で表わした言い方が、弟子たちに通じなかったために、イエスは、現実に起こった出来事を「たとえによらずに」告げたのです。ここでイエスは、ラザロが、霊的に観れば「ほんとうは」死んでしまったのでは<ない>と言おうとして「眠っている」と言ったのですが、このように、「霊的に観てほんとうのこと」でも、弟子たちには通じなかったのです。そこで、視覚的に見た現実を「死んだ」と言い換えたのです。
 また、10章24節では、ユダヤ人たちがイエスに「いつまでわたしたちの気をもませるのか。あなたがもしメシアなら<はっきり>そう言いなさい」と詰め寄ります。イエスは、彼を信じたサマリアの女には、自分がメシアであることを「はっきり」告げています(4章25~26節)。ところが10章では、イエスは、自分がメシアであると証しするのに、ユダヤ人たちはこれを信じようとしないのです。彼らには、イエスに宿る霊性のほんとうの意味が隠されているからです。イエスは、さらに続けて、もしもわたしの霊性を悟ることができないのなら、「わたしが父の名によって行なっている業」が「わたしがメシアであることを証ししている」と告げます。ここで、「メシアであると証しする」ことと、イエスが行なっている「業を見る」こととが、同じようでありながらも、違うこととして対照されているのに注意してください。「イエスの出来事」を見て、イエスがメシアであることを悟ることができないのであれば、イエスが「はっきり告げて」も彼らは悟ることも信じることもできないでしょう。ここでは、「イエスの出来事」が、彼らが見て悟るための「たとえ」として働いているのです。「たとえ」としての出来事を見て悟らない者に「はっきり告げて」も信じないのです。
 一般的には、ヘブライの「マーシャール」(たとえ)では、「たとえ」そのものと「たとえられている内容」自体との両方の関係が、類比や寓意や隠喩や直喩の形式にしたがって、きちんとつながっているとは言えません。イエスは、「天国は、よい真珠を探している<商人にたとえられる>」(マタイ13章45~46節)と言いますが、ここで「天国」にたとえられているのは、「商人」ではなく「真珠」のほうです。このように、二つのことをきちんと比喩の論理で結ぶ「たとえ」の形式ではなく、ある状況なり出来事をそのまま見る者に提示して、そこに「たとえを見いださせる」のが、ヘブライの「たとえ」であり「謎かけ」の特徴なのです。新共同訳はこの点を考慮して、「天国は次のようにたとえられる」とあって、続いて話の内容を紹介しています。
 このように見てくると、共観福音書で言う「たとえ」も、ヨハネ福音書で言う「たとえ/謎」も、その行き着くところは、福音書で語られている「イエスの出来事」それ自体を悟るための「問いかけ/謎/たとえ」として用いられていることが分かります。イエスの出来事それ自体が本質的に「たとえ」の構造を秘めていて、これを聞いたり、見たり、読んだりすることによって、「神の国」を悟り、そうすることでイエスに働く霊性を悟りイエスを信じる、というのが、福音書の語りの構造なのです。このことは、福音書の物語が、以後の教会において、現在にいたるまで、どのように読まれ、解釈され、メッセージとして語られてきているのかを見れば明らかでしょう。聖書で語られている出来事は、すべて、霊的に、なんらかの「たとえ」として解釈され語り継がれてきているのです。
 このように、「たとえ/比喩」とは霊性を表わす表現形式の一つです。ところが、今回のところでは、そのような間接的な「たとえによるのではなく」、イエスは「はっきりと」霊性の最も本質的な内実を明らかにしようとしています。だから、この場合、「はっきり」とは、神からの啓示を受けて、神に対してはっきりと「確信を持つ」(原文は「パレーシアを持つ」)状態を指します(第一ヨハネ3章21節)。だから「はっきり」は、イエスを通して啓示される出来事の霊的な本質が啓示されることです。
【父について】共観福音書では、「神の国」について語る時に、イエスはたとえを用いています。「たとえ」とは、見えないこと隠されていることを「見えない」「隠された」ままの状態で人々に語り聞かせて「悟らせる」方法です。だからイエスは、弟子たちだけには、隠されている神の国の「秘密/神秘」を明かします(マルコ4章10~12節)。これに対して、ヨハネ福音書のイエスは、自分と父について語る時に「たとえ」を用います。だから、今回の「たとえ」は、直前の「女の産みの苦しみ」だけを指しているのではなく、別れの説話全体を、と言うより、イエスのこれまでの教え全体を指していることが、ここに来て分かります。なぜなら、ヨハネ福音書では、「神の国の秘密とは、究極において、イエスというお方それ自身の秘密だからです」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
 ヨハネ福音書でも、マルコ福音書と同じように、イエスそれ自体の秘密/神秘は、最後まで弟子たちにも隠されています(14章9節)。これが弟子たちに明らかにされるのは、「その時が来る」時です。「その時」とは、イエスの復活と聖霊授与の時です。「その時」、とヨハネ福音書はわたしたちに告げます、イエスの全生涯の意味が啓示されると。イエスの生涯は、受肉の業に始まり、その業と出来事を通じて初めて、「父がどのような方か」が、わたしたちに啓示されたのです(1章14節/同18節)。だから、イエスはここで、弟子たちに「父について」はっきり語ると告げるのです(16章25節)。なお、「告げる」の原語は「告げ知らせる/宣べ伝える」(原語「アパンゲロー」)と「伝える/打ち明ける」(原語「アナンゲロー」)と、異読によってふたとおりの読み方があります。意味合いがやや異なりますが、内容的には変わりません。
[26]【その日には】「その日」とは先の23節の「あなたがたがは、もはやわたしに何も尋ねない」とある「その日」のことです。それはまた、「わたしが再びあなたがたと会う」(22節)時にもなります。これは、終末の時を指していると思われますが、先に述べたように「再びあなたがたと会う」時とは、イエスの復活の時でもあり、復活のイエスが聖霊の授与を通して弟子たちに啓示される時ともなります。ところが、聖霊が降ると弟子たちに「真理をことごとく悟らせ」ますから(16章13節)、「その日」は、弟子たちがイエスに向かって「だれもあなたにお尋ねする必要がないことが<今>分かりました」(30節)と言う「今」ともつながってくることになりましょう。
 このように、ヨハネ福音書では、「終末」が「今」と結びつく傾向があります。これがヨハネ福音書の「終末観の特長」だと言われていますが、そもそも終末は、この世にあっては、「今」をおいて、ほかのどこにも啓示されることがありえないのです。自然科学的な時間から見るなら、過去と未来とを現在から区別することができます。しかし、終末は、もしこれを時間的に見て、現在から切り離すなら、未来と区別がつかなくなるのです。終末は「未来」ではありません。なぜなら、「未来」は時間のうちに存在しえますが、終末は、時間が「なくなる」ことです。それは「時間の死」を意味します。人間にとって「時間の死」とは、自分が死ぬ時のことですから、終末とは、自分が「イエスにあって死ぬ」時です。この事態は、自分の「今」をおいては、ほかに体験することができないのです。
【わたしの名によって】「わたしの名によって父に願う」ことは、23~24節でも2度繰り返されており、14章13節でも語られています。なによりも、聖霊それ自体が「わたしの名によって」父から遣わされるのです(14章26節)。
【わたしが父に願う】26節前半の「わたしの名によって願う」は、23~24節を受けています。ところが、26節後半で、イエスは「弟子たちのために父に願う」ことをもはや<しない>と言うのです。節の前半の「願う」の原語は「アイトー」(求める)〔中動相未来形〕で、「願い求める」ことです。後半の原語は「エロートー」(尋ねる/請い願う)〔能動相未来形〕で、これは、イエスが父と弟子たちとの間にあって、「執り成しの祈り」を捧げることを意味します。だとすれば、26節の後半で、イエスは、弟子たちのために父にこのような祈りを捧げることを「しない」、と告げていることになります。26節の前半と後半とのこような「ねじれ」は、何を意味するのでしょう? 復活・昇天したイエス・キリストが、キリスト者のために、天の父に執り成しの祈りをささげている、という信仰は、共観福音書でもパウロ書簡でも一貫しています(ルカ22章31~32節/ローマ8章34節)。イエス・キリストは、この意味で、天における「永遠の大祭司」です(ヘブライ7章24~25節)。これはヨハネ系文書でも変わりません(第一ヨハネ2章1~2節)。なによりも、続く17章のイエスの祈りが執り成しを証ししています。だから、執り成しの大祭司としてのイエスが排除されているのでないことは確かです。しかしながら、少なくともここでは、父と弟子たち(わたしたちをも含めて!)との間を取り持つ「仲保者」としてのイエス・キリストが、その存在を強める代わりに弱めているように見えるのは間違いありません。
[27]【父御自身が】26節で述べた疑問への答えは、続く27節にあります。イエスの執り成しの祈りが一見して希薄になるように見えるのは、「父御自身が弟子たちに親愛を抱く」からです。ここでは、「父と弟子たち」とがひとつになのです。ただし、父と弟子たちとの間に、イエスが「いない」のではなく、ただ「見えない」のです。イエスは、父と弟子たちの交わりを形成する<パラクレートスそのもの>として働いているのです(第一ヨハネ2章1~2節)。したがって、ここでは、父と御子と御霊と弟子たちとの四位一体が生じています。イエスが弟子たちに「願い求めなさい」と言うのは、父が直接彼らの願いを聞き入れるからです。「栄光のキリストにあっては、祈りは彼のものではない。イエスは、教会の人たちと一緒に祈り、彼らを通じて祈る。キリスト教神秘思想は、ここで、その最も深いところに到達する」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕のです。
 イエスがこれまで弟子たちに語ってきた「たとえ」は姿を消して、もはやたとえでなく「はっきり」と語ります。「はっきり」とは、弟子たちがイエスを信じ、イエスの中でイエスと共に父に祈る時に、そこにはイエス自身の姿さえも消えて、彼らが父とひとつになる、という事態のことです。それは、「謎/たとえ」が解けて、すべてが明快になり、理解可能な形で解明される、ということでしょうか? 「わたしの名によって祈る」ことが「わたしが祈らない」ことだというイエスの言葉は、それ自体では理解可能とは言えません。では、なにが「はっきり」したのでしょうか? むしろ、「合理的な理解は決して適切な理解ではない」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕こと、そのことが、ここで明らかになるのです。
【愛する】27節では「(父が)愛する」に、ギリシア語の動詞「フィロー」が用いられています。ヨハネ福音書では、人間の愛情を表わす「フィロー」に対して、神からの愛は通常「アガポー」が用いられますが、この区別は必ずしも明確ではありません。例えば3章16節の「神はこの世を愛し」では「アガポー」ですが、11章4節で、姉妹たちがイエスに「あなたの愛しておられるラザロ」と伝えるところでは「フィロー」です。しかし、ここ27節の「フィロー」は、特に神自身の愛を指しますからやはり注目に値します。人の力を超えて上から注がれる「愛」(アガペー)よりも、人が神との深い交わりに入ることで父なる神の愛情をその心に実感するという意味で、この場合「親愛」(フィロス)のほうが適切なのでしょう。遠く隔絶している存在のようでありながら、人格的な交わりにおいて人ときわめて親(ちか)しい、というヘブライの神観の伝統的な特長が、このヨハネ福音書において一つの到達点に達するのです。
【わたしを愛し】27節の後半は、ここで語られている「父と人との交わり」が、イエスへの愛と信仰なしにはありえないこと、このような「親愛の交わり」は、イエスが「父のもとから来て」、受難と復活を経ることによって初めて啓(ひら)かれたこと、このことを改めて確認しています。なお「神のもとから」を「父のもとから」と読む異読もあります。おそらく続く28節の「父のもとへ」と一致させるための訂正でしょう。
[28]イエスが、「父のもとから来て、父のもとへ赴(おもむ)く」というこの句には、1章14節に始まり19章30にいたる、受肉と地上での歩みと贖いの受難と復活・昇天の全過程がまとめられています。父から「来た」〔アオリスト形〕ことと、父へ「赴いた」〔完了形〕ことは、ともに1回限りの出来事を指します。これらすべてが、パラクレートスである御霊の御臨在をもたらしてくれた「イエスの出来事」なのです。神の言葉(ロゴス)であるイエスが、父から出て父へ戻るこの出来事は、イザヤ書55章10~11節に美しい言葉で預言されています。
■16章29~33節
イエスの弟子たちは言う。
「見よ、今は、あからさまに語ってくださり
少しもたとえで、話されない。
今、わたしたちは知りました。
あなたは何もかも知っておられて
だれもお尋ねする必要がないことを。
これによって、わたしたちは信じます
あなたが神のもとから来られたのだと。」
イエスは彼らにお答えになった。
「今ようやく、信じるのか。
見よ、時が来る。いや、来ている。
あなたがたは、それぞれ散らされて、
わたしをひとり置き去りにするだろう。
だが、わたしはひとりではない。
父が、共にいてくださる。
これらのことをあなたがたに話したのは、
わたしにあって平安が与えられるためである。
この世にあっては、あなたがたに苦難がある。
だが、元気を出しなさい。
わたしは世に勝ったのだから。」
 
[29]~[30]ここからが、別れの説話の最終段落です。しかし、この最終段落は、弟子たちが今告げられたばかりの「たとえの要らない」霊性が、これから始まる「現実」との接点において、どのようにゆらぎ、どのようして保たれるのか、このことが予告されます。だから、この最終段落は、別れの説話を締めくくると同時に、次へ移行するための「要」(かなめ)になっています。29節の「たとえ」と「はっきりと/明白に」については、すでに述べました。弟子たちは、この段階で、イエスが伝えようとしていた霊性の本質を「知った」あるいは「とらえた」。そう「思った」のです。これは彼らの傲慢でしょうか〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕、それとも正しい判断でしょうか〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。まだ聖霊が十分に働いていない状態のもとで、このような霊的な知識に到達するのは、グノーシス的な異端に陥る危険をはらんでいるのでしょうか〔バレット『ヨハネ福音書』〕。これに答えるためには、30節で弟子たちが語っていることを聴き取る必要があります。
【尋ねる必要がない】ここで弟子たちは、「あなたがすべてを知っている」ことを「わたしたちは今知った」と答えています。これに続くのであれば、「だから、あなたはだれにも尋ねる必要がない」と来るはずです。ところが、弟子たちは、「だから、だれもあなたに尋ねる必要がない」と言うのです。一見すると、立場が逆のことを言っているように聞こえますが、これは、イエスが、「だれが何をイエスに尋ねたいと思っているのか」、そのことさえも「すべて知っている」からです。弟子たちは今、「このこと」が分かったのです。弟子たちのこの言葉は、聖霊こそまだ降っていませんが、聖霊の本体であるイエスの霊性それ自体が、ここでイエスの眼前にいる弟子たちに語っていることを示しています。啓示はすでに始まっているのです。と言うよりは、彼らがイエスと知り合ったその時からこの時まで、啓示はずっと、与えられてきていたこと、「そのこと」が弟子たちに今分かったのです。だからこそ、彼らは、「これによって」イエスがほんとうに神から出ていたことを信じると告白するのです。聖霊は、イエス自身の霊性を通してすでに働いていたからです。ここでの弟子たちの告白は、ある意味で、第一ヨハネ2章27節の告白を先取りしているとも言えましょう。ここで弟子たちは、霊的に観て、これまでとは違った段階にあって語っています。ただし、ここには、イエスと弟子たちとの受難前夜の状況を「すべて知っている」ヨハネ共同体の信仰告白も重ねられています。
【わたしたちは信じる】だから、ここでの弟子たちの信仰とその告白は、彼らの思い上がりではありません。彼らの言うことは正しいのです。しかし、それが「正しい」のは、彼らがイエスから聴いて「知った」からです。30節では、「あなたは何もかも知っておられる」ことと「これによって、わたしたちは信じる」こととが並行するのです。「知る」ことと「信じる」ことが、この上なく密接に、しかも緊張を帯びてつながるのです。ただ、ここで弟子たちが「知った」ことは、まだ完全に成就してはいません。受難と復活とこれに続く聖霊授与は、「これから」起こる出来事です。弟子たちは、これから起こる出来事の意義をイエスの霊性に感じて「知った」のです。だから弟子たちは「これ以上尋ねる必要がない」ままに沈黙するのです。彼らの信仰は、「彼らの」現在の状態についての信仰ではなく、これから起こるであろう出来事についての「イエスの」霊性にある信仰なのです。彼らが「今、わたしたちは知った」と言い、「信じる」と言う時、彼らの「今」は、イエスの霊性における「今」なのです。
 わたしたちは通常「知っている」ことは「信じる」必要がないと考えます。ところが、ここでは、「知っている」ことは「信じる」ことと切り離すことができないのです。なぜなら、これから起こる出来事をも現在をも含め「すべてを知っている」神から出たイエスを「知る」ことによって、イエスの霊性を「信じる」ようになり、これによって初めて、イエスの「現在」に宿る霊性が、「自分たちの」現在になるからです。ここでは、神の「今」と「これから」を「知る」ことと、神を「信じる」ことが、ひとつです。このようにして、神の「今」と「これから」が、「今」の自分たちにおいて霊的に現在化するのです。このように、イエスの霊性とは、「今すでに」と「まだこれから」との間にあって、わたしたちの現在を突き動かし、現在から未来を創り出す力となって働くのです。
[31]~[32]【今ようやく】通常ここは、弟子たちにはまだ聖霊が降っていなかったために、彼らの信仰は不完全なままであった。だから、イエスは、彼らが間もなく「散らされる」ことを預言していると解釈されています。この解釈に立って、ここの「今」を「今ようやく」ではなく、「今だけは(信じている)」の意味にとる説があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「今、信じているのか」〔岩波訳〕。「いま信ずるというのか」〔塚本訳〕。弟子たちがいまだ聖霊授与の前であることを作者が意識しているという見方はそのとおりでしょう。しかし、ここでのイエスの答えが、そのことを意識して、彼らの信仰が不十分であることを指摘していると読むのは適切でないでしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「今になってようやく、あなたたちは信じるようになったのか」が正しい読み方だと思います〔新共同訳〕。「あなたがたは今やっと信じるようになったのか。しかしわたしは預言する~」というのが、ヨハネ福音書の真の意図でしょう。ここにはヨハネ福音書独特の「皮肉」もこめられています。
 ここで言われているのは、今の弟子たちの信仰が、御霊を受けていない「まだ」不完全な状態にあるのだから、うぬぼれてはいけない、ということではないでしょう。弟子たちは、イエスの霊性に感じて目が啓かれ、やっと心から信じることができる状態に達したのです。しかし、そのイエスが、彼らの目の前から「去っていく」という出来事がもうすぐ起こること、「その時」が「すでに来ている」ことをイエスは言おうとしているのです。なるほど聖霊は「まだ」彼らに降ってはいません。しかし、「今」彼らは、イエスを直に見て、イエスの霊性に直接触れているのです! このことを福音書の著者が意識していないと考えることはできません。弟子たちがイエスの霊性に直接触れて、目が啓かれたこと、まさにこのことが、イエスの復活によって「再現する」ことになるからです。しかも、その時には、イエスの霊性は、今の弟子たちの時よりも「もっと大きな」働きをするのです(14章12節)。「その時」には、見えないイエスの御霊の臨在が、弟子たちのうちに働きかけるのです。
 しかし、たとえ復活以後の聖霊降臨の「後で」あっても、イエスとの別れの間際にある今のこの弟子たちと、後の彼らの信仰と、どこが異なるのでしょうか? 弟子たちは「今」、イエスの霊性に感じてイエスを信じ、「そこに」自分たちの現在を見いだしています。聖霊降臨の後であっても、この事情は本質的に変わらないのではないでしょうか? 弟子たちがイエスとの再会の約束を信じて、過去のイエスとの体験と未来のイエスからの約束の間に立って、現在の自分たちの信仰に生きているというこの状態は、過去においてのイエスの十字架と復活を信じ、終末のイエスの再臨を望みながら今に生きるわたしたちと、いったいどこが異なるのでしょうか? まさに「このこと」をここでのイエスの「答え」が問いかけているのではないでしょうか? ここには「すでに」と「いまだ」との間にある「キリスト者の信仰」が、はっきりと言い表わされていて、ヨハネ福音書の視点もこの点に置かれていると思います。
【散らされて】この言葉は、狼が羊たちを追い散らす状態をイメージしていて(10章12節)、ゼカリヤ書の預言に基づいています(ゼカリヤ13章7節)。この預言は共観福音書にも受け継がれていて(マルコ14章27節/マタイ26章31節)、ヨハネ福音書にもそのまま受け継がれています。ただし、共観福音書では、この預言にゲツセマネでのイエスの逮捕が続いていて、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14章50節)とあります。ところが、ヨハネ福音書には、ゲツセマネの場面も、弟子たちが「散らされた」という記事もありません。ただ、21章1~4節には、ガリラヤ湖畔で復活のイエスと再会するまでの間、弟子たちが「それぞれに散らされて」〔原文直訳〕いたことが示唆されているだけです。
【ひとりではない】「わたしひとりを置き去りにして」弟子たちは散らされるとありますが、実際には、十字架の場に、イエスの母と、ほかに3人の女性がおり、「イエスが愛した弟子」もその場にいたとあります(19章25~27節)。しかしここは、そのような外見的なことではなく、イエスが霊的に孤立した状態を指しているのでしょう。マルコ福音書には、十字架上のイエスの言葉として「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)という叫びが記録されています。これは詩編22篇2節から出たイエス自身の叫びです。詩編の「わたし」は、個人としての「自分」だけを指すものではありませんが、今はこの点に触れません。この叫びと、ここ32節でイエスが言うこととは、一見矛盾しているようにも見えます。このために、十字架上のイエスの叫びは、イエスが「神に見捨てられた」ことだと誤解されるのを防ぐために、ヨハネ福音書の作者が、ここでわざわざ「ひとりではない」とイエスに言わせている、という文献批評からの見方もあります。
 イエスが十字架上で詩編の22篇2節を叫んだのは、それがイエス自身の霊性を預言していたからです。ただし、この場合、2節だけがイエスへの預言だと考えるのは誤りです。イエスにとって22篇全体が自分の霊性への預言だったからです。一般的に「引用」とは、引用されたその箇所だけが関係するのではなく、これを引用した人にとっては、その引用箇所を含む作品全体が、その人の心にあると考えてください。例えば、キリスト者である詩人のミルトンが、古代ローマの詩人ウェルギリウスの作品『アエネーイス』の1節を引用した場合、ミルトンは、その1節の背後に異教の偉大な詩人の存在それ自体を意識しているのです。この詩編の場合でも、その冒頭の節を叫ぶことで、詩編22篇全体が叫ばれていると考えてください。だから、このイエスの叫びには、22篇25節以下で語られる感謝と賛美も背後に響いているのです(この詩編の編集過程は、この際関係がありません)。イエスが叫んだ言葉の背後には、それでも主が共にいてくださるという信仰が潜んでいること、このことを洞察したヨハネ福音書の作者が、イエスの霊性への証しとして、イエスの口から「わたしはひとりではない」と言わせているのでしょう。ここに限らず、ヨハネ福音書は、一貫してイエスが父と共にいたと伝えています(8章16節/同29節)。ただし、この段階では、「教会はまだイエスひとりです」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[33]【平和を得る】イエスが、ここで弟子たちに「平安を得る」と告げるのは、弟子たちがイエスを見捨て、イエスひとりになると聞いて、彼らが不安を覚えているのを察知し、「前もって知っているなら」そのことが起こった時でも恐れないで済む(14章29節)という意味もあるでしょう。「わたしにあって平安を」は、「この世にあって苦難を」と並んでいますから、「これらのこと」を語ったとあるのは、単に直前のイエスの言葉だけでなく、別れの説話全体をも指すのでしょう。ここでは、「この世」とイエスの霊性との違いが、説話の終わりにもう一度確認されます(14章26節)。イエスが言う「平和/平安」は、ヘブライ語の「平和」(シャーローム)の意味で、「平和」は、社会的な意味と人の心に宿る「平安」の両方を含みます。すなわち、人の心にも、人と人との間にも、平和/平安を神が「創り出す」ことを意味します。これが「神から与えられる平和/平安」であり、人が神と共に歩む時に与えられる平和です(マタイ5章9節の「平和を創り出す人」を参照)。このような「神からの平和」は、困難や苦難の中でこそ、その力を発揮することができますから、「平和/平安」が「苦難」と対応するのはこのためです。
【苦難が】「苦難」は、新約聖書では、キリスト者とその共同体/教会に向けられる迫害のことと(15章18~25節)、特に終末において起こる大きな艱難(マルコ13章)との二つの意味を帯びています。ただし、この二つは、どちらも「この世の支配者」(14章30節)から出ているというのがヨハネ福音書の見方です。迫害と終末の艱難を耐え抜いた人たちのことはヨハネ黙示録7章14節に「小羊の血で洗った白い衣をまとう人たち」としてでています(「衣」はその人の霊性を表わします)。
【世に勝った】「勝った」はギリシア語「ニコー」の完了形です。イエスの十字架が、悪の根源に潜む「悪の支配者」、すなわちサタン/悪魔との決闘の場であること、しかも十字架は、イエスがこの闘いに勝利した「しるし」であることは、共観福音書にも表われています。とりわけヨハネ系文書には、「悪の力/支配者」に「勝った」ことが、はっきりと告げられています(14章30節/16章11節/第一ヨハネ2章13~14節/同4章4節/同5章4節)。なお、旧約聖書では、この力が「神からの知恵」の働きとされていることにも留意してください(知恵の書10章5~6節)。
 ヨハネ系文書では、悪魔/サタンとは「この世の」支配者のことであり、このために、ヨハネ系文書では、闘いがイエス・キリストと「世/この世」との間で行なわれます。すでに指摘したように、ヨハネ福音書の「世」は、「ユダヤ人」としても言い表わされていて、特にユダヤの指導者たちのことを指しています。ヨハネ福音書を書いた人も、そこで批判の対象とされている人も、出来事の場所もユダヤとユダヤ人ですから、歴史的に見ればこれは当然です。しかし、この16章33節の段階では、そのような歴史的に具体化した悪の相ではなく、これらの出来事や人物たちの背後に潜んで、「この世」を操(あやつ)っている悪の霊的な力/支配者を指し示しています。パウロ書簡では、ヨハネ福音書の「ユダヤ人」が、ユダヤ人あるいはユダヤ人キリスト教徒の「律法主義」にあたると言えましょうか。ユダヤ人も律法主義も、ほんらいは「正しい」けれども、まさにその「正しさ」におごるゆえに、サタン/悪魔に利用される危険があるのです(ローマ7章11節/同13~14節/ヨハネ9章40~41節と比較)。
 ヨハネ福音書は、イエスが、いつの世でもどの場所でも、この「福音の敵」に対して完全な勝利を得たことを「すでに世に打ち勝った」と言い表わしているのです。ヨハネ福音書もパウロも、「この世の支配者」が持つ究極の力を「死」と結びつけていて、イエス・キリストが、この「死の力/働き」に勝利したと宣言しています(5章24~25節/第一コリント15章55~56節)。別れの説話を終えるにあたって、困難や苦難に対して、「恐れるな/心を動転させるな」(14章1節)、あるいは「勇気/元気を出しなさい」とあるのはこの意味です。この勝利は、次の17章で、イエスの祈りの大事な主題になります(17章14~15節)。
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