65章 「たとえ」によらず
16章25〜33節
■16章
25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
【注釈】
【講話】
■今回の問題点
私はかつて夏期集会で、聖書が、わたしたちの信仰生活の中でどのように活かされていくのか、ということについて話しました。聖書で語られる出来事や物語は、それぞれが「たとえ」の性格を帯びていて、わたしたちは、日常の生活の中で、それらの出来事や物語、預言や教えの中から、自分が現在おかれている状況を解釈するための「たとえ」として、聖書を読み取ることが大事だと話しました。
今回で、一連の別れの説話が終わります。ところが今回は、イエス様が、今にきっと「たとえによらないで」お語りになる時が来ると言われるのです。ヨハネ福音書では、イエス様のお語りになるお言葉が、共観福音書に比べるとはるかに多いのに気がつきます。ある出来事が語られると、それにイエス様のお言葉が続く。時には、ヨハネ福音書の作者の説明や言葉も入り込んできて、どこからが作者の言葉で、どこまでがイエス様のお言葉なのか、区別がつかないところさえあります(例えば3章16〜21節)。自分の言葉がイエス様のお言葉と自然につながる。ヨハネ福音書の作者は、そこまで、自分をイエス様に近づけて語っているのです。
これは、ヨハネ福音書の作者が、イエス様の出来事やイエス様のお言葉を通して、イエス様の内に宿る霊性そのものを解き明かそうとしているからです。イエス様<からの>啓示を伝えようとするよりも、イエス様それ自体が啓示の内容であることを語ろうとしているのです。なぜなら、夏期集会で話したように、イエス様ご自身が「たとえ」であり「謎」であり「神秘」だからです。
共観福音書でもヨハネ福音書でも、イエス様は「たとえ」を用いずに、率直にお話になっておられますから、「たとえなしに」語るのは、特に今回に限ったことではないように見受けられます。特にヨハネ福音書の8章などでは、14節以下から、たとえがひとつもでてきません。それなのに、どうして今回に限って、わざわざ「たとえによらずに語る」と言われるのでしょう。イエス様のお言葉を受けた弟子たちのほうも、「<今は>たとえによらずに」お話くださっていると言っています。イエス様が、「たとえ」を用いずに語る時が「今に」来るだろうと言われているのに、弟子たちのほうは、「今は」たとえを用いずに話されていると言っていますから、イエス様の「今に」が弟子たちの「今は」になっているのが分かります。未来が現在になっているのはどういうわけでしょう? どうも今回のイエス様の語り方は、これまでの語り方とはどこか違っていて、特別な意味で、「たとえによらない」語り方をしておられるようです。
■「今に」と「今は」
では、今までの語り方と今回とは、どこが違うのかと言いますと、イエス様は、「時が来れば」、弟子たちのために父にお願いすることを「しない」と言っておられることです。そのわけは、「父が直接にあなたがたと親しくなる」からです。イエス様が「今に」と語っておられるのは、きっと「終末の時」のことだろう。皆さんはこう思うかもしれません。ところが、今まで別れの説話を読んでこられた方は分かると思いますが、ここは、終末のことよりも、イエス様の復活以後の聖霊降臨のことを指しておられると思われます。ヨハネ福音書では、聖霊の授与が、イエス様が復活された直後に起こります(20章22節)。先の説話で、パラクレートスが来る時には、弟子たちをあらゆる真理に導いてくださるとありますから(16章13節)、もう「たとえ」が要らなくなる。こう考えるとイエス様の言われている意味が分かるような気がします。
しかし、それなら弟子たちは、なぜ「今は」たとえでお語りにならないと言うのでしょう? イエス様の「今に」が、どうして弟子たちの「今は」になるのでしょう。これも皆さんはすでに気づいていると思いますが、イエス様の「今に」は、必ずそうなるという意味で「今は」であり、場合によっては「すでに」ともなるのです(13章31〜32節)。夏期集会でお話ししたように、客観的に見た歴史の中では、過去と現在と未来とは、はっきり区別されなければなりません。しかし、霊性の世界ではそうではないのです。イエス様の「今に」は、<イエス様ご自身がそこにおられる時>には「今は」なのです。すでに「その時」が来ているのです。ここがとても大事なところです。聖書の世界、特に新約聖書の世界では、「まだ」は「すでに」とつながっています。「まだ」と「すでに」のこのような「時間的な重なりとつながり」は、キリスト教の霊性を特徴づける独特の時間構造の基本ですから、心に留めておいてください。これが分からないと、聖書の言う「信仰」も「希望」も、そのほんとうの意味が分かりません。ですからイエス様の「今に」は、信じる弟子たちの「今は」なのです。イエス様の「今に」が、弟子たちの「今は」を創り出しているのです。これがイエス様の霊性のお働きです。
なんだが難しくなったから、ここでは、たとえを用いましょう。わたしの孫がまだ小さかった頃、誕生日にゲームを買ってあげると約束しました。孫はとてもうれしそうにしていました。「まだ」買ってもらっていないのに、どうして「今」うれしいのでしょう? それは、お爺ちゃんが、ゲームをくれると約束したからです。彼には、「まだ」は「もう今」なのです。客観的に見ればこれはおかしい。未来は現在ではありませんから。では孫はただ<主観的に>喜んでいるだけなのでしょうか? そうではありません。彼は、自分勝手にそう思いこんで喜んでいるのではありません。お爺ちゃんが約束したという客観的な事実/出来事があるからです。約束が与えられた出来事は過去です。うれしいのは現在です。ゲームがもらえるのは未来です。彼が、「まだ」のことを「もう」喜ぶのは、お爺ちゃんを信頼しているからです。これが信仰の本質です。希望の本質です。
もしも、そこにねたみ深い友達がいて、「それはきっと、お前がいい子になるように、お爺ちゃんは、企(たくら)んで嘘をついているのだ。そんな高いゲームを買ってくれるはずがないさ。きっと、別の安物でごまかされるから今にみてろ」と孫に言ったとしたらどうでしょうか。彼の心に疑いの種が蒔かれて、うれしさも半分になるかもしれません。だから「まだ」を「今もう」にするのは、信頼であり、それも「人格的な」信頼関係です。約束は言葉で与えられますが、言葉は人格とひとつですから、言葉以前の人格的な関係/交わりです。人格関係に長い言葉は要らないのです。「買ってあげるよ」の一言で十分です。その一言に語る人の全人格が「宿る」からです。買ってあげる理由を長々と説明したりすれば、子供は逆におかしいと思います。信頼は言葉数がなくても生まれます。
■霊能より霊性
話を戻しましょう。弟子たちは、なぜイエス様の「今に」を「今は」だと受けとめたのでしょう? イエス様に絶対的な信頼をおいていたからです。弟子たちには、おそらくイエス様の霊性が、この時に初めて、今まで以上にはっきりと啓示されたのです。客観的に時を区別する学者に言わせると、この段階では、聖霊は「まだ」働いていないことになります。そのとおりですが、わたしが言いたいのは、<このような>信頼関係をもたらす信仰には、すでに、聖霊が力を及ぼしていることです。「このような」とは、世にいる間に、イエス様の霊性から発して弟子たちに与えられる信仰のことです。これこそが、復活以後の聖霊の働きの原点です。
自分は洗礼を受けているし、信仰もあるのだけれども、まだ聖霊体験も異言も与えられていません。異言を語りたいと思うのですが、どうすればいいのでしょうか? メールなどで、こういう質問を時々受けます。わたしはこう答えています。洗礼を受けていて信仰があるのなら、聖霊はすでにあなたに働いておられます。だから、あなたの心をそのままイエス様に向けて祈ってください。聖霊はイエス様の人格ですから、大事なのは、祈りによってイエス様ご自身との交わりを深めることです。イエス様との交わりを深めるなら、異言は<必ず>与えられます(ルカ11章13節)。それは時間の問題です。大事なのは異言を語るかどうかではないのです。人格的な交わりは、霊能ではなく霊性だからです。
■父ご自身が
ここで弟子たちは、イエス様の霊性に直(じか)に触れて、信仰的に言えば、今までにないほどの霊境を垣間(かいま)見たのです。イエス様は、「その日には、イエス様が弟子たちのために父なる神に何も願うことを<しない>。なぜなら、父御自身があなたがたと親しくするからだ」と言われています。わたしには、このことがとても大事だと思われます。ここで、「父自らが弟子たちと親しくする」とあるのは驚きです。ただし、これは「イエス様はもう要らない」という意味ではありません。イエス様を通じて父を知ることが、ヨハネ福音書の一貫したテーマです。16章33節は、このことを改めて弟子たちに確認させるためです。しかし、26〜27節のイエス様のお言葉は、「父と直接交わる」という今までになかった信仰を弟子たちに与えたのです。デンマークの哲学者で、敬虔なキリスト信者であったゼーレン・キェルケゴールという人が、『野の百合、空の鳥』という小論を書いています。彼は、その中で、野の百合や空の鳥は、神に絶対的な信頼をおいて生きていると言っています。「絶対の信頼」などというと、信仰のために必死になって努力することだと考える人がいるかもしれませんが、そうではありません。ただあるがままそのままで、天の父なる神に信頼しきって生きている、ただそれだけです。一切を神に委ねきって生きている、その姿をキェルケゴールは野の百合、空の鳥にたとえたのです。このような信仰の境地では、イエス様が「いない」のではなく、イエス様が「見えない」のです。ただ父だけが見える世界、イエス様ご自身の有り様あるいは生き方がまさにこれだったのです。
■今を生きる
ただあるがまま、そのままに生きると言うと、なんの心配もない気楽な生き方だと思うかもしれませんが、決してそうではありません。現実には多くの悩みや困難が起こってきます。わたしたちの心の中にも、罪の想念や思い煩いや恐れが来ます。こういう時わたしたちは、悩みや困難から逃れようと必死にもがくのですが、もがくほど、かえって泥沼にはまりこむように、そこから抜け出せなくなります。
だから、なんにもしないでただ任せる。そうすれば、イエス様の御霊がちゃんと働いてくださる。これが御霊に働いていただく一番いい状態です。その結果与えられる心の平安や悩みの解決は、自分から出たものではありません。自分の努力で勝ちとったものではないもの。絶対の信頼とはそういうものです。だから、イエス様は、明日のことは思い煩うな。今日一日の苦労はその一日で十分だと言われるのです(マタイ6章34節)。今日を生きる。これが「主の祈り」の世界です。
今日を生きるなどと言いますと、わたしが今お話ししているのとは違った意味にとる人たちがいます。「明日はどうなるか分からないから、今日は腹一杯食べて楽しく過ごそう」という生き方です。これを「刹那的快楽主義」(carpe diem)と言うのですが、こういう享楽的な生き方だと誤解する人がいるかもしれません。こういう生き方と今わたしがお話ししているのとは大きな違いがあります。どこが違うかと言いますと、わたしたちが「今を生きる」のは、神様を信じて生きるからです。ところが神様は過去も将来もことごとく知っておられる。今回のところにも、イエス様は「すべてをご存知だ」とあります。だから、わたしたちの今日は将来につながる「今日」です。そこに希望が働く。神様の言われる将来のことを終末と言いますから、今日は終末につながるのです。これが大きな違いです。だから、「明日死ぬように食べて、永遠に生きるような家を建てる」生き方ではないのです。聖書はこういう享楽的な生き方を戒めていますが、それは、禁欲的で謹厳な生き方をしなければならないという意味ではありません。父のみ手に委ねてあるがままに生きなさいと言うのです。今日一日を「主にあって生きる」のです。イエス様の御霊は、過去から将来をも見通しておられるからです(14章1節)。
■世に勝つ霊性
今回の後半で、イエス様は、弟子たちがイエス様を見失う時がもうすぐ来るという怖いことを言われています。その時とは、イエス様ご自身が、「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」(詩編22篇2節)とお叫びになる時のことです。十字架上のイエス様のこの叫びは、「世の罪を取り除く」ために父から遣わされた「神の小羊」が(1章29節)、「人を救おうとはしたけれども、自分自身を救おうとはしなかった」(ルカ23章35節)ことを証しするものです。このイエス様が、最後には「わたしはすでに世に勝った」と言われるのです。ここでは、苦難に「勝った」とあって、未来が完了形で表わされます。「今に」が「今はもう」です。これが、弟子たちへの慰めと励ましのお言葉です。
これを聞いて皆さんは、弟子たちにはまだ聖霊が降っていないのだから、今のわたしたちとは違うと思いますか? でも、弟子たちはイエス様の霊性に触れて、「父と直接親しくなる」という霊境に接したのです。少なくとも聖霊の賜の「前味」(まえあじ)を与えられたのです。彼らは、「この体験」に支えられて、イエス様の十字架の試練の時をくぐり抜けることができました。現在、聖霊体験のあるなしにかかわらず、わたしたちにとって、終末はまだ成就していません。でも、わたしたちは、御霊にあって、神との完全な交わりの「前味」に与っています。だから、かつての弟子たちと同じように、嵐の海の中で、イエス様を見失うことがあっても、それでもイエス様に頼ることを止めないのは、イエス様がすでにこの世に勝っておられることを知っているからです。野の百合や空の鳥は、自分から信じようとか、自分の努力で神様と共に生きようとか、そんなことは全く考えません。神様が働いてくださることを絶対的に信頼して生きている。ただ、それだけです。たとえ一時は、試練の闇の閉じこめられても、「しばらくすれば」その闇が消えて、御霊にある主様の光が輝いてくる。こう信じているのです。
ヨハネ福音書講話(下)へ