【注釈】
■16章の区分
今回の部分を段落ごとに区分すると、4~7節/8~11節/12~15節のようになります。4~7節は、14章27節(後半)~28節と内容的につながり、8~11節は14章17節と15章22節を受けて、その内容をさらに深めています。12~15節は、14章26節と15章26節と内容的に重なります。パラクレートスがでてくるのは今回で3度目ですが、今回は、世を裁くパラクレートス(8~11節)と、真理の御霊としてのパラクレートス(12~15節)のように、パラクレートスの二つの働きが語られます。
■16章4節(後半)~7節
初めからこれらのことを言わなかったのは、
わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
今、わたしを遣わされた方のもとに行く。
だが、あなたがたはだれも、わたしに「どこへ行くのか」と尋ねない。
むしろ、これらのことを話したので、あなたがたの心は悲嘆に満ちている。
しかし、わたしはあなたがたに真実を言う。
わたしが去って行くのは、
あなたがたのためである。
わたしが去って行かなければ、
弁護者はあなたがたのところへ決して来ない。
わたしが赴くならば、
弁護者をあなたがたのところに送ろう。
[4]【あなたがたと一緒に】ヨハネ福音書は、ここで、イエスが弟子たちと共にいた「地上の時」をイエスの復活以後の時からはっきり区別しています。イエスが弟子たちに来るべき迫害を告げなかったのは、イエスと共にいた間、彼らはイエスの存在に守られていたからです(18章8節/なおルカ22章35~38節を参照)。「そのために彼らと共におられたときには初めからそれ(パラクレートス)について何も語らなかったのである。なぜなら、キリストの現存によって彼らは慰められていたからである。だが、去っていくときには、そのかた(パラクレートス)が到来することを言わなければならなかった」〔アウグスティヌス『ヨハネ福音書』第94説教〕。「初めから」は、伝道の最初の時からの意味ですから、イエスは、自分の受難と弟子たちが受ける迫害を伝道の「初めから」知っていたことになります。
[5]【今】これは「初めから」に対応した言い方です。伝道の初めには、「世からの迫害」について弟子たちに告げなかったけれども、イエスの受難が始まる「時が来た今」は、これについて語らなければならないのです。【お遣わしになった方】イエスは、自分が「立ち去る時」が来るのを前もって告げてきました(7章33節/13章33節)。特に別れの説話では、イエスが父のもとへ「去っていく」ことが繰り返されています(14章4節/同5節/同28節/16章7節)。ここで使われている動詞「立ち去る」の原語は、弟子たちから「離れ去る」ことです。しかし、「離れ去る」のは、父のもとへ「戻る」ことであるのを弟子たちに思い出させようとするのです。
【尋ねない】この5節「あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」は、14章の結尾「立て、ここから出かけよう」と並んで、別れの説話全体の前後関係に「難題」を投げかけています。14章の結尾については先に述べました。ここ5節は、これを表面的に受け取ると、13章36節の「主よ、どこへ行くのですか?」というペトロの質問と明らかに矛盾しているように思われます。別れの説話全体の「組み替え」説については、先に述べましたので繰り返しません。ただし、筆者(私市)も含めて、最大の疑問は、いったいヨハネ福音書の編集者(たち)自身は、この問題に気がつかなかったのだろうか? 気づいていたとすれば、なぜ編集し直さなかったのだろうか? ということです。現在のままで、5節をその前後関係の文脈から判断するなら、弟子たちは、悲しみのあまり、「今はもはや」イエスにその行く先を尋ねようともしない状態にある、という意味になりましょう。ヘブライ語の否定「(尋ね)ない」は、「もはやこれ以上~しない」という意味にもなりますから(英語の"not" と "no more" 両方の意味)、編集者たちは、現代の注釈者たちが抱くような疑問を感じなかったのかもしれません。「尋ねない」と現在形なのも「今はもう」の意味を含むのでしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[6]【悲しみで】ここでは死別の「悲しみ/悲嘆」を意味しますが、同じ言葉が20~22節では「陣痛の苦しみ/痛み」をも表わします。ここでの死別の悲しみが、創造のための「産みの苦しみ/痛み」と重なるのです。
[7]【真実を言う】これは、ヨハネ福音書独特の「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」と同じで、イエスが、大事なことを啓示しようとする時の言い方です。同じ言い方が8章45節にもでてきます。そこでは不信仰な「ユダヤ人」たちに向けられていますが、ここ7節では、イエスを信じている弟子たちに向けられています。
【あなたがたのため】先の14章28節では、イエスが立ち去ることを弟子たちが「イエスのために」喜ぶべきだとあります。ここ7節では、「弟子たちのために」益になると言うのです。なぜなら、イエスが離れることで来るのは、弟子たちのためのパラクレートスの降臨だからです。「ためになる/都合がよい」は、ヨハネ福音書では、ここのほか11章50節と18章14節にでてくるだけですが、どちらの場合も大祭司カイアファが、イエスを犠牲にするほうが「都合がよい」と述べたことを指しています。イエスの受難が、「弟子たちのために」なることと、「大祭司たち」のために都合がよいこと、イエスに従う弟子たちとイエスを殺す大祭司たちとの相反する立場から見た「ためになる/都合がよい」が、十字架と聖霊降臨という二つの出来事をめぐって同じ言葉で表わされているのに注意してください。これもヨハネ独特の「皮肉な」対照を表わすのでしょうか。 イエスが地上から「立ち去る」ことが、弟子たちにとってなぜ「ためになる/益になる」のでしょうか? アウグスティヌスは、イエスが地上にいた間は、弟子たちは、直接イエスに触れ、イエスを目で見て、その言葉を耳で聞くことができたから、これによって弟子たちは、いわば「肉のイエスに肉にすがりつくように」して信じていたと述べています。しかし、この段階では、弟子たちの信仰は、まだ「柔らかい食べ物や乳で養われている幼児」のようであり、イエスに宿る聖霊を受けることができない状態にあったと彼は言います。「肉によってキリストを知ろうとしている限り、あなたがたは聖霊を受けることができない」からです。 しかし、「キリストが身体的に弟子たちから離れることによって、聖霊ばかりでなく、父も子も弟子たちのところに共におられる」ようになったのです〔アウグスティヌス『ヨハネ福音書』第94説教〕。
わたしたちは、ナザレのイエスの「実在の歴史的状況」を知ることによって、イエスの啓示に直接接することができると考えがちです。ところが、ナザレのイエスが弟子たちやわたしたちに与える啓示、すなわちナザレのイエスの「霊性」それ自体は、そのような直接的な方法では知ることができないのです。そのような「知り方」は、アウグスティヌスの言うように、「幼児が肉の存在にすがりつく」ような知り方にすぎません。ナザレのイエスにおいて啓示された霊性は、イエスが地上から「立ち去って」、パラクレートスとして弟子たちに降るその時に初めて、真の意味で啓示されるからです。イエスがここで「真実を言う」とはこの意味です。
ナザレのイエスの「霊性」は、わたしたちに「啓示」として与えられるものです。繰り返しますが、ヨハネ福音書は、わたしたちが歴史的なイエスを直接に知るために、言い換えると、地上のイエスをわたしたちの目の前に史的に復元して見せるために書かれたものではありません。ヨハネ福音書の作者は、そのような仕方では、地上のイエスがもたらしてくれた啓示のほんとうの意味を、イエスの周囲にいた弟子たちにも、それ以後の自分たちにも、さらにそれ以後のわたしたちにも、決して伝わらないことをよく知っているからです。なぜなら「歴史的なイエスは、自分が啓示者であると純粋に理解されるためには、立ち去らねばならない。彼は啓示者で<あり続ける>ときにだけ、啓示者で<ある>。だが彼は、霊を遣わすことによってだけ、それ(啓示者)であり続ける。彼は立ち去ったときにだけ、霊を遣わすことができる」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕からです。ナザレのイエスは、歴史的に復元されることによって啓示者になるのではありません。だから、啓示者としてのナザレのイエスへの信仰に関する限り、直接的な知り方が許された弟子たちも、時代を遠く隔たって、福音書を通じて間接的な知り方に頼るわたしたちも、全く同じ状況に置かれているのです。
【去って行く】ここでの「わたしが去って行く/離れて行く」は、後の「わたしが行けば/進んで赴くならば」に対応します〔どちらも接続法アオリスト形で、これから起こることを予測した言い方〕。これらふたつの動詞は、「離れ去る」ことが、別離に終わるのではなく、出来事が、パラクレートスの来臨による啓示へと「進行する」ためにイエスが進んで「赴く」ことを指します。
【弁護者を送る】「送る」の原語は「遣わす」です。ここでは、15章26節と同じように、イエスが、父のもとからパラクレートスを遣わすのです。後にアウグスティヌスは、この箇所を次のように三位一体論的に解釈しています。
「子と聖霊なしに父が、あるいは聖霊なしに父と子が、あるいは父と聖霊なしに子が、あるいは父と子なしに聖霊が、あるいは子なしに父と聖霊が、だれかのうちにおられるなどと信じるべきではなく、それらのうちのどれか一人がおられるところに三位一体なる唯一の神がおられることを信じるべきである。だが、三位一体の神は、何ら実体の相違はないが、それぞれ位格(ペルソナ)の区別は認められる、というように理解されなければならない。その場合、正しく理解する者たちにとって、本性の分離は全く考えられないのである」〔アウグスティヌス『ヨハネ福音書』第94説教〕。
■16章8~11節
その方が来ると、世を告発するだろう
罪について、義について、また、裁きについて。
罪についてとは、わたしをどこまでも信じないこと、
義についてとは、わたしが父のもとへ去り、
あなたがたがもはやわたしを見なくなること
また、裁きについてとは、
この世の支配者が断罪されることである。
[8]【告発する】原語の意味は「とがめる」「暴露する」「誤りを認めさせる」ことですから、ここでは、「罪」と「義」と「裁き」について、この世の判断が根本的に間違っていることを暴露することです。この言葉には、告発する相手にその誤りを「悟らせる/自覚させる」という意味も含まれています。「世を暴く」〔岩波訳〕。「この世にその考えの誤りを認めさせる」〔塚本訳〕。「世の人の目を開く」〔口語訳〕。ただし、14章17節には、「世は真理の霊を見ようとも知ろうともしない」とあり、また、8章46節には、ここと同じ動詞がでてきて、「あなたたちのだれが、罪ついてわたしを<告発する>のか? 真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか?」とあります。だから、8章では、世がイエスを告発することが語られていて、16章では、真理の霊であるパラクレートスが世を告発すると言われているのです。16章8節では、この語はおそらく法廷用語で、この世がイエスを「告発した」ことに対して、逆に、真理の御霊のほうが、この世の罪を告発することです(15章26節)。
[9]【罪について】構文的には、「(罪に)ついて」と「(信じない)こと」、この二つの関係が問題になります。「~について告発する/明らかにする」という言い方は、相手が指摘された誤りを認めることをも含むからです。「(信じない)こと」を「(信じない)から」と訳すこともできますが、内容的に変わりません。パラクレートスは、「イエスを信じない」ことが罪であることをこの世に認識させる働きをします。ところが世は、その認識それ自体をもあえて拒否して、「どこまでも信じようとしない」のです。ここでは、世の罪(単数)は、「イエスを信じようとしない」ことただ一つに絞られています。「罪」とは、ただ一つ、神が遣わしたイエスを「どこまでも信じようとしない」ことです。なぜなら、人は、イエスの御霊(パラクレートス)に出会うことによって初めて、己に潜む「原罪」に気づかされるからです。
[10]【義について】パウロ書簡にしばしばでてくる「義」という言葉は、ヨハネ福音書ではここ8節と10節だけです。パウロ書簡では、「義」は、イエスの十字架による死とこれに続く復活との両方を併せ持つ出来事として語られ、そこに顕された「神の義」は、人間が己の正しさを主張する「人間の義」と対立する意味で用いられます。パウロ書簡では、これが「神の義」"the righteousness of God" と呼ばれています(ローマ3章21~26節)。ここヨハネ福音書でも、イエスは、「父と自分を一つにした」(10章30節)という理由で、「世」のほうから罪ありと断罪されますが、復活して「父のもとへ行く」ことによって「イエスの正しさ/義」がこの世に証しされるのです。だからここでの「義」は、神から遣わされながら、人によって罪に定められたイエスの「正しさを立証すること」("vindication")です。「義」を神の法廷における裁きと関連させるなら、このような「義」"righteousness" は、正邪を正しく裁く神の「公正」"justice" の意味をも含むでしょう。イエスの復活を通じて、神によるイエスの正当性"justification"が、この世と弟子たちの両方に明らかにされるのです。
【もはやわたしを見ない】14章19節では、「しばらくするとわたしを見る」とあって、これは復活後にイエスが弟子たちに顕現することを指しました。しかし、ここ16章10節では、「見なくなる」〔現在形〕は、地上のイエスが、もはや弟子たちにも見ることができなくなることです。では、イエスがキリスト(救い主)であること、十字架のイエスこそ神の正しさ(義)であること、これは何によって示されるのでしょう。父が御子を通じてキリスト者に与える聖霊によってです。聖霊は、御子イエスに逆らう世から人を導き出し、彼/彼女にイエスを啓示し、啓示することによって御霊の宿るキリスト者とし、その上で彼らの存在をこの世にあってどこまでも支え続けるのです。こうすることよって、十字架のイエスが復活のキリストであり、復活のキリストが御霊のイエス・キリストであることをこの世に向かって証しし続けるのです。見える命ではなく、見えない命こそ真理であることが、このようにして世の人々に示されるのです。「世にとっては、勝利は見える仕方で示されねばならない。だが勝利の意味は、見えないものによる見えるものの克服である。従って世は自分が永遠の罰を下され、敗北していることを知らないのである。だがそのことをまさにパラクレートスが(弟子たちに)示すことになる」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[11]【この世の支配者】イエスが神の力によって復活して、御子として聖霊を遣わすことは、この世を支配する悪の支配霊に勝利したことを意味します(12章31節/14章30節の注釈を参照)。「断罪された/されている」〔受動態完了形〕は、神による終末的な裁きがすでに定められたことです(ヨハネ黙示録12章7~9節/同20章1~3節を参照)。だから、ここで言われているのは、「この世の支配者(悪魔)がわたしを殺したのは、わたしが罰されたのではなく、自分が罰されたのであること」〔塚本訳〕なのです。
以上のように、8~11節を通じて、この世の権力者たちによって罪ありとされた者が、逆に彼らを裁き、地上で罪を宣告した悪人たちが、天からのみ使い(真理の霊)によって、その罪を暴かれて有罪とされ、迫害された正しい者には神の義と公正が与えられ、この世を支配していた悪の支配霊(悪魔)が断罪されるのです。この図式は、『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)など、ユダヤ黙示思想の終末観に基づくもので、こういう「逆転の発想」は、黙示思想特有のものです。この思想は、共観福音書では、例えばルカ6章20~25節の教えにも見ることができます。なお、新約聖書の黙示的な伝承については、次のような説があるので、少し長いがあえて引用します〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)より〕。
「マルコ13章/マタイ24章が、ミドラシュ的なダニエル書の解釈に基づくというのは少し言い過ぎかもしれないが、マルコ福音書とマタイ福音書のテキストがダニエル書を反映しているのは明白である。だから、福音書の記者たちが、終末においてダニエル書とイエスの言葉が同時に成就する/したと見ていたのは間違いない。マルコ8章11~13節を根拠にして、イエスはしるしについて語るのを拒否したという見解がある。しかし、第一テサロニケ(5章1~11節)や第二テサロニケ2章1~12節(この書簡は真正のパウロの作と認められる)などや共観福音書から判断すると、これらの黙示的なしるしがイエスにさかのぼると観るのは不自然でない。だが、ここの終末(神殿崩壊を含む)への説話の起源には問題がある。イエスはおそらく、神殿崩壊を預言し、同時に、彼に従う者への迫害を終末的な言語で語り、ダニエル書13章を引いて、神によるイエスの義の立証を告げたのであろう。しかし、マルコ13章は、一回限りの説話から出たものではなく、ヘブライの預言書と同様に、種々の資料の集積から形成されたと考えられる。したがって、マルコ13章の文言と内容を直ちにイエスにさかのぼると見ることはできないが、イエスに起源することを否定することもできない。伝承の最初の過程としては、ユダヤ人キリスト教徒がペレアへ逃れる少し前に告げられたと言われる『小黙示』が、エウセビオスによって伝えられている(エウセビオス『教会史』3巻5節→秦剛平訳『教会史』(Ⅰ)139頁)。伝承の最初期において、イエスの教えと言葉と旧約預言とから、『小黙示説話』が形成されたのであろう。この説話はパウロも知っており、マルコ福音書13章5~8節/14~27節となった。これ以後さらにユダヤ戦争の体験が加えられた(13章9~13節:70年少し前に)。この伝承全体が、マルコ福音書とヨハネ黙示録とヨハネ福音書15章18節~16章33節に取り込まれている。」
■16章12~15節
言っておきたいことが、まだいろいろある。
だが、今は、あなたがたに理解できない。
しかし、その方、真理の御霊が来るとき、
あなたがたをあらゆる真理へ導くだろう。
彼は自分から語るのではなく、
聞いたことすべてを語り、
これから起こることをあなたがたに告げる。
彼はわたしに栄光を与える。
わたしのものを受け、
あなたがたに告げるからである。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。
それゆえにわたしは言った
『彼はわたしのものを受け、あなたがたに告げる』と。
[12]~[13]【言っておきたいこと】12節は11節から13節への移行をなめらかにしています。12節の「言っておきたいこと」は、13節の「これから起こること」と結んで、イエスは、十字架の後で、さらに「新しい」啓示を与えるという意味にもなりましょう。ローマ・カトリック教会の神学者たちの間には、ここをイエスの十字架以後の教会の時代に、教会に新たな教義が啓示され続けていくことだと見なす人もいます〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。しかし、すでに11節でも述べたように、ここでイエスが言おうとするのは、イエスの十字架以後に初めて、地上でイエスが語り行なったことのほんとうの意義が弟子たちに啓示されることです(2章22節/12章16節/13章7節)。ただし、このことは、イエスの御霊が、以後のキリスト者の歩みに新たな導きの啓示を与え続けることとは矛盾しません。ヨハネ福音書が伝える御霊の啓示は、イエスが過去に語ったり行なったりしたことを「思い起こさせ」ますが、それはまた、イエスの言行を通して、「イエスそれ自身」を啓示し伝えることだからです。
【理解できない】原語は「抱えて運ぶ/もちこたえる/辛抱する」です。このギリシア語にはヘブライ語の「ナーサー」(顔や目や心を上げる/向かわせる)の意味がこめられています。今の段階で弟子たちに多くを語るのはあまりに「重荷になる」という意味です。"but the burden would be too great for you now" 〔REB〕。「耐えられない」〔岩波訳〕。
【真理の霊】ここは、イエスを啓示するパラクレートスのことですから、「真理の御霊」"the Spirit of truth" 〔REB〕〔NRSV〕と訳すほうがいいでしょう。ただし、人を真理に導く神からの「霊」は、その背後に、旧約聖書の霊性があります(詩編143篇10節/同25篇4節「あなたのまこと〔真理〕にわたしを導いてください」)。特にヨハネ福音書では「真理の御霊」は「イエス自身を啓示する」働きをします。「真理」とはイエス自身のことにほかならないからです。このように人格化された「真理」は、イエス以前の時代には「知恵の女性」(ヘレニズム世界では「知恵の女神」)の姿で登場します(知恵の書9章11節/特に10章5~14節を参照)。また『第一エノク書』の「エノク書簡」(前100年頃)の中に「わたしとわたしの子は、彼ら(義人たち)と共に、とこしえに真理の道において一つになる。あなたがた(義人たち)には平安がある。喜べ、真理の子たちよ、アーメン」(第一エノク105章2節)とあります。そこでの「わたし」と「わたしの子」は、「主とその子であるメシア」を指すという解釈と「エノクとその子メトシェラ」という説とがあります。後の場合は、神からの啓示を受けたエノクが、その子を通じて、終末的な義人たちの共同体に呼びかけていることになります。イエスを通じて人格化された「真理の御霊」であるパラクレートスには、その背後にこのような霊性の伝統があるのです。
【導いて】原語は字義どおりに「道を教える」「導く」です。キリスト者がイエスと共に歩み続けることが、パラクレートスによって初めて可能になるからです(8章31~32節)。イエスの御霊が、人を真理の「道」へ導く例としては、ピリポがエチオピア人の宦官を導く出来事があります(使徒言行録8章26~39節)。「真理<へ>導く」とある前置詞には、「真理の内へと」"into the truth" と「真理にあって」"in/by the truth" と、ふたとおりの読み方があります。内容的にあえて区別するなら「真理の内へ」は、真理それ自体をより深く知るように導くことを指し、「真理にあって」は、御霊自身が真理であるから、その真理によって、あるいはその真理を通じて導くことを意味すると言えましょう。「真理の御霊」は、あらゆる神の業を「真理=イエスの御霊」を通じて悟らせてくださるのです。"He will guide you into all the truth."〔REB〕〔NRSV〕。「あなたがたをあらゆる真理のうちに導くであろう」〔岩波訳〕。「御霊が導く」というこの言い方には、ある種の霊的なエクスタシーが含まれているのかもしれません。
【聞いたこと】原文は「(御霊は)聴いている〔現在形〕ことすべてを(語るであろう)」、「聴くであろう〔未来形〕ことすべてを」「どのようなことであれ聴くことを〔接続法現在形〕」と三とおりの動詞の読み方があります(接続法現在形は文法的に形を整えるための後からの訂正です)。要するに現在のことなのか、あるいは未来のことなのか、ということになりますが、古来カトリック教会では、伝統的に三位一体論の立場から、御霊と父と御子の永続的な関係を示すものとして、ここでは現在形の読みを採っています。ただし、13節の「導く」も「語る」も「告げる」もすべて未来形ですから、「聴く」も未来形がほんらいの形だと考えることができましょう。御霊は、これから来臨することが約束されているのですから、今すでに神から聴いているという意味ではないでしょう。8章26節にイエスが「父から聴いた(アオリスト形)ことを語る」とあるのと比較してください。
【これから起こること】イエスと弟子たちの置かれている時の場から見るならば、ここで言う「起こること」は、「これから起こるイエスの受難と復活の出来事」を指します〔ヴォーター『ヨハネ福音書』〕。しかし、ヨハネ共同体の立場から見ると、「聖霊降臨以後に起こる出来事」という解釈が可能です。前後の内容から判断すれば、御霊が告げるのは、ヨハネ共同体を含むイエス復活以後の「弟子たち」に「これから起こること」だと思われます。しかし、ことはそれほど単純ではありません。なぜなら、ここで言う「これから起こること」とは、パラクレートスの到来と共に「告げられる」世の罪への裁きとこの世の支配者が敗北するという終末的な事態だからです。したがって、ヨハネ共同体は、イエスの受難前夜のかつての弟子たちの「終末的」とも言える状況を現在の自分たちに臨むであろう終末と重ね合わせています。「別れの説話は、特にパラクレートスへの言説では、イエスの最後の夜と福音書の作者の時との隔たりが信仰によって取り払われて、教会全体が晩餐の部屋に入り込むことでキリストの栄光に与る。栄光とは、彼(イエス)の死と復活によって(すでに)顕されたものであり、(ヨハネ共同体の)現在においても終末的に顕されているもの」〔バレット『ヨハネ福音書』〕なのです。このことは、ヨハネ共同体の中で、例えば預言活動が起こり、「これから起こる」終末に関する預言/予言が与えられることをも指すのかもしれません。
【告げる】この動詞は未来形で、13節から次の14節にかけて繰り返されます。預言活動は、1世紀の教会において大事な意味を持っていました(第一テサロニケ5章19~20節/第一コリント14章22~33節)。「来るべきことを告げる」は、第二イザヤにさかのぼると考えられます(イザヤ44章7節。「告げる」のヘブライ語は「ナーガド」)。イザヤ書では、「来たるべきことを告げる」のは、主ヤハウェがすることであり、人間にはできないと明言されています。イザヤ書48章では、主なるヤハウェは、「初めからのことを告げ」(イザヤ48章3節)、「事が起こる前に告げ」(同5節)、「事が起こるときわたし(ヤハウェ)はそこにいる」(同16節)のです。ヨハネ福音書では「キリスト」が、イザヤ書では「主ヤハウェ」が「告知」するのです(4章25節)。
ただし、ここ13~15節では、パラクレートスが、「イエスから言葉を受けて」告知/啓示するとあります。御霊は、かつてイエスが弟子たちに語った「こと/言葉」をイエスを信じる者たちにその時々に「思い起こさせ」、そうすることで、「かつてのナザレのイエス」が彼らに語るのです。だから、パラクレートスは「自分から語る」ことをしないのです。こうして、パラクレートスは、イエスの弟子たちが、イエスの十字架以後に遭遇するであろう様々状況において、その時々に正しく対応できるように彼らを「導く」のです。イエスの御霊は、何時の時代でもキリスト者と共に歴史の中を歩み続けて、イエスから聴いたままを示し続けるのです。「(ヨハネ福音書の)作者は、彼のところへ来る真理の御霊に耳を傾けてきたことを明かしている。この御霊もまた<イエス>と呼ぶことができる。ヨハネ福音書のイエス観はきわめて<通>歴史的(trans-historical)で、通常の歴史的境界を踏み越えるものであり、イエス、すなわち御霊(この二つははっきりと区別されない)は、十字架の後も教え続けるのである」〔E. P. Sanders;
The Historical Figure of Jesus. Penguin Books (1993)71.〕。
[14]【わたしに栄光を】ここでは、パラクレートスがイエスに「栄光を与え〔未来形〕」ます。7章39節では、御霊はまだ地上に臨在していませんでした。「イエスがまだ栄光を受けていなかった〔受動相アオリスト形〕」からです。イエスの受難と復活がまだ起こっていなかったからです。ところが、この14節では、パラクレートスは、「イエスを栄光化する〔未来形〕」〔原文直訳〕のです。パラクレートスは、「イエスから出て」(「わたしから受ける」の意味)、キリスト者たちにイエス自身を「啓示し」(「告げる」の意味)、彼らの存在を通して、復活したイエスの栄光をこの世に顕すのです。このように「イエスに栄光を与える」御霊の働きこそ、地上におけるキリスト者の歩みを支える唯一の力であり、慰めであり、希望であり、愛の働きです。
【わたしのものを受けて】この原文を「わたしにあるもの(単数)の<中から>受けて」と理解して、パラクレートスが、イエスにあるものすべてではなく、その中の一部しか弟子たちに啓示しないという見方があります。しかし、ここでは、そのように分析的に内容をとらえるのではなく、イエスの全人格的な存在を「啓示する」という意味に理解すべきでしょう。次の15節もこのような解釈を支持します。
[15]【父が持つものすべて】父が持つ〔現在形〕ものすべてをイエスに与えるのは、御子への父の愛から出ています(3章35節)。「わたしのもの」(複数)とは、それがイエスに「啓示されている/顕されている」ことであり(5章20節)、それゆえに、自分のものとして「知っている」ことです。父が御子を遣わして成し遂げた出来事が、御子を通じて遣わされる聖霊の働きによって、地上のキリスト者たちにあって成し遂げられていくのです。ここにも、父と御子と聖霊の三位一体の交わりが語られています。なお、父が「持っている」〔現在形〕や「わたしのもの」(複数)や、パラクレートスがイエスから「受ける」〔現在形〕のように、この節では、14節に比べて動詞の時制と、単数→複数の変化が目立ちますが、これらの違いはこれまでの内容を変えるものではないでしょう。
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