16章4節(後半)〜15節
■16章
4「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
5今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
6むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
7しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
9罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
11また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
【注釈】
【講話】
■十字架から聖霊へ
キリスト教の象徴は十字架です。十字架はイエス様の死の「しるし」です。「イエス様が十字架にかかられたこと」が、キリスト教の象徴であるというのは、よく考えてみると、とても不思議です。なぜなら、十字架はイエス様の「死」を意味しますから、これから判断すると、キリスト教とは、イエス様が「死ぬ」こと、すなわちイエス様が「いなくなること」になります。キリスト教とはイエス様が始められた宗教だと考える人は、ここで戸惑います。イエス様が「いなくなる」ことがキリスト教なら、どうしてキリスト教をイエス様が「始める」ことができたのだろう? こういう疑問に突き当たるからです。考えてみれば、キリスト教とは実に不思議な宗教です。
16章7節でイエス様は、弟子たちに「わたしが<去っていく>のは、あなたがたのためである」と言われています。「ためである」は「益になる」ことですから、「あなたがたのためになる」と読んでもいいでしょう。イエス様が「いなくなる」ことが、わたしたちの「益になる」というのですから、不思議なお言葉です。イエス様が「死ぬ」ことがキリスト教の「始まり」なら、それまでイエス様がこの地上で生きておられたことはキリスト教と関係がないのでしょうか? そうとも言えません。なぜなら、死ぬのは「イエス様」だからです。その「イエス様」とは、1世紀のパレスチナに生存されたお方です。キリスト教は、いったい何時(いつ)始まったのか? 実はこれ難しい質問なのです。
キリスト教が何時始まったのかをお答えするのは難しいのですが、キリスト教の「エクレシア(教会)」が何時始まったのかは、比較的はっきりしています。それは、イエス様の死後に、イエス様が復活されて、イエス様を通して「聖霊が」人々に降った時からです。「教会」とはなにかを定義するのはややこしいですから、ここでは、単純に、「イエス様を信じる人たちの交わりの集い」ということにしておきます。だから、キリスト教の「エクレシア(教会)」とは、現在、イエス様を信じている「わたしたちの交わりの集い」のことです。イエス様は、聖霊のことを「弁護者」(パラクレートス)と呼んでおられますから、わたしたちがイエス様を信じていることと、わたしたちが集まりを持っていること、これはイエス様が「お遣わし」になった聖霊(パラクレートス)のお陰だということになります。だから、イエス様は「あなたがたの益になる」と言われたのです。
このように見ると、イエス様の十字架が、ただの「死」ではないことが分かります。十字架は、地上におられた「イエス様」と「わたしたち」を結ぶ大事な働きをしているのです。わたしたちをイエス様と結んでくださる方、これがパラクレートスです。ここで「結ぶ」と言いましたが、いったいだれが結ぶのでしょうか? イエス様の「死」が結んだのなら、イエス様がご自分で「結ぶ」ことはできません。ではパラクレートスなのか? そうでもありません。パラクレートスは、イエス様の「死の後で」遣わされたからです。だから、結んだのは、イエス様をこの世にお遣わしになった方、地上でわたしたち人間と共に困難・苦難を分かち合うためにイエス様を「この地上に生まれさせてくださった」父なる神が結んでくださった。こういうことになります。父なる神、父がお遣わしになったイエス様、イエス様の死をとおして遣わされた聖霊(パラクレートス)、御父と御子と御霊、このお三方がいなければ、イエス様を信じる人たちが集まって交わりを持つことがありえなかったのです。キリスト教の「エクレシア(教会)」は、三位一体の神によって生まれたと言われるのはこのためです。
■罪について
16章8節には、イエス様の御霊が降ると、「罪について、義について、裁きについて告発する」とあります。「罪」とはこの世の人々の罪のことです。この世の人々とは、イエス様を信じない人たちのことだけではありません。イエス様を信じているわたしたちをも指しています。なぜなら、わたしたちは、現在、「この世」にいるのですから。「告発する」というのは、ただ非難したり批判したりすることではなく、ちょうど裁判の時のように、罪をその人自身にごまかすことなく「突きつける」あるいは「認めさせる」ことです。だとすれば、この世にいて、イエス様の御霊を受けているわたしたち自身こそ、御霊の働きによって罪を突きつけられ、ごまかすことができないほどはっきりと認めさせられることになります。パウロがこのことを教えていますが、ヨハネ福音書でもこの点は同じです。 「パラクレートス」は、イエス様を信じない人たちには検事となり、イエス様を信じる人たちには弁護者となる。皆さんはこう思うかもしれませんが、それほど単純ではありません。イエス様は、パラクレートスを「真理の御霊」と呼んでおられます(13節)。もしも、イエス様を信じているから、わたしたちに「罪がない」と言い張るなら、これは真理ではありません(第一ヨハネ1章8節)。地上を歩まれたイエス様が、復活されて今も御臨在くださる。真理の御霊は、このことを信じる人に顕します。だから「真理の御霊」とはイエス様ご自身のことです。
十字架におかかりになる以前のイエス様は、わたしたちと同じ肉体を具えておられました。このイエス様が、とても大事なのです。もしも、このイエス様が、この世の人間のあらゆる苦悩や罪の力を体験されたお方の聖霊でなければ、地上に生きているわたしたちの罪を「告発する」ことなどとうていありえません。まして、「世の罪を取り除いて」(1章29節)わたしたちを罪から救うことなどできるはずもありません。イエス様が、わたしたちを導くことができるのは、わたしたちと同じ肉体を具えてこの地上を歩まれたからです。このイエス様の御霊であればこそ、わたしたちの生き方に潜む「罪」をわたしたちに向けて「告発する」ことができるのです。
感謝すべきことに、御霊によって告発されたわたしたちの罪は、ちょうど法廷での裁判のように、必ず断罪されます。断罪されるそのことによって初めて、わたしたちは、自分の罪から「自由に」されるからです(ローマ8章3節)。イエス様の御霊が、わたしたちにしてくださることは、まさにこのことです。御霊は、罪を告発し、その罪を断罪し、これによって、わたしたちをその罪の働きから解放してくださいます。これができるのは、わたしたちと同じ肉体を具えてこの地上を歩み、十字架におかかりになったイエス様だけです。
■義について
16章10節に、御霊はわたしたちに「義について」示してくださるとあります。パウロ書簡では、「義」とは、人間の正しさに対立する「神の義」のことですが、この「神の義」には、不思議にも「赦し」の意味がこめられています。「過ちを犯すのは人間のすること。これを赦すのは神のなさること」という言葉が、イギリスの詩人ポウプの詩にありますが、このような「赦し」の働きこそ「神様の正しさ」だという意味です(マタイ5章44〜48節)。
ただし、ヨハネ福音書には、ここで不思議なことが語られています。それは、わたしたちに神の義が顕されるのは、「わたしたちがもはやイエス様を見なくなるからだ」とあることです(16章10節)。これはどういう意味でしょうか? なぜイエス様を見なくなることが、神の義がわたしたちに顕されることにつながるのでしょうか? それは、「わたしたちのほうからは」何一つできないからです。言い換えると、神の義が顕されるとは、わたしはなんにもしない。なんにも言わない。なんにも見ない。ただ黙って、見えないイエス様のお言葉を聴くだけだからです。イエス様が見えなくならなければ、このような事態は生じません。人が自力でなにひとつできないこと、このことが、わたしたちにはっきりと認識されたその時こそ、ほんとうの意味で、真理の御霊のお働きがわたしたちに始まるのです。その時こそ、「イエス様の御栄光が」わたしたちに顕れるからです(16章14節)。そうでなければ、人は、自分に生じていることが、自分の思いこみや自分の才覚や賢さから出ているのではないかとうぬぼれるからです。そういううぬぼれが一切通じない状態の中で、それでもなお、だめな自分を支えてくださる力が、どこからか、ちょうど風が吹いてくるように(3章8節)感じ取れるとすれば、それこそ、イエス様の聖霊のお働きです。
だからこれは、徹頭徹尾「される」世界です。わたしたちがイエス様を見るのではない。イエス様に見られていることを察知するのです。わたしたちが自力で動くのではない。神様から働きかけられていると悟るのです。わたしたちが、何かを行なうのではない。不思議な御霊の助けによって、行なわされている自分を見出すのです。このようにして、わたしたちは、自分の罪を自覚させられ、これを通じて、自分の内にイエス様の聖霊が働いて、イエス様の義が「我知らず」成就されていく(マタイ6章3節)、ということを体得するようになります。
■断罪について
続いて「この世の支配者が断罪される」(16章11節)とあります。わたしたちに働きかける悪い力は、自分の罪や弱さから出たものだけではありません。自分ではどうすることもできない外からの力もまた、わたしたちを罪や悪へ引きずり込もうと働きます。わたしたちが今いる「この世」には、邪悪な力が働いていて、しかもその力は、一人一人ではどうにもならないほど圧倒的に強大です。だから、イエス様はこれを「この世の支配者」と呼んでおられます。
もしもあなたが、こういう力に、自力で立ち向かおうなどとうぬぼれて、ひとりよがりな行為に走るなら、あなたは、「確実に」その力に支配されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか? わたしたちは、なんにもしないし、できません。ただ黙って、イエス様にお委ねする。それだけです。そうすれば、イエス様の御霊が働いて、あなたが想像もできないような働きで、あなたの重荷を取り除いてくださいます(マタイ11章28節)。この世の支配者の力は、イエス様の御霊の働きに勝つことができません。なぜなら、「この世の支配者」は、イエス様の御霊によって「すでに断罪されている」からです。だから、この悪の力は、イエス様の御霊にけっして勝つことができないのです(14章30節/16章33節)。
それでも、わたしたちがこの世にいる間、悪の力は、いぜんとして働きかけてきます。わたしたちが地上にいる間、こういう「闇の力」がなくなることはありません。この邪悪な力は、イエス様が再び来られる「終末の時」に、必ず滅ぼされる。聖書は、わたしたちにこう告げています。イエス様の御霊がすでに打ち勝っているのに、それでもなお、悪の力がいぜんとして働き続けるのは、まだ「その時」が来ていないからです。それでも、わたしたちは、悪の力に「支配される」ことがありません。御霊にあって支えられているからです。イエス・キリストは「すでに世に勝って」いるのですから、イエス様の御霊は「終末の時まで」勝ち続けていくことができるのです。こういうところが、イエス様の御霊のお働きの不思議なところです。すでに見てきたように、ヨハネ福音書には、このように不思議な時間関係が、しばしば表われます。
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