【注釈】
■14章25~31節について
 今回の段落の中心となるのは26節です。この段落では、16~17節のパラクレートスの約束が再び語られ、27節で、14章1節の平安が再び約束され、28節では、2~3節での別離と再来が改めて告げられます。さらに、29~30節では、13章19節で語られたことが再確認され、これに続いて30節で、13章27節に始まるこの世の支配者(サタン)の働きが再び告げられます。だから、この段落全体が、13章18節~30節のユダの裏切りへの予告と14章1~7節でのパラクレートスの約束を再確認する構成になっています。ヨハネ福音書特有のこの螺旋状の繰り返しによる深まりは、16章4~7節へつながります。
■14章25~27節
わたしがこれらのことを話したのは、
あなたがたと共にいた時である。
しかし、弁護者である聖霊、
父がわたしの名によってお遣わしになる方、
この方はあなたがたにすべてのことを教え、
わたしが話したことをことごとく想起させる。
わたしは、平安をあなたがたに残す。
わたしの平安をあなたがたに与える。
世が与えることのない平安をわたしは与える。
あなたがたがは心を騒がせるな。おびえるな。
            
[25]【これらのことを話した】「あなたがたと共にいた時」とあるように、ここで視点は、かつてのイエスと弟子たちの時へ戻ります。「共にいた時」とは、地上でイエスが弟子たちと過ごした時全体を指し、「話した/語った」とは、イエスがその間に弟子たちに語ったすべてのことを指します。完了形の「語った」は、その言葉とその出来事が、今なお続いていること、ヨハネ共同体の時にも、それ以後も続いていくことを表わします。こういう意味の「話した/語った」は、16章でも繰り返されます(16章1節/同4節/同25節/同33節)。
 イエスは、弟子たちと別れようとしています。しかし、「あなたがたと共にいた時」に語ることができたのは、ごくわずかです。信じない者も、信じる者も、「今は」イエスの言葉のほんとうの意味を理解できないからです(16章12節)。ここでも、イエスがそれまで弟子たちと過ごした過去、別れようとしている「今」、そして、これから「事が起こる」であろう未来(14章29節)がひとつになって、イエスと弟子たちが於(お))かれた「その時」を想起させるのです。イエスが「語るべくして語らなかった」言葉は、十字架と復活と、その結果与えられる聖霊によって、ヨハネ共同体に語られています。イエスが語った言葉と語りたかった言葉とが、続く26節で、聖霊によって弟子たち(とヨハネ)に想起されるのです。
[26]【聖霊】ヨハネ福音書で「聖霊」という言葉がでてくるのは1章33節/14章26節/20章22節の3回です。これ以外は「御霊/霊」(7章39節)であり、14章以降では「パラクレートス」がでてきます。冠詞つきのギリシア語の「聖霊」"the Holy Spirit”は14章26節で、これはキリスト教会で初めて用いられるようになりました(キリスト教以前のユダヤ教では「聖なる霊」"the spirit of holiness"という言い方をしました)。
 今回の「聖霊」が重要視されるのは、「パラクレートス」と「聖霊」とが同じであると証言されているからです。ヨハネ福音書の最初期の段階では、ここは「御霊」であったのが、編集過程で「聖霊」になったという説もありますが、「パラクレートス」と「聖霊」との同一視を疑う説は、ここの「聖霊」を後からの付加的な挿入だと見なします。ヨハネ共同体が、後になってキリスト教会の主流に加わるために、その必要から行なった編集によると見なすからです。しかし、「聖霊」は、ヨハネ福音書ほんらいの読みに属する古いものですから、わたしは、「御霊」から「聖霊」への移行が、もしあったとしても、それは外部との関係から生じたと想定するよりも、共同体内での伝承過程の中で行なわれたと考えます。したがって、この「聖霊」をパラクレートスと区別するのは適切でありません。
【わたしの名によって】聖霊は、イエスの名によって、父からわたしたちに「遣わされた」ものです。父は、御子イエスを地上に「遣わした」ように、御子の名によって、聖霊を地上のわたしたちに「遣わす」のです。イエスが父を顕すように、聖霊はイエスを顕します。かつて地上の人たちに与えられた御子イエスの啓示が、こうしてヨハネ共同体の時にも、それ以後も継続するのです。過去の啓示が現在となり、現在の啓示は未来へ続くのです。父と子と聖霊はここでひとつです。「26節の三位一体的な意味合いは、パラクレートスについてのほかの言説同様に明白である」〔ビーズリ=マレー『ヨハネ福音書』〕。
【教える】「教える」は、知識として伝えることではありません。イエスに従う者たちが、現実の歴史的状況の中で、具体的実践的な歩みができる知恵と力と慰めが働くことを「教える」は意味します。聖霊はこのために遣わされるのですから、これは御子の贖いを通して働く賜(たまもの)です。わたしたちの「信仰」も「行ない」も、「語る」言葉も、この聖霊の「教え導く」働きに含まれます。それだけでなく、聖霊が「与えられている」そのことを覚るのもまた聖霊の働きです。ちなみに、「教える」も「思い起こさせる」も、主語は「この方」と男性の三人称で表わされますから、聖霊は「ペルソナ」(位格/人格)であって、機能的な働きにすぎない「霊能」や「能力」から区別してください。聖霊は主の弟子たちに宿り、彼らを通して全人格的に働きますから「すべてのことを(教える)」とあるのです(第一ヨハネ2章27節)。聖霊は、このように個人に宿り、それぞれに固有の霊性となって働くのです。
【思い起こさせる】「想起させる」は、ヨハネ福音書ではここだけです。ただし、これと同じような「想い出させる」は、イエスが「この神殿を壊してみよ、三日で直す」と告げる場面に用いられており(2章22節)、イエスのエルサレム入城の時にも使われます(12章16節)。「想起させる」とは、人間イエスのかつての言動を実証可能な歴史的出来事として再現させることではありません。そうではなく、神の御子イエスの霊性を通して人びとに顕現した「霊的な出来事」をわたしたちに想い出させることであり、その働きによって、かつて顕れた啓示の出来事を再び「生起させる」こと、これが聖霊がわたしたちに「想起させる」ことの意味です。
 「神殿を建て直す」というイエスの言葉にあるように、イエスが語る比喩/譬(たとえ)の意味を聴く人に悟らせること、これが聖霊によるわたしたちへの想起です。エルサレム入城に見るように、イエスの「出来事」が本当に意味していたことを後から覚(さと)らせること、これが御霊の働きによる想起です。だから聖霊は、今まで語られなかった「新しいこと」を啓示するのではありません。すでに「語られた」こと、すでに起こったナザレのイエスの出来事をわたしたちに「想起させる」のです(第一ヨハネ2章7~8節)。比喩を想起し、出来事を想起するとは、イエスの言葉とイエスの出来事を霊的な啓示として「解き明かす」ことにほかなりません。これが、ヨハネ福音書の言う「想起させる」の意味です。
[27]【平和を与える】「平和」は、社会的な意味で言えば、戦争や虐げのない状態のことです。しかし、当然これに伴う心の「平安」をも含みます。旧約聖書では、どちらかと言えば社会的な意味が強いのですが、イエスの時代に「シャローム」は、個人の「健康と安心」の意味で挨拶として用いられました。また、キリスト教会では、「恵みと平安/平和」が挨拶の言葉になりました(ローマ1章7節)。
 「平和/平安」は、旧約聖書が預言するメシアの霊性の特長です(イザヤ9章5節/ゼカリヤ9章9~10節)。今回は、この「平和/平安」が、遺わされる弟子たちに約束されるのです。しかし、現実の世は、争乱と搾取と不安で満ちています。このような「心を騒がせる」状況の中にあっても、「恐れ怯える」状態にあっても、父がイエスのみ名によって遣わすパラクレートスの御霊は、信じる者に平和と平安を「創造し」宿らせてくださるのです。御霊は、その平和と平安を周りに広めるよう働きかけます(知恵の書3章3~5節/マタイ5章9節)。だから、ここでの「シャローム」は、この世の人が交わす挨拶とは異なるのです。
 
■28~29節
あなたがたはわたしが言うのを聞いた。
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ来る』と。
だが、わたしを愛するなら、喜んでほしい。
わたしは父のもとに行くのだから。
父はわたしよりも偉大な方である。
今、事が起こる前に話しておくのは
起こったときに、あなたがたが信じるためである。
 
[28]【去っていく】「去っていく」は13章33節/14章4節の「行く」と同じ原語です。また「戻ってくる」の原語は「来る」で、14章3節/同18節と同じです。「去る」と「来る」で、イエスの受難と再臨を指すともとれますが、28節の後半の「喜ぶ」や29節と考え併せると、「来る/戻る」は、近い未来の聖霊の降臨をも視野に入れていると見るほうが適切です。聖霊降臨も再臨も、弟子たちと主イエスとの「交わりの喜び」を意味することでは同じだからです。
【わたしを愛しているなら】直訳すると「あなたがたが、仮に私を愛しているとするならば、喜んだだろうに」となり、これは現在はそうでないという事実に反する仮定の意味になります(”If you loved me, you would rejoice that...”〔NRSV〕)。だから、ここでは、受難を控えた弟子たちが、イエスをまだ真に愛するまでにはいたっていないと見ているのです。御霊の働きを通じて初めて、彼らのイエスに対する愛が、ほんとうに成就するからでしょう。ただし、こういう仮定をやや弱めて、「もし本当に、あなた達がわたしを愛しているなら~喜ぶはずである」〔塚本訳〕と説得する解釈もあります。イエスを「本当に愛する」とは、イエスの内に父からの愛が啓示されているのを知ることで、その愛のうちに留まり続けることを意味します。イエスの愛を知ることは、父の愛を知ることであり、その結果、イエスを愛する信仰へ到達するからです(第一ヨハネ4章19節)。
【父はわたしよりも偉大】ここは、2世紀以後のキリスト教の教父たちの間で大きな問題になった箇所です。この節に限らず、ヨハネ福音書は、後のキリスト教神学で、特に三位一体の教義の成立に大きな影響を与えました。それは、イエスが、その霊性において、父なる神の御子であることをこの福音書が一貫して証ししているからです。三位一体の教義は、第一回ニカイア公会議(325年)においてその正統性が公認されます。しかし、そこにいたるまでに(それ以後も)、多くの論争が重ねられました。論争の発端は、アレイオス(256?~336年)が、「御父は(御子と)同時に(存在し)、御子は(御父と)同時に(存在する)。御子は常に生まれる者であって生まれざる者であり、生まれずに御子は御父と共に存在している。神は御子を思惟によって発出したのでも、何らかの瞬時の経過の後に発出したのでもない」〔小高毅訳〕とある信条に同意しなかったからです(318年)。彼は、万物に先立つ先在のロゴスである子といえども、父によって創造された被造物であるから、子は父に「従属する」存在であるとして、子を父の下位において、父と子とをはっきり区別しました。これが「アレイオス主義/アリウス主義」と呼ばれる教義です。アレイオスの信仰は、アタナシオス(295?~373年)たちによって糾弾され、ニカイア公会議で異端とされました。ただし、アレイオスは使徒信条をそのまま受け入れています。  
 ヨハネ福音書のこの節の解釈に、三位一体の内実に及ぶ後の教義論争を読み込むのは適切とは言えないかもしれません。しかし、教父たちが、この節をどのように読んだかを知ることは、福音書のイエスの霊性を認識する上でも大事だと思いますから、ごく簡単に紹介しておきます。
 ある教父たちは、子は父によって「生まれた」のだから、父は子よりも「大きい/偉大である」と考えました(テルトゥリアヌス/オリゲネス/アタナシオス)。「御子は生まれた者として御父とは別のものであるが、神として御父と同じである」〔『アレイオス派論駁論』〕とアタナシオスは言います。テルトゥリアヌスは次のように言っています。
 「御子が父と別であるのは、似ても似つかぬということではなく、配分という意味においてであり、分割ではなく区  別(distinction)という意味で別なのである。なぜなら、父と御子は同じではなく、大きさに関してお互いに別であるからである。すなわち、父は全実体であり、いっぽう御子は、自ら『父は私より大きい』と表明しているように、全体から導き出されたもの、全体の部分(derivatio totius et portio)である。(中略)父が御子と『別』であるのは、父は御子よりも大きいという意味においてであり、生む者と生まれる者が別であり、遣わす者と遣わされる者が別であり、造る者とその補助者が別であるという意味においてである。」〔テルトゥリアヌス『プラクセアス反論』土岐正策訳〕
 アタナシオスに続くアンブロシウス(339~97年)やアウグスティヌス(354~430年)は、この28節について、ロゴスが受肉することで「人間」となった地上のイエスは、神と等しい御子ではあるが、「肉の姿」としては、創造主の父のもとにあるがゆえに、「父は子よりも偉大である」と解釈しました。アウグスティヌスは次のように述べています。 「彼(御子)はまさに『自分を空しくして僕の身分になられた』(フィリピ2章7節)のであった。すなわち、神のかたちを捨てないで僕のかたちを引き受けられたのである。父と共にいるよりもいと小さき者に仕える仕方でおのれを空しくされたのである。事実、彼は僕のかたちをとられたが、神性を失わなかったのである。一つを引き受けて他を捨てることはなかったのである。人間のかたちをとる者として『父はわたしよりも偉大なかたであるからである』と言い、神のかたちを離れなかった者として『わたしと父とは一つである』(10章30節)と言われたのである。」〔アウグスティヌス『ヨハネ福音書』第78説教〕
 テルトゥリアヌスは創造論の立場から、アウグスティヌスは受肉論の立場から、それぞれに父と子との関係を読み取っています。ここの父子関係については、バレットが、これらふたつの見解を踏まえた上で、「遣わす」と「遣わされる」というヨハネ福音書独特の「起源」への問いかけに基づいて、次のようにまとめています。
「父は、そこから子の存在が発する源泉である。父は、遣わし命じる神であり、子は遣わされ従う神である。ヨハネの思想はここで、地上における子の生の卑賤に集中する。それは、子の地上での死において、今や絶頂に達すると同時に終焉を迎える(神の)卑賤なのである。」〔バレット『ヨハネ福音書』〕
 子が父に従順であり、父の御心を行なっていることはこの福音書で一貫して語られています(5章19~20節/10章30節)。ここでイエスは、子が父のもとへ行くことが「弟子たちにとって」喜ばしいことだと告げています。なぜなら、受難と復活・昇天を通じて、父と子が栄光を顕すだけでなく、その結果、弟子たちが、父と御子との交わりの「喜び」に導き入れられるからです(第一ヨハネ1章4節)。続く29節から判断すると、地上のイエスよりも「もっと大きな業」(14章12節)を成就することは、まさに弟子たちの「この歓び」と関連していると思われます。父が子のみ名によって遣わすパラクレートスは、これによって、以後の全人類に、地上での子の業を超える働きをするからです。
[29]【事が起こったとき】原文は「生起した時」です。「事が生起する前に(語る)」とありますから、「事」とは、これから起こる受難と復活と昇天、続く聖霊の降臨を指します。「生起した」とあるように、福音は「生起する」神の出来事です。出来事として、それは歴史的です。しかし、先に述べたように、「事」は神の「霊的な」出来事です。「霊的」とは、出来事の根源から、これに意義を与える働きのことです。ヨハネ福音書の視点から見るなら、神の霊的な出来事なしには、そもそも「歴史」は意味を持たないのです。この世で生起する断片的な事件や雑多な現象が、はたして「歴史」と呼べるでしょうか?ここでは、人間の思い描く「歴史」の意味それ自体が、根底において問われているのです。なぜなら、神の出来事こそ、歴史それ自体を成り立たせ、かつ歴史に潜む根源の意義を人間に啓示するからです。  
 ヨハネ福音書は、ここで「事が起こる前の」弟子たちを想起しています。同時に、「事が起こった後の」ヨハネ共同体の状況をも知っています。イエスの復活と聖霊降臨以来、キリストの諸教会は、ここで語られている「事」が、どのような出来事であったかを御霊によって覚ることができました。その結果、ヨハネ福音書の人たちは、イエスの出来事を「信じる」ことができました。しかし、イエスの出来事を「信じる」ために、わたしたちは、ヨハネ共同体と同様に、常に「あの出来事」を想起させられ、そうすることによってその出来事の意味を啓示される必要があるのです。このような啓示こそが、続く「闇の世の支配者」に対処することができる唯一の道だからです。
■14章30~31節
もはや、あなたがたと多くを語るまい。
世の支配者が来るからである。
だが、彼はわたしをどうすることもできない。
かえって、これで世は知るようになる、
わたしが父を愛し、父が命じたとおりに行なうことを。
さあ、立て。ここから出かけよう。
 
[30]【多くを】この言葉が抜けている異読があります。「もはや語るまい」と読むなら、14章の終わりが、そのまま18章へつながります。だから「多くを」は、15章以下を挿入する際に、14章とのつながりを作るために加えられたと見ることができます。しかし、「多くを」が抜けた読みは、ギリシア語原典の異読の欄にはでていません。これは挿入が行なわれたとしても、非常に古い段階であったことを示しています。「後になって」加えられたと言うよりも、本文それ自体が形成される過程で加えられたと見ることができます。だから「挿入」と言うよりは、ほんらいの読みに属すると言うべきでしょう。だとすれば、14章~18章は、現行のままのかたちで読まれるように意図されていたことになります。
【世の支配者】これについては12章31節の注釈「この世の支配者」をお読みください。この言い方は、新約聖書では、ヨハネ福音書の12章31節/14章30節/16章11節だけに見られます。ただし類似した言い方はほかにもあります(12章31節注釈参照)。
【どうすることもできない】原文は「彼はわたしに主張すべき権利を何も持っていない」です。この言い方はヘブライ語から来ていて、支配者が、税などを要求する権利がないことを指しています。しかし、ここでは、支配者であるサタンが、イエスに対して何一つ手出しができないという意味で、これはイエスにはサタンに対して負い目となる罪が全く見いだせないことを指すのでしょう。「彼はわたしに何も見いだせない」と読む異読がありますが、これも同様のことを言い換えたのでしょう。「わたしに指一本ふれることはできない」〔塚本訳〕。
 これからイエスに起こる出来事は、父の御心に完全に「支配」されていますから、イエスはその御心に自分を委ねるだけです(19章11節参照)。しかも、イエスは、その行為を自分の自発的な意志によって行なおうとしています(10章18節)。「この世の支配者」は、見える姿の大祭司を頂点とするユダヤの指導者たちですが(11章49~50節)、霊的な出来事として観るなら、彼らを操るサタンとイエスとの闘いです。「この世の歴史」レベルで見るならば、イエスを待つのは処刑による死だけですが、霊的なレベルで観るならば、父の御心に従い抜くことで成就する御子イエスの勝利です。イエスの出来事に潜む歴史レベルと霊的レベルとの間の溝が、ここで最大限に広がるのです。イエスという「人の子」が、彼の見せる外側の人間と、内からその人間を支える父の御霊の働きとの間で十字架されるのです。
[31]【わたしが父を愛し】「イエスが父を愛する」とあるのは、ヨハネ福音書ではここだけです。見える歴史で死に向かい、見えない歴史で勝利に向かうのです。イエスは十字架の死の<後で>キリストになったのではありません。イエスは神の御子としてこの世に来られました。だから、勝利して復活することは、すでに父によって定められているのです。「この世の支配者」という黙示的な言葉がここに表われるのは偶然ではありません。歴史は予め神によって定められているからです。人の生の裏には死があるように、人の歴史の裏には終末が潜むのです。だから、イエスの復活は、み言が肉となったその時から、すでに復活<すべく>定まっており、世はこのことを知るべくして知るのです。イエスは復活すべくして復活しました。このことは、聖霊降臨の直後のペトロの説教でもはっきりと語られています(使徒2章31~32節)。ではイエスは、見える歴史と見えない歴史の狭間で引き裂かれたのでしょうか? そうではありません。イエスは終始、「父のお命じになったとおりに」生きるからです。では、イエスの意志は放棄されたのでしょうか? そうではありません。イエスの行為は「わたしが父を愛した」からです。それゆえイエスの自由な意志から出た行為なのです。だから、「父を愛する」というこの言葉は、地上における人間イエスの霊性が凝縮した一言です。
【世は知るべき】原文では、ここが文頭に来ていて、前節を受けて「だが、これは、世が知るようになるためである」とさらに説明を補足する言い方になっています。闇の力に支配された世の指導者たちによって死を迎えることと「父がお命じなったとおりに行なう」こと、見える歴史と見えない歴史とが、ここではっきりと対決します。見える歴史の奥に潜む見えない歴史が啓示されることによって、世の人の目に映る「歴史」が砕かれて、つじつまの合わない無意味な断片になるのです。いわゆる「歴史」が、その本体を啓示されるのです。けれども、見える敗北が勝利であること、死が復活であること、この世の歴史観は、はたして「このこと」を悟るでしょうか? イエスは「彼の」信仰を全うした。イエスは、人間として、自分の信じる「信仰」に殉じた。せいぜい、世の人たちの目には、このように映るのではないでしょうか? そうではなく、受難は、イエスが父に遣わされた目的そのものであって、「イエスは信仰者でもなければ殉教者でもない。彼の死は、彼の使命そのものであって、『み言は肉となった』にすでに含まれている。それゆえ彼の死は世に対する勝利なのである」〔ブルトマン:杉原助訳〕ということが、世の人に分かるでしょうか? 自分には見えている、こう思い込んでいる者が、実は盲目であり、盲目だと思われる者がその目を開けられる(9章41節)。こういう、ヨハネ独特の皮肉をここにも垣間見ることができます。
【ここから出かけよう】これについては、「愛の戒めと否認の予告」(13章31~38節)の注釈にある「13章31節~17章26節の錯簡説」の項目を参照してください。
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