60章 イエスの平安
                   14章25〜31節
■14章
25「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
                  
                    【注釈】

                                    【講話】
■御霊の導き
 前回は、もう一人のイエス様について語りましたので、今回は、そのもう一人のイエス様が、わたしたちに何を与えてくださるのかについて語ります。一つは、「教え導く」こと。もうひとつは「平安/平和を与える」ことです。これによって、わたしたちは、たとえ「この世の支配者が来る」(30節)ときでも、御霊の二つの働きが変わらないことを悟るのです。
 「教え導く」とは正しい道へ導くことです。正しい道とは真理の御霊による導きです。「真理」とは、イエス様が神の御子キリスト(救い主)であることです。わたしたちは、漠然と祈ったり、学んだりするのではありません。イエス様の御言葉と御業の意味を知るために祈り、学ぶのです。イエス様の御霊が、わたしたちを祈りへ、学びへ導いてくださるのです。「わたしがあなたがたに話したことをことごとく思い起こさせる」とは、この意味です。イエス様が「話したこと」とあるのは、イエス様の御言葉だけではありません。イエス様が地上で行なわれた御業のすべても含まれます。御言葉と御業の両方が、イエス様の「出来事」です。御霊が、イエス様の出来事をわたしたちに解き明かし、イエス様が、神の御子キリストであることを覚らせてくださるのです。
 御霊は、イエス様を証しするのであって、ほかの人を指し示したり、顕したりはしません。ダレソレ先生だとか、ドコソコ教団だとか、御霊はそういうものをわたしたちに指示したり、顕したりしません。御霊は「わたしを」顕すからです。「わたし」を教団全体に顕すのではありません。教会堂の中の人だけに顕すのでもありません。だれかほかの人が仲立ちになって、イエス様の「代わりに」その人が現われるのでもありません。御霊は、「あなたに」イエス様を顕すのです。「あなた」を教え導くのです。
 だから、人の話を聞いて感心しているだけでは、御霊は働きません。自分の頭の中だけで考えている間は御霊は働きません。知識として聖書を知っているだけでは御霊は働きません。人から話を聞くこと、自分で知識を身につけること、自分でいろいろ考えること、これらは大事なことですが、それは御霊の働きではなく、「あなたの」働きです。ほめられるのは「あなた」のほうであって、神でもなければ御霊でもありません。
 御霊が働くのは、あなたが「祈り求める」時だけです。その時に、「祈るあなたに」働いてくださいます。その時あなたは、自分の栄光ではなく、イエス様を遣わしてくださった神の御栄光を求めるからです。「わたしの父が栄光を顕す」とあるのはこのことです(12章28〜30節/17章4〜5節)。あなたを「真理へ」導くのは、イエス様の御霊ご自身だけであって、ほかの者にはできません。「真理を知る」とは、入学試験です。誰かがあなたの代わりに受験することは許されません。試験のために、いろいろと人に教えてもらうことはできます。しかし、御霊にある真理を学ぶ試験は、あなたが「自分で受ける」しかないのです。あなたが祈り求めるときに初めて、御霊は、それまで学んだこと、知ったこと、すなわち、イエス様の御言葉とその御業を「分からせて」くださるのです。「あなたがたにわたしが語ったことをことごとく<想起させる>」とイエス様が言われたのはこの意味です。
■御霊の平安
 この世で生きるわたしたちにとって、仕事や家族も安心や平和を与える助けになります。人の助言や助けも安心を得る術(すべ)になります。しかし、イエス様の御霊が与える平安は、「世が与える」平安とは異なります。イエス様の御霊が与える平安は、あなたが直接イエス様に求めるときにだけ与えられる平安です。人に祈ってもらうのもいいでしょう。しかし、平安が働くのは、イエス様の「み名による」祈りから来るのであって、祈ってもらう人からではありません。人からの祈りも目指すところは一つ、「あなたが」自分でイエス様に祈る、そして平安と慰めを与えられることなのです。あなたが、御霊の導きによってイエス様と結びつくこと、これが本当の平安をあなたにもたらす唯一確かな道です。
 不安定な世の中にあっても、なお与えられるのが「イエス様の平安」です。これは、「この世」が与える平安ではなく、神によって与えられる平安です。それは、「この世」が与えてくれるすべてをあなたが失った、その時でも、と言うよりも、その時に初めて、御霊があなたにあって創り出す平安です。このような平和/平安は、ほんらいこの地上に具わるものではありません。「天には栄光、地には平和」(ルカ2章14節)とあるように、天の栄光と結びついて初めて実現する絶対的な平安/平和です。
 だから、平安は、不安の真っ直中でも創り出されます。平安の源は、あなたに顕された御霊のイエス様から来るからです。そこが、あなたの平安の源ですから、これをあなたから奪う者はいません。この世の闇の力は、あなたに働き、祈りを妨げ、心をかき乱すでしょう。それでも、そのような自分の弱さや心の乱れや外的な妨げは、イエス様の御霊の働きに全く影響しません。それらもろもろの闇の力とその働きは、御霊の働きを止めることができません。イエス様が「彼はわたしをどうすることもできない」と言われたのはこのことです。あなたが祈りにおいてイエス様に向かうときに初めて、イエス様から御霊にある平安が訪れます。これが地上のイエス様がわたしたちに「遺して」くださった御霊の働きであり、御霊のイエス様がわたしたちに「与えて」くださるものなのです(14章27節)。
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