【注釈】 13章34~35節で語られる新しい戒めは、共観福音書にはないところです。この戒めがヨハネ福音書でどのような意味を持つのかについては、前回の講話と注釈の解説「13章について」ですでに述べました。14~16章は、イエスが「立ち去る」ことと残される者への告別説話です。今回の箇所は、これとつながりながら、愛の戒めとペトロの否認への予告が語られます。
■イエスの「時」と栄光
今回のところでは、「今や」(31節)とあり、「すぐに」(32節)とあり、「いましばらく」(33節)とあり、再び「今」(33節)とあり、「新しい」(34節)が来て、再度「今」(36節)があり、続いて「後で」(36節)とあります。さらに「なぜ今」(37節)とあり、「鶏が鳴くまでに」(38節)で終わります。このように、ここでは「時」を表わす言葉が繰り返しでて来ます。しかもこれらの「時」が、イエスの栄光と愛の戒め、それにペトロの否認予告と結びついています。ヨハネ福音書は、これらの「時」をどのように観ているのでしょうか。
31節に「今や、人の子は栄光を受けた」とあります。この「今や」は「栄光を受けた」という過去形(ギリシア語アオリスト形)と結ばれて、三度も繰り返されます。続いて「栄光をお与えになるであろう」(32節)と今度は未来形が来ます。ここの「今や」が、ユダの裏切りによってサタンが行動を起こしたその直後の時を指しているのは間違いありません。しかし、それだけでないことは、「今」が「栄光を受けた」という過去形と結びついているのでも分かります。さらに、イエスによって「神も栄光を受けた」とあって、神とイエスの両方の「栄光」が過去形で重ねられています。ここで言われている「栄光」が、これから起こるイエスの受難を指していることは、すでに見てきたとおりです。イエスが言う「その時」がいよいよ迫っているのです。だとすれば、「受けた」とある過去形は、これから起こるであろう「未来を先取りした過去」という不思議な「時」を意味します。これから起こる未来の出来事をなぜわざわざ過去形で語るのでしょうか? ひとつには、イエスが、この13章までに、「すでに」数々のしるしを通して神の栄光を現わしていることをも含めていると見ることができます。ヨハネ福音書の「今や」は、過去へさかのぼると同時に未来へもつながる不思議な「現在」です。「神が栄光を現わされた」とあるのが、すでに起こった過去の「栄光」を指すのであれば、これはヨハネ福音書の初めにでてきた「わたしたちはその栄光を観た」(1章14節)とある「栄光」ともつながることになりましょう。「今や」は、このようにして、世の初めから存在していたロゴスの先在と、そのロゴスが「肉となって」この世に来た時の栄光と、その栄光がイエスによって数々のしるしとして現わされた地上での時と、そして今、ユダの裏切りによって始まろうとしている受難の時と、これらのすべてをここでの「今や」が含んでいることになります。「『人の子は栄光を受けた。』それは、過去と未来を互いに結びつけるあの今である。それがここで『栄光を受けた』(31節)と『栄光を与えよう』(32節)との逆説的な併記によって特に明らかにされている。・・・・・『永遠の相の下では』すでに起こっていることが時間的な未来として展開される。そうである限り、この『栄光を与えよう』は・・・・・近くに迫っている受難を指示する」〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕。
しかし、イエスの「栄光」は、受難を指すだけではありません。度々指摘してきたように、栄光は、受難に続く復活であり、昇天であり、さらには聖霊の降臨をも含んでいます(13章31~32節/20章22節)。栄光は、さらに、ラザロの「復活」に現われた栄光が示すように(11章40節)、終わりの復活の日に顕れる「イエスの友の栄光」をも指します。ここで忘れてならないのは、「わたしたちはその栄光を観た」(1章14節)と語るその「わたしたち」には、物語の語り手であるヨハネ共同体も含まれていることです。だから、「イエスの時」としての「今や」は、ヨハネ共同体の「今や」とも深く関わっています。これが、「人の子が栄光を受けた」とある過去形に含まれてくる「時」が意味することであり、それらもろもろの時が「今や」ひとつになって「時」の全体像が示されているのです。
だから、先在のロゴスの「時」と、ロゴスの受肉によって始まった地上でのイエスの「時」と、ユダの裏切りによって受難が迫る「今の時」と、これから起こる受難と復活の「時」と、これを語るヨハネ共同体の「時」と、さらには終末の「時」、これらの「時」の諸相が、一連の「時の出来事」として啓示されてくるのです。ヨハネ福音書が、過去から現在にいたるまでを見通す全体像において「時の場」観ることができるのは、イエスにあっては、わたしたちの「過去」が、「常に新たに」現在において啓示されるからです。同時に、啓示がもたらす「この現在」が、自分たちの未来への洞察へわたしたちを導くのです。
■14章
[31]【今や】ユダが立ち去った直後で語られる「今や」です。サタンが行動を開始したのです。しかも、この「今」は、地上でのイエスのかつての「今」とヨハネ共同体の「今」を結ぶのです。イエスは地上で父の栄光を現わし、それによって同時に自分も栄光を受けていたとすれば、彼はすでにその栄光をもっていたはずです。イエスの世への到来が、すでに終末的な出来事でした。したがって「栄光を顕してください」という祈願は、イエスの地上での生はすでに栄光による働きであったということに矛盾しないだけでなく、むしろ、そのことによって、イエスの未来が基礎づけられるのです。祈り求められるものは、彼に<すでに>与えられていた。だからこそ祈り求めるのです。
これに続くイエスの愛の戒めは、紀元1世紀の末近くのヨハネ共同体に与えられている戒めです。ヨハネ福音書は、ここでも、自分たち共同体が置かれている「今の時」をその「今」が始まった原点とも言うべき「今」へ、すなわち<イエスがまだ地上にいた時の啓示>の「今」へ結びつけるのです。このようなヨハネ共同体の「今」とイエスの「栄光」との関係をルードルフ・ブルトマンは、次のように注釈しています。「啓示者自身(イエス)のかつての栄光と未来のそれ(栄光)と同様に、信仰者(ヨハネ共同体と現在のわたしたち)の過去と未来も互いに結合されている。すなわち、未来は、それの意味を過去から与えられる。また過去は未来においてそれの意味に到達する。だがそうであれば、啓示者との別離にもかかわらず、彼(啓示者)とヨハネ共同体の結合は未来において存続する。彼(イエス)の行為が彼ら(ヨハネ共同体)の行為に現臨しているのである」〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕。
【人の子】「人の子」については、すでに述べたので繰り返しませんが、ダニエル書以後の旧約では、栄光を帯びた「人の子」が語られてきました。しかし、共観福音書では、イエスは「人の子」を自分と重ねつつ「受難の人の子」と言い表わしています。ヨハネ福音書はここで、「栄光」と「受難」の二つを重ね合わせて「人の子イエス」像を完成させているのです。
【栄光を受けた】イザヤ書49章3節には、「イスラエルよ、あなたはわたしの僕、あなたによってわたしは栄光を受けるであろう」(七十人訳)とあります。ここのヘブライ語の「栄光を顕す」は、受動態でありながら「栄光を受ける/豊かに栄光を顕現する」という強い意味を持っていて、主の御臨在が顕現する独特の内容を示す動詞です。ヨハネ福音書がここで用いている「栄光を受ける」"be glorified"と訳されたギリシア語動詞の受動態は、ヘブライ語のこの用法を表わすためのギリシア語だと考えられます。しかも、ここではアオリスト形(過去)ですから、すでに「栄光を受けた」ことが示されているのです。この過去形は、洗足とユダの裏切りによって、事がすでに完了しているという含みでしょうが、同時にその結果が、ヨハネ共同体の「今」にいたるまで継続して働き続けていることを示すものです。ヨハネ福音書は、このようにして、自分たちの「今」を、かつて地上を歩んだ「イエスの今」と結びつけ、そうすることによって、地上のイエスの生き方とその受難が、栄光の人の子像として、現在のヨハネ共同体を基礎づけていることを言い表わすのです。
【神も栄光を受けた】原文は「神も彼にあって栄光を受けた」です。「彼」とは「人の子」イエスです。「栄光を受けた」とある動詞はアオリスト形受動態ですから、直訳すれば、神ご自身が人の子イエスによって「栄光を与えられた」という意味になります。しかし、先に述べたように、これは神が「ご自分の栄光を顕す」ことです。したがって、ここは「神もイエスによって神の栄光を顕した」という意味です。「神が栄光を顕す」とは、神が目に見える形でその御力を顕現させることですが、ここでは、イエスの受難だけでなく、これに続く復活と昇天の出来事をも指しているのでしょう。メシアとしてのこの「人の子の栄光」は、その背景にイザヤ書52章13~15節の預言があると考えられます。
[32]【神も御自身によって】原文の直訳は「神も彼にあって彼に栄光を与えるであろう」です。「彼にあって」を「彼自身にあって」と読む異読もありますが、いずれにせよこの「彼にあって」は神を指しています。これに対して「彼に(栄光を与える)」とあるのは「人の子」イエスのことです。ここで「栄光を与えるであろう」と未来形に変わります。ヨハネ福音書は、地上においてイエスが現わしてきた栄光の生き方を未来の「栄光を受ける時」へいたる歩みとして描いているのです。
31節では、「人の子は(すでに)栄光を受けた/顕した」とあって、受難以前のイエスの視点から見た栄光が、受難の栄光を受けて復活したイエス・キリストからの視点と重ねられていました。32節では、「時」が、再びかつての地上のイエスの視点へ戻ります。だから、神がイエスに「すぐに栄光を与えるであろう」(32節)とある未来形は、これから受難を迎えようとしている過去のイエスの「今」から見ています。しかし、この「すぐに」は、十字架の受難が、復活の栄光となって「すぐに」顕れることをも指すのでしょう。さらに、この受難以前のイエスの視点から、今度は、次の33節で「今しばらく」と未来を観るのです。
ところで、「栄光」という言葉は、始めは、この福音書の著者あるいは語り手である作者の言葉として表われます(1章14節/2章11節)。同じように「栄光を受ける/顕す」も語り手の言葉としてでてきます(7章39節)。ところが、ここ13章32節では、「栄光を受ける/顕す」が、イエスの言葉としてでてくるのです。すなわち、ここでは、ヨハネ福音書の語り手の視点と、語りの中に登場するイエスの視点が重なり合うのです。このように、語り手(作者)と登場人物(イエス)が重なり合う語り方が、ここから以後の告別の説話(14章~17章)の特徴です。「栄光を受ける/顕す」が、過去形から未来形へ変わりますが、これは、語り手とイエスが重なり合いながら、作者が観ている過去のイエスの「時」の視点から、その地上のイエスから観た未来の視点へと「時の移動」が生じていることを意味します。ただし、ヨハネ福音書のこの二重時間において、語り手(作者)の「今」が完全に消えたわけではありません。とすれば、「(栄光を)すぐにお与えになるであろう」という未来形は、「ヨハネ福音書の作者の視点から」観た場合には、これから起こること、すなわち終末においてイエスが顕すであろう栄光をも示唆することになりましょう(マタイ16章27節/同19章28節)。こうなると、地上のイエスの時と、復活のイエスの時と、これを語るヨハネ共同体の「今の時」と、イエスが再臨する終末の時、これら四つの時が結びつくことになります。
ところで、この節の前半「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば」が抜けている有力な写本があります。31節の終わりと同じ文が、32節の冒頭に来るのがその原因だと思われます。同じ文が筆写の際に誤って繰り返されたのか? それとも抜けている写本のほうが、繰り返しの部分を誤って(あるいは故意に)削除して1行にしたのか? したがって、ほんらいここは2行なのか? 判断が分かれるところです。ヨハネ福音書では、繰り返しによる並行がしばしばでてきます。
今や、人の子は栄光を受けた。
神も彼にある栄光を受けた。
神が彼にある栄光を受けたのなら
神も御自身にあって彼に栄光を与えるだろう。
すぐにも彼に与えるだろう。(原文直訳)
この並行法を見れば、1行目と2行目は過去形で、4行目と5行目は未来形です。真ん中の3行目は、前行の過去形を受け継ぎつつ、これを未来形へつなぐ役割をしています。「受けた」とある「今」の作者の視点から4行目の「与えるだろう」というかつての地上のイエスから見た時間へと移行する、そのつながりを3行目がなめらかにしているのです。英訳聖書(NRSV)は3行目を残し、『ギリシア語新約聖書テキスト注釈』も、この行を保留としながらも残しています。
[33]【子たちよ】この呼び方は、ヨハネ福音書ではここだけですが、ヨハネの手紙では、第一ヨハネ2章1節を始め、7回ほどでてきます。この呼びかけは、ヨハネ共同体が比較的少数の家族的な交わりを保っていたことをうかがわせます。「子たち」と呼びかけるこの様式は知恵文学からでていますが(マルコ10章24節参照)、ここでは、晩餐が、過越の食事にならって家族で行なわれていることを示唆しているのでしょうか。過越の食事の際には、家長が子供たちに神の教えを語る習わしがありました。ヨハネ福音書は、イエスの言葉をこの福音書の読者たち(あるいは聴き手たち)に宛てても語っているのです。
【いましばらく】イエスは、ユダヤ人たちに「いましばらく、この世にいる」と告げましたが(7章33節/12章35節)、この33節でも「いましばらくあなたがたとともにいる」と告げます。ここでの「あなたがた」は、世の人たちではなく、最後まで残った弟子たちです。地上で弟子たちと共にいる時がもう残り少なくなっているのです。「わたしが行く所」とあるのは、イエスの死が、復活と昇天へつながるからでしょう。これが、「しばらくすると、世はわたしを見なくなるが、あなたがたがはわたしを見る」に変わります(14章19節/16章16~19節)。イエスはここで、この地上にいる間、世の光として人々に父の栄光を証しし、今弟子たちと地上での最後の時を共にし、これから受難を経て復活し、再び弟子たちと会う時が来ると告げるのです。
【あなたがたにも同じことを】ユダの裏切りの後で、最後まで残った弟子たちに向かっても、イエスは、先にユダヤ人たちに告げたのと同じことを言うのです(7章33節)。ユダヤ人も弟子たちも全く同じで、弟子たちがユダヤ人よりも優れているところはないからでしょう。地上におけるイエスと「共に行動する」ことは、人間にはできなかったのです。この言葉は、続くペトロのイエスへの問いかけにつながります。
[34]【新しい掟】「掟」の原語「エントレー」は「掟/戒め」などと訳されます。 四福音書で「掟」という言葉が遣われるのはマタイ福音書で3回、マルコ福音書で5回ほどです。両福音書では、愛の掟が最も大事なものと告げられていますが(マタイ22章36~38節/マルコ12章28~34節)、同時に、この掟は、旧約聖書から受け継がれたことがはっきりと語られています(レビ19章18節後半参照)。だから、愛の掟そのものは決して「新しい」とは言えません。
「掟/戒め」は、ヨハネ福音書では5回ほどです。ただし、ヨハネの手紙には4回でてきますから、ヨハネ系文書では、併せて9回ほどになります。なぜイエスはここで「新しい掟」と言うのでしょうか? それは、ここで語られる「愛」が、「父と御子イエスの交わり」から発する愛だからです(15章9~10節)。しかし「新しい」という「時」を表わす言い方は、裏切りと受難の狭間に立つ「今の時」と切り離すことができません。なぜなら「戒め」とは、どのような意味を含ませるにしても、「未来に」向けての命令であり指示だからです。その未来が、受難の危機という「差し迫った未来」に向けて与えられているのです。この愛が、受難の十字架から発することは、すでに洗足のところで見ました。だから、これは、イエス自らが(これから)進んで父のために命を捨てる愛です(10章18節)。イエスが与える「新しい」掟/戒めは、このような愛から発して、友のために命を捨てる愛となります(15章12~14節)。イエス・キリストのこの愛こそが、闇の力に打ち勝って新しい「時/時代」(アイオーン)を拓(ひら)くのです。だからこの愛は、古くから語られているけれども「新しい」のです(第一ヨハネ2章7~9節)。この愛は、イエスと共に歩む者に「常に新しく働く」からです。「命を捨てる」イエスの愛は、続くペトロの「命をも捨てます」という信仰の告白とも重なって、ペトロにとっては皮肉な結果を予測させます。
ヨハネ福音書のこのような愛は、共観福音書やパウロが説く愛よりも、共同体の内部に限られていて、より狭い愛であるという見方があります。しかし、これは大きな誤解でしょう。先の回で説明したように、ヨハネ系文書では、父と御子イエスとの深い交わりに集中するあまり、愛もまたこの交わりの深さに集中されてきて、最後に残った弟子たちでさえも、「今は」その交わりの輪の内に入ることができないのです。「あなたがたは、わたしが行く所へは入れない」からです。この愛の交わりは、イエスが受難の栄光を受けることによって初めて弟子たちに可能になります。イエスの死と復活によって初めて、父と子の交わりが、霊の兄弟への交わりへと広がる道が拓かれるからです(第一ヨハネ3章16節)。「わたしがあなたがたを愛したのとちょうど同じように」とあるのは、先にイエスが行なった洗足を指しています。この愛は、決して限られた範囲だけに及ぶのではなく、「この世の」人たちへ広がるのです(3章16節)。イエスは「世の救い主」だからです(4章42節)。だからイエスは、「すべての人をみもとに引き寄せる」と言うのです(12章32節)。
[35]34~35節は、次のように並行しています。
あなたがたに新しい掟を与える。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したのは
あなたがたも互いに愛し合うためである。
わたしの弟子であることが、これで皆に分かるだろう
あなたがたが互いに愛を抱くことで。
ここには、新しい戒め→互いに愛し合う→イエスが愛したように→イエスの弟子になる→世の人がイエスとの交わりを知る→互いに愛し合う、とあって、このような交わりの輪が、めぐりながら広がっていく様をうかがい知ることができます。共観福音書では、最後の晩餐で、パンとぶどう酒による新しい契約が授与されます。ヨハネ福音書が、ここで「新しい戒め」と言うのは、イエスのこの愛の戒めこそが、旧約に対する「新しい契約」であることを示すものです。
すでに洗足のところで述べたように、ここで「互いに愛し合う」という戒めのかたちで、新しい契約の内容が示されます。しかも、その「互いに」とは、一般的な博愛ではなく、いわゆる隣人愛でさえもなく、「わたしの弟子である」人たちの間のことです。だから、これは、洗足において啓示されるイエスの御霊の交わりに与る者たちのことであり、その者たちが、相互に実践する倫理的な戒めのことです。しかし、「わたしが愛したのは」とあるとおり、その愛の源はイエスから発することを忘れてはならないでしょう。イエスの御霊に導かれた愛の交わり(コイノニア)の共同体が、地上に今まで存在しなかった形でここに誕生するのです。これが「エクレシア」(教会)の真の有り様です。ただし、このような交わりは、地上の特定の集団/宗団への所属を指すものではなく、終末的なエクレシアに所属することによって与えられるものです。
■ペトロの否認を予告 (13章36~38節)
ペトロへの否認予告は、マタイ26章31~35節とマルコ14章27~31節とルカ22章31~34節にもあります。ヨハネ福音書の記述をマルコ=マタイ福音書の記述の順番に従って対応させて見ると、イエスはまず、弟子たちとキドロンの谷へ向かいます(18章1節)、そこで弟子たちが「散らされる」予告がなされます(16章32節)、次に、ここ13章36節の否認予告が来ることになります。これらを共観福音書の記事と対応させると、ヨハネ福音書では18章→16章→13章となり、マルコ=マタイ福音書とは語られる順序が逆になっています。
さらに、マルコ=マタイ福音書では、イエスが鶏が鳴くと警告したその後で、ペトロが命を捨てると告白しますが、ヨハネ福音書では、先にペトロが自分の決意を告白し、その後で、イエスによる警告が続くのです。なお、マルコ=マタイ福音書では記述がほとんど一致していますが、ルカ福音書には、マタイ福音書、マルコ福音書、ヨハネ福音書に共通する「弟子たちが散らされる警告」がありません。その代わり、ルカ福音書には、「ペトロがサタンによって小麦のようにふるいにかけられる」(ルカ22章31節以下)ことと、彼のためのイエスの祈りがきます。
マルコ=マタイ福音書では、「みんながつまずいても自分だけは」というペトロの自信が、鶏の警告の前に来ていますから、ペトロのこの言葉が、イエスによるペトロへの警告を引き出すことになります。だから、イエスのペトロへの警告が、ペトロの自信に満ちた発言と彼の死ぬ覚悟への告白の真ん中に挟まる構成になっています。共観福音書に比べると、ヨハネ福音書では、先ず「主よ、どこへ?」というペトロの質問で始まります(36節)。それから、「イエスのために命を捨てる」ペトロの覚悟が来ます。すると、ペトロに「鶏が鳴く」予告が与えられるのです。ここでは、「どこへ」というペトロの場所的な問いかけが、「わたしの行くところ」という場所的な答えとして返ってきます。この「場所」は、続くイエスの「今は」と「後で」によって、「時」への問いかけへと移行します。このように、ヨハネ福音書では、ペトロの「どこへ?」と「なぜ今?」との間にイエスの「今は」が挟まり込むかたちになります。
[36]【主よ、どこへ行かれる】ペトロは(他の弟子たちも同様に)、洗足によってイエスの死が予告されていること知りますが、イエスが父のみもとへ行こうとしていることが、まだよく理解できません。たった今与えられた新しい愛の戒めが、イエスの大事な遺訓であることも彼には飲み込めないようです。ペトロは、遺訓には心を止めず、その前にイエスが語ったこと(33節)にこだわるのです。ペトロの「どこへ?」は、「今やすでに栄光を受けた」イエスと自分たちとが「同じ空間(世界)のつながり」の中にいることを前提にしている問いかけです。言わばペトロは、イエスの行く先が、自分たちと同じ世界内に存在しているに違いないと思っています。ペトロは、この段階で、イエスの殉教の覚悟を予測していたのでしょうか。しかも、そこはペトロ自身の殉教によっても到達できるような「場」であると思うこと。これがペトロの誤解のもとです。
『ペトロ行伝』(180年~190年の間)の35章では、ペトロが殉教を前にして、兄弟たちに奨められてローマを去ろうとした時に、「主がローマへ入って来られるのを見て」、彼は「主よ、どこへ行くのですか」(ラテン語で"Domine, quo vadis?")と尋ねます。するとイエスは、「わたしは十字架にかけられるためにローマに入っていく」と答えます。これを聞いてペトロは、再びローマへ引き返したとあります。行伝のこの言葉は、ヨハネ福音書のここから出ているのでしょう。
【後でついて来る】「ついて来る」の原語は「従う」です。ペトロが、イエスの殉教を予想していたとしても、イエスはここで、ペトロの「どこへ?」を「今はできない」と場所から時へと質問の内容を切り替えます。たとえ「死にいたるまで従う」決意でも、イエスと弟子たち(ペトロはここで弟子たちを代表して語っています)との間には、父から与えられた「イエスの栄光の時」が越えられない溝として横たわっているのです。イエスのここでの「後でついて来る」は、ペトロの殉教を示唆しているという解釈があります。ペトロの従順が、結果的に彼を殉教へ導いたことはよく知られています。しかし、ここの「ついて来る」は、殉教ではなく、原語の指すとおり「従う」の意味に理解するほうが正しいでしょう。なぜ「今は」従うことができないのか? なぜ「後で」従うことができるようになるのか? これこそまさに、ヨハネ福音書がここで読者に問いかけていることです。
次の節から分かるように、ペトロは自分の信仰とイエスへの忠誠心(服従)に自信を持っています。しかし、イエスがこれから立ち向かうのは、「この世を支配する」闇の力です(14章30節)。洗足の時にも、イエスは、ペトロに「後で分かるようになる」(13章7節)と答えますが、御子の贖いと復活によって「この世の支配者が追放された」(12章31節)時に初めて、ペトロたちがイエスに「従い」「イエスの行く所」へ彼らも行くことができるのです。なお、この13章36節は、共観福音書にはありません。ヨハネ福音書の伝承は、共観福音書とは異なっていると思われます。
[37]【あなたのためなら】マルコ=マタイ福音書と異なり、ルカ福音書とヨハネ福音書では、ペトロのここの言葉が、否認予告の前に来ます。なぜ「今」ついていけないのですか?と問いかけているのは、イエスの言う「今」と「後で」の「時の区別」がつかないからです。先にペトロは、イエスと自分とを同一の世界内において問いかけました。ここで彼は、イエスと自分とを同一の「時」の延長上において見ているのです。ここの「あなたのため」は、共観福音書に比べて強い表現です。「なぜ今?」と「あなたのため」とが、原文では、はっきりとつながっています。これはペトロの自負と自信をうかがわせますから、これを「あなたの命を救うためなら」の意味に解釈する説があるほどです。この解釈だと、ペトロはイエスの身代わりになる覚悟をしているのでしょうか?
ここでのペトロの躓きは、一般に考えられているように、イエスの言わんとすることを人間的な判断で誤解した結果ではありません。人間的な思いに駆られて、信仰的な姿勢が欠けているから、このような誤解と躓きが生じたと解釈するなら、ここでのペトロの躓きのほんとうの意味を見落とす危険があります。マルコ=マタイ福音書では、イエスは、躓きの原因としてゼカリヤ書13章7節を引用していますが、これは、ペトロたちの躓きが、旧約の「イスラエルの躓き」と対応していることを示すものです。ゼカリヤは、イスラエルの民全体が体験した捕囚という厳しい試練を想起して語っています(ゼカリヤ書のここをイスラエルの「牧者たちの失敗」だけに限定するのは正しくありません)。イスラエルの捕囚体験は、一般的な人間に共通する弱点や誤解や過ちから生じた躓きではありません。そうではなく、まさにイスラエル特有の「信仰的な」躓きのことであり、同時にまた、主がその躓きを通して、イスラエルを「金や銀を精錬するように」(ゼカリヤ13章9節)試されたことを証しするものです。したがって、今回も、ペトロが、単なる人間的なうぬぼれや思いこみからイエスに躓いたと考えるのは誤りです。そうではなく、ここではペトロとその仲間たちが、彼らの「信仰において」挫折すること、<そのこと>が語られているのです。それはペトロの信仰が足りないからではなく、また彼の勇気や努力が足りないからでもなく、逆に、ペトロが、イスラエルの伝統的な信仰とこの信仰に基づく勇気を奮い起こそうとしているまさにそのことが、彼の躓きと挫折の原因なのです。ルカ福音書は、ここで、「サタンによる試練」がペトロに向けられていることを示していますが、これは、ヨブの試練を想い起こさせるもので、ここのペトロの躓きを克服できるのは、ただイエスの執り成しの祈りのみであることをルカ福音書は示唆しているのです。
【命を捨てる】ここの原語は共観福音書と異なります。10章11節には、善い羊飼いであるイエスが「命を捨てる」とありますが、ヨハネ福音書では、イエスのすることをペトロがしようとしていると言わせているのかもしれません。事実は全く逆で、イエスがペトロを救うために命を捨てるのです。ヨハネ福音書独特のアイロニー(皮肉)でしょうか。
[38]内容的には共観福音書と同じですが、語法的にはルカ福音書(22章34節)と共通するところが多いです。この預言は、18章15節以下で成就します。
【鶏が鳴くまでに】マルコ福音書だけが「2度」を入れています。鶏は真夜中から午前3時頃までに幾度が鳴くとされていました。3度の否認は、単なる不注意なつまずきではなく、はっきりとした背教を意味する強い言い方で(ルカ12章9節)、ペトロの決意が、いかにもろく崩れやすいかを表わすものです。ところで、イエスの時代に、エルサレムで鶏が飼育されていたかどうかについて議論があります。旧約聖書には、鶏の記述がありません。またユダヤ教の規定に「エルサレムでは、宗教上の理由から、鶏は飼育されていない」という記述があるからです。新共同訳ではヨブ記38章36節に「誰が雄鳥に分別を与えたのか」とあるのが唯一の例です。しかし、このヘブライ語の原語には「見張りの人」の意味もあります(”Who has put wisdom…or given understanding to the mind.”〔NRSV〕 欄外の注Meaning of Hebrew uncertain.)。また七十人訳では、箴言30章31節にギリシア語の「鶏」がでてくるだけです(新共同訳では「腰に帯びした男、そして雄山羊」。”the strutting rooster.”〔NRSV〕 欄外の注Meaning of Hebrew uncertain.)。このためでしょうか、ここでの「鶏」とは、ローマ軍が見張りの交代を知らせるラッパのことだという解釈もありますが、確かなことが分かりません。
鶏の飼育は、古代ギリシアでもローマでも早くから行なわれていました。ローマでは、鶏は、食用として、あるいは闘鶏用に飼育されていました。エジプトでは、ペルシア帝国時代に鶏の飼育が始まったとされています(紀元前6世紀~5世紀)。だから、パレスチナに在住する外国人の役人や軍人や商人たちも鶏を飼っていたと思われます。したがって、イエスの頃のエルサレムでは、公式には禁じられていても、事実上は鶏の飼育が行なわれていたと見られています。イエスが、エルサレムを前にして、「めん鳥が雛を集めるように・・・・・」と嘆いたのもこのことを示唆します。
■13章31節~17章26節の錯簡説
13章31節から、イエスによる新しい戒めが与えられ、これに続いてペトロの否認が予告されます。ここから17章の終わりまでは、記述の配列に矛盾があるという理由で、頁の入れ間違い、いわゆる錯簡の疑いが持たれています。錯簡説は、この福音書の先の部分にもありましたから、ここだけではありません。言うまでもなく、これはあくまで仮説ですが、一応その内容を大別して紹介します。
問題とされているのは以下の部分です。
(A)13章31~38節(愛の戒め/ペテロの否認予告)。
(B)14章(聖霊の約束)。
(C)15~16章(葡萄のたとえ、聖霊の働きなど)。
(D)17章(イエスの祈り)。
(B)の14章の終わり30~31節に、「あなたがたと多くを語るまい」とあり、「さあ、立て。ここから出かけよう」とありますから、この後で(C)の長い説話が続くのは不自然です。これだと(C)の説話は、晩餐の部屋からゲツセマネへ向かう途中で、歩きながら語られたことになり、教会では、伝統的にそのように解釈されてきました。だから(B)の結びは、むしろ直接18章へつなぐほうが自然であると指摘されてきたのです。また(D)の祈りを13章30節の後に、すなわち、ユダが出て行ったすぐ後に置くほうがより適切ではないかという見方もあります。このために、
(1)A→D→C→Bとする説があります〔シュルツ『ヨハネによる福音書』NTD新約聖書註解〕。この説の難点は、17章の祈りには、それまでイエスが語った内容がすべて含まれていることです。だから、この祈りが、BやCの後にきても不自然とは言えないのです。さらに、この配列だと、Dの祈りの最後とCの出だしとがうまくつながりません。さらに、14章1~2節が13章33~36節を受けているとすれば、AはBと切り離すことができません。
(2)C→A→B→Dとする〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)ICC聖書注解〕。この説の難点はCとAのつながりです。これは、どうしても、順序を逆にして13章30にAをつなぐのが正しいと思われます。ただしバーナードは、AとBとが切り放せないと考えたために、このように、AとBをCの後に回したのでしょう。
(3)D→A1→B→A2→Cとする〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ブルトマンは、(A)の部分を35節の愛の戒めまで(A1)とペトロの否認への予告(A2)とに分けています。ただし、この順序だと、16章30節に、「誰もお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」とあるそのすぐ後で、ペトロの質問と否認への予告があり、さらにトマスの質問が来るのは不自然です。
(4)A→C→B→Dのように、現行の順序をCとBだけを入れ替えて読む〔私市〕。コイノニア会のホームページの四福音書補遺欄に掲載されている「錯簡説に基づくヨハネ福音書」がこの順序です。イエスの祈りがBの後に続くのは不自然ではありません。この祈りは、イエスを始め全員が「立ち上がって」する祈りです。ただし、この順だとAとBとが切れてしまう難点があります。また、トマスの質問もその前の弟子たちの言葉と合わなくなります。さらに、今一つの考え方として、CとD全体が後の挿入であると見る説もあります。
繰り返しますが、以上はすべて想定に基づく仮説です。すでに述べたように、ヨハネ福音書では、話しの「筋」(プロット)と説話が必ずしもつながるように構成されてはいません。これは、福音書の説話部分が、幾度かに渡って挿入などの編集を経ているためもあります。このような場合は、説話は筋の進行を補うためではなくて、説話それ自体のほうに編者の意図がこめられていることになります。そうだとすれば、これは錯簡ではなく意図的な編集と見ることができます。
問題のひとつに、14章終わりの「さあ、立て。ここからでかけよう」があります。この言葉が、続く長い説話と合わないからです。この点についてC・H・ドッドは、14章31節をマルコ14章42節の「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と関連づけて見ています〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。マルコ福音書では、この言葉が、イエスがゲツセマネでの祈りを終えて、イエスを逮捕する一隊がユダを先頭に近づいた時に語られます。「行こう」とあるのは軍隊用語で「進め!」「突撃せよ」を意味していて、ここではこの意味で用いられているのです。だからこれは、この世に働くサタンの力に対抗しようとするイエスの決意(あるいは弟子たちへの命令)を表わす言葉です。ヨハネ福音書でも、イエスが「世の支配者が来るからである」(14章30節)と語った後で「さあ、立て。ここからでかけよう」が語られています。
現行のヨハネ14章の結びは、「このように行なう〔原文の直訳〕。立て。ここから出かけよう」となっていますが、もとのイエスが語ったアラム語では、「わたしはこうするのだ。立て。ここから出ていこう」あるいは「わたしはこうする。立って、進むのだ」となっていて、敵に立ち向かう決意を表わしていたと考えられます〔バレット『ヨハネ福音書』〕。だとすれば、マルコ14章42節のほうが、アラム語の原意と一致していることになります。ヨハネ福音書では、このアラム語の真意が誤訳されて現行のギリシア語になったと見ることもできます。このように見れば、14章の結尾は「この部屋から出て行く」という意味ではなく、敵に立ち向かうイエスの決意を表わそうとしたことになりますから、必ずしもここを18章へつなぐ必要性がなくなります。ただし、ヨハネ福音書は、アラム語で書かれた原作をギリシア語に訳したものではありません。したがって、このアラム語説をも含めて、上に紹介した幾つかの組み合わせは、それぞれに難点があります。結論として、錯簡を確認するまでにはいたりません。だから、現行のヨハネ福音書に従うというC・H・ドッドやフォートナたちの見方に落ち着くことになりましょう。
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