57章 愛の戒めと否認の予告
13章31〜38節
■13章
31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33子たちよ、今しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
36シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
37ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
38イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
【注釈】
【講話】
■新しい愛
13章で「新しい愛の戒め」が与えられます。ここで語られる愛が「新しい」と言われるのは、父が御子をこの世にお遣わしになったことから発する「愛」だからです。父とイエス様との間にある「交わりの愛」だからです。この「交わり」(コイノニア)の愛こそ、地上におられたイエス様が、世を救う愛として顕されたものです(3章16節)。この意味で、福音は「愛の出来事」です。人々がイエス様をメシアだと心から信じたのは、その根源に、この「愛」の働きがあるからです。しかも、その愛は、イエス様の十字架と御復活の後も、その弟子たちによって、地上に臨在し続けるのです。イエス様が、ペトロに「あなたは後でついて来ることになる」(13章36節)と言われたのもこの意味です。父と御子の「父子一体」から発する御霊にある霊愛こそ、ヨハネ福音書の神学の核心です。これが「新しい」のは、イエス様の復活以後も、絶えることなく「新しい」創造の業を続けるからです。イエス様の御霊が、弟子たちと共にあって、愛の働きを行なうこと、これが神から人への「恩寵」です。
イエスの死後、彼に従う者たちが、自分たちの「生ける主」と仰ぐイエスとひとつになり、御子を通して父とひとつになり、こうして永遠の命へ入ること、これこそイエス様が、「わたしのいるところに。わたしに仕える者もいる」(12章26節)と言われた意味です。この出来事を指して、人類に与えられた「イエス様の顕現(エピファネイア)」と言います。この出来事こそ、神の愛の本質であると、ヨハネ福音書は明確に力強く言い表しています(14章21〜24節)〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。新約聖書がわたしたちに証しするのは、この「愛」のことです(マタイ5章43〜48節/ルカ6章27〜36節/ガラテヤ5章22節/第一コリント13章1〜13節/第一ヨハネ4章7〜12節)。
ヨハネ福音書の愛は、ヨハネ共同体の内だけに限られるという批判がありますが、この誤解は、イエス様の在世中に働いた愛が、イエス様の死と復活によって、地上に再現され、どこまでも広がり続けることを見落しているからです。「この世に向けて啓示された」(3章16節)神の愛は、イエス様に従う人たちによって、地上で再び創り出されていきます。
互いに愛し合うことは、互いに祈り合うことから始まります。祈りは愛の始まりです。「信仰によって働く愛」(ガラテヤ5章6節)の初まりです。わたしたちが、不信仰や困難に襲われても、これらに打ち勝つことができるのは、イエス様が地上におられた間、あらゆる非難や誤解、困難や苦しみに遭われながらも、これらすべてに勝ち、これらを克服されたイエス様の御霊が働いてくださるからです。イエス様の祈りは父の祈り、父の祈りは、父がイエス様のみ名によって遣わされる御霊の祈りです。この御霊の祈りが、わたしたちを支え、わたしたちの困難を克服する力の源です。
■愛の「型(かた)」
ヨハネ福音書では、イエス様による愛の戒めが、受難を間近に控えたイエス様の口から与えられます。父と御子の交わりの場が、イエス様の「受難とその栄光」を通して初めて、すべての人に及ぶ新しい愛の場となるからです。戒めが「新しい」のは、この愛が常に新しく創造されることを意味します。御霊にある創造的な愛は、地上におられたイエス様の生き方に発するものですが、そのような愛は、イエス様の生き方をわたしたちが模範とし教訓にすることで成就されるものではありません。わたしたちには、愛を「創造すること」などとうていできないからです。
古代イスラエルの知恵思想は、「過去の歴史」から学ぶように教えました。しかし、ヨハネ福音書の「知恵」は、「すでに過ぎ去った出来事」から教訓を引き出すのではなく、今も生きて働いておられるイエス様の御霊が、かつての地上のイエス様を「現在に再現する」という仕方で働くのです。だから、これは「学ぶ」と言うより、過去を新しく「よみがえらせる」と言うべきです。学習によって教訓を引き出すのではなく、祭りや祭儀のように、祈りによって過去を現在に「呼び出す」のです。イエス様の愛は、御霊が働く「その時の場に」現臨するからです。
イエス様の生き方を教訓にするとか、その人間性を模範にして、これを現在に応用することではありません。ナザレのイエス様が、今も生きて御臨在くださることを先ず「知る」ことから始まるのです。だから、ヨハネ福音書を通してイエス様を「知る」とは、模範や理論からではなく、かつて地上で生きておられたイエス様の「生き型」から来ます。「型」や「タイプ」は教訓ではありません。型やタイプは、完全に真似ようとしても、すぐ真似できるものではありません。とにかくその型に「入る」のです。近頃の若い人たちの言い方を借りれば、これに「はまる」のです。これが御霊のお働きです。その型に身を任せ、とにかく導かれるまま「型通りに歩む」のです。聖餐のパンとぶどう酒は、この意味で、イエス様の型を伝えるもので、パンはイエス様の生き方を、ぶどう酒はイエス様の霊の命を伝えるためです。
■「時の場」
先に「過去を現在によみがえらせる」と言い、これを祭りや祭儀の「時」にたとえて「呼び出す」と言いました。しかしながら、「時」と「愛」、あるいは「時」と「義」、わたしたちは、これら二つの言葉の組み合わせを理解できるでしょうか? 自然科学的な「時間」の考え方に慣れた現代のわたしたちには、「時間」を表す「時」が、人間の「愛と憎しみ」や「義と罪」という精神的、倫理的な価値観と、すんなり結びつくでしょうか? 人間には、「正しい」時の場と「悪い」時の場があって、異なる「時の場」に属することで人は異なる存在に「なる」こと、人間の「時の有り様」をこのように考えることにわたしたちは慣れていません。わたしたちが「愛する時」「憎む時」などと言うのは、これらが「同じ時間の流れ」の中で、その時々に変わることを指すにすぎないからです。
現在の物理学では、わたしたちが家で坐っている時と、電車に乗って動いている時とでは、ごくごくわずかですが、「わたし」という存在が、物理的に観ると、「違う時間と空間」の世界にいるそうです。これをたとえに借りると、聖書では、人間がイエス様の愛にある時とそうでない時とでは、別の時空にいる、あるいは「時の場」にいる、このように言うことができます。この意味での「時」は、単なる「時間」(ギリシア語「クロノス」)ではなく、時と場が一つになるところに成り立つ聖書特有の霊的な「時場」(ギリシア語「カイロス」)のことです。
こういう時の場は「終末的」と呼ばれますが、人間存在をこのような「時場」において観ることは黙示(もくじ)思想から生じました。こういう考え方は、わたしたちにはなじみのない「時」の見方です。自然科学的な時間と空間の中にいる現代のわたしたちには、こういう人間の「時場」が、現実に存在することが根本的に謎だからです。だから、聖書で言うギリシア語の「アイオーン」(時・時代・世界・世の中)は、むしろ「霊界」と訳す方が分かりやすいと思います。わたしたちは現在、光と闇、命と死、祝福と呪い、救済と滅び、キリストとサタン、これらが混沌と入り混じる世界にいます。レンブラントの絵のように、光と闇が渾然となって陰影を造り出す世界に住んでいます。しかし終末には、「選ばれた」者が救われ、罪ある者が裁かれ、天地創造の初めに「天の水と地の水」がふたつに分けられたように(創世記1章6〜7節)、終末には真っ二つに裂けるのです。
新約聖書が伝える「救い」の時場は、神の聖霊にある「時場」のことです。この「時場」は、人間の力や努力で造り出すことができません。それは、イエス様の十字架によって初めて授与される「贖い時場」だからです。福音書が伝えるイエス様は、この地上に来られて、全く新しい時の場をわたしたちのために創造してくださった。それが、「赦しと愛」の「恩寵の時場」です。
共観福音書では、イエス様の生き方とその愛は、比較的早い時期に「御国のかたち」として伝えられます(マタイ5〜7章/ルカ6章20〜49節)。ところが、ヨハネ福音書では、イエス様の愛の「新しさ」は、イエス様の受難の直前に示されます。しかも、イエス様が地上で証しされた生き方が弟子たちに再現するために、受難と復活の「時」が終わるまで待たなければならないのです。
ヨハネ福音書は、今回の13章で、イエス様の愛が弟子たちに「実現する時」と、地上におられたイエス様が弟子たちに与えた「啓示の時」とを区別します。だから、イエス様の地上の時とは異なる時が、「今しばらくしてから」弟子たちに啓示され授与されることが約束されるのです。今の段階で与えられる「愛の戒め」は、受難以後において初めて「成就される」からです。だから、今回の愛の戒めは、14章以下で、聖霊(パラクレートス)降臨の約束と密接に結びついてくることになります。
■ペトロへの警告
愛の戒めが、ユダの裏切りとペトロの否認との狭間の中で与えられているのは、なんとも痛ましい皮肉(アイロニー)です。裏切りも否認も不信仰な人たちの間では起こりません。どちらも「信仰者」の間でのみ起こることです。しかも、ペトロのように最も忠実な人において、あるいはユダのように最も知的な人において起こるのです。両者に共通するのは、自分の信仰心、自分の知力に確信を抱いていることと、それにもかかわらずではなく、まさに、それこそが罠となることです。だから、信仰が足りないこと、知力が足りないことが、わたしたちにとって危険なのではありません。そうではなく、自分には信仰がある、知力があると思いこむことのほうがはるかに危険なのです。サタンは、その確信、その知力のうぬぼれに乗じて、人を罠にかけるからです。サタンの狙いはただひとつ、人を「十字架にかかられた救い主」の御霊から引き離すことだけです。サタンのねらいは、このために、裏切りや否認を「作り出す」ことです。その悪巧みを見抜いて、うぬぼれに陥ることなく、常に主の御霊にある栄光へ戻ること、これが「ふるいにかけられる」ことです(ルカ22章31節)。
このような誘惑に耐えて、この罠から逃れることは、ルカ福音書が指摘するとおり、イエス様の祈りによらなければ不可能です。ちょうど日食あるいは月食のように、信仰は自我の影に覆われると、その輝きを失います。新共同訳で「あなたの信仰がなくならないように」(ルカ22章32節)とある「なくなる」という動詞は、日食の時に太陽が「欠ける」ことで、その輝きを失うことです。
ペトロには、イエス様が与えてくださった愛の戒めが耳に入りません。イエス様が「あなたがたに今はできない」と言われていることも理解できません。彼は、自分の思い描く「神の道」こそが、イエス様の伝える福音に合致すると思いこんでいるからです。だから、そういう自分の思いこみが、イエス様の御言葉と合わないと、彼は不満を漏らして、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか?」と言うのです。「今しばらくはあなたがたと離れる」と言われ、「後で会うことになる」と言われても、その「今」と「後」との「時の区別」が、彼には理解できません。ここでペトロに許されるのは「ただ待つ」ことだけですが、それもペトロには耐えられないのです。
「今はあなたに分からないが、後から分かる」というこの御言葉は、わたしたちの信仰生活において、しばしば起こりえる状態です。「今」ではなく「後で」がいつのことなのか? 「後で」何が起こるのか? これが分からない状態に立たされると、わたしたちにできることは、「ただイエス様を信じる」ことだけです(14章1節)。信仰とはこのように、「神様の時」を信じることです。けれども、神様の時は、わたしたちの時とは異なります。このため、わたしたちは、神様の時の代わりに、「自分の時」で判断し、自分で時を判断して、事を行なおうとします。これが、ペトロの誤りですが、わたしたち誰もが陥る誤りです。「神様の時」はまだ示されず、ただ信仰によって待つこと、わたしたちの「信仰」と神様の「時」との狭間に潜む溝がここに見えてきます。これが、わたしたちへの「信仰の試練の時」が意味することです。「ただ立って待つだけの人もまた、主に仕える者である」と、イギリスの詩人ジョン・ミルトンが言いました。聖書はこれを「忍耐」と呼んでいます。ペトロには、これが分かりませんでした。だから躓いたのです。
ただし、ここで、わたしたちは、ペトロの誤りが、彼個人のやり方で「時」を見誤ったのだと判断してはなりません。なぜなら、ペトロは、ここで、イスラエルの伝統的な信仰のやり方で「神に従おう」としているからです。もしもイエス様が、ペトロが期待していたであろうように、ローマ帝国とメシア戦争を起こそうとしたならば、おそらく彼は、その告白通りに、「主のために命を捨てた」ことでしょう。ちょうどマカベア戦争の時の殉教者たちのように、あるいはクムラン宗団が「キッティーム」(ローマ軍)と闘う覚悟をしていたようにです。彼らは実際、ユダヤ戦争において、マサダでローマ軍団と最後まで闘って自決しました。
ところが、ここでペトロには、まさにそのようなイスラエルの伝統的な信仰が挫折することがはっきりと予告されているのです。だから、これは、「信仰の否認」と言うよりも「信仰の破綻」です。それは、自らよって立つ信仰が土台から崩壊することです。この意味で、ペトロの三度の否認は、パウロの言う「イスラエルによるキリスト否認」に通じるものです。
「時」は神のものであり、その「時」は、神が御子イエスを通して御栄光を顕す時であること、このことを悟って、「時」を主に御手にお委ねするのです。イエス様を信じる者は、過去を思わず未来を煩わず、「今の時」を生きるよう御霊に導かれます。御霊は永遠の御霊ですから、今のこの時に働きます。だから、わたしたちには、思い煩う必要がありません。一日の苦労は、その日一日だけで十分だからです(マタイ6章34節)。
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