56章 ユダの裏切りを予告
3章21〜30節
■13章
21イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
28座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
29ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
30ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
【注釈】
【講話】
■レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」
今回はユダの裏切りが告知される場面です。イエス様は、まず「わたしのパンを食べている者がわたしを足蹴にした」という詩編41篇10節の言葉を引いて、これから裏切りが起こることを予告なさいます。しかし、それが誰なのか、どこからその裏切りが起こるのかは告げられません。だから、弟子たちは、まだ人ごとのようにこれを聞いていたと思います。まさか、ここにいる自分たちの仲間から裏切りが起こるとは考えてもみなかったのです。ところが、イエス様は「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」と断言なさいます。この瞬間を描いたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチのあの有名な「最後の晩餐」で、イタリアのミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会堂付属の修道院の食堂にある壁画です。
この絵では、12人は現代風に坐って食卓についています。イエス様を中心にして、イエス様に向かって、左側にヨハネ、右側にその兄弟ヤコブがいます。ダ・ヴィンチは、ゼベダイの子たちをイエス様の両側に坐らせたのです。向かって右では、トマスとヤコブとフィリポが、「まさかわたしのことでは?」とイエス様に問いかける仕草をしています。イエス様の左側では、ヨハネとユダとペトロとアンデレ、少ヤコブとバルトロマイが、この順で席に着いています。ペトロが、ユダの後ろからヨハネの肩に手を置いて、「だれのことか尋ねてみなさい」とヨハネの耳元でささやいているようです。ユダは、体を左に傾けて、イエス様を見ている様子ですが、その耳には、後ろのペトロのささやきが聞こえているはずです。ダ・ヴィンチは、この瞬間における、イエス様の愛した弟子(ヨハネ)とユダとペトロとをこのように劇的な構図で描いています。
それまで、自分たちとは関係がないと思っていたのに、突然「あなたがたのうちの一人」と言われたのですから、弟子たちのショックは大きかったでしょう。誰が裏切り者か? マルコ福音書とルカ福音書では、聖餐が終わっても分からずじまいですから、聖餐を受けている弟子たち一人一人が、その間中「はたして自分は大丈夫か?」と自己反省を迫られることになります。これに対してマタイ福音書では、裏切り者がユダであることが、全員の前で明らかになりますから、彼は即刻そこから出て行ったでしょう。ヨハネ福音書では、イエス様が食べ物を浸してユダに差し出し、ユダがこれを受け取って出て行った後でも、彼がなんのために出ていったのか「だれ一人」分からなかったとあります。イエス様に尋ねた愛(まな)弟子とペトロには察しがついたのでは、と思われますが、はっきりとは分かりません。ユダの裏切りはそれほど深く隠されていたからです。だから弟子たちは、誰も想像すらできなかった。人間の偽善と裏切りは、こんなにも底深いものなのです。
■裏切りの理由
いったい、ユダは、なぜイエス様を裏切ったのでしょうか? これについて、いろいろな人がいろいろな説明を試みていますが、ユダの真意をうかがい知ることはできません。ただひとつ、はっきりしているのは、ユダがイエス様を「引き渡す/裏切る」という出来事が起こった、そのことだけです。その出来事がどのようにして生じたのか? 聖書は、ユダが行なったその<行為>について語ってくれます。しかし、その出来事の内面に立ち入って、そこに隠されたユダの真意それ自体には、聖書はほとんど触れていないのです。出来事は、それ自体で何も語りません。その意味を教えてもくれません。「わたしたちのほうから」、そこに含まれる意味、あるいは意図を読み取って判断するしかないのです。だから、ユダの行動を否定することも、逆に彼のしたことを肯定することも、どちらも可能です。
くどいようですが、わたしたちは聖書で、ユダの裏切りの本質、あるいはユダの存在そのものを解き明かす説明に出逢うことがありません。そうではなく、福音書は、ユダが「何をしたのか」、彼の言動、すなわち裏切りの「働き」を語るのです。裏切りとは何か? という説明を福音書はしません。裏切りはどのように行なわれたのか? その「働き」を語るのです。だから、その働きに秘められた意味そのものは、これを判断する人に委ねられています。マルコ14章11節には、祭司長たちが「金を与える約束をした」ことと、ユダが「イエスを引き渡そうと考えていた」ことだけが書かれています。けれども、ユダの行為の理由については何も語られません。おそらく、このために誤解がないように、「裏切る者は不幸だ。その者は生まれなかったほうがよかった」(マルコ14章21節)とあるのでしょう。
このように聖書には、わたしたちから「隠されている」ことがいろいろあります。「神とは何か?」「イエス様に宿った聖霊とはいかなる本性か?」「父なる神と御子イエス・キリストとの本質的な関係とは何か?」などなど、いくらでもあります。「わたしたちが生きるとはどういうことか?」という問いかけと同じように、これに答えるのは容易でありません。その代わりに、神様がどのように「働いて」くださるのか? イエス様に宿った聖霊はこの地上でどのように「働いた」のか? イエス様は、父とのつながりをどのように証しされたのか? 聖書はこれらについて教えてくれるのです。ちょうど、わたしたちが「元気か」、「病気か」、「顔色が悪いか」、「調子がよいか」など、わたしたちの命の「働き」については、判断したり見分けたりできるのと同じです。
これを逆に言えば、わたしたちは、これらの「隠されている」ことについて、自分なりの意見をいくらでも述べることができます。聖書が証しする神様の働きを見て、「神様は愛である」「神様は厳しい」「神様は不条理だ」などなど、肯定であれ、否定であれ、人それぞれに「好きなように」論じることができます。しかも、聖書に基づいて、これらを語ることさえできるのです。ユダの「裏切り」についても同じです。わたしたちは、これを「どのようにでも」説明できます。だからこそ、ユダの行為が裏切りであることが、彼の悲惨な結末によって明らかにされているのでしょう(マタイ27章3節以下)。
■太宰治の『駆け込み訴え』
ここで「どのようにでも」説明できる一つの例をあげましょう。よく知られた太宰治の『駆け込み訴え』です。太宰は、共観福音書を交えながらも、大事なところでは、例えばベタニアのマリアさんがイエス様に香油を注いだこと、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったこと、「神殿を再び建てる」というイエス様の発言がイエス様の体の復活を指すことなど、これらはヨハネ福音書に沿っています。
太宰の描くユダは、イエス様を誰よりも愛しています。逆に、ほかの弟子たちを徹底的に軽蔑しています。自分は「純粋で美しい」イエス様を誰よりもかばい、その活動を金銭面でも実際の活動面でも支えていると思っています。彼は言わば、イエス様の全活動のマネジャー役です。イエス様がエルサレムへ入られてからは、イエス様が死を覚悟して殉教へ赴こうとされていることを察知します。彼は、この段階でイエス様を見限り、イエス様をその望み通りの死へ向かわせてやろうと、あえて、これの仲介役となるために、「駆け込み訴え」をするのです。しかし、その裏には、マリアさんのイエス様に対する献身的な愛に嫉妬を覚えたり、自分がイエス様のために配慮している割には、イエス様が自分に冷たいと思いこんで師を恨んでもいます。最後には、「同年配のイエス」に対するユダの対抗心が、思わず顔をのぞかせます。太宰のユダは、人間くさくて、とてもよく理解できます。特に、ユダが他の弟子たちよりも優れていて、誰よりもイエス様の真意を知っており、師の気持ちを理解していると思っているところは、次の『ユダの福音書』と通じるところがあります。
■『ユダの福音書』
1970年代のことです。エジプトのナイル川の中流近くの場所で、古い写本が発見されました。『ユダの福音書』と呼ばれるもので、古代のコプト語で書かれています。原本はギリシア語で2世紀の半ば頃に書かれたと考えられます。書かれた年代が分かるのは、エイレナイオスという司教が、180年頃に、この『ユダの福音書』を異端として厳しく批判しているからです。ですから『ユダの福音書』は、新約聖書が書かれた頃からそんなに離れていません。これが、最近日本語に訳されて出版されました(『原典ユダの福音書』ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー、他編著。日経ナショナル・ジオグラフィック社、2006年5月)。
聖書は、悪の「働き」については語りますが、悪がどこから来たのか?悪の起源についてはほとんど語っていません。だから、聖書が語っていないまさにそのところに焦点を当てて、「神」や「悪」や「真理」について、思索したり、それらの本質は何かを語ったり、悪が存在するにいたるまでの過程を描いたりすることができるのです。
このような思想のひとつに「グノーシス」(知識)があります。グノーシスの人たちは、2世紀になって、エイレナイオスたちが指導するキリスト教の信仰を脅かす存在になり、このために、当時の教会から異端として批判されました(「グノーシス」については、コイノニア会ホームページの聖書講話欄「グノーシス系文書」をご覧ください)。
グノーシス系の文書によれば、悪のはびこる「闇の宇宙」を創造した旧約聖書のカミは、真理である「グノーシス」よりも劣った半神(デーミウールゴス)です。また、ヤルダバオートという怪物のようなカミによって、これまた出来損ないの人間が造られたことになっています。しかし、真理である「グノーシス」(知性/知識)は、「バルベーロ」という不滅の王国にあって、そこから、真理の霊がこの地上に降り、人間イエスという「仮の肉体」を言わば仮の衣(ころも)としてまとったのです。グノーシス人間であるこの「イエス」は、地上に住むグノーシスを具えた人たちに、善悪の「知識」(グノーシス)を開示して、再びもと来たバルベーロの国へ戻ります。『ユダの福音書』は、およそこのような思想に基づいて書かれています。
太宰治が描くユダは、最後には商人として、金儲けの本音をのぞかせますが、この福音書のユダは、これとは全く違います。ただし、ユダがほかの弟子の誰よりもイエス様を理解していると信じ、またイエス様の信頼を得ていて、自分がイエス様を常にリードしていると思いこんでいるところなどは、太宰の描くユダ像と共通するところがあります。ここで描かれるユダは、イエス様が背負う運命さえも察知していて、この邪悪な世の中からイエス様に宿る真理の霊を解放するために、わざわざイエス様を相手方に「引き渡して」やり、そうすることで、言わばイエス様の使命を実現するようにユダ自身が「取り計らって」でやるのです。こうすることで、ユダは、ほかのどの弟子よりも優れているだけでなく、イエス様の「秘密」のほんとうの理解者であり、イエス様と共に神の栄光に与る者とされる。このようなユダ像が描かれています。
■ユダの「告発」
ここに描かれるユダの言い分で一番大事なことは、彼が誰よりもイエス様の真実の聖なる姿を知っていると思っていることです。この見方は、ユダ独自の世界観に基づいています。しかもイエス様自身も、彼の考えに同調して、ほかの誰にも明かさない秘密を彼に明かしてくれるのです。彼は、イエス様が、天の国へ戻るために、イエス様の肉体からイエス様の霊的な存在を解放してやるために、彼を大祭司たちに引き渡す決心をします。その結果、ユダに栄光が与えられ、弟子たちの誰よりも優れたものとなります。ユダがイエス様を引き渡したほんとうの理由がここにあると、この福音書は告げているのです。しかし、このユダの思惑(おもわく)には、復活は含まれません。また、イエス様の死によって授与される人々の罪の贖いも生じません。この二つは、この福音書のユダが予想もしなかったことだったのです。
当然のことながら、こういうユダに対する批判や非難をユダ本人に向けていくら語っても無意味です。自分が誰よりも賢くて正しいと思い込んでいる人に対しては、批判はその人の自信をいっそう強めるだけだからです。だから、ユダに対する批判や非難は、ユダ以外の人たちに対して語られることになります。エイレナイオスが、当時のキリスト教の教会に向かってこのようなユダ像を批判したのは、このためです。ただし、エイレナイオスの批判にも限度があります。『ユダの福音書』に対する彼の批判が、必ずしもユダの真の意図を告発しているわけではありません。ユダはほんとうに何を意図していたのでしょうか? これはただユダ自身だけが知っているのです。
太宰のユダは、祭司長に向かってイエス様を告発し訴えますが、それは祭司長たちへの告発と言うよりは、むしろ神に向かってイエス様を訴えるためのユダなりの告発と受けとめるほうがいいでしょう。おそらく、『ユダの福音書』も、ユダを異端とし裏切り者と決めつける人たちに対して、ユダの正しさを立証し、これによって、彼を告発する者たちの誤りと無知を逆に告発する意図をこめて書かれたと思われます。彼は、どこまでも自分の正当性を証ししようとしていますから。だから、これは、自分を告発する者たちに向けられたユダの「逆告発」なのです。ユダだけが、イエス様に与えられた真理の霊を知り、これに対する神の計画を察知して、その計画が成就するように、終始これを「自分の支配の下に」実現しようとしたのですから。ユダのこの陰謀/遠謀?には、イエス様の存在さえも自分の思い通りに操ろうとするうぬぼれを読み取ることができます。
いったいわたしたちは、ユダからのこういう「告発」をどのように理解すべきでしょう? ここで、もっともらしい理由を付けても、うがった見方をしても、それでユダの本性を見抜いたことにはなりません。少なくともイエス様は、そのような仕方で彼を非難することはなさいませんでした。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にでてくる大審判官は、いわば悪魔の化身ですが、彼は、再臨したイエス様に向かって、イエス様が行なおうと志したことが、いかに無意味で愚かなことかを告げます。その上で、イエス様の行なっていることが、自分たちの仕事の妨げになると告発しますが、その時でも、イエス様のほうは、何も言わずに、ただ黙って、大審判官に接吻します。このように、神もイエス様も、ユダの言い分に対して何も言わないのです。
■裏切りを告発する
太宰の描くユダの告発を聴いていると、彼が自分の告発を雄弁に語り続けるほどに、彼が語る告発の言葉それ自体が、だんだんと<彼自身に>向けられていることが分かります。告発によって明らかにされるのは、告発されている側ではなく、告発している当の本人のほうなのです。露わにされるのは告発されているイエス様の正体ではありません。告発しているユダの本音と彼自身の正体です。告発する側が語るその言葉が、そのまま当の告発者を判断し、「逆告発」するのです。
イエス様は、相手が言ったことに対して、「それはあなたが言ったことだ」と答えますが、これには、相手の言葉に答える以上の深い意味がこめられています。その人の語る言葉が、ほかの誰の言葉よりも、もっとも鋭く、もっとも深く、言い逃れのできない正確さで、その人自身の意図を表わしているからです。ユダがイエス様のことを語るほどに、暴露されてくるのは、イエス様のほうではなく、語るユダのほうです。その人の語った言葉、その人が行なった行為、神はそれ自体をその本人に向けることで、その人を裁くのです。だから、その裁きに誤りがありません。人はそれぞれ、自分の言葉と自分の行為によって裁かれるからです。それを正しく見分け聞き分けるのは神だけです。その人が語ったり行なったりしていたその「ほんとうの意味」を、最後に彼自身に悟らせること、神は、「このこと」を通してその人を裁き、その人を救うのです。だから神は、その人にこう言うのです。「それはあなたが言ったこと」「それはあなたが行なったことである」と。
裏切りは、ほかの人には、見分けることができません。裏切りとは何か?その本質を人はうかがい知ることができません。裏切り者の悲劇は、自分のしていることに気がついていないことです。自分の告発が、ほかならぬ自分自身を告発していたということ、これが明らかになった時に初めて、彼は自分の悲劇を悟るのです。彼自身が語った言葉こそが、もっとも鋭くもっとも正しく、語っている本人を告発するからです。このことに気がついた時、彼は、自分の首をくくることになるのでしょうか。イエス様は、「人の子を裏切るその人は不幸だ」と言われていますが、この際に、「その人」が二度も繰り返されているのは、それがユダ一人だけのことではなく、「その人」は、「わたし」であり、「あなた」であり、誰でもが「その人」になる可能性があるからです。誰がほんとうの裏切り者であり、誰がそうでないのか? これは、毒麦とほんものの麦とを見分けることができないように、わたしたちには最後まで隠されています。それを見分けることができるのは神様だけです。
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