55章 最後の晩餐と洗足
13章1〜20節
■13章
1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16はっきり言っておく、僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
18わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
19事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
20はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
【注釈】
【講話】
■イエス様の象徴行為
イエス様は、天からこの世へ降って人々に神性を啓示し、その後で再び昇天されました。このためでしょうか、天から降って神を啓示したイエス様の姿を超越的でこの世離れしたイエス様像として描いている講解に出逢うことがあります。このようなイエス様像は、厳かで超越的ですが、どこかよそよそしく「この世をすたすた通り過ぎる」お方という印象を受けます。ヨハネ福音書を祈りをこめて読んだ読者なら誰しも体験することですが、この福音書の描くイエス様からは、不思議な慰めと支えが与えられます。現実の人生の深いところへ届く御霊の働きを体得させてくれます。それは、超越的な視点から観たイエス様像からは生じてこない現実性を帯びた御臨在です。ヨハネ福音書の「受肉」した御子の御霊は、わたしたちの実人生にあって働いてくださるからです。ヨハネ福音書の描くイエス様は、超越的でありながら「内在的」に働く御霊です。この福音書が与えてくれる慰めは、そこから発しています。
ヨハネ福音書は、イエス様が神の御子であることに、読む人の心を集中させますから、それ以外のことに心が向かなくなるのは確かです。読者が、物語に登場する人物に自分を重ね合わせるうちに、いつの間にか、父とイエス様との深い交わりへ引き込まれて、その人物さえ消え失せてしまうのです。読者が、イエス様を通じて神との交わりに入る時に、自分と他者との関わりが、神と自分との交わりと、どのようにつながるのか?実は、この13章は、<この点に>目を向けさせてくれます。人と人との交わりの最も大切な基本がここに示されているのです。この意味で、イエス様が弟子たちの足を洗う今回の場面は大事です。
江戸時代の日本の宿屋でも、客が来ると女中が埃まみれの客の足を洗いました。イエス様の時代でも、客が来ると、先ずその人の足を洗う習わしがあったようです。これは、一般に身分の卑しい奴隷の仕事とされていました。けれども、洗足は、埃をぬぐうという実用のためだけでなく、宗教的な「浄め」の意味をも帯びていましたから、必ずしも「卑しい」身分の人だけがするとは限りませんでした。弟子が師の足を洗う、あるいは妻が夫の足を洗うこともありました。この場合、洗足は、その人に「仕える」謙虚さを表すものです。洗礼者ヨハネが、自分のことを「わたしの後から来るお方の履き物のひもを解く値打ちもない」と言ったのも同じ心を表わしています(1章27節)。
今回、最後の晩餐の席で、イエス様自らが弟子たちの足を洗ってこれをぬぐったとあります。師と弟子と、することが逆ですから、弟子たちは驚くというよりあわてたでしょう。イエス様はここで、言葉ではなく行為を通してお語りになりますが、ここは、それまでの癒しや奇跡を伴う行為ではありません。
ただし、こういう行為は、イエス様が初めてではありません。イスラエルの預言者たちは、言葉でなく行為や身なりで語ることがありました。洗礼者が、らくだの毛衣をまとっていたのも預言者エリヤにならうものです(列王記下1章8節)。彼がエリヤの再来だと言われたのはこのためでしょう(マタイ11章14節)。預言者たちは、自分に与えられた神の御言葉を彼らの「からだ」を通して語ったのです。彼らの行為は、しばしば比喩的で象徴的です。イザヤは、アッシリアのエジプト侵攻を預言するために、ほとんど裸体でエルサレムの町中を歩き回ったとあります(イザヤ20章2節)。預言者ではありませんが、ベタニアのマリアさんが、イエス様の足に香油を塗ったのも象徴の行為です。このように、神の霊を宿す者は、そのからだを通して、御霊の働きを象徴する行為を行なうのです。
? イエス様は父とひとつですが、「わたしの業(わざ)」とは決して言いません。だから、イエス様の兄弟たちから「あなたの業」と言われた時に(7章3節)、すぐに「わたしの時はまだ来ていない」と彼らの言葉を訂正しています。イエス様は「わたしが<行なう>業」とは言いますが(5章36節/10章25節/14章12節)、「わたしの業」とは言わないのです。この「行なう」には、父との交わりにあって「父の御霊が」働いているという意味がこめられています(5章20節など)。父が「行なう」時にだけ、イエス様も動くのです(7章10節)。徹頭徹尾、父からの啓示に従うことで、弟子たちに仕えるのです。このために、「うわべで人を判断する」人たちから、「自分と父を同じにしている」と非難されました(10章33節)。
■洗足の祭儀性
イエス様の行為は、今回も象徴的な意味を帯びています。洗足には、洗礼の意味もこめられていますから、これは「祭儀的」と言えましょう。イエス様は、洗足の後で、「あなたがたも互いこのようにしなさい」と言われます。だから、洗足は、弟子たち同士が、自分とイエス様、自分と隣人、この二つの「交わり」の有り様を学ぶための祭儀的な行為です。祭儀がこのように倫理的な内容を象徴するのは異例なことで、この点で、ここでのイエス様の業は、12章までに語られている奇跡的な「しるし」とは異なっています。ヨハネ福音書が、イエス様の受難を前にして、この13章に洗足を置いた深い意図をこの点に読み取ることができます。
洗足は、これを受ける弟子たちの洗礼と重なりますが、同時に洗足/洗礼は、これを与えるイエス様ご自身の十字架の死をも象徴します。「自分を無にして、死にいたるまで父の御心に従い抜いた」(フィリピ2章7〜8節)イエス様の謙虚さがここの洗足に表われています。「イエス様はわたしたちのために命を捨ててくださいました。これによってわたしたちは愛を初めて知った」とあるとおりです(第一ヨハネ3章16節)。
マザー・テレサは、聖餐のパンが象徴するイエス様のからだを路上で倒れている貧しい人のからだと重ね合わせました。彼女も、聖餐の祭儀を倫理的な行為とひとつにしたのです。マザーの行為は、彼女に宿るイエス様の御霊の働きを象徴しています。ちょうど「父が働くその時にわたしも働く」とイエス様が言われたように。だから、その行為は、自分の信念や自分の意図からでた行為ではありません。ヨハネ福音書が、人の行為や言葉が「どこから」出たのかとしばしば問うのはこのためです。
パウロの場合も、偶像なるものは一切存在しないと信じて、自分の内では、この信仰を固く保っていました。けれども、彼は、その信仰をそのままの形では、外の人たちに出しませんでした。どのような場合でも、常に相手を見て、その人がほんとうに霊的な行為を理解できる人かどうか? これを見定めてから、肉を食べたり飲んだりしました(第一コリント10章23節以下)。自分にあって働かれるイエス様の御霊の導きに従って振舞うのです。自分で正しいと思わず、主の御前に一歩下がって、相手の人にとって、ほんとうにいいのか? このことを問うことを忘れないのです。信仰は信念ではありません。信仰は十字架の謙虚さです。信念は競い合いに向くけれども、信仰は謙虚に働く愛です。
■天から降る模範
ペトロは、イエス様が自分の足を洗いに来られると、足を引っ込めました。すると、イエス様から、「あなたの足を洗わないと、あなたはわたしから受けるべきものを受けることができなくなる」と言われた。すると、ペトロは、「では、足だけでなく手も頭も」と言います。ペトロの願いは率直ですが的はずれです。でも、わたしたちのやることは、多かれ少なかれ、ここでのペトロのように、的はずれで誤解と無知に基づいています。それでも、イエス様はちゃんと答えてくださる。「今のあなた」には理解できないけれども、そのうちに分かると言われるのです。御霊が働いて、その人に悟りを与えると、今まで分からなかったことが、「ああ、そうだったのか」と納得するようになるのです。
イエス様は、弟子たちの足を洗い終えると、「わたしは、あなたたちに模範を与えた」と告げます。ここで「模範」と訳されている原語は、「型」(かた)を意味します。イスラエルの民は、エジプトを脱出して荒れ野をさまよいました。彼らは、自分たちをエジプトから救い出してくださったヤハウェの神をどのように礼拝してよいのかよく分からなかった。その時、主なる神は、モーセに、神の宿る幕屋の「型」を啓示してくださいました(出エジプト25章9節)。ここで「型」と訳されているヘブライ語「タブニート」は、新約聖書では、「予型」(タイプ)や「似姿」、「型」、「模範」、「写し」などの用語と関連しています。神からモーセに示された幕屋の「型」は、地上で幕屋を造る基となる「天にある原型」の写しです。これに従って地上の幕屋が造られました。だから地上にある幕屋は、天に存在する「ほんもの」の「写し」です。この二つは、印鑑とこれを押した印像、本体と模造、文書や手紙のオリジナルとこれのコピーの関係にあたると言えましょう。
十字架を通って天へ昇られたイエス様は、わたしたちに、神の御臨在に与る「型」を与えてくださいました。「型」の「ほんもの」は天にあります。だから、地上にいるわたしたちひとりひとりは、イエス様という「型」を通して、天のほんものの「型」の「写し」に与るのです。これが御霊の働きです。イエス様の御霊は、そのみ姿を不完全ながら地上に居るわたしたちに顕して、イエス様という「型」をわたしたちに「写して」くださる。聖霊は「真理」を顕すとヨハネ福音書が言うのはこの意味です(8章32節/16章13節)。
わたしたちは、「イエス様を受け入れる」(20節)ことで、父から与えられた御子の姿を地上で「写す」者になります。地上に居ながら、天のイエス様のお姿を写されて映し出す者になるのです。父は御子を「ほんものの人間の型」としてわたしたちお与えくださった。だから、わたしたちは、「新しい人間」になるためにイエス様を受け入れるのです。
■多様な「型」
日本人には、茶道の型、華道の型、柔道や剣道の型。いろんな「型」があります。「型」があれば誰でも入れます。何時でも始めることができます。見よう、見まねで、どんな人でも型を学ぶことができます。やれば誰でもそれなりに形になる。日本だけではありません。シェイクスピア劇もそうです。シェイクスピア劇は、古典的な「型」を具えていますから、下手は下手なりに、一生懸命やれば、それなりの形になります。下手がシェイクスピアを演じるからではない。シェイクスピアの劇そのものが、下手な者でも、ちゃんと演じさせてくれるのです。これがシェイクスピア劇のすごいところです。でも、シェイクスピア劇は、ほんとうはとても難しい。
「型」は、このようにとても謙虚です。でも型は奥が深い。型を究めると言いますが、誰でも何時でも始められますが、どこまで行っても奥が深いのです。しかも、わたしたちに与えられる「型」は多種多様です。イエス様の弟子たちは、それぞれの個性に応じてそれぞれに異なる「型」を伝えました。源(みなもと)は一つ、一人の人ナザレのイエス様です。一つの型から多様な型へ、「一即多」です。
キリスト教の教会や宗派は、様々に異なる「型」を具えていますから、わたしたちそれぞれは、置かれた場で、イエス様と出会います。その出会いの場にも様々な「型」があります。内村鑑三は、雨を浴びて「天からの洗礼」を受けたという話しを聞いたことがあります。コイノニア会は、少人数のグループ単位で、比較的自由で個人的な交わりの場を具えています。メンバーの中には、いろいろな教会とか教団に参加して、いろんな型を見たり体験してきた人もいます。なかなか型にはまりきれない人もいます。しかし、型にはまらないから型は要らないかと言えば、そうではない。コイノニア会独自の「型」があります。
南太平洋のフィージー諸島では、日曜日には、「ラリ」という木の太鼓を鳴らして集会を知らせ、「ヤンゴナ」という地元の飲み物(酒?)を飲むそうです。別の南洋諸島では、パンの代わりにタロイモを聖餐に用いるそうです。日本で言えば、太鼓の音で集会を知らせ、餅と御神酒で聖餐を行なうわけです。
最近(2018年)長崎県にある十二箇所ほどのキリシタンの遺跡が世界遺産に登録されました。わたしたち日本人には、250年もの苛酷な弾圧に耐えてきた「潜伏キリシタン」という驚くべき型があるのです。この「型」の真価は、まだ正当に評価されているとは言えません。
このように、「型」にはいろいろな有り様がありますが、型は「ほんもの」に達するための手段ですから、いろいろあってもいいのです。大事なのは、それぞれの型を通して本源のイエス様のみ姿に近づくこと、「多即一」です。「型より入りて、型より出でよ」という言葉があるように、先ず型に入る。ところが、入るのはその型を最終的には抜け出すためです。でも、自分勝手な「抜け出し」ではダメです。「型より出でる」のは容易でありません。わたしたちは聖書を読んだり集会に参加したりして、それぞれに信仰の型を身につけていきます。すると、自ずと「型を抜け出す」ように導かれます。「型より出でる」のは「型破り」ではない。御霊にあって自分が、新たな型へと創造されていくのです。しかも、これによって、自分が属していた交わりの型そのものが、新たに創造されていくのです。
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