【注釈】
   6章11節〜18節は、この書簡の結びの部分です。通常ヘレニズムの書簡は、専門の書記が、本人の口述で本文を筆記するか、あるいは本人の書いた下書きをもとに作成する場合が多かったようです。ただし、書簡の結びの部分や後書きは、本人が自筆で書くのが習わしになっていました。書簡の本文を書記が筆記する場合に、書記が書簡の内容自体にどこまで関与しているのかが問題になります。ガラテヤ人への手紙の場合は、その内容が独特で、そこにパウロ独自の信仰がはっきりと表明されていますので、書簡の内容もまた結びもパウロ自身によるもので、これを筆記した書記の影響はないと考えられます。特にこの書簡の結びの部分は、以下に述べるようにパウロのほかの書簡と比べても異例であって、ここには書簡全体の最も大事な視点がまとめてあります。この意味で、この結びは、「書簡全体を解釈する鍵となる」〔ハンス・D・ベッツ〕と言われています。通常パウロの手紙の結びには、次のような特徴があります。
(1)「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祝祷が来ます(ローマ16章20節/第一コリント16章23節/第二コリント13章13節/ガラテヤ6章18節/フィリピ4章23節/第一テサロニケ5章28節?/フィレモン25節。この参照は、パウロ系の書簡でも、パウロ本人のものだと確認されているものに限ります)。
(2)「平和の神があなたがた一同と共におられるように」という祝祷があります(ローマ15章33/第二コリント13章11節/ガラテヤ6章16節/フィリピ4章9節/第一テサロニケ5章23節?)。
(3)パウロ自身からの挨拶の言葉、あるいは他の人からの挨拶を伝える言葉が来ます(ローマ16章1〜16節/第一コリント16章19〜20節/第二コリント13章12節/フィリピ4章21〜22節/第一テサロニケ5章26節?/フィレモン23〜24節)。
(4)パウロ自身の手書きについての言及があります(第一コリント16章21節/ガラテヤ6章11節/フィレモン19節)。
(5)集会の人たち、あるいは敵対者に関する言及が来ます(ローマ16章17〜19節/第一コリント16章15〜18節/第二コリント13章2〜3節/ガラテヤ6章12〜13節/フィリピ4章18〜19節/第一テサロニケ5章14〜15節)。
(6)書簡の内容を短くまとめています(第一コリント16章13節/第二コリント13章11節/ガラテヤ6章12〜17節/第一テサロニケ5章16〜20節)。
  このようなパウロ書簡の特徴に照らしてみると、ガラテヤ人への手紙には、感謝も祝祷もなく(ただし警告に続く形で終わりに祝祷が来ています)、また挨拶も抜けています。その代わりに、敵対者に対する警告と書簡の中心となる主題を印象づける異例な長さの「まとめ」が来ています。こういう特徴はこの手紙の送り手と受け手との間に緊張が流れていることを伝えています。
11【いかに大きな字で書いたか】このことは、10節までは書記が書き取っていたことを示しています。「書いた」と過去形(アオリスト形)になっているのは、手紙の受け取り手の立場から見た言い方で、「書簡のアオリスト形」と呼ばれています。大きな字で書いたのは、これから述べることがそれだけ大事だからで、結びの部分の重要性を伝えようとしているのです。
12【肉において外面をよく見せる】この節から15節までは、5章2〜12節と内容的に重るところがあります。ここで「肉において」とあるのは、先にパウロが述べている「肉」と「霊」との対比から見れば、神の目からではなく人の目から、内面的にではなく宗教的な外面においての意味です。だから「外面をよく見せる」のは、ユダヤ教徒たち、すなわちユダヤ人に対してであることが分かります。「迫害されたくない」とあることから判断すると、取り繕う相手は、キリスト教徒ではないユダヤ人を指していると考えられます。したがって、「よく見せよう」としている「者たち」は、ガラテヤの信徒たちのことではなく、彼らを訪れているユダヤ人キリスト教徒のことです。「外面をよく見せる」(原語は「よい顔をする」)という言い方はここだけで、言うまでもなくこれはパウロからの見方です。いったい彼らは、なぜそのように「よく見せよう」とするのでしょうか?
【割礼を強いようと】割礼を「強いようとしている」(現在形)とありますから、信徒たちはまだ割礼を受けてしまったわけではなく、そうするように「強く勧められている」のです。この言い方もパウロからの視点です。だから、これを「無理に/強制する」と訳すのは強すぎます。逆に言えば、信徒たちは「できれば自発的に」割礼を受けるように仕向けられていると推察できます。これはかつてのサウロも含むユダヤ教の宣教師たちが、異邦人をユダヤ教へ改宗させた際に、「自発的に」ユダヤ教の割礼を受け容れるよう望んだことに通じています。異邦人キリスト教徒の場合も、ユダヤ教への改宗者と同様に、割礼を受けることによってキリスト者の「ユダヤ教徒」となり、ユダヤ人一般から受け容れられることをユダヤ人キリスト教徒たちは意図しているのです。霊的な内容よりも宗教的、人間的に「外面をよく見せる」とパウロが非難するのはこの点です。
【迫害されたくない】しかし、彼らユダヤ人キリスト教徒たちが、このように割礼を強く求めるその背景には、当時のパレスチナの情勢がありました。ローマ帝国の進めるユダヤのヘレニズム化と土地の効率的な集約(独占)化によって、ユダヤには帝国からの独立を求める過激派(ゼロータイ)が台頭し始め、またガリラヤでは、貧困化した農民たちの反乱が起ころうとしていました。この動きは60年代に入ると決定的になり、ついにユダヤ戦争へと突き進むことになりますが、パウロの頃には、すでに過激なユダヤ主義が力を増して、帝国から弾圧され、周辺の異邦の諸民族から非難を受ける状況にあったのです。このような状況の下で、ユダヤの内部では、「ユダヤ人の結束」への圧力が次第に強まっていました。キリストの福音は、彼らユダヤ人から見れば、まだユダヤ教の一教派にすぎませんでしたから、イエスの兄弟であるヤコブが指導するエルサレム教会は、律法を厳守することで、その「ユダヤ主義」を証ししていたのです。だから、たとえ異邦人キリスト教徒であっても、モーセ律法から完全に自由な福音を認めることは、エルサレムを中心とするユダヤ人キリスト教徒たちにとって危険を伴うことであり、ユダヤ教徒の反感を招く恐れがあったのです。パウロが、アンティオキアの教会で、食物規定をめぐってペトロと対立した事件にも、このような背景がありました。
  「迫害されたくないばかりに」、ユダヤ人に向かって「外面をよく見せる」ために割礼を推し進めようとしているユダヤ人キリスト教徒をパウロが非難するのはこの点なのです。なぜならパウロには、譲ることのできない「キリストの十字架」があったからです。もしもこのような情勢に流されて、宗教制度や政治的な争いやユダヤ人の風潮に支配されるなら、イエス・キリストの十字架の福音から降る御霊にある自由が失われ、福音の真理が曲げられ、せっかく異邦人キリスト教徒に与えられた御霊の恵みも意味を失う。このことをパウロは見抜いたのです。ではガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちは、キリストの十字架を宣べ伝えなかったのでしょうか? 彼らもまた、キリスト者として、十字架を伝えていたと思います。しかし、「パウロが語るようには」伝えなかったのです。では、彼らとパウロとは、どこが違うのでしょう?
13【割礼を受けている者】この人たちは、ユダヤ人キリスト教徒をも含むユダヤ人(=ユダヤ教徒)一般を指すと思われます。彼らが「律法を守っていない」という指摘は、パウロが回心したきっかけともなった殉教者ステファノも証言しています(使徒7章51〜53節)。なおペトロの振舞いについてパウロが指摘した点も参照してください(ガラテヤ2章14節)。ユダヤ人キリスト教徒たちが、従来の律法をどこまで厳格に遵守すべきかについては、彼らの間でさえも意見が分かれていたのです。もっとも、このことが、逆にユダヤ主義者たちを刺激して「団結」を主張する傾向へ走らせたとも言えます。
【肉について誇りたい】すでにパウロは、6章6節で、キリスト者の「誇り」がどこにあるのかを語りました。律法とユダヤ人の誇りについては、ローマ人への手紙2章17〜29節に適切な説明がなされています。
14【誇りがあってはならない】「誇り」は、古代のヘレニズムの人たちにとって大事な概念でした。これは名誉や正義や品格と結び付いた自尊心として大事にされたからです。誇りは、その人の業績と結びつけられることが多く、それだけに、「正しい誇り」と「誤った誇り」について論じられていました。パウロは13節で、ユダヤ人たちの「誤った誇り」について指摘しました。ヘレニズム世界を背景にして見ますと、彼は誇りそれ自体を否定しているとは考えられません。だから彼は、人間の誇りを否定しているのではなく、なにが「正しい」誇りであるかをヘレニズムの人たちに訴えているのです。パウロによれば、その「正しい」誇りとは、自分が「キリストの十字架にある」という、この一事に尽きます。ここは、「イエス・キリストの十字架<を>誇る」と訳される場合が多いのですが、原文は「イエス・キリストの十字架<にある>誇り」です。
   ではキリスト者が誇ることのできるのはどういうものでしょうか? パウロは、第二コリント人への手紙11章18〜30節で、自分の生い立ちについての「人間的な」誇りと、彼がキリストにあって受けた苦難の数々とを誇っています。しかし、人間的な誇りは、皮肉を混ぜたものであり、苦難にある誇りについては「自分の弱さ」を誇るという逆説的な言い方をしています。この世の人は、己の業績や名誉や地位、それと世間的な基準で見た正しさを誇るのですが、パウロのそれは、世の誇りとは逆の「弱さの誇り」なのです。十字架にある誇りは、弱さの誇りであり、その弱さを通じて働くイエス・キリストの御霊の働きに対する誇りなのです。だから、誇りは「主のもの」であり、栄光は「神のもの」なのです。世の人の誇りは、人々から賞賛される「英雄的な」業績であり、これはしばしば「自慢」となります。しかし、パウロの誇りは、キリストの十字架と復活と御霊に与る霊的な到達点です(フィリピ3章7〜11節)。これは自己を低くする謙虚をもたらし、神への賛美と頌栄となって表わされるのです。
【世はこのわたしに対し】「これによって」とあるのは、十字架のことなのかイエス・キリストのことなのか、はっきりしません。しかし、パウロにとっては「十字架にある」ことも「キリストにある」ことも同じであり、それよりも大事なのは、誇りの「中身」のほうです。パウロは自分が「この世に対して十字架された」と言っています。「十字架された」は受動完了形の動詞で、すでに起こったことが、現在もなお継続している状態を指しています。イエス・キリストの出来事は、すでに完了して、今も「この世の中で」働き続けているのです。しかし、パウロが「この世に対して十字架された」というのは、キリスト者はこの世から出ていって、隔離された生活をせよと言うことではありません。パウロはそもそも「肉の体」を否定してはいません。まして、この世の罪人たちを拒否していません。ここでは「世の誇り」と「キリスト者の誇り」とを比較対照しているのです。自己の「肉を誇る」生き方と、自己の「御霊にある」生き方、この違いです。
   「世の誇り」とは、なによりも肉体的で感覚的なものを通じて得られる誇りです(第一ヨハネ2章15〜17節)。それだけではなく、パウロが指摘するように、割礼を誇り、「世のもろもろの霊力」(4章9〜10節)を誇ること、すなわち人間の業を見せたがる「宗教的な誇り」があります。パウロは、キリストの十字架の働きによって、こういう世の生き方に対して「死ぬこと」ができたと証言しているのです。彼は「そのこと」を誇りにし、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」とその称号を省略せず重みを持って語るのです。
15【割礼の有無は問題ではなく】この世の生き方とキリスト者の生き方との違いを述べてから、パウロは、御霊にある生き方が、この世の宗教的な区別に左右されないことを改めて確認します。ここには「宗教世界におけるキリスト者のあり方」〔ハンス・ベッツ『ガラテヤ人への手紙注解』〕が語られています。しかも聖書を有するユダヤ教もそうでない異教も、同じレベルの「古い世界」に属するものと見なされるのです〔ハンス・ベッツ『ガラテヤ人への手紙注解』〕。ここでパウロは、ユダヤ人キリスト教徒たちが、彼とは異なる神学に立って、モーセの儀礼を遵守していることにはまったく触れていません。おそらく彼は、このような生き方をも黙認していたのでしょう。それは「問題ではない」からです。また、キリスト者が、新しい儀礼を持つべきかどうかも語りません。すでに洗礼と聖餐が行なわれていることを熟知しているからです。いったいどうしてこのような立場が可能になるのでしょうか?
【新しい創造】「新しい創造が起こること」、これが、ほかの一切の出来事や状況を「無意味」にするからです。パウロにとって、これだけが唯一大事なのです。ユダヤ教にも、神による「再創造」あるいは「新生」という考え方がありました(イザヤ65章17節)、特にユダヤ黙示思想には、古い「アイオーン」(時代/世界)と新しい「アイオーン」とが宇宙規模で入れ替わるという思想があり(『第一エノク書』(エチオピア語エノク書)」91章16節「先の天は姿を消して過ぎ去り、新しい天が現われ」)、クムラン宗団にもこのような信仰が見られます。また、ヘレニズム世界にも「再生」を目的とする密儀宗教がありました。しかし「新しい創造」という言い方は、パウロ書簡全体でも、ここと第二コリント人への手紙5章17節に出てくるだけです。「新しい創造」の内容的な背景はともかく、このような言い方はパウロ独特のものではないかと思われます。パウロが、このような大事なことをわずか二言で言い表わしているのは、おそらくガラテヤの信徒たちが、この言葉をすでに聞いていたと考えられます。おそらくこの15節全体は、パウロ系の教会の間では大事な「教え」として伝えられたのでしょう。なぜなら、9世紀初頭のビザンチンの歴史家ゲオルギウス・シュンセラスの年代記の中に出てくる「モーセの黙示」に(この文書は現在失われていて出所も不明です)、この15節が引用されているからです。「モーセの黙示」は、ユダヤ教の文書なのですが、15節のこの言葉は、割礼に関するその内容から判断して、ラビたちの伝承とは考えられません。
  「新しい創造」を創造される人間の側から見て、これを「新しい被造」と訳すこともできましょう。「創造」(creation)と「被造物」(creature)にこだわるなら、キリストの御霊にある神の創造の働きが、人間の側から見れば、新しく「造られる」ことだから、「被造」に違いありません。第二コリント人への手紙5章17節を新共同訳は「キリストと結ばれている人はだれでも新しく<創造された>者です」と訳しています。原文を直訳すると「だれでもキリストにあれば、新しい創造」となります。ギリシア語原典に付属しているRevised Standard Version(1971)には“If anyone is in Christ, he is a new creation.”とあり、欄外に“Or a new creature”とあります。新改訂標準英訳〔NRSV〕には If anyone is in Christ, there is a new creation.”とあります(改訂英訳〔REB〕も同じ)。「だれでもキリストにあれば、そこでは新しい創造の業が生じている」というこの訳は優れていると思います。ちなみにガラテヤ人への手紙6章15節は、“For neither circumcision nor uncircumcision is anything; but a new creation is everything!”〔NRSV〕とあり、また“Circumcision is nothing;uncircumcision is nothing; the only thing that counts is new creation”〔REB〕ともあります。
   キリストの御霊の働きに与る人間が、創造する側ではなく創造される側にあるのは当然です。しかし、ここでパウロが言いたいのは、そのような人間の状態のことではありません。キリストの御霊を通じて働く神自身の創造の御業それ自体のことなのです(当然そこには創造される者も関連します)。この御霊の御業は、キリスト者が肉にある限り、常に常に働き続けていく、「時の中に働く」神の業なのです。御霊にある創造は、常に否定を含みつつ、時間の中を動く事態です。ですから「創造」と「被造」は同じ事態です。創造は既成のものを批判することも否定することもしません。既成のものを「問題にしない」のです。創造は常に新しく創り出していく力(エネルギー)であり、このような働きそれ自体が、既成の宗教制度や人間のこしらえごとを無意味に「していく」のです。だから、人が教会のメンバーになる時に、新しい創造/被造が行なわれたと見ることはできません。「キリストにあること」そのこと自体が、そこに新たな創造の働きが生起していて、しかも生起し続けていくことを意味しているのです。
   パウロがここで言う創造とは、人間を人格的に、あるいは倫理的に新しくすることであるという見方があります。確かに、ここでのパウロの重点は、人間存在の宗教的倫理的な有り様に置かれていますから、このような見方それ自体は正しいと思います。しかし、パウロがここで言う「創造」を人間だけの実存的な有り様に限定するのは正しくないと思います。パウロが「この世のもろもろの霊力」から解放されると言う時(ガラテヤ4章9節)、彼は、人間を取り巻く社会環境、自然環境、さらには宇宙的な存在までも含む拡がりを含ませているからです。創造は神の御霊の働きです。しかし、人間の側から見て、パウロの言う「新しい創造」に参与する道とは、肉にありながらも「キリストの信仰に活きる」ことであり(ガラテヤ2章20節)、「キリストを着る」ことであり(同3章27節)、祈りつつ「御霊に導かれて」歩むことです(同5章25節)。
16【このような原理に従って歩む】この句は直前の15節を受けています。「原理」と訳した原語は、ヘレニズム哲学の用語ですが、ヘレニズムのユダヤ教で採り入れられたものです。「基準」という訳もありますが、ほんらい哲学用語なので新共同訳にならって「原理」としました。パウロが、最後の結びで、祝祷を与えるに際して、このような「基準/原理」を持ち出すのは、異例なことです。だから、この句は、このような原理に「従わない人」に対する警告を含むとも解釈できます(1章8〜9節)。ガラテヤ人への手紙を流れる主題は、「福音の真理とは何か?」であり、もうひとつは「だれがアブラハムの祝福を受け継ぐ正統な子孫のか?」です。だからパウロは、祝福を「このような原理/信仰」に立って歩む人に向けて祈るのです。
【神のイスラエル】この言い方は、新約聖書(七十人訳)にもユダヤ教にも出てきません。パウロが「イスラエル」と言う時には通常ユダヤの民を指しますから(ローマ9章30〜31節)、ここでもガラテヤの異邦人キリスト教徒とは別にユダヤ人キリスト教徒たち、あるいはユダヤの民を指すという説もあります。イスラエルの民を「神の」イスラエルと神に従わないイスラエルとに分けて、この原理に従う「神の」イスラエルを意味しているというのです。だとすれば、パウロはここで、ふた種類の人たちのために祈っていることになります。したがって訳は、「<すなわち>神のイスラエルの上に」ではなく、「<また>、神のイスラエルの上に」でなければなりません。しかし二つに分けるこの解釈は、「ユダヤ人もギリシア人もない」キリストの福音を伝えるパウロの立場から見て、適切でないと思われます。むしろ、パウロの見方からすれば、「アブラハムの信仰に従う」人たちこそ、真の意味での「神のイスラエル」ですから、これを「このような原理に従う人たち」と重ねていると見るほうが正しいでしょう。ただし、パウロに敵対するユダヤ人キリスト教徒たちが、自分たちを「神のイスラエル」と称していたとも考えられます。だとすれば、パウロはここで、「地上のエルサレム」に対する意味で「天のエルサレム」に属する民を「神のイスラエル」と呼んで、反対者たちに対抗していると考えることもできましょう。
【平安と憐れみ】この語順も異例です。通常「恵みと平安」「憐れみと平安」のように平安が後に来るからです。ユダヤ教の一八祈祷の第一九番目の祈りに「平和と幸いと祝福、恵みと慈愛と憐れみを我らの上に、またあなたの民である全イスラエルの上に与えたまえ。」とあり、ここでは「平安」が先に出てきます。実は、パウロのこの16節は、ユダヤ教のこの祈祷(あるいはこれよりも古い伝承)から出ているのではないかと言われています。言うまでもなくパウロの場合は、「平安」も「憐れみ」もユダヤ教的な意味ではなく、イエス・キリストにあって与えられるものです。「平安」の内容については、5章22節の注釈を参照。
17【苦労をかけないでほしい】これからは」とある原語には、「今後は」という時間的な意味と、「加うるに」「その上に」という追加的な意味とがあります。ここでは、時間を表わすと見ていいでしょう。ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちと自分との間に横たわる問題が、もはや解決されて、「これ以後は」、問題はなくなったことを言おうとしています。「苦労」とは特に伝道のために労苦することです。「わたしに苦労をかけない」「わたしを煩わさない」という言い方もここだけですが、このように問題の解決で終わるという結び方もヘレニズムの書簡体ではよく用いられました。
【イエスの焼き印】古代では、家畜以外にも、奴隷や犯罪者に焼き印を押すことが行なわれました(出エジプト21章6節)。しかし、このような悪い意味ではなく、自分の信じる神のしるしを入れ墨することもありました(イザヤ44章5節)。ただし、旧約聖書は、基本的に人間に入れ墨をすることを禁じています(レビ19章28節)。新約で「焼き印」が出てくるのはここだけで、ここでは意味が転じて、イエス・キリストの「奴隷」として、キリストのために受けた迫害の傷跡を指しているのです(第二コリント4章10節)。しかし、実際に十字架などを身に刻んだ人たちがいたとも思われます。これは、神のしるしを身に帯びることで、その人に危害を加える者は、その神から呪われると信じられたからです。ここでパウロが、「もうこれ以上苦労をかけないでほしい」と言うのは、反対者たちがイエスの焼き印を帯びているパウロを非難することがないようにという意味かもしれません。彼は、手紙の終わりに、自分がキリストの十字架を負う者として(焼き印を「帯びる/背負う」の意味すること)、キリストと同じ姿であることを思い起こさせようとしているのです。なおヨハネ黙示録には、意味が転じて、神から額に刻印を押された人たちのことが出ています(ヨハネ黙示録7章3節)。
18「恵み」の祈祷は、先にあげたように他のパウロ書簡にも出てきます。しかしここでは「兄弟姉妹たちよ」という呼びかけが加わっているのが注目されます。パウロは、キリストの恵みを祈る人たちを特に深く心に刻んでいることが分かります。また「あなたがたの霊と共に」もここだけです。「霊」は、ここでは、キリストの御霊のことではなく、キリスト者ひとりひとりに具わる霊性のことです。肉によらず、御霊によって与えられた霊性によって歩むようにと言う願いがこめられているのでしょう。「アーメン」は、おそらくもとの手紙にはなかったもので、手紙が集会で朗読された時に、聴衆がこれに応えて「アーメン」を唱えたのが、そのまま書き込まれたのです。パウロは1章3節で「主イエス・キリストからの恵みと平安」を祈ることで始めて、ここで「わたしたちの主イエス・キリストの恵み」を祈ることで終わっています。この書簡全体を通して、「恵み」は、特に、「律法の諸行」と対照される「キリストの信仰」から降る「恵み」を指していました。パウロは、このことを今一度ガラテヤの信徒たちに思い起こさせようとして、このようにやや異例な形で恵みの祈りを終えるのです。
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