(14)新しい創造
【聖句】
■6章11~18節
11見よ。いかに大きな字で、あなたがたに自分の手で書いたかを。
12肉において外面をよく見せようとする者たちは、あなたがたに割礼を強いようとしている。彼らはキリストの十字架ゆえに迫害されたくないだけである。
13実は、割礼を受けている者自身も、律法を守っていない。それなのにあなたがたに割礼を望むのは、あなたがたの肉について誇りたいがためである。
14わたしについて言えば、わたしたちの主イエス・キリストの十字架にあることのほか、断じて誇りがあってはならない。これによって、世はこのわたしに対し、わたしは世に対して十字架されている。
15だから割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しい創造なのである。
16このような原理に従って歩む人すべての上に、すなわち、神のイスラエルの上に、平安と憐れみがあるように。
17これからは、だれもわたしに苦労をかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印をこの身に帯びているのだから。
18兄弟姉妹たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
【講話】
(1)律法の行ないと御霊の行ない
今回は最終回なので、今までの書簡全体をまとめとしてお話ししたいと思います。ガラテヤ人への手紙では、4章の終わりまでは、律法の行ないに頼ってはいけない。主様に信頼しなさいと強く勧められます。まるで行ないが悪いようにも聞こえます。ところが5章になると「御霊によって歩みなさい」とあって、「行なわない」から「行なう」に移ってきます。パウロは、6章8節と続く9節でも、「霊に蒔く」生活を勧めていますね。そして「よい行ない」を気落ちすることなく続けるように強く勧めています。パウロは、一方では「律法による行ない」を否定しておきながら、他方では御霊による「よい行ない」を推奨しています。肉に蒔く歩みと霊に蒔く歩みのように、「肉」と「霊」ですね、現実の生活の行ないに、このような否定と肯定のこの両面性がありますから、事は単純でありません。
「律法」についてさら言えば、モーセ律法を守って律法の諸行に頼ろうとする者は、滅びに向かいます。けれども律法をないがしろして、放縦な生活に走る者も滅びに向かいます。同じキリストを信じていても、律法の諸行に頼る者、反対に御霊にある自由をはき違えて放縦に陥る者、どちらも滅びに向かうことになります。パウロは、キリストの御霊にあって、「善を行なう」ように勧めているのですから、律法による「行ない」を否定し、御霊にある「実践」を勧めるのです。律法による行ないは滅びにいたり、御霊にある実践は永遠の命にいたるのです。律法を遵守することもならず、律法を無視することもならないとは、いったいパウロの言う「律法」とはなんでしょうね。律法と福音との関係は不思議です。
(2)モーセ律法からキリストの律法へ
ガラテヤ人への手紙5章には、「肉の働き」と「御霊の実」とがでてきます。モーセ律法で禁じられている盗みや殺意や姦淫は「肉」の働きになります。愛や善意や平安や謙虚な心は「御霊の実」です。だから、モーセ律法に含まれているよい意味での価値観は、キリストの御霊にちゃんと含まれています。律法を否定しながら、律法のよいところはイエス様の御霊によって受け継がれているのです。だからパウロは、イエス様の御霊の働きを「キリストの律法」と呼んでいるのです(ガラテヤ6章2節)。だから、ここで「善いことを行なう」とある「行ない」と言うのは、今までパウロが、キリストの福音と対立させてきた「律法による行ない」「律法の諸行」のことではありません。律法を人間の力で実行しようとするのが「律法の諸行」です。これでは律法をほんとうの意味で成就することができません。イエス・キリストの御霊に歩む時に、律法は、霊的に内面的に、自然と成就されるからです。自力で行なわないことによって行ない、意図しないことによって成就する。考えると何とも不思議です。
だから、律法によって歩むのではなく、キリストの御霊によって歩みなさいと言う時に、その御霊の中には、モーセ律法にある善いもの正しいもの、モーセ律法の基本的な価値観ですね、これも含まれていることになります。キリストの御霊はこのようにモーセ律法を受け継ぎつつこれを成就しているのです。モーセ律法を否定して、これをただ排除するのではありません。律法を御霊にあって受け継ぎつつ律法を変容させているのです。なぜなら、キリストの御霊の働き、すなわちキリストの律法は、旧約聖書よって証しされて出てきたからです(ローマ3章21節)。だからこそ、御霊に導かれる者は、もはや律法によらない、律法にこだわらないのです。だからこそ、御霊に導かれる者は、律法の善いもの正しいところを受け継いでいるのです。だからこそ、御霊に導かれる者は、従来の古くなった律法を排除し、これを否定することができるのです。パウロはこのようにして、キリストの御霊の働きによって、それまでの狭い民族主義的なユダヤ教の律法を全世界に通用する「キリストの律法」として、人々に伝えることができたのです。
(3)御霊にある自由
信仰は考えることではないのです。信じることは歩むこと。歩むためには祈ることです。祈りがすなわち御霊ご自身の働きです。御霊が働くと人は無力にされます。だから「実践する」のは人ではない。御霊ご自身です。しかもその御霊の働きの内には、モーセ律法それ自体も内包されています。先にお話ししたように、肉にある放縦から免れさせてくれるのは、キリストの御霊です。御霊にそれができるのは、ご自身の内にモーセ律法が含まれているからこそできるのです。だからキリストの御霊は、モーセ律法の真髄をその内に宿しています。しかも、モーセ律法を自力で行なおうとする人間の思い上がりを否定するのです。律法と福音との関係は不思議です。この問題は、ローマ人への手紙にいたって、さらに掘り下げて語られることになります。
ガラテヤ人への手紙がわたしたちに伝える最も大きな課題は「御霊にある自由」です。それも特定の人たちではなく、律法の外にいる人たち、すなわち人間としての「わたしの」自由です。そこに含まれる信仰あるいは思想は、当時だけでなく、現在でも驚くほどに広い変革の力を秘めています。この自由こそ、パウロの言う「誇り」なのです。パウロはこの御霊にある自由を律法すなわち広い意味での「宗教」と対立させています。この対立関係は決して単純ではありません。「キリストの律法」という言葉が表わしているように、律法を否定しながら律法を内に含み、律法を排除しながら律法を継承しています。パウロの律法は「変容する律法」です。聖書に証しされた律法が、聖書に証しされたキリストの御霊によって、常にこのように変容しつつ、新しい行ないを指し示す倫理観を創造していくのです。
そこには、これからのあるべき宗教への指針だけではなく、わたしたちが人間として生きる倫理観が含まれています。人を倒そうとする競い合いの原理に基づく個人主義に代わって、助け合いの精神に基づく個性尊重です。これからは、原理や主義ではなく倫理を尊ぶ生き方が見直される時代が来ると思います。また宗教の世界でも、教団や宗派の教義ではなくキリストにある御霊の働きによる新たな創造の時代になります。限られた意味での「神学」ではなく、各宗教や宗派を含む広い意味での宗教学(宗教心理学、宗教現象学、宗教社会学、宗教哲学、心霊学、神智学、宗教言語学、宗教史学など)の時代がやがて来ると思います。人間は「宗教する人」(ホモ・レリギオサス“homo religiosus”)だからです。
■御霊にある創造
ここに注釈で述べたことをあえて重複させて載せます。 新しい天と地との創造は、イザヤ書(43章18~19節/65章17節/66章22節)へさかのぼる思想です。そこから黙示思想のヨベル書4章26節(前2世紀)や『第一エノク書』72章1節となり、さらにクムラン文書にも表われています。新約以後では、シリア語バルク黙示録32章6節/44章12節/57章2節やラテン語エズラ記7章7節などにも世界の更新が語られます。だからこの黙示思想は、ナザレのイエスやパウロ以前からすでに存在していたものです。これらは、宇宙規模での更新であり、アイオーンの救済史的な転換を指しています。しかしパウロでは、この新しい創造が、個人の霊性、すなわちその人格的創造と結びつくところにその特徴があります。ガラテヤ6章15節の「新しい創造」は明らかに個人の人格的な創造を表わしていますから、この意味で、ここはパウロの造語と見ることもできます。おそらく文書としてはここがパウロ的な個人の創造の初出でしょう。ここには後に表れるパウロの「第二のアダム」思想がすでに見られます。ガラテヤ2章20節にはパウロ自身の体験が語られており、ガラテヤ4章19節/5章6節も同様の主旨を秘めていて、この信仰は第二コリント5章17節へつながるものです。そこでは、宇宙規模の創造と救済史的アイオーンの創造と個人の人格の創造が重ね合わされています。「誰でもキリストにある者には、新たな創造が存在する(個人の創造)。古き時代は既に過ぎ去った(救済史的創造)。見よ、すべては新しくされた(終末的創造)。」これをイエス・キリストにある世界のエクレシア全体を統一する思想として解釈することもできましょう。人類と世界のアイオーンの創造と個人の創造を結ぶ働き、救済史的に終末と現在とを結ぶ働き、このふたつがイエス・キリストの聖霊の働きです。これこそ、ナザレのイエス様にさかのぼる霊性であり、そこに人格的霊性が創り出す<愛と悦びと平安>(ガラテヤ5章22節)の根源があるのです〔Margaret E. Thrall.
ⅡCorinthians. (1)ICC. T&T Clark (1994)
420--29〕。
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(2006年10月13日完成)