【注釈】
6章1〜10節までは、今まで述べてきたことを受けて、ガラテヤの信徒たちへの一連の勧めが語られています。この部分も、この書簡全体の主旨から判断して、パウロに反対するユダヤ人キリスト教徒たちを意識した反論だとする見方がありますが、この解釈だと「咎め」とは、割礼を受けようとすることを指すのでしょう。これに対して、ここは、5章16節以下で語られている御霊による歩みと肉による歩みとを受けて、兄弟姉妹同士の倫理的な問題について一般的な勧告をしていると言えます。1節〜10節は、ユダヤ教にもヘレニズム世界にも通じる諺や格言の言い方で、しかもこれをキリストの御霊にある「キリストの律法」と結びつけています。ガラテヤの信徒たちは、コリントの教会でも見られたように、御霊にある自由をはき違えて、うぬぼれたり、道徳的に「咎められる」問題を起こす者がいたのかもしれません。だから、この部分は、論敵を意識したものではなく、むしろ「肉によらず霊によって歩む」(6章8節)ことを教えていると受け取るほうがいいでしょう。
1【何かの咎】原語は「不義」「咎」「罪過」などと訳されます。パウロは「ある人」と言うだけで、誰がどのような行為をしたのか明らかにしていません。だからここは、第一コリント人への手紙5章1節以下とは、事情が異なっています。おそらくこの「咎め」は、先に「肉の働き」(5章20〜21節)としてあげた項目と関連しているのでしょう。「こういう人たちを」と単数から複数へ変わっているのは、集会の中で「肉に歩む人たち」がいたことを示唆しています。なお、咎ありと「見られたなら」と訳した原語は、「怪しいと見られる」「疑われる」という意味と、本人が気づかずに「罠に陥る」、あるいは「うっかり不正を犯す」という意味にもなります。これの原語は新約聖書でここだけです。
【御霊にある柔和な心で】集会の人の誰かに「咎めるところ」があると見なされた場合には、「霊の人であるあなたがた」が、その人を「正す」ようにと勧めています。したがって、忠告するのは、「霊の人」でなければなりません。「人のうぬぼれを正して、自分自身を正しく判断するように忠告すること」、これは当時のヘレニズム世界で広く認められている哲学に基づく教えでした。1節から10節までには、「うぬぼれ」が特に戒められています。ここにはヘレニズム思想の背景があります。しかしパウロの場合は、ヘレニズム的な思想と共に、イエス・キリストの御霊の働きが大事な意味を持っています。だから集会の人に忠告するには、特に「霊の人」が、キリストの御霊にあって、「柔和に」行なうことが大事なのです。これに続いて「あなたも気をつけて」とあって、二人称複数から単数へ変わります。これは「霊の働き」が強まると同時に、人は「ついうっかりして」傲慢の罪に「誘い込まれる」(「誘惑する」の原語)からです。「うぬぼれ」や「思い上がり」が、「霊の働き」の場合には、いっそう警戒しなければならないのです。ただし、パウロのこの勧告から判断すると、「咎め」に対する処罰や断罪は含まれていないようです。このような寛大さは、パウロの特徴だと言えましょう。ここをマタイ福音書18章15〜16節と比較してください。
2【互いに重荷を】これもソクラテス以来、友情についてのヘレニズム哲学の教えと一致します。またパウロの時代のユダヤ教にも「友の不幸を自分も負う」とありますから、パウロ独自の教えではありません。「重荷」とあるのは、人生にまつわる様々な困難のことで、集会の人たちの抱える悩みを互いに分かち合うことです。特に律法や割礼に関することを指しているのではありません。
【キリストの律法】ここでもヘレニズム的な教えに続いて、キリストにある「御霊の導き」が並列されています。「キリストの律法」という言い方は、異邦人キリスト教徒への「律法」に終始反対してきたこの書簡の主旨に反するように思われるかもしれません。しかしここで言う「律法」(ノモス)とは、強制的に課せられようとしている割礼やモーセ律法とは異なっています。「キリストの律法」という言い方は、すでに最初期の教会から、イエスの教えを人々に伝えるために語録集のような形で伝えられていたのかもしれません。ただし、パウロがここで「キリストの律法」と言う時に、彼がキリストの御霊の働きを意味しているのは間違いありません。マタイ福音書(5章17〜20節)にあるとおり、キリストの御霊には、モーセ律法が変容されて含まれていますから、パウロの言う「キリストの律法」にも旧約のモーセ律法の基本的な価値観が受け継がれています。しかしその価値基準は、伝統的なユダヤ教や保守的なユダヤ人キリスト教徒たちのものとは異なって、新しいヘレニズム世界に適応する普遍性を帯びていました。何よりもここで言う「律法」は、外から外面的に課せられるものではなく、内面から自然に生まれる御霊の働きを指しています。パウロの「ノモス」は、このようにその内容が流動的であり、またこの語が用いられる状況に応じて変容しますから注意してください。ここで言う「キリストの律法」とは、キリストの御霊の働きに含まれている価値観のことで、様々な状況に応じて御霊の導きに従うことです。御霊が目指すのは主イエスにある愛なのです(ガラテヤ5章14節/ローマ13章10節)。
3【何者でもないのに】プラトンの有名な『ソクラテスの弁明』では、死刑の判決を受けて、毒杯を飲む直前に、ソクラテスは、自分には神霊の声が聞こえてきて、何か少しでも曲がったことをしようとすれば警告を発してくれるという意味のことを述べています。さらに彼は、あの世でもこの世でも、最も重要なことは、人々を試問したり吟味したりして、誰が賢者であるか、また誰が賢者顔をしながら実際はそうでないかを確かめることにあると語ります。それから周囲の人たちに、もしも自分の息子たちが、「自分が何者でもないのに、自分を偉い者と見ているなら」(この部分はパウロの言葉とほぼ同じ)、どうか彼らに忠告してほしいと遺言します。「何者でもない」や「欺く」(この語は新約全体にもユダヤ教にも七十人訳に見られない)など、ここでの用語が、パウロにはほかに例がないことから、彼が当時のヘレニズムの哲学から学んだものを引用していると見ることができます。
【自分を欺いている】有名なデルフォイの神殿の神託に「汝自身を知れ」とあります。自分の能力を正しく判断することができて、しかも他人の優れた能力を公正な目で認めることができる資質は、「雅量/寛大/高潔/度量」(英語では“magnanimousness”)と呼ばれてヘレニズムではとても大事なこととされました。これとは逆に、うぬぼれて、自分を実際以上に高く評価する者は、「自己欺瞞」に陥ることになります。特に、キリストの御霊に与ったと称して、自己の霊性を誇ることは、キリスト者が最も警戒しなければならないことなのです。
4【自己の行いを吟味】「自己を吟味する」というのは、他人と比較しないことです。この意味での「吟味」もヘレニズム哲学では重視されて、「自己吟味」の目的は、自分の内に何か「誇りに値するもの」を見出すことでした。またそのような「誇り」を「自分自身に対して」抱くことができるようになることが求められたのです。だからここで言う「行ない」は、今までパウロが、キリストの福音と対立させて述べてきた「律法による行ない」「律法の諸行」のことではありませんから注意してください。
なお「吟味する」には、「テストする/試す」(第一コリント3章13節)、「(テストの結果)善いと認める」(ローマ14章22節:自己の「吟味」にやましさを感じないこと)、「最善のものとして選ぶ」(第一コリント16章3節:吟味されて選ばれた人)などの意味があります。このようにパウロの「吟味」には、いろいろな意味がありますが、ここでは「試す/テストする」です。
【自分に誇ること】ではパウロの場合に、「自分に対して誇れるもの」とはなんでしょう? ここで、ヘレニズムの哲学からキリストの御霊の人の視点へと移ります。ここでも大事なのは、「各人」とあるように自分自身に向かう視点です。パウロが、自分自身に向かって見出すことのできる自分の誇りとは、「十字架の誇り」(ガラテヤ6章14節)であり、「主を誇ること」(第一コリント1章31節)です。ほんとうに「賢い」のは、人ではなく神の知恵であり、しかも、ヘレニズムの人には愚かだと思われ、ユダヤ人には躓きとなる「十字架の知恵」なのです(第一コリント1章18節以下)。これは主から与えられる「誇り」ですから「誇りは主から来る」のです(第二コリント10章17〜18節)。この謙虚さ、これこそが「クリスチャンの誇り」です。御霊にある誇りとは、人に見せるためのものではありません。自分だけに分かるものです。そうでなければキリストの御霊にあるとは言えませんから。
【他人に対して誇る】ヘレニズム哲学では、他人と自分を比較して誇るのは、最も愚かなことと見なされました。このような誇り方は、「人に見せる」ためのものです。しかも他人と自分を比較するのは、自分を欺くもとになります。なぜなら、人と自分を比較する者は、ほぼ間違いなく自分を人よりも上だと思いこむからです。これの最もよい例が、ルカ福音書18章9節以下にありますからご覧ください。
5【自分自身の重荷を担う】この節と前節とのつながりは、必ずしもはっきりしません。「だから」と訳した接続詞は、軽い意味に過ぎないと見ることもできます。またここでの「重荷」は、6章2節で用いられている「重荷」とは異なる語です。ヘレニズム哲学では、「自分の限界」をわきまえて、自分にふさわしくない重荷(人生一般の様々な意味で)を負ったり、自分の手に負えないことに手を出すことを愚かだと見なしました。先の2節では、交わりにおいて、互いに相手の弱さや悩みを分かち合うようにとありました。しかしここでは、賢くなって、自分のことは自分で処理するように勧めています。この二つは決して矛盾することではありません(フィリピ4章11〜13節)。なお2節と5節の「重荷」をエルサレム教会への献金と関連づける説もありますが、この見方は正しくないでしょう。
6【御言葉を教える人・・・教えられる人】この節も前節とのつながりがはっきりしません。ここでは「教える人」と「教えられる人」とが互いに「分かち合う」(コイノニアする)ことが命じられています。師弟が様々な意味で分かち合いをすることは、古くはピタゴラス学派(宗団)にさかのぼる格言として、ヘレニズム世界で一般に奨励されていました。ギリシア・ローマの世界に限らず、フィロンの伝えるエジプトのテラペウタイと呼ばれるユダヤ教の宗団やパレスチナのエッセネ宗団でも、また原初のキリストの教会でも共有生活が行なわれました(使徒2章44〜47節)。パウロのここの勧めもこのような考え方に基づいてなされています。
  ここで「御言葉」とあるのは、明らかに福音の正しい教えを指しています。ただし、なんの説明もなくただ「御言葉」(単数)とだけあるのはパウロでは珍しく(ここと第一テサロニケ1章6節のみ)、これは教会一般で使われている言い方をそのまま用いたと思われます(コロサイ4章3節)。しかし、この書簡全体から判断するなら、「御言葉」の内容はパウロ的です(第一コリント1章18節/第二コリント5章19節を参照)。
  問題は「教える人」と「教えられる人」の関係です。ここで「教える」も「教えられる」も分詞形で単数ですから、個人的ではなく一般的な意味で用いられています。「教える」の原語は「カテーコウ」(教授する/伝授する)で、これは後の「教理問答」(英語の“catechism”)の語源になりました。ガラテヤの集会にもコリントの場合と同様に専任の「教師たち」がいたのでしょうか?(第一コリント9章14節/同12章28節:ただし「教師」の原語は、ガラテヤのここと異なります。)パウロはここで、一般的な語り方をしているので確かなことは分かりませんが、ガラテヤにも「教える人」と呼ばれる人たちがいて、彼らは、パウロの伝える福音の言葉を伝えていたのではないでしょうか。おそらく彼らは専任で他に仕事を持たず、このために生活の支えを必要としていたのでしょう。
【善いものを分かち合う】ヘレニズム世界一般で言う師弟の「分かち合い」は、霊的精神的なことだけでなく物質的、経済的なことにも及んでいました。ここで言う「善いもの」とは、霊的な分かち合いを指すという解釈もあります。霊的な分かち合いが大事なのは言うまでもありませんが、ただそのためだけに、パウロがここでわざわざこのような勧めを行なっているとは思えません。だから「善いもの」には、財政的な援助も含まれていると見ることができます(ルカ1章53節/同12章18節:「わたしの穀物と善いものを蓄える」)。英語の“goods”も「財産/持ち物」の意味です。ただし、この箇所をパウロが集めていたエルサレム教会への献金と関連づける説がありますが、ここでの彼の語り方があまりに一般的なので、この見方は正しくないと思います。
7【間違ってはならない】原語は「欺かれてはならない」です。これもヘレニズム哲学の言い方ですが、パウロも警告の場合にこれを用いています(第一コリント6章9節/同15章33節)。
【神は、侮られることがない】「侮る」の原語は「嘲る/馬鹿にする」で、他人の言うことを全く受け付けない態度を指します(ルカ16章14節を参照)。ローマ人への手紙2章2〜8節にあるように、神の慈愛と寛容を侮ることは、裁きの日に滅びを招くことになるのです。だから、神あるいは神からの知恵を「侮ること」は、旧約でも、またユダヤ教においても戒められています(七十人訳の箴言1章30節/歴代誌下36章16節/イザヤ37章23節)。
【人は、蒔いたならば】「人は誰でも、蒔いたものはなんであれ、必ずその報いを受ける」という格言です。この諺は、ほんらい現世的な生き方について言われていたのでしょうが、ここではそれが終末的な意味を帯びて語られているのに注意してください。終末の刈り入れについては、ヨハネ福音書4章35〜38節とヨハネ黙示録14章15〜16節を参照。
8 【自分の肉に蒔く者】種蒔きと刈り入れは、人類一般に共通するたとえです。ここで「肉」のほうにだけ「自分の」とありますが、これを「肉」が人間の恣意的な思いで行なう歩みであるのに対して「霊」のほうは、御霊に導かれる歩みであって、「自分の」判断で恣意的に行動することが許されないという含みがあります。キリストの御霊にあって歩む生き方を「霊による歩み」、あるいは「霊に蒔く」生き方として、これが「永遠の命」へいたる道であることは、パウロが教会の伝承から受け継いだものです。しかし、「肉に蒔く」行為が「滅びにいたる」という言い方は、パウロではここが初めてです。ただし、ローマ人への手紙では「永遠の命」と「神からの怒り」とが(2章7節)、また「永遠の命」と「死」とが(6章23節)、それぞれ対照されています。
パウロは先に「肉」を割礼と関連づけています(4章29節)。また「肉」をふしだらな生活と結びつけました(5章19〜21節)。今ここで、「肉」を終末における「滅び」と結びつけるのです。おそらくパウロが、「肉」を滅びに結びつけるのは、先にあげた肉の働きのさまざまな「現われ」を厳しく戒めるためであろうと思われます。これらのことを行なう者は、神の国を受け継ぐことができないからです(5章21節)。
  これから判断すると、モーセ律法を遵守して割礼を受けて、律法の諸行によって信仰生活を送ろうとしている人たちは、終末の滅びに向かっていることになります。ところが、パウロは、もう一方では、怒りや姦淫や偶像礼拝や宴楽など、モーセ律法が戒めているまさにそのことを「肉の働き」として警告しているのです(5章19〜21節)。彼が「肉の働き」としてあげている悪徳を防ぐのは、ほかならぬモーセ律法の働きだからです(パウロを批判するユダヤ人キリスト教徒たちは、この点を突いている見る説もあります)。だからパウロの言う「肉」には、「律法による肉の業」と「律法を無視した放縦な肉の業」の二つの側面があることが分かります。このように見てくると、パウロの言う「律法」と「肉」との関係は単純ではないことが分かります。「肉の歩み」と「霊の歩み」、このふたつと関係する「律法」と「キリストの御霊」、いったいこれらの関係はどうなっているのでしょうか?
9【よい行ないに気落ちしない】「よい行ない」の原語は「よいこと(単数)を実践する」です。「よい」は「善い」と原語が異なりますが、次の10節から判断すると、両者は同じ意味です。ここで言う「よい」は、5章22節に出てくる「御霊の実」のことです。「気落ちしない」は「倦み疲れない」〔山内訳〕「失望しない」〔岩波訳〕などとも訳されています。
【くじけなければ、その時が来て】「くじける」は「疲れ果ててあきらめる」ことです。「その時が来て」という言い方は、パウロではここだけです(第一テモテ2章6節参照)。「その時が来て」の「時」(カイロス)は単数で、神の定めた時節のことで、終末を指しています。しかし、新約聖書の言う「終末」は、必ずしも「未来」や「あの世」のことではありません。終末は、ヨハネ黙示録に描かれる最後の審判の行なわれる「終わりの日」と関連します。しかし、終末は、イエス・キリストの到来と共に「すでに始まって」いますから、「終わりの日」と「終末」は、全く同じではありません。「終わりに日」は、終末が完成される時と考えていいでしょう。だからパウロは、次の10節で「今、時が与えられている間に」と言うのです。神の定めた「時節」については、コヘレトの言葉3章1〜10節を参照。
パウロは、この8節と続く9節で、「霊に蒔く」生活を勧め、「よい行ない」を気落ちすることなく続けるように強く勧めています。だからパウロは、一方では「律法による行ない」を否定し、他方では霊による「よい行ない」を推奨していることになります。「よい行ない」と肉に蒔く歩みと霊に蒔く歩み、これらは現実における行為の否定と肯定の両面から見る時に、問題が単純ではないことに気がつきます。ではこの問題は、どのように考えればよいのでしょうか?
イエス・キリストを信じて、モーセ律法を守り、割礼を受けて、律法の諸行に頼ろうとする者は、滅びに向かいます。同時にまた、モーセ律法をないがしろして、放縦な生活に走る者も滅びに向かいます。同じ「キリスト者」でありながら、律法の諸行に頼ろうとする者、反対に御霊にある自由をはき違えて放縦に陥る者、どちらも滅びに向かうことになります。しかもパウロはここで、キリストの御霊にあって、善を「実践しよう」と勧めているのです。律法による「行ない」を否定し、御霊にある「実践」を勧めるのです。律法による行ないは滅びにいたり、御霊にある実践は永遠の命にいたるのです。しかも、律法を遵守することもならず、律法を無視することもならないとは、いったいパウロの言う「律法」とはなんでしょうか? 律法と福音との関係は不思議です。律法を人間の力で実行しようとするのが「律法の諸行」です。しかしこれによっては、律法を真の意味で成就することができません。イエス・キリストの御霊に歩む時に、律法は、霊的に内面的に、自ずから成就されるからです。
  自力で行なわないことによって行ない。意図しないことによって成就する。そのような歩みとはどのようなものでしょうか? 人がキリストの御霊にあって歩む時、人は無力にされます。だから「実践する」のは彼ではない。御霊ご自身です。しかもその御霊の働きの内には、モーセ律法それ自体も内包されていなければなりません。なぜなら、先に指摘したように、肉にある放縦から免れさせてくれるのは、キリストの御霊であり、御霊の内にモーセ律法の価値観が含まれているからこそそれができるからです。だからキリストの御霊は、モーセ律法の真髄をその内に宿し、しかも、モーセ律法を自力で行なおうとする人間の思い上がりを否定するのです。律法と福音との関係は不思議です。この問題は、ローマ人への手紙にいたって、さらに掘り下げて論じられることになります。
  だから、御霊にある歩みから生まれる「よい行ない」は、キリストに従う結果であって目的ではなく、恵みであって功績ではなく、授与されたものであって、その人の誇りとはならないのです。キリストの御霊にある歩みとは、己が無にされていく歩みです。御霊の創造的な働きは、終末を目指して動きます。しかし、終末はわたしたちが見ることもできず、予め予定することもできないから、わたしたちは、「先が見えない」ために「気落ちする」ことになります。その結果、目に見えない御霊の働きに従うことに「疲れてあきらめる」という事態にもなりかねません。御霊の働きは、わたしたちの目には、常に見える姿で現前するとは限らないからです。結果は、その時が来るまで分からないのです。その時までは、信仰によって、御霊の導きに委ねて歩むことがあるだけです。だから、このような歩みの行き着く先には、自分が無にされること、すなわち「自己の死」があります。キリストの十字架によって、自分とこの世とは、互いに「死ぬ」ところへ行き着くのです(6章14節)。
10【それだから】今まで述べてきたこと、特に5章13節以下で語られてきたことをここでまとめて結論しています(ローマ5章18節/同7章25節/同8章12節など参照)。
【機会が与えられる限り】「機会」(原語は「カイロス」)とは、神によって備えられた「とき」のことです。「の限り」は「の間は」と訳すこともできます。これを「世の終わりが来るまで」と終末的に解釈することもできますが、むしろここでは、「この今の時に機会が与えられるなら何時でも」のように、現実の生活に根ざした意味にとるほうが、ここの主旨にふさわしいでしょう(エフェソ5章16節/コロサイ4章5節を参照)。
【善を実践する】「善(単数)を実践する」は9節の「よいこと(単数)を実践する」と並んでいます。これは「律法の諸行(複数)」と対照されるからでしょう。人の行ないは様々でも、御霊は一つだからです。実践が「すべての人」に向けられるのは、ガラテヤ人への手紙や2章16節にある「律法の諸行によっては<すべての人>が(だれ一人)義とされない」とあるのに対応しているのでしょうか(さらに同3章22節を参照)。すべての人が神の前に義とされない罪人であることが、かえって人に善を実践する理由になる。これがキリストの御霊の働きの特徴なのです。
【信仰の家族の人たち】ところがパウロは、「すべての人」に続けて、今度は的を小さく絞って、「信仰の仲間たち」への善い行ないを勧めています。「家族」とあるのは「家の教会」に属する人たちのことです。ここでは、キリストの御霊にある愛の交わりが、そのまま活かされて善い実となるのです(ヨハネ福音書13章34節を参照)。御霊の働きは、このようにマクロ(普遍性)とミクロ(特殊性)の両方に働きます。
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