(13)キリストにある誇り
【聖句】

■6章1〜10節
1兄弟姉妹、もしもある人が何かの咎(とが)ありと見られたなら、霊の人であるあなたがたが、御霊にある柔和な心でこういう人たちを正しなさい。同時にあなたも気をつけて、誘惑されないようにしなさい。
2互いに重荷を担い合いなさい。このようにして、キリストの律法を全うするのです。
3もし誰かが、何者でもないのに、自分を偉い者と見ているなら、自分を欺いている。
4だから各人で自己の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分に誇ることがあっても、他人に対して誇ることができないだろう。
5だから各自が、自分自身の重荷を担うべきである。
6御言葉を教えられる人は、教える人とすべての善いものを分かち合いなさい。
7間違ってはならない。神は、侮られることがない。だから人は、蒔いたならば、またそれを刈り取ることになる。
8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取る。
9だからよい行ないをするのに気落ちしないようにしよう。くじけなければ、その時が来て、刈り入れるからである。
10それだから、機会が与えられる限り、すべての人に対して善を実践しょう。また特に信仰の家族の人たちにはそうしよう。

【注釈】

【講話】

(1)自分に向いて誇れるもの

  今日は「誇り」についてお話ししましょう。わたしたちクリスチャンは、誇ってはならない、謙虚でなければならないとよく言われます。でも今日のところは少し違います。ここは「誇りを抱く」ところです。6章4節に「自己の行ないを吟味しなさい」とありますね。「自己吟味」の目的は、自分の内に何か「誇りに値するもの」を見出すことです。なにか「誇り」を持てるものを「自分自身に対して」抱くことが求められているのです。「自分を吟味する」というのは、他人と比較しないことです。こういう「自己吟味」の仕方はヘレニズム哲学で重視されていました。
  ヘレニズムの哲学では、他人と自分を比較して誇るのは、最も愚かなことだと見なされました。なぜなら、他人と自分を比較するのは、自分を欺くもとになるからです。人と自分を比較する者は、自分を人よりも上だと思いこんでうぬぼれるか、あるいは逆にいわれのない劣等感を抱くようになるからです。勝って寂しく、負けて悔しくです。わたしたちの誇りはこのような「競い合い」の誇りではありません。
  ではパウロの言う「自分に対して誇れるもの」とはなんでしょうね。これが分かるためには、ヘレニズムの哲学からキリストの御霊へと視点を移す必要があります。6章4節に「各人で」とありますから、大事なのは自分自身に視点を向けることです。人ではなく自分に向かう時に見えてくるもの、そこにほんものの誇りが隠されているのです。『コイノニア』を編集していますとね、皆さんの書いたものを読んで、ああ、この人はこんなすごい経験をしている。この人はこんなことを考えている。こういうここと発見して驚きます。皆さんそれぞれに、人には絶対に真似のできない賜が、主様から与えられているのです。これが御霊の賜です。でもそのほんとうの尊さは、あなたと主様にしか分からない。いや、そのほんとうの値打ちは、主様だけがご存じなんです。
  これは主様からそれぞれに与えられる「誇り」ですから「誇りは主から来る」のです(第二コリント10章17〜18節)。それは「十字架の誇り」だとパウロは言うのです(ガラテヤ6章14節)。「誇る者は主を誇れ」です(第一コリント1章31節)。イエス様の十字架の赦しの下にあって、あるがままの自分を謙虚に見つめることから来るのです。ほんとうに「賢い」のは人ではない。ほんとうに賢いのは神様の知恵です。しかもこの神様の知恵は、ヘレニズムの人には愚かだと思われます。ユダヤ人には躓きとなるのです。これは「十字架の知恵」ですからね(第一コリント1章18節以下)。
  けれどもこの十字架の誇りが、弱々しくて外目には自信がないように見えると思うなら、とんでもない間違いですよ。どんなことがあっても大丈夫、なんとか支えられるという、しなやかで、したたかな御霊にある誇りです。「人知を超えた知恵」ですね。自分をあるがままに見つめる謙虚さと、それでも確信を抱くことのできる強さ、これが「クリスチャンの誇り」です。御霊にある誇りは、人には見えないです。でも自分には分かるのです。これが御霊の人です。人は地位や名誉や財産や持ち物に誇りを抱きます。わたしたちはね、イエス様というこんなすばらしいものを持っている。これがわたしたちの誇りなんです。こういう誇りがほんものの誇りです。

(2)重荷を負うこと

  だから、ガラテヤ人への手紙6章9節にある「よい行ない」は、御霊にある歩みから生まれる「よい行ない」です。これは、キリストに従う結果であって目的ではない。恵みであって功績ではない。授与されたものであって、人に向かって誇るものではないのです。キリストの御霊にある歩みは、己が無にされていく歩みです。御霊の創造的な働きは、時々「先が見えなくなる」ことがあります。だから時々「気落ちする」ことになります(ガラテヤ6章9節)。結果が目に見えないとね、御霊の働きに従うことに「疲れてあきらめる」ことにもなりかねません。御霊の働きは、わたしたちの目に常に見えるとは限らないのです。結果は、その時が来るまで分からないからね。その時までは、信仰によって、御霊の導きに委ねて歩むだけです。だから、だんだんと自分が無にされます。賛美歌の「我もなく人もなく、ただ主のみいませり」です。
  でもね、わたしたちをしてそこまで主様に従わせるものは、いったいなんでしょうね。自分にはほかの誰にも背負うことのできない大事な課題が与えられている。こういう想いが見えてくるのです。「課題」とは使命です。どうしてもこの問題は捨てるわけに行かないという想いです。それが、パウロの言う「それぞれの重荷」です。皆さん一人一人に与えられたのっぴきならない重荷です。
  先ほど、人に向かって誇るのではない。自分自身に向かって誇るのだと言いました。同じことが重荷についても言えます。人から命令されて背負うのではない。自分で担おうと決心する。外からの押しつけではない。内から湧く想いです。だからこれは御霊の想い。無理強いではない。御霊に迫られた祈りです。わたしたちもね、福音を伝えているうちに、いつの間にか人のために祈らされています。交わりの中で人を助けています。でもそれはわたしたちがやるのではない。主様の御霊が不思議に支えてくださる。だから重荷が重荷でなくなるのです。実に不思議です。それぞれが主様から与えられた自分の使命をはたす。これをやることが人を慰めるのだね。互いに支え合うことになるのです。助け主、慰め主の御霊です。それぞれが自分の重荷を負っていると思っているのが、実はいつの間にか人の重荷を助けている。そういう不思議なことが起こるのですよ。祈りもそうです。いつのまにか人のために祈っている。そうすると、自分のために祈っているのと同じように支えられるのです。恵まれるのです。
  ガラテヤ人への手紙の6章2節に互いに重荷を負い合いなさいとあります。ところが、6章5節には自分自身の重荷を負いなさいともあります。パウロは、人の重荷を負いなさいと言えば、自分の重荷を負いなさいと言う。自分にできないことを背負い込むのは愚かである。こういうヘレニズム世界の諺がありますが、人の重荷と自分の重荷、この二つは決して矛盾しない。自分にできることはやります。でも、できないことはやらない。人ができないことを要求するのは自己中心です。人が望まないことを要求するのは甘えです。だから、御霊の働きには、そのすべてに時があります。何かをする時、しない時。何かを言う時、言わない時。その時々に、臨機応変。主様の御霊に導かれるとは、こういう自由です。人目を気にしなくても、ちゃんと人の役に立つ。人のためになるように導かれます。これが御霊の自由です。

(3)二つの個人

 わたしの福音の大事な柱のひとつに「御霊にある個性」があります。それぞれが与えられた霊的な個性を発揮すること、これがコイノニア会の大事な精神であり使命だとわたしは信じています。でもね。郵政民営化でもそうですが、小泉政権の「官から民へ」のやり方は、アメリカ流の競争社会を生み出そうとしているようです。「個人主義」とは能力主義、能力主義とは競争社会です。勝ち組と負け組、この二つをはっきりさせます。勝った側には名誉とお金、負けた側には貧乏と生活保護、一握りの金持ちと大多数の貧しい階層にだんだん分けられていく。ホリエモンのような人には名誉とお金とスキャンダル。落ちこぼれた人には失業と借金と自殺です。パウロがガラテヤ人への手紙で、肉の働きのひとつに「競い合い」をあげましたね(ガラテヤ5章20節)。新共同訳で「争い」と訳してある原語がこの「競い合い」のことです。これをやるとね、「うぬぼれて、互いに挑み合ったりねたみあったりする」ことになります(ガラテヤ5章25節)。うぬぼれて威張ること、これが個人主義の競争社会です。
  でも御霊の個性はそうではないね。「謙虚な誇り」です。互いの重荷を背負い合うイエス様にある交わりです。同じ「個人尊重」でも、競争原理の個人主義と助け合いの個性主義とは正反対です。競争原理の個人が今はやりなら、わたしたちは助け合いの個性でいきましょう。人を倒す自由ではなく、人を支える自由です。肉にある個人の競争か、御霊にある個性の自由か? これからの日本は、どちらの方向へ進むのでしょうね。それとも日本は、個人も自由も失って、もう一度、民族一体、国際社会に背を向けて、内向き国家主義に戻ることになりますか?
  『コイノニア』の夏号の「四季折々」の欄で、わたしの所属するミルトン学会の学友たちと連盟で、教育基本法の改悪に反対する声明文を『英語青年』に載せることにしたと報告しました。あの教育基本法は、南原繁という人がね、この人は、東京大学の学長で、内村鑑三の流れを汲む無教会系のキリスト者です。彼が委員長になって、「個人の尊重」を柱にする教育基本法を作りました。「個人の尊重」と「平和憲法」、このふたつが、戦後の日本を支えてきた基本的な理念だったのです。でもね。平和憲法は、アメリカの後押しで作られた警察予備隊、今の自衛隊の前身ですね、これができてからだんだんとその影が薄くなって、とうとう安部新政権が、憲法改正に着手すると言うところまで来ました。同じように個人の尊重も、すぐその後で始まった文部省と日教組との対立、企業側と左派イデオロギーとの間の対立でね、個人の尊重もだんだん影が薄くなって、現在、個人よりも国家を重んじようとする基本法改悪に着手しています。この間、裁判所が、日の丸と君が代を強制する石原東京都知事の路線に待ったをかけました。あのような裁判官が与えられているのは本当に有り難いです。立派な裁判官です。
  こういう情勢の中にあって、わたしたちの背負うべき使命は大事ですね。御霊にある個性と自由。イエス様にあって支え合う交わり。これがこれからの日本を育てていく大事な御霊の働きです。人間の力ではないです。神様の創造的なお働きです。どうぞ皆さん、このコイノニア会のために、そしてこの国の未来のためにお祈りください。

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