注釈
1【このような自由へと】「このような自由」の後に関係代名詞が来て、さらに「それだから」を節の前半に移す読み方があります。「それだから、キリストがわたしたちを自由にしてくださったその自由によって、固く立って・・・」(For freedom, therefore, with which Christ set us free, stand fast and…)。おそらくこの読み方は「このような自由のために・・・自由にしてくださった」という言い方が、不自然だと思われるところから出てきたと考えられます。だからこれは後からの編集でしょう(不自然なほうがもとの形です)。“It is for freedom that Christ set us free,”〔REB〕は、この編集の意図をいくらか汲んだ訳と言えましょう。
「このような自由へと」は、「この自由のために」〔新共同訳〕や「この自由によって」あるいは「このような自由へ向けて」などとも訳すことができます。「このような」としたのは、「自由」の前にある冠詞の意味を強めて、4章の末尾と結びつけるためです。新共同訳もREBもNRSVもこの5章1節を4章の末尾に結びつけて、5章2節から新しい段落を始めています。こういう結びつきに反対して、5章1節は、接続詞が無く、4章の末尾との関係が唐突で論理的につながらないという説もありますが、わたしはそうは思いません。「このような」とあえて訳したのも前節とのつながりからです。
パウロは、隷従と自由とをはっきりと対立させてガラテヤの信徒たちに訴えてきました。ところがパウロは、ここまでは、「自由」を「キリスト」とはっきり結びつける言い方をしてきませんでした。「キリスト」は、悪の世からの救いや十字架の死や律法の呪いなどと関係づけられて語られてきたからです。だから、ここで改めて、「キリスト」と「自由」とをはっきりと結んでいるのです。これによって、イエス・キリストの出来事が、人間に自由をもたらす根源的な出来事であることを確認させるためです。人は、イエス・キリストにあって、「すでに」自由にされています。しかし、人間に「備えられている」この自由を現実に自分自身のものとして活かして、「自分の自由を実現していく」のは、一人一人の信仰の歩みから生じるのです。牢獄の鍵がすでに壊されていても、そのことを知らずに捕らわれた状態にとどまる場合もあるからです。自由に「されている」こととその自由を「自分のものとして活かす」こととは、同じではないのです。だから「キリストの自由によって自由になりなさい」というパウロの言い方は、決して同じことの繰り返しではありません。ここからは、ひとりひとりが、具体的な自由へと向かって歩む生き方が語られるのです。だからここは5章13節へつながります。「自由」こそ、この書簡の中心的な主題です。
なお参考までに付け加えますと、ユダヤの律法では、戦争で捕らわれて奴隷状態におかれていた者が、敵の囚われから解放された場合に、その者が、もともと奴隷であった場合には、その奴隷状態のままにおかれ、そうでなかった場合は、自由人へと戻ることができました。この節で言う「自由へと」は、このように奴隷状態から自由な状態へと移されることだと解釈する説もあります。
【しっかりと立って】ここからは、キリストの自由を受けるだけでなく、これを保ち、これによって歩むことが求められています。パウロはこれまで、ユダヤ人も異邦人も、人間は「閉じ込められ」「監視された」状態にあると述べてきました。だから、ここで語られる「自由」は、「キリスト者特有の自由」であるだけでなく、この自由は、人類に共通して授与される「自由」のことなのです。人間は、この世にあって、現在過去のもろもろの「霊力」に縛られているからです。だからこれらからの自由こそ、キリストによってもたらされたものであり、キリスト者は、これを御霊によって現実のものとして世に提示していくのです 。
【軛をかけられないよう】「くびき」は、畑を耕すために二頭の雄牛の首に乗せる重い木枠のことです。これは「重荷」「束縛」をも意味します。「かける」と訳したのは、原語に「罠にかける」「陥れる」という意味もあるからです。ユダヤ教では、「律法のくびき」という言い方は、必ずしも悪い意味ではなく、むしろ神の戒めのくびきにつながれることは、神に服従する正しい道であるされました。だから、律法のくびきを負うことこそ、神に従う道であるというもっともらしい「罠にかけられる」恐れがあったのでしょう。人間は、ただ黙っているだけでは、与えられた自由をねらう者たちによって、せっかくの自由を奪われる恐れがあるのです。使徒言行録15章10節を参照。
【二度と】ガラテヤの信徒たちは、以前は異教的な宗教に束縛されていましたが、今度は、ユダヤ教の律法制度からの束縛を受けようとしています。だから4章9〜10節にあるように、パウロから見れば、ユダヤ教の律法制度に基づく暦も異教の「無力で頼りにならない諸霊」も同じ束縛であることに変わりがないのです。「再び/二度と」とあるのはこの意味です。
2【わたしパウロが】「見よ、・・・言う」という言い方にせよ、「わたしパウロ」にせよ、ここで使徒としての強い言い方で、相手に訴えています。パウロは、自分がかつて律法に熱心なファリサイ派であったことを思い出しているのかもしれません(フィリピ3章5節)。このような強い言い方は、ほかには第二コリント人への手紙10章1節に見られるだけです。
【もしも割礼を受けるなら】ここをすでに割礼を受けてしまった人のことだと見る説もありますが、動詞は接続法現在の受動形ですから、「言われるままに割礼を受けようとしている」人を指すのでしょう。パウロは、ユダヤ人キリスト教徒が割礼を受ける自由を否定するのではありません。異邦人キリスト教徒たちが、しかも、ここの場合のように、キリストを信じるだけでなく、なおその上に、「キリストにある救いにどうしても必要な条件として」割礼とユダヤ教のしきたりを受け容れることに対して警告するのです。使徒言行録15章1節を参照。
【何の助けにもならない】この動詞は未来形です。キリストが罪のために贖いの業を成就してくださったこと、これを受け容れて聖霊の賜を授かること、そして最後の審判の時に神の裁きを免れること、これが「キリスト者の救い」です。けれども割礼を受けようとする「あなたがた」にとっては、律法の諸行に依存することによって、キリストの救いからそれていって、その結果キリストが失われて、キリストにある罪の赦しという「恵み」が期待できなくなるのです。それだけではなく、せっかく与えられた御霊の自由も、宗教制度によって徐々に御霊の働きを喪失してしまうと警告するのです。たとえまだ割礼を受けていなくても、そのような方向に歩み始めることそれ自体が、キリストによって与えられている「自由の恵み」から離れて、その自由を失うことにつながるからです。
3【もう一度】これは、今まで述べてきたことを改めてここで繰り返す、という意味でしょうか? それともパウロは、ガラテヤの信徒たちに、過去において、このようなことを語っていたのでしょうか? いずれにせよ彼は、書簡の受け手が、彼の言うことをなかなか受け容れてくれないと感じているのが分かります。
【律法全部を実行する義務】当時のユダヤ教が、律法をどのように扱っていたのか、これは必ずしも一様ではありませんでした(この点では、現在のユダヤ教でも同様です)。律法を厳格に遵守する人たちもいましたが、これは比較的少数であって、大部分は、伝統に従うだけの遵法スタイルで生活していたと推定されます。特にパレスチナ以外のヘレニズム化したユダヤ人たちの間では、割礼もこのような生活のスタイルとして行なわれていたと考えられます。したがって、割礼を受けるなら、律法全部を「実行する」義務があるという律法観は、相当に厳しいもので、パウロの律法観は、むしろ古風で純粋なものであったことをうかがわせます(この意味ではイエスの律法観も純粋です)。
ただし、律法は、これを一つでも破るなら、全体を破ったと同じであるという律法観は、決して特殊なものではなく、「姦淫を行なう者はすべての律法を破る者である」という教えがミドラシュにもありました。当時のユダヤ教のラビたちもこのように語り、律法を軽んじることを戒めていました(エゼキエル18章1〜9節参照)。だからここで述べていることは、パウロ独特の見方ではありません。ただしパウロは、たとえ割礼を受けていても、律法を破るなら、割礼は意味を失うと考えていました。逆に律法の精神を生きる者は、割礼が無くても割礼ある者と見なされるのです(ローマ2章25〜26節)。こういうパウロのある意味で厳しい律法観から見るなら、当時のユダヤ人の遵法スタイルは、神の律法を軽んじる冒涜と映ったでしょう。だから彼は、律法を完全に成就することは、人間には不可能であることを見抜いていたのです。
4【律法によって義とされる】この句はすでに「律法の諸行」としてでてきました。パウロを批判するユダヤ人キリスト教徒たちは、律法とキリストと恵みをセットにしていましたから、「律法なし」では、キリストの救いもその恵みも「不完全」だと見なしたのです。ガラテヤの信徒たちから見れば、パウロの教えからユダヤ人キリスト教徒たちの教えへと移るのは、現在で言えば、同じキリスト教の中で、違った教派へ移るのと同じくらいに思われたかもしれません。ところがパウロに言わせると、割礼をまだ受けていなくても、受けようと考えるそのこと自体が(「義とされようとする」の意味)、すでにキリストの恵みの世界から離れてしまうことなのです。「律法の諸行」に対して、パウロは「キリストの信仰」を対立させます。「信仰」とは、信頼して「全部を」委ねきることです。ここからしか、キリストの十字架の贖いから来る根源の自由は活かされてこないからです。大事なのは、外側の行為ではなく、内なる信仰の有り様なのです。
【キリストから出てしまう】「出てしまう」と訳したのは、「解放される」「自由にされる」と同じ意味です。律法の世界に入ろうとする時、その人の心は、すでにキリストの成就した自由を「離れている」という意味です。もはやキリストの与える自由もその御霊も、働くことが「できなくなる」からです。キリストと律法との組み合わせは、異邦人キリスト教徒たちの場合には、律法の領域から解放されてキリストに入るのか、それともキリストの領域から離れて律法へと移るのか、そのどちらかになります。信仰と人間的な力を混ぜ合わせるなら、全部が失わるからです。キリストの御霊の働く領域と人間的な計らいや努力による領域、このふたつは、人間が勝手に混ぜ合わせるとどちらもだめになるのです。自分の罪を自力で取り除こうとしながら、同時に神の御霊の働きによる罪の赦しと解決を望むことはできません。
55〜6節でパウロは、「御霊にある」「信仰による」「義とされる」「希望」「キリスト・イエス」「割礼」など、今まで語ってきた彼の教えの最も重要な用語をここでまとめて用いています。それだけに内容が凝縮されています。
【一方わたしたちは】これは4節の「あなたがた」と対照されています。ここでは「あなたがた」は「割礼」と結びつき、「わたしたち」は「自由」と「キリスト」に結び付いています。だから「あなたがた」とは、パウロを批判するユダヤ人キリスト教徒だけではなく、ガラテヤの信徒たちの一部を含む彼らの同調者たちを指していると見ていいでしょう。パウロの言葉遣いは微妙です。ここ5節の「わたしたち」は、13節の「兄弟姉妹たちよ」へつながります。同時に、5章7節と同13節での、やや異なる「あなたがた」を比較してください。
【御霊にあって信仰により】ここを「信仰から来る御霊によって義とされる希望」と訳すこともできますが、通常は、「御霊によって、信仰に基づいて」のように、二つに分けて、これらを「待ち望む」につないで解釈しています。しかし、「御霊」「信仰」「義とされる」「希望」は、緊密に結び付いていて簡単に切り離すことができません。「御霊にあって」とは、3章2〜5節のキリスト体験を指していて、「信仰により」とは、続く3章6〜14節のアブラハムの出来事を指しているとも考えられます。
【義とされる希望を】ここは5章4節の「律法によって義とされようとする」と対照されています。「希望」は、ガラテヤ人への手紙ではここだけですが、ローマ人への手紙5章2〜5節と同8章18〜25節を参照してください。ここで言う希望は、最後の審判において「義とされる」ことを指しています。けれども、そのことなら、パウロを批判するユダヤ人キリスト教徒たちも全く同じ「希望」を持っています。ただし、彼らは「律法を守ることによって」義とされることを待ち望み、パウロは「御霊にあって信仰により」義とされることを望むのです。しかも大事なことは、「御霊にあるこの希望が、この人生においても確かな内容を持つことができ、またそうあるべきだ」〔ベッツ『ガラテヤ人への手紙注解』〕ということです。この「確かさ」がパウロと彼の批判者とを分けているのです。
6「宗教の本質について使徒の最も根源的な考え方を言い表わすものとして、この書簡全体で、実にパウロのいかなる書簡においてさえも、ここほど重要な文はない。」〔E・W・バートン『ガラテヤ人への手紙注解』〕これはアメリカの著名な聖書学者バートンが、この6節の注解で述べている言葉です。
【キリスト・イエスにあっては】「キリスト・イエスによって創造され、現実に働く力の根源的な出来事に基づくと」という意味です。割礼は「力とならず」と訳した語は、通常「無意味である」「無益である」「効力を持たない」などと訳されますが、原語ほんらいの意味は「現実の力がある」です。理念や観念の神学ではなく、ほんとうに生きて働く力があるかどうか、このことが大事なのです。
【割礼があっても・・・】「割礼」には冠詞が無く、「割礼というものは、その本来の性質から見て」というほどの意味です。割礼については、さらに2章7〜8節と6章15節を参照してください。パウロに無割礼の人たちへの福音が委ねられていることは、神が彼を通じて「現実に働いておられる」ことが、その根拠となっているのです。ここでの「割礼」へのパウロの姿勢は、「キリスト・イエスにある」ことに基礎づけられています。イエス様の御霊の絶対的な働きのもとでは、割礼とこれを含む律法(宗教)制度は、相対的で、副次的なことなのです。この点で、ユダヤの伝統的な律法を絶対化する人たちとパウロとは相容れることができないのです。後になって、ユダヤ教とキリスト教とが分離する根本的な原因が、すでにここに潜んでいます。
【愛によって働く信仰】「愛」も「信仰」もパウロ書簡にはしばしば表われますが、二つがこのように結び付いて語られるのはここだけです。「愛を通じて表われる信仰」“faith expressing itself through love”という訳もありますが、「愛となって働く信仰」のほうが適切です。人への無条件のキリストの愛が、無条件で愛する人を創り出すからです。「信仰」はこれまでもしばしば語られてきましたが、「働く」とあるように、「力」と結び付いて信仰が語られているのが、ここでの特徴です。「働く/力ある」とある動詞は「エネルギー」の語源で、この書簡ではここと3章5節だけです。3章5節を参照してください。また「愛」の内容については、ガラテヤ人への手紙5章22節の注釈にある「愛」の項目と第一コリント人への手紙13章4節以下を見てください。
71節から6節までは、重要な用語を圧縮して語っていましたが、7節から12節では、パウロは、問いかけや諺や説得、それに嘲笑さえ混ぜて、違った調子でガラテヤの信徒たちに迫っています。
【よく走っていた】信仰の歩みを競技場での競争にたとえるのはパウロによく見られる言い方です(ガラテヤ2章2節/第一コリント9章24〜26節/フィリピ3章13〜14節)。これは競技に参加する者の「懸命な努力/健闘」を意味しています。
【遮って】選手が走行している時に、そのコースを邪魔したり遮ったりすることは、古代の競技でも禁じられていました。ここでは、そのようなルール違反の意味だけでなく、「邪魔する」「躓かせる」という意味も含まれていて、サタンの働きが示唆されています(第一テサロニケ人2章18節)。
【真理に従わせない】「真理」とあるのは福音の真理のことです(ガラテヤ1章9節/2章5節を参照)。パウロがここで言う真理とは、たとえ弱い人間でも、神により頼む者は、神の力が働いて強くされるという神の命、創造の御霊の現実の働きのことです(第二コリント13章7〜9節)。
8【勧誘】これの原語は「従う」「説得する」ですが、ここのような用例はごく希です。「従わせる/説得する」(他動詞)という働きかけを意味する場合と「聴き従う」(自動詞)という意味とがあります。ここでは明らかに悪い意味で「言いくるめる/勧誘する」ことです。「召しておられる方」とは、神がキリストの福音を通して人々を「呼び出す」「召し出す」ことを指しています。パウロに限らず、人間的な「誘い/勧誘/説得」と神からの「呼びかけ/召命」とが、このように対立する場合があります。この場合、「勧誘」は「空しいだましごと/弁論術」として「真理」と対比されます。ただし、ここを「聴き従う」の自動詞の意味にとり、「真理に従わない勧誘は、誰からのものでも聴き従うな」という当時の格言をここに読み取る説もあります。
9これは、「小さなことでも大事にいたる結果をもたらす」という当時の諺で、教会でもよく知られていたようです。全く同じ言い方が第一コリント人への手紙5章6節にも出ています。第一コリント人への手紙では、近親相姦という道徳的な罪が、教会全体を堕落させる例となり、ここガラテヤでは、信仰的、神学的な誤りが重大な結果を招くこととして使われています。パン種のたとえは、パウロのここでの用法のように、通常悪いことを表わす場合に用いられたようです(マルコ8章15節参照)。ただしイエスは、このたとえを神の国の特徴を言い表わすために用いています(マタイ13章33節/ルカ13章21節)。
10【確信している】7節〜9節までの非難めいた記述に比べて、10節は一転して相手に対する信頼を表わしています。いったい、このような「信頼」あるいは「確信」はどこから来るのでしょうか? それは「主にある」ところからです。「主にある」は「主イエスにある」「キリストにある」とほとんど同じ意味です。これは、全く望みがないのに自分勝手に思いこむことではありません。現実を無視しては、「主にある確信」は与えられないからです。だから、ガラテヤの信徒たちの状況は、かなり深刻であるとは言え、まだ望みがある。彼らは、パウロとユダヤ人キリスト教徒たちとの間で揺れていたことをうかがわせます。こういう場合に、相手を信頼するのは、相手を「あてにする」からではありません。自分勝手に思いむことでもありません。「主にあって」抱く思いは、これよりもはるかに深く、未来に向けて状況を創り出す力を具えているからです。だからこのような確信は、主から来るものであり、主の憐れみと恵みから出るもので(第一コリント1章30〜31節)、人間的な思いこみからではありません(第一コリント10章2〜3節)。そこに働くのは「すべてを望み、すべてを信じる」御霊にある愛です(第一コリント13章7節)。
【異なる思いを】ここで言う「異なる思い」は、先の1章7節にある「福音とは異なる教え」のことです(フィリピ3章15節とは意味が少し違います)。
【惑わす者】ここで、キリストにある自由を「かき乱す者」「惑わす者」への警告が出てきます。この動詞は「異端に引き入れる」ことでもあり、サタンの働きも含んでいます。ただしパウロは、敵対する相手が誰であるかを特定していません。今までの文面から見れば、個人ではなく「ある人たち」(1章7節)であり、「あの人たち」です。このことから判断すると、パウロは相手の人たちを直接知らないのかもしれません。おそらくパウロがガラテヤを去った後で来た人たちなのでしょう。なお「裁きを受ける」には、具体的な事柄ではなく、終末的な意味が込められています(第一テサロニケ2章15〜16節/第二コリント11章15節を参照)。
11【割礼を宣べ伝える】この節は、5章1節から述べてきたこと全体の結論です。「割礼を宣べ伝える」は、「キリストを宣べ伝える」(第一コリント1章23節)ことと対比させたパウロ独自の言い方です。パウロの反対者たちが、パウロも割礼を支持している、あるいは割礼を認めている、と言っていたのかもしれません。これに対して彼は、異邦人に割礼は要らないと言うのです。繰り返しますが、パウロはユダヤ人キリスト教徒たちが割礼を守ることに反対しているのではありません。また、パウロ自身もユダヤ人キリスト教徒として、ユダヤ教の律法を尊重する生き方をしているのも事実です。だから、ガラテヤ人への手紙全体を通じて、彼の割礼への見方は決して単純ではありません。割礼それ自体を肯定も否定もしていない、というのが彼の割礼に対する原則的な姿勢だからです(ガラテヤ2章7〜8節/同3章28節/同5章6節/同6章15節)。
逆にこのことが、「パウロも割礼を支持している」という反対者の偽りの主張の根拠とされたのでしょう。キリスト教会の中にもパウロのこのような姿勢を彼の「割礼支持」だと受けとめていたふしがあります。彼のおかれたこのような複雑な立場は、使徒言行録16章3節や同21章20節以下によく表わされています。だからガラテヤの信徒たちは、パウロが「今なお」割礼を支持している。少なくとも、割礼を受けても受けなくても問題ではない。このように理解していたと思われます。ところがパウロは、異邦人キリスト教徒が半ば強制的に割礼を課せられることを断固として拒否するのです。それは、「どちらでもいい」問題ではなく、せっかく与えられたキリストの御霊にある自由が、これからも維持できるか、それともこの自由を奪われて隷従へと逆戻りし、キリストの恵みを失うか、このどちらかになる結果を彼が見抜いていたからです! パウロに対して具体的にどのようなことが言われていたのか、ガラテヤの信徒たちが、この問題を実際どのように考えていたのか? これらのことは、パウロの手紙を通じて知る以外に、現代のわたしたちには分かりません。ただなぜパウロがこのように律法と割礼にこだわるのか、その理由は、これに続くパウロの言葉から判断できます。
【十字架のつまずき】「躓き」の原意は「罠」のことです(ローマ11章9節)。イスラエルのメシアであるキリストが、こともあろうに十字架によって刑死したこと。このことがユダヤ人には大きな躓きとなり、ヘレニズムの人たちには「愚かなこと」だと映ったからです(第一コリント1章18〜25節)。ところがこの十字架こそが、人間の罪を贖う最も大事な神の知恵の御業であること、神の知恵とは、「律法の諸行」によるのではなく、「キリストの信仰」によって御霊が降ること、このことがパウロの福音の真理の真髄なのです。
12【混乱させる者たち】この節は、「信徒たちをかき乱す者たちは、去勢されてしまえばよい」〔新共同訳その他〕のように、かなりどぎつい表現で訳されています。これは、去勢された者たちへの当時の人たちの嫌悪を反対者にも被せようとするパウロの手法だと受け取られているからです。しかし、12節は、その前後と直接に関係が無く、いきなり挿入されていますので、ここでは「意図的な去勢」について触れているのではなく、相手への嘲笑を誘うパウロの「冗談」として理解するほうがいいようです。
【切除されてしまえ】これが原語の意味です。これには、混乱させる者たちは、集会から「切り取られて」しまえばよりという含みがあります(英語の欽定訳は“I would they were even cut off which〔=who〕trouble you.”とあって、この原意を生かしています)。その上に、「混乱する」とあるのとかけて、割礼を受ける際に、「混乱して」ナイフが滑って「全部切り取られてしまう」、という嘲りの冗談がこめられています。