(11)愛によって働く信仰
【聖句】
5章1~12節
1このような自由へと、キリストはわたしたちを自由にしてくださった。それだから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛をかけられないようにしなさい。
2見よ、わたしパウロがあなたがたに言う。もしも割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって何の助けにもならなくなる。
3だからもう一度証言する。割礼を受ける人はだれでも、
律法全部を実行する義務がある。
4律法によって義とされようとするあなたがたはだれであれ、
キリストから出てしまって、恵みから落ちたのである。
5一方わたしたちは、御霊にあって信仰により義とされる希望を切に待ち望む。
6なぜならキリスト・イエスにあっては、割礼があっても力とならず、無割礼でも問題はなく、ただ愛によって働く信仰こそ大切だからである。
7あなたがたはよく走っていたのに、
だれが遮って真理に従わせないようにさせたのか。
8そのような勧誘は、あなたがたを召しておられる方から出たものではない。
9わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる。
10わたしは主にあってあなたがたについて確信している、あなたがたが決して異なる思いを抱くことがないと。
あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受ける。
11だから兄弟姉妹たち、もしもわたしが、今なお割礼を宣べ伝えるなら、なぜ今なお迫害を受けるのか? それなら、十字架のつまずきもなくなっていただろう。
12あなたがたを混乱させる者たちは、いっそ切除されてしまえばよい。
【注釈】
【講話】
キリストにあって働く愛と信仰
  
「キリストにあっては、割礼があってもなくても問題ではない。大事なのは、愛によって働く信仰である。」今回の箇所に出てくるこの言葉について、バートンという人が、「ここは、ガラテヤ人への手紙全体、というよりもパウロの全書簡の中でも、最も重要な言葉の一つである。」という意味のことを述べています。バートンは、20世紀前半のアメリカの新約聖書学者で、ガラテヤ人への手紙について優れた注解を遺しています。バートンがこのようなことを言ったのは、「愛によって働く信仰」という言い方が、ここだけにしか出てこないからですが、それだけでなく、信仰と愛と自由、この三つは、御霊にある最も根源的な働きだからです。

  パウロが異邦人キリスト教徒に割礼を課すことを拒否したのはそれなりの理由があります。あってもいいが、なくてもいいもの。あってもなくてもいいもの。ないほうがいいもの。伝統的な宗教制度には、そういういろんなものがあります。そういうものに関わっているうちに、大事な御霊の事態がなおざりにされてしまう。このことをパウロは恐れたのです。愛と信仰と自由、この三つはつながっています。この三つに共通しているもの、それは「謙虚さ」です。なぜならこの三つは、どれも人間が自分の力で創り出すことができないからです。逆に言いますとね、この三つにはなくて、それ以外のものにあるもの、それは「プライド」です。
  ところが、「愛」も「信仰」も「自由」も、うっかりすると、わたしたちの「誇りの種」になることがあります。自分の「愛」の行為を人に押しつける。自分の信仰心を宗教的な行為や業績で誇る。「自由」もそうですね。他人を自分に従わせて、自分だけが「自由に」振る舞う。信仰の世界、キリスト教の世界でこれが起こると、信仰は、いわゆる宗教ビジネスになったり、競い合いの宗教活動になります。御霊の働きが肉の業に転じてしまうのです(ガラテヤ3章3節)。こうして、いつのまにかプライドと知識だけの冷えたキリスト信者になってしまう。でもこれはほんものではない。偽物です。イエス様の御霊から来るほんものの愛は他人を変え、ほんものの信仰は己を変え、ほんものの自由は人を自由にします。
 でも始めに方向を間違えるとプライドの種が仕込まれます。少しのパン種がだんだんと大きくふくらみ始めるのです。だからパウロは、始めの第一歩、自分の業と力に頼って宗教しようとするその心根を拒否したのです。愛と信仰と自由、この三つは切り離せません。ひとつです。自分をイエス様に明け渡す。御霊の働きに出逢って、神様の創造の御業に与って、自分が変えられる。無にされる。そこが始まりです。御霊のお働きを通じてわたしたち一人一人に、イエス様の救いが現実します。このきっかけが、イエス様を信じる信仰です。パウロが「よく走る」というのは、他人と競争することではない。自己との競争です。自己との健闘です。だから、人は自分自身に向けて誇ることができるのです(6章4節)。これがほんとうの「プライド」ですね。人には分からなくても自分には分かる自尊心です。
■自由をはき違える
 パウロは、イエス・キリストがわたしたちを「自由に」してくださった、だからあなたがたは何でも好きなことをやりなさいとは言っていません。そうではなく、「キリストに<しっかり>付き従いなさい」、こう言っています。わたしは長年イエス様に<付き従って>きました。それはイエス様の御霊がわたしに何一つ強制したり、無理強いしたり、「べからず」と言って脅したりなさらなかったからです。人はイエス様から自由を与えられると、その自由をイエス様に従うための自由だとは思わないで、「自分の気に入ることをする自由」だととんでもない思い違いをするのです。こういう人は、神とその御子イエス様から絶えずご機嫌をとってもらわなければ付いてこない人です。「自我という固い石の上に蒔かれた種」のように、早晩必ず躓きます。なぜなら、彼は、イエス様に従わないで自分勝手な道を歩く機会をうがかっているからです。「何時止めるか」その機会を待っている人が長続きするはずがありません。これほどサタンが狙いやすい獲物はありません。
  イエス様の与えてくださる自由がどんなにすばらしいかを理解して、「どこまでもイエス・キリストに従い抜こう」、こう決心する人がなんと少ないことか!キリストにある自由とは、<肉にある自我>そのものからさえも自分を自由にしてくださるものすごい力を秘めている。このことを悟らない者は、こういう「自由のはきちがい」をやるのです。己を棄てて、イエス様のみ後をにつき従う、これこそが、御霊あるイエス・キリストの自由の真価であること、このことを悟らなければ、その人は早晩躓きます。
わたしたちは本質的に自己中心的な存在だからです。だから「自己脱却」こそ、イエス様が与えてくださる<最大の自由>であり、しかもこんなすごいことが、イエス様の十字架の贖いによって初めて、可能になるのです。「キリストにある自由によって自由になりなさい」というのはこの意味ですね。自己中心でない心、このような心を与えてくださるのは、イエス・キリストおひとりをおいて、ほかにはありません。
  イエス様の御臨在は絶対です。この絶対性は、ご自身の自己犠牲に基づくものですから、「自己否定」の絶対性です。ですからこの絶対性は、わたしたちの個性と霊性を束縛しません。わたしたちの個性を霊的に育てるのです。聖霊のお働きは、人によって実に様々です。どれがいい、どれが悪いなどと言うことはできません。人はいろいろと品定めをしますが、そんなものは、神様の御前になんの意味もないのです。自分がイエス様に救われて嬉しくて仕方がない。だからなにかできることはないだろうかと、自分でいろいろ工夫してやってみる。そこから生まれるものが自由な創造の働きなんです。宗教制度の中でやる人もいれば、制度からはみ出てやる人もいます。教会の中でやる人もいれば、無教会の中でやる人もいます。でも共通するのは愛ですね。だから愛とは交わり(コイノニア)です。愛は交わりの中で働きます。でも、祈りがなければ、言い換えると御霊の働きがなければ、この愛の場は生まれないのです。自由のないところに愛はなく、愛のないところに創造は行なわれません。
  御霊の働きには、癒しやその他の奇跡的な現象もあるでしょう。異言、預言、幻、そのほかの不思議現象も起こるでしょう。でもそういう現象的なものにとらわれてはいけません。ああ、ああ、なんだかすごいことが起こっている。それでいいんです。それよりも、この自分はどうなんだろうとね。先ず自分の内に働いてくださる御霊様の愛を知ること。これが一番大事なのです。ここから初めて、あなたを通じて、ほんものの御霊にある愛の働きが始まるからです。一番大事なのはこれなんですよ。パウロはこう言っているのです。