【注釈】
  今回の箇所は、これまでのパウロの論調に比べると、著しく感情的で論理性がなく、前からのつながりがとぎれていると指摘されています。このような指摘は、御霊にあって手紙を書いている時に、突然相手に対する深い悲しみや御霊の迫りを覚えて語ったり書いたりすることが、霊の人には珍しくないことを理解しないところから出ていると思われます。ここでパウロは、論理を尊ぶ論文を書いているのではありません。信仰の相手に向かって、霊的な語りかけで迫っているのです。だから「論理がつながる」ことだけが御霊にある語りではないことを知らなければなりません。ここでパウロは、今までのどちらかと言えば論理的、教義的に「教える語り方」を変えて、違ったスタイルで相手の心とのつながりと霊的な交わりを求めています。教えでも語り、感情でも迫り、心でも語るという御霊の働きをこの箇所から読み取ることができます。ヘレニズム時代の書簡でも、このように相手との心のつながりを作り出すための語り方がしばしば用いられました。
12【わたしのように】パウロはここで、自分が、誤解と迫害にもかかわらず、あえてユダヤ教の律法主義から離れてあなたがた異邦人と同じ立場に身を置いているのだから、あなたがたのほうも同じように、ユダヤ教の律法に束縛されることなく、キリストの御霊にある自由に留まってほしい。こう言いたいのです。しかし、彼はそのように理詰めで迫る語り方を避けて、あなたがたも「わたしのようになってほしい」と、どこまでも対等な立場で心を通わすように、相手に訴えています。第一コリント人への手紙(4章16節)では、彼は教会の人たちに「わたしを見習う」ように語りましたが、ここガラテヤの信徒たちには、「見習う」という言い方さえも避けています。それだけ相手と心を通わせるのが難しい状況だからでしょうか。
【不当な仕打ちを】この句は通常、過去においてガラテヤの信徒たちが、パウロの心を傷つけることは何一つしなかった。「それなのにどうして今は・・・」という意味を言外に含ませていると理解されています。けれども実は、ガラテヤの信徒たちのほうからパウロに宛てて、自分たちはパウロには、「なにも不当な仕打ちはしていない」という意味のことを伝えてきたのではないかとも考えられます〔バートン〕。そうだとすれば、パウロはここで、「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしてはいない。」と言うことで、相手の立場を受け容れて、彼らの気持ちを和らげようとしていることになります。問題は、「パウロ自身」に対して、ガラテヤの信徒たちが、どのような仕打ちをしたのかではないからです。そうではなく、パウロは、「彼らのために」また「福音のために」語っているのです。彼らがキリストの御霊から離れることを恐れているのです。ガラテヤの信徒たちが、律法主義を受け容れようとしていることで、パウロは深く傷ついます。だが、ガラテヤの信徒たちには、彼の気持ちを理解するのは難しいと考えたのでしょう。パウロは、自分の立場を相手に押しつけることをせずに、あなたがたは「わたしには」何も悪いことをしていないと言いつつ、これに続けて、過去において彼らが、パウロをどのように暖かく迎え容れてくれたかを相手に思い出させようとするのです。
13【最初に】原語はほんらい「以前に/前に」の意味ですが、同時に「最初に/初めて」の意味もあります。「以前に/先に」の意味であれば(北ガラテヤ説を採る場合)、パウロは、今回の第3回の旅行では、ガラテヤを訪れることをしなかった。したがって、彼はガラテヤを(第2回伝道旅行の際に)一度しか訪れていない可能性も出て来ます。しかし、一度の場合には、わざわざこのような言い方はしないと思われますから、これは彼が、今回をも含めて、二度ガラテヤを訪問していて、その「最初の時」のことを指すと考えられます(使徒16章6節。なお二度目の訪問は使徒18章23節参照)。
【体が弱った時】直訳すれば「肉の弱さのゆえに」で、これは身体的な病気のことです。その「弱さ/病」が何であったのか確かなことは分かりません。彼は多くの艱難を体験しましたから(第二コリント11章23〜25節)、身体の病は、これらの艱難が原因になったと思われます。パンフリアの沼地ではマラリアが発生するから、パウロはマラリアに冒されて、このために高原地帯のガラテヤに来たという説があり、また「目をえぐり出してでも与えたかった」(4章15節)とあるから、眼病を患っていたという説もありますが、確かなことは分かりません。なお「体が弱かった時」とあるのは、「病気になったのがきっかけでガラテヤへ行った」という解釈と、「あなたがたに福音を伝えている間も病気であった(病気をおして福音した)」という解釈とがあります(第一コリント2章3節参照)。「病気がきっかけとなって」というのは、たとえどのような理由からであろうとも、パウロがガラテヤを訪れたのは主の導きから出ているという意味です。
14【さげすんだり唾棄したり】「さげすむ」とあるのは、病気は悪霊から出ていると思われたからです。また「唾棄する」とは、特に「てんかん」のような病気の場合には、その悪霊の祟りを恐れてその病人につばを吐きかけることがあったからです。このことから、パウロもてんかんではなかったか、という説もありますが、これは憶測です。
【神の使い】これには「神から遣わされた人」と「神の天使/御使い」とのふたとおりの解釈があります。「まるで」とあるからここは天使のことでしょう。
【キリスト・イエスであるかのように】これを加えたのは、パウロが常々自分がキリストに「見習う」者となったように、あなたがたも「わたしに見習う」者になるようにと教えていたからでしょう(第一コリント11章1節参照)。パウロを受け容れる者は、パウロを遣わしたイエス様を受け容れる者です。
15【あなたがたがの幸い】「幸い」と訳した原語には、「賞賛/祝福/幸福」の意味があります。過去にガラテヤの信徒たちがパウロの福音に熱心であったから、「パウロが信徒たちに与えた賞賛/誉れ」はどこへ行ったのか? という解釈もあります。しかしここは、そうではなく、「かつてあなたがたが体験した(御霊にある)幸い/祝福」は今どこに? の意味です(3章4節参照)。
【証言する】原文は「あなたがたに向かって/のために証言する」。「証言する」は大事なことや確信していることを言い表わすことで、特に法廷で用いられる言葉です。ここでは、自分だけが知っていて、人の知らないことを証言するという意味ではなく、法廷などで「その人の益のために」証言することです。このことから「確かに」「間違いなく」の意味になります。かつてガラテヤの信徒たちがパウロに示してくれた好意を思い起こしながら「わたしは今でも信じているが」というほどの意味でしょう。
【目をえぐり出して】「最も大事な物を犠牲にする」ことをたとえる言い方です。「目」のたとえを出したのは、実際にパウロの目が病んでいたからだという説があります。彼の目が悪かったという記述はどこにも見いだせないので、確かなことは分かりません。
16【真理を語った】原語は一語で、「信実である」「率直である」「へつらわない」などの意味を含みます。ヘレニズム世界では、「真の友は率直に語り、偽りの友はへつらう」と言われていましたから、パウロもこの諺を意識して、相手の友情に訴えているのでしょう。ただし、先に「福音の真理」(2章5節)とありますから、ここでもパウロが、十字架の福音を曲げることなく率直に語ったことを含めているのは間違いありません。
【あなたがたの敵になった】これは「敵対する」というよりは、単に「友情が失われた」というほどの意味でしょう。ただし、律法主義者たちがパウロを「律法の敵」と呼んでいたとすれば、ここでの「敵」も、その意味を含むことになります。後代に書かれたパウロ批判の文書『ペトロの宣教集』(2章3節)には、暗にパウロを指して「敵対する人物」とあります。
17【熱心になる】原語は男女の間や師弟関係を表わす言葉で、それ自体に悪い意味はありません(第二コリント7章7節参照)。しかしこの言葉は、自分のエロス的な企みや自己の利益のために相手をうまく利用するという意味にもなりますから、ここでは、この悪い意味で用いられています。ただし後半の「自分たちに熱心にならせる」は、信徒たちが、パウロから離れて敵対者たちへ心を向けることです。
【善意からではない】原語は「善くない」で、友情に関して用いられる場合には、「偽りの」「へつらいの」「不誠実な」仲間の意味になります。パウロは、敵対者たちの教えが誤っていることを指摘するだけでなく、かなり感情的になって相手を攻撃しています。この状況は、偽使徒たちが教会をかき乱してパウロを困らせたコリントの教会の場合と共通するところがあります(第二コリント11章1〜4節)。
【引き離して】原語は「閉め出す」「排除する」で、政治団体や宗教団体などの組織から閉め出すことです。ここではキリストにある「交わり」について言うのですから、ガラテヤの信徒たちをパウロたちとの交わりから「閉め出す」こと、すなわちパウロたちの集会から「引き離す」ことです。
18【善いことは・・・】意訳です。「善いことは常に善いやり方で求めなければならない。」から出た言い方で、これは前節の「熱心になるのは、善意からではない」に対応します。【一緒にいなくても】ここも意訳です。真の友情は、「体は離れても心は一つ」であり、「別離は友情の試金石」だからです。逆に言えば「離れれば、日々に疎(うと)し」ということで、パウロはここでガラテヤの信徒たちに「たとえ離れていても、互いの交わりの熱意を失わないようにしよう」と呼びかけているのです。
19【産みの苦しみ】これは子を身ごもって産み出す母親のイメージです。霊的なものを産み出す母親の比喩は、ヘレニズムの神秘思想に出てきますが、直接ではないまでも間接的には、パウロもこれの影響を受けているのかもしれません。ここでは、「母」とは誰のことかについて、二重の意味を読み取ることができます。
(1)パウロはここで、自分を母親にたとえています。第一テサロニケ人への手紙(2章7〜8節)で「わたしたちは、キリストの使徒として御力を帯びて遣わされていたが、あなたがたに対して優しく振舞い、まるで乳母がその子を抱くようにした」と言っています。「乳母」を「母」の意味にとる説もありますが、ここは「母親のような優しい乳母」をイメージしているのでしょう。彼はまた、牢獄に監禁されていた時に、主人から逃げてきた奴隷オネシモをキリスト信者へと回心させて、もとの主人フィレモンのもとへ帰らせますが、入信したその奴隷を「獄中で生んだわたしの子オネシモ」と呼んでいます(フィレモン10節)。ただし、この場合は「父親」としてであって、ここ4章19節のように、自分のことを「母」としている例は、パウロではほかにありません。
この部分は、ガラテヤ人への手紙4章(26〜31節)との関連で読むほうがいいと思われます。そこでは、キリストの御霊にある新約の教会が母(サラ)から生まれるたとえで語られています。だから、パウロは、母として、キリストの教会を産む苦しみをしていることになります。キリストの御霊がガラテヤの信徒たちに働いて、キリストの教会が胎内にできて育ち始めたのに、律法主義に妨げられて、胎児の命が危うくなった。だからもう一度「産みの苦しみ」をしなければならないとパウロは言うのです。なお文頭の「わたしの子たち」には、「わたしのかわいい/小さな幼児たち」(胎児のこと?)という読み方もあります。
(2)上に述べたことに加えて、ここではパウロではなく、信徒の一人一人が「母」であって、キリストという胎児を宿してこれを「形づくる」という意味を重ねることもできます。この場合、パウロは産婦を助ける助産婦役になるでしょう。このように、ここでは、教会が育つことと一人一人の信仰者が育つこととが重ね合わされているのです。ガラテヤでは、パウロの働きによって、キリストの御霊にある交わりの共同体が宿り育ち始めました。しかし御霊にある交わりは、交わりの一人一人に宿るイエス様の御霊なしには成り立ちません。信者それぞれが霊的に成長することなしに、教会は育ちません。ここに、個人個人と交わりの教会との深いつながりがあります。律法の諸行という人間的な努力では、このような有機的な交わりは生まれません。キリストにある神の御霊こそが、ひとりひとりの内に新しい創造の業を始め、これを成長させることで、御霊の交わりの場というキリスト者共同体が形作られていくからです。
【キリストが形づくられる】ここは母親の胎内で、胎児が「形づくられる」有様をイメージしています。そもそもこのような事態は、永遠のロゴス・キリストが、母マリアの胎内に宿ったことから生じたことです(ヨハネ1章14節/フィリピ2章6〜7節)。ですから、上に述べたように、キリストの御霊の働きが個々の信者の霊的な誕生をうながし、これが交わりを誕生させたという流れでここを読むことができます。だから、
(1)「あなたがたの内に」とあるのは、キリストが、ガラテヤの信徒たち一人一人の内に御霊にあって宿り、その宿りが順調に成長していくことを意味しています。これはパウロ自身も体験したことであり(ガラテヤ1章16節)、その結果として彼はキリストにあって生きる者とされました(ガラテヤ2章20節/4章6節)。クリスチャンになることが「新しく生まれる」(ヨハネ3章3節)ことだと言われるのはこのためです。この意味では「キリストが形作られる」とは、「あなた」にあって、キリストご自身が生きることになります(ローマ8章10節/同8章29節)。19節は伝統的にこのように解釈されています。
(2)ところが「あなたがたの<内に>」を「あなたがたの<間に>」という意味にとって、「あなたがたの教会が形成されるまで」という解釈もあります。これはパウロが、信仰者の集まり全体をひとつの「キリストのからだ」にたとえていることから生まれた解釈です(第一コリント12章12〜27節/エフェソ2章19〜22節)。このような「キリストのからだ」としての教会は、一人一人の内に御霊が宿り、その結果御霊にある交わり(コイノニア)が生まれてくることから出ています。だから、キリストの御霊にあっては、個人の新生とコイノニアの交わりの形成とは切り離すことができません。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」(コロサイ1章27節)とあるのは、個人から教会へとつながる御霊にある「二重の働き」を意味しているのです。
20【語調を変えて話す】直訳すれば「声を替えて」です。ヘレニズム世界では、手紙を通じて語るのではなく、直接会って話すことをこのように言うことがありました。
【途方に暮れている】この言い方も相手に強く訴えるためです。「ここには、使徒の真の愛情が生き生きと語られている。彼はなんでもやる。ガラテヤの信徒たちを叱り、彼らに訴え、優しく語りかけ、彼らの信仰を高く褒め、何とかして福音の真理へと彼らを引き戻し、偽使徒たちの罠から彼らを救い出そうとするのである。」〔ルター『ガラテヤ書簡講解』から〕
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